「圭、お昼……」
「悪い。先輩に呼ばれてるんだ」
授業終わりの昼休み、いつものように湊月から声を掛けられた。
それに対して僕は小銭だけを引っ掴み、足早に教室から出ようとする。
もう、何度も繰り返された光景。
少し寂しそうな顔で湊月は見送る……いつもならその筈だった。
「湊月?」
上着の裾を引っ張るような感覚が僕を止めた。何が引っ掛かったのかと振り返ると、僕の制服に手を引っ掛けて引き止める湊月の姿がある。顔色は窺えない、視線を少し落としていた。
「……毎日じゃないか。そんなに私といるのが嫌か?」
私と先輩どっちが大事なんだ、そう問い掛けられている気がした。
「嫌じゃないけど……」
「嫌じゃないならなんで……放課後は先輩のところに行くか、バイトに行くって言って、一緒に帰ってくれない。昼休みも全部先輩で」
捨てられた子供のような、泣きそうな声で湊月は吐露する。その胸の内に秘めた薄暗い感情を、全部全部真正面から。それは昔の彼女ができなかった、正直な気持ちを伝えるということ。
まだ幼い鹿島湊月の姿を幻視したような気がした。だからだろうか、彼女の成長を喜ぶ父親のような、あるいは兄のようなそんな気持ちになってしまうのは。でも、それと似て異なる感情だ。
これが感慨深いというやつか。
胸を締め付けられる–––僕は相変わらず、弱い。
「なら、湊月も来るか?」
小鳥先輩が他人に対して苦手意識を持っているとはいえ、そのままではダメなんじゃないかと思う。斯くいう僕も他人の事は苦手で、人のこと言えた義理でもないが。
「ほ、本当か?」
「ただ他の連中は連れて行けないけどな。緋奈みたいなクラスの中心にいるような陽キャは刺激が強過ぎる。男を連れて行くと藤宮先生が人を射殺す目つきで見てくるからな。だから、まぁ慣れるまでは湊月だけだな。きっとあそこの波長に合うだろう」
先手を打って、他の連中がついてこないように気を回す。案の定、湊月は緋奈に報告しに行くと「え、あぁそう」と受け答えをして湊月を送り出した。
購買でパンを買い第三資料室がある北校舎へやってきた。一週間ほどで見慣れてしまった扉をノックして、ドタバタと暴れる気配を室内に感じると扉が音を立てて開かれる。その隙間から顔だけを覗かせた小鳥先輩は僕の姿を確認すると隠しもしない喜色を表して、次いで見た湊月の姿にびっくりして奥に逃げた。
「さ、さっきのは……?」
随分と可愛らしい小動物じみた小鳥先輩の姿を目に焼き付けた湊月、その答えとして僕は扉を開け放ち彼女を伴って資料室の中へと足を踏み入れた。
畳の上では既に藤宮先生がお茶とお弁当を広げており、その奥のクマのぬいぐるみの背後には熊に捕食されそうな小動物が小刻みに震えていた。それが小鳥先輩である。
「だ、だれ……? その人……」
すっかり怯えてしまった小鳥先輩の姿に嗜虐心を煽られながらも、自制心を保つ。今日問題がなかったら緋奈を連れて来よう、そう思った。
「鹿島湊月、僕のクラスメイトです先輩」
「幼馴染」
被せるように訂正した湊月の声に、幼馴染の定義とは?と問答を繰り広げようとしてやめる。彼女が幼馴染と言ったら幼馴染なんだろう。ただ友達というには少し奇妙でもある。
「で、クマのぬいぐるみの背後に隠れているのが藤宮小鳥先輩で二年生。そっちはわかるよな」
「藤宮詩織先生のことか、それはまぁうちのクラスの副担任だから当然だと言えば当然だが……」
「え、副担任だったのか?」
「なんで圭が知らないんだ……?」
思わぬ驚愕の事実に戦慄していると、そのことに呆れたと言わんばかりに批難がましい視線が差す。それも三人分。これ以上、会話を広げるとまずい気がした。
「小鳥先輩、クマのぬいぐるみに隠れてないで出てきてくださいよ。お昼食べましょう」
場の空気を紛らすために隠れている小鳥先輩に焦点を合わせたが、どうも小鳥先輩は隠れ場所から出てくる気配がない。突然現れた湊月を警戒したように見つめている。
「……海より深い青」
そして、ぼそりと確かに呟いた。
また、色だ–––。
一番近くにいるはずの藤宮先生は気にした様子もない。
僕の背後にいる湊月は言わずもがな。
「小鳥先輩、前も言ってましたけどそれどういう意味ですか?」
僕の『灰色』は想像がつく。
湊月の『海より深い青』それの意味。
それだけがわからない。
どうして色を口にするのか。
品定めするような、そんな視線と何か関係が?
そんな疑問を表に出したことで、ビクッと肩を震わせて小鳥先輩はより一層警戒した様子で、少し哀しげに顔を顰めた。
「小鳥、別に言ってもいいんじゃない?」
「でも、お姉ちゃん……」
「今更、そんなこと言われて尻尾を巻いて逃げ出すような人間じゃないってあなたもわかっているでしょう」
まるで妹を諭すような藤宮先生の物言いに不思議に思っていると、小鳥先輩は唇をギュッと引き結んだ。
「……笑ったり、怒ったり、しない?」
「よっぽどのことがないと怒りませんよ僕は」
–––憤怒に身を委ねられるほどの熱が残っていない、僕は燃え尽きた灰だ。何を言われようと並大抵のことでは驚きはしないし、怒りに身を任せるのも、感情を動かすこともない。
でも、それが小鳥先輩を安心させる言葉だったとして。
彼女は堅く結んだ唇を緩めた。
「……わたしね、わかるの。人の心が」
それは突拍子もない、不思議な話。などではなく。
ありきたりで、特別でもなんでもない話。
「はぁ、なるほど……?」
それがどうしたのか判らず顎に手を摩り、言葉の意味を咀嚼して飲み込もうとする。そんな僕の姿を「信じてない」と思ったのだろう、さらに言葉を続けた。
「わたしには人の心がガラス玉の形になって見えるの」
「ガラス玉、ですか……」
ガラスのメンタルとはよく言ったものだ。
きっと人間の心はガラスみたいに脆い。
それはありえない話ではないな、と僕は思う。
耐熱、防弾、どんなガラスも存在するだろう。
それこそ人の数だけ。
「そのガラス玉はね、誰もが持っている自分の世界なんだよ」
そこにガラス玉があるのだろうか、胸の中心を両手で覆い隠し小鳥先輩は続ける。
「わたしにはそのガラス玉の世界が、人の心象風景が見えるの」
「なるほど、だから灰色か……」
僕が思い描いた心の中の世界。
間違いなく、『灰色』で覆い尽くされていることだろう。
「えっと、まだ信じてない……?」
「実際どんな風に見えてるんだ?」
「……いいの?」
小鳥先輩は、湊月の方を見た。
僕の心が露見するのを恐れているのか。
多分、それとは別の理由。
要らぬ気遣いだと言っておこう。
「榊原圭。けーちゃんのは……」
意を決した小鳥先輩は僕の瞳を見つめる。まるで覗き込むように、深層を探るように彼女の瞳は僕を見透かす。その瞳に写るのは空虚な僕という自分自身で、心臓を掴まれたような感覚。
やがて、ぽつりと小鳥先輩は呟く。
「–––まるで干涸らびた荒野みたいな大地が広がっているの。その世界を曇天が覆い尽くしてる。その中に大きな枯れた木があって、でも少しだけ温かい感じがする……そこだけ、光が射してるの」
抽象的な解り難い表現であった。具体的には何なのか伝わって来ない。表層的な部分を風景として並べているだけで、何処か遠慮している節があるようだった。
「はぁ、それで……?」
「本当にいいの?感じたままを言って」
最後の忠告を小鳥先輩はする。
僕は静かに頷き返した。
その続きを聴きたかったのかもしれないし、知りたかったのかもしれない。
僕でさえ知らない本当の自分を。
「干涸らびた荒野はきっとバラバラになったけーちゃんの心。見えているのはそれだけじゃない。曇天と荒野の狭間にある地平線は、誰かとの間に設けたバリケード。けーちゃん本当は……誰のことも信じてない、よね?その人のことも」
小鳥先輩は背後を指差した。そこにいるのは湊月だ。制服に皺ができるほど強く握って、過剰に反応した。表情には翳りがあって、その理由に思い当たらんとばかりに声を荒げる。
「け、けい……?」
捨てられた子供のような声。
泣きそうな、震えた声で。
「やっぱり……」
何かを言おうとして、小鳥先輩に視線を向ける。
「う、嘘だ。出任せもいいところだ。人の心がわかるなんて、あるわけがない。そんなものがわかるなら、私は……」
「鹿島湊月。みーちゃんのもわかる、よ?でも、けーちゃんの前で言うのはおすすめしないよ?」
証明してみせると言わんばかりに、小鳥先輩は強く言う。
信じても信じなくてもどちらでもいいようで一応忠告はしてくれるが。
「出会ったばかりのあなたにわかるはずがない……!」
今の湊月は、何処かおかしかった。
呼吸は荒いし、目の焦点も朧げで、何かを恐れている。
何かを否定しようとして、その材料を得ようとしている。
だけど、小鳥先輩は容赦がなかった。
「……みーちゃんのガラス玉は巨大な海なの。底のない海。そこには止まない雨が降っていて、絶えず焦がすような太陽があなたを照らしてる。多分、焦がすような感情は『愛』で、それでも蒸発させきれない『哀しみの』の雨が……これは、『後悔』なの、かな?」
感じたままを、信じたままを、言葉にする小鳥先輩を前にして。言葉を失った湊月はただ呆然と立ち尽くし、小鳥先輩の次の句で意識を引き戻す。
「–––果てしない海と雨降らす雨雲の間は境界線が曖昧になった水平線が見えるの。多分、それは誰かに対しての遠慮と距離感という壁なのかな?」
「だっ…それは…しかたなくて…ちがっ…」
ただ呆然と聞いていた湊月の瞳には涙が溜まり、頬には溢れた滴が伝い落ちる。溢れ出した湖のような瞳で僕に視線を向けると、無言で扉を出て駆け出してしまった。
「……わたしね、人の心が見えるから。友達できないの。他人の汚い部分ばかり見えるから、上部だけしか接することができなくて、人よりもただ他人の本質が見えるから、接する人間は選んでるの。そうしたら怖い人ばかりで、友達できなくて……つい踏み込みすぎて、みんなわたしから遠ざかっていくんだよ」
湊月が出て行った扉を見たまま寂しそうに告白する小鳥先輩は『追いかけなくていいの?』と問う。その言葉の裏には、どうして君はわたしと一緒にいてくれるの?と疑問が浮かんでいる。
他人に土足で心を踏み荒らされて冷静になれる人間なんていない。あれが正しい例だ。だとしたら、僕はかなり異常なのかもしれないと初めて客観的に思った。
「別に困ることはないのでは?」
「お姉ちゃん、けーちゃんおかしいよ……」
嬉しそうな怯えたような微妙な表情で、驚愕する小鳥先輩は姉である藤宮先生に助けを求める。その先生は今まで紅茶を楽しんでいて、事の成り行きをただ見守っていただけだ。
「榊原君。姉である私ですら、妹とは何度も衝突したのよ。気味が悪いと思ったのは一度や二度じゃないわ。避けていた時期だってある。それなのにその反応は薄過ぎるわ。魂は合金とかじゃないでしょうね?」
「さぁ、ただ僕のは開き直ってるだけですから。今更知られて困るようなことなんてないですよ」
心を踏み荒らされても僕の心は揺らがない。その揺さぶる対象である感情は、とうの昔に燃え尽きている。今の僕は燃えカスみたいなものだ。どうやったって燃えないものが燃える道理はないだろう。
「小鳥先輩、そこまでわかってるなら隠す必要もないんで言いますけど、小鳥先輩は友達の定義ってなんだと思います?」
「どうして?」
「先輩の友達になると宣言しましたが、友達って何なのかなと再定義しなければならない状況ですので。僕には友達が何なのか未だにわからないんですよ」
「確かにけーちゃんわたしのこと友達と思いきれてないけど、友達になろーって思ってはくれてるみたいだよ?」
そんなことまでわかるのか、便利な能力だ。と、考えていると小鳥先輩は首を横に振った。
「これは特殊な力じゃない。誰でも持ってるもの。わたしはちょっとだけ誰よりも人の顔を窺って生きてきただけで、少し臆病なだけなんだよ。けーちゃんも似たようなのある、よね?」
僕の優柔不断な面を言っているのだろうか。つい深く考え込んでしまう僕の悪癖を。疑り深い僕の性格を。それは確かに特別な力などではなくて、なるほど誰でも持っているものだと納得できる。
「でもまぁ、今更先輩にあれこれ詮索されても困ることないんで」
嫌な過去とか、思い出とか、穿り返されても僕は淡々と答えるだろう。知りたいなら教えてやると。それで先輩が友達を失い続けた故、友達を作ることに億劫になってしまったのも納得できるものだが、あまり僕には意味のない話だ。
「榊原君がエッチなことを考えていたら、すぐに小鳥にバレるわよ」
「えっ、なにそれ恥ずかしい」
–––過去を探られるより、一番の問題が目の前にあった。
「ふにゃぁっ!?」
もし小鳥先輩や藤宮先生であんなことやそんなことを考えると筒抜けになってしまうのかと驚愕していると、小鳥先輩が突然腑抜けた猫の鳴き声で顔を真っ赤にして飛び上がる。
ちょっとタイムリー過ぎないだろうか。
「お、おお、お姉ちゃんと…二人で…ふぇぇ……」
「ちょっと榊原君。私と小鳥に何をさせる妄想したの?」
黙秘してもいいのだが、小鳥先輩だけがそれを知るのはいいのだろうか。口に出すのも憚れる内容だったので口に出したくはないのだが、小鳥先輩には十全に伝わっている。姉である藤宮先生にも共有すべきか。でも、やっぱり口に出すのは……。
「言っていいんですか?」
「怒らないわ。言いなさい」
「セクハラになりません?」
「大丈夫、あなたもう既に歩くセクハラだから」
「あとついでに言っておきますけど、藤宮先生を好きな男子生徒は大体考えてますからね?僕だけじゃありませんよ」
前科一般だったらしい。仕方ないので全男子生徒も巻き添えにして藤宮先生にだけ聞こえるように耳打ちする。そのまま何行にも渡る説明をして、終わった後に離れてみれば顔面に握り拳が飛んできた。
直前に見えたのは、耳まで顔を真っ赤にしている藤宮先生の恥ずかしそうな顔だった。