「ん、あれ?もう戻って来たの湊月?」
教室から出てまだ半分も休憩時間は終わっていない。だというのに、教室に再び舞い戻った私に一早く気づいた緋奈が声を掛ける。衝動的になってどうしていいかわからなかった私は顔を向けた。それで、言葉も出ず無言で立ち尽くす。
「ちょっ、どうしたのよ?」
泣いている私に気づいた緋奈が食べていたお弁当の箸を置いて駆け寄って来た。それに釣られて、金魚の糞のように同席していた泉と西宮の二人も寄ってくる。
「え、もしかして榊原君と何かあった……?」
「可能性としてはそのくらいか?」
「ちょっとあんたらいるとややこしいことになるからあっち行ってなさい」
「へーい」
「もし榊原が原因なら、許しておけんな」
「だから勝手にヒートアップすんな」
二人は緋奈に追い払われる。渋々といった感じで二人は引き下がったが、やはり納得はいかないようで遠目に私達の方を見ている。それを確認した後でまぁあれくらいなら問題はないと判断したのか、緋奈が私に向き直った。
「まぁ、事情が事情なだけに私も人のこと言えないんだけど……。ここで話せそう?」
周囲の目を配慮してか緋奈はそう問う。
それに私は首を横に振った。
声を出せなかった。
思いの外、ショックだったらしい。
覚悟はしていたはずなのに、面と向かって突き付けられると……。
私はダメだ、弱いままだ。
今も緋奈に甘えてしまっている。
それですら歯痒い思いをしてしまう。
「そう。……湊月、あんたその顔で榊原に会える?」
二度目の質問、私はもう一度首を横に振った。
今は圭と話をするどころか、顔を突き合わせるのは少し戸惑う。
「じゃあ、場所を移すかー。あの喫茶店に行きましょう」
「で、でも、授業が……」
午後の授業が残っていることを伝えると、緋奈は悪戯っぽく笑った。
「そんなのサボっちゃえばいいのよ。真面目なのはいいことだけど融通が効かないのは考えものよ。それにあんたそんな状態で授業受けても内容の半分も頭に入らないでしょ。受けるだけ無駄」
瞬く間に耳障りのいい正論に諭されて、私は決意を固める。適当な教材を鞄を突っ込んで、教室を出て行く。早退すると知り合いに告げて。私は初めて授業をさぼった。
◇
喫茶店『Walker』
その店は私達の住む街の裏路地にひっそりと佇む。小洒落た洋風の外観とテラス、看板には散歩する猫のシルエット。内装もまた美しく、木製のテーブルや椅子で整えられており、落ち着いた雰囲気が心を落ち着かせる。ただその店名は散歩に訪れた旅人を誘う意味が込められており、偶然立ち寄りでもしなければ見つけられないような隠れた名店だ。
此処を見つけたのは偶然だった。ちょっと路地裏に迷い込むと見つけた外観に引き込まれて、次の瞬間には入店し、今では常連客の一人になっていた。
そんな店に私と緋奈は逃げ込むように来た。誰かからとかではなく、過去から。一時的な措置。明日にも圭と顔を合わせないといけないと思うと、少し憂鬱で泣きそうになる。
「–––アイスコーヒーです」
そんな状態で滞在すること暫くして、緋奈はアイスコーヒーを置いて行った喫茶店のマスターを一瞥して口を開いた。
「で、何がどうして泣いてるの?」
涙の理由を知るべきか、取り敢えずといった風に聞いてきた緋奈がアイスコーヒーを啜る。タイミングを見計らってくれていた緋奈に感謝しながら、私もようやく落ち着いた心を取り戻すことができ、口を開いた。
「実は–––」
圭に連れて行って貰った場所での会話内容を全部話す。藤宮先輩のこと、不思議な話、圭の話、その全てを。意外にも多かった情報量だが随分と簡単に話せるようで、すらすらと出てきたことに驚きながら全部吐露した。話し終えた頃には涙も止まり、喉が渇いてアイスコーヒーを口に含みゆっくりと飲み干した。
「ふーん、そう……」
聴き終えた緋奈は思案顔、それでわからないといった風で確認する。
「で、湊月は榊原に信頼?されてないって突きつけられて泣いちゃったと」
概ねその通りだ。私の要領を得ない説明でも大分理解が進んだらしく、そう言うと考える時の仕草、髪を指でくるくると巻きながら何度か頷いて虚空を見る。
「……当然、圭が私のことをよく思っていないのはわかっていた。けど……やっぱり、突きつけられると」
「でも、それって藤宮先輩?って人が言っただけなんでしょ」
圭の口からは聞いていない。聞いていない、のだが……。
「圭は否定しなかった」
その事実は判断材料としては十分に思う。私の心の奥底に隠していたことを言い当てられたこともあって、まるで圭本人にそう言われたように私は藤宮先輩の言うことを重く受け止めていた。
「でも、まぁそれも当然よね……私達がしたことに比べたら」
緋奈の言葉が私の心を鋭利な刃物で抉る。
「信頼って言い方も変だけど、よく思っていないのも当然ね。あいつ昔はかなりの正義漢だったでしょ」
その言葉に私は俯く。再会してから、頑張ってきた。信頼を、あの頃を、取り戻そうとした。あの日に戻りたかった。幸せだったあの頃を夢見ていて、上手くいっていたと思っていた。……でもそれは自分の独りよがり。
そんな不安はあった。それが現実になった。
あっけらかんと宣う緋奈に、私は口を噤む。
「なに落ち込んでるのよ?」
だけど、それを許さないとばかりに緋奈は私を責めるような口調で叱咤した。
「そんなの最初から計算の上でしょ。やること変わらないんだから落ち込んでる暇なんてないわよ」
「それはそう、だけど……」
思いの外、傷ついた。圭は私に興味がない。そう言われているようで、少しだけそれが不満で心に刺さる。あの圭の態度を見ていると余計にそう感じたのだ。もう、私は折れそうだ。
「そんなにどう思われてるか気になるんなら、本人に直接聞いちゃえば?」
緋奈は私の心情を知ってもなお、そんな戯言を口にする。
私にそんな勇気あるはずないというのに。
「他人事だと思って」
「あんたが気にしすぎなだけよ」
一度、ネガティブに考え始めた私の思考は落ちていくばかり。もう二度と圭に顔を合わせられないんじゃないかと思うと涙目になる。悩んでも答えが出ず、緋奈がもう一杯とアイスコーヒーを追加注文した。
「はい、アイスコーヒー」
程なくしてアイスコーヒーが配られる。ティーカップの横に、頼んでいないフルーツタルトが乗った皿まで置かれて……。
「……あの、マスター。あたしたちフルーツタルトなんて頼んでませんけど……ていうか、フルーツタルトなんてメニューにありました?」
「そう遠慮せずに。実はこれ、最近入ったバイト君が厨房で作ってね。二人とも今日はなんだか落ち込んでるみたいだったから特別サービスだよ。疲れた時は甘いものが一番だ。コーヒーとも相性はいい」
「そう。ありがと、マスター」
「でも、お金は……」
「いいんだよ。試作品らしいし」
初老を迎えたマスターは白い顎髭を撫でつけながら、無料だと言う。
私はただ無表情にフルーツタルトを見つめて、フォークを突き刺した。綺麗に一口サイズに切り取って、口に運ぶ。すると広がったのは素人が作ったとは思えない、優しい甘さだった。サクサクした生地、フルーツの甘酸っぱさが重なり合って、私の脳内を駆け巡る。可能なら毎日食べたいと思うくらい、美味しかった。
マスターの淹れるコーヒーとの相性も抜群で、口の中の甘さをコーヒーでリセットするたびにフルーツタルトの味はより一層二つの味を楽しませてくれた。
「おいしー、なにこれ!?これ売り物になったら毎日食べる!」
「いや、太るよ?」
私もカロリーが怖い。圭がいる手前、あまり太りたくもない。それに春が過ぎれば夏が来て、言わずと知れたあのシーズンがやってくる。今太ると後悔することは目に見えていた。
戦慄していると、マスターが顎髭を撫でつけながら言う。
「まぁ、この時期色々とあるんだろうから学校のことについては何も言わないけど……あまりご両親には心配を掛けないようにね」
「今日は早く終わったの」
呼吸をするように、緋奈が嘘を吐いた。
「はて、それならもう少し街が賑やかでもおかしくないと思うがねぇ」
恐るべき慧眼で、マスターは緋奈の嘘を見抜いた。
「うー、相変わらず鋭いなぁ」
「君のとこの学校の情報はそれなりに入ってくるからね。バイト君も君達と同じ学校だし」
「え、嘘、これ作ったの同級生かもしれないの?」
「あぁ、男の子だよ。気になるんなら、今日もシフトが入っているから四時まで待ってみるといい」
マスターのご好意もあって、私達は課題を済ませながら時間を潰すことにした。
それから何杯かコーヒーをおかわりして放課後の時間。何度目かわからない空になったカップを掲げて、喫茶店のマスターにおかわりを要求した。緋奈は働かせた頭に糖分を補給するべく、角砂糖を二つほど投入している。シロップも付け加えて、緋奈は美味しそうにそれを飲んでいた。
「あ、そだ。あとBLTサンド一つ」
「はい、BLTサンドですね。畏まりました」
–––耳障りのいい、聴き慣れた声。
注文を復唱する店員の声に耳を傾けて、それがいつものマスターの声ではないことに気づく。あまりにも自然な態度で受け答えをしていたため気にしていなかったが、マスターはいつの間にか奥に引っ込んでいた。代わりに私達くらいの歳の男の子がバーテンダーのような服を着て受け答えをしている。
その顔に驚いていると、彼はくるりと踵を返すと厨房に引っ込もうとして–––、
「いや、あんた何やってんの?」
–––緋奈に引き止められた。
「職務中だ、話しかけるな」
「言うに事欠いてそれ?」
バイトを真面目にこなそうとしているだけなのか、或いは私達を無視したのか、喫茶店の店員に扮した榊原圭が緋奈にそう言い返して不機嫌そうな顔をする。周りにマスターがいないことを確認するように首を回すと、小声で告げた。
「バイトだ。見ればわかるだろう」
あぁ、確かに制服らしいものは着ている。圭がバーテンダーのようなきっちりした服を着ていると格好良さが増して不機嫌そうな面も相まって凄くいい。と、脳内が変なことを思い始めたので思考を緊急停止する。
私は大慌てで顔を隠すようにメニュー表を持った。その上から覗き込むように瞳を向ける。すると圭と目が合って、数秒見つめ合ったかと思うと私から恥ずかしくなって逸らした。
「ってことは、フルーツタルトってあんたが作ったの?」
なおも会話は続く。
途端に、吃驚したような声。
「何故、知っている。……まさかマスター、客に出したのか?」
「美味しかったわよ。湊月の誕生日のケーキは期待できそうね」
「ちょっと何を言ってるんだ緋奈!?」
さすがの私も会話に割り込まざるを得ない状況になって、親友の凶行に声を荒げる。
「あー、八月の二十だったか?別に作ってもいいが味の保証はしないぞ」
「いいわよ、フルーツタルト美味しかったし期待してる」
私が会話に入るまでもなく、誕生日に圭の手作りケーキが食べられることが決まってしまった。そんなことよりも、圭が私の誕生日を覚えてくれていたのもあって、そっちに驚いてしまって話に割り込めなかったのだ。
興味がなかったのではないのか。
不安が、少しだけ薄らいだのを感じた。
誕生日を覚えてくれていただけで、なんて単純なんだろう。
私は恥いるように俯いた。
「湊月、おまえもそれでいいか?」
「え、あぁ……そうだな……」
いざとなれば話す言葉が思いつかない。
圭との距離感を測りかねる。
私にはまだ遠いような気がして、言葉が出なくなって。
今度こそ、圭が離れていく足音が聞こえて……。
「あと、いきなり何も言わずに帰るなよ。心配するだろ。……まぁ、緋奈がいるってわかったからそれほど心配はしていなかったけど」
最後に呟かれた言葉に私の心臓は大きく跳ねた。