何時からか僕はその女の子が気になり始めていた。
昼食の時間が準備時間を含めて三十分、その後に休憩時間が三十分。合計一時間の昼休憩が小学生である生徒達の待ち望んだ時間だった。勉強から解放される解放感と、給食は何よりの楽しみである。
早食いかつ大食いであった僕は、好きな給食があれば毎日のようにおかわりをしていた。そのおかわりをする顔ぶれも毎回同じで誰が多く食べれるかと競い合う仲の奴もいた。そして、毎日のように給食用の大鍋が空になる。
いつものように給食の時間内に食べ終えた僕は、早々に遊びたいのも我慢して、月に一週間は回ってくる給食当番の片付けをしていた。いくら誰かが大鍋を空にしても、給食を残す奴がいて少量の残飯が戻される。給食用の大鍋等が入ったワゴンを片付けて、それで仕事は終了だが生憎そんなことをやっていると遊ぶ時間はない。それに当時は図書委員をしていて、その当番でもあった。
「あー、早く行かないと」
幸い、他の図書委員が仕事をしてくれているだろうから急ぐ必要はないのだが、次の授業は図書室の横にある音楽室で一度教室に教材を取りに行かなければならない。
戻った教室で、またいつもの光景を見た。
自分の席に座って牛乳と睨めっこをしている地味な少女。
彼女は給食袋からコップを取り出すと、牛乳とお茶を混ぜ始めた。
そして、出来上がった飲み物を口に運んで飲み始める。
「…ぅ……」
呻いたのは少女と他の生徒達。
牛乳とお茶を混ぜた未知の味がどんなものかはわからないが、見ただけの感想を言うと不味そうだ。
はっきり言って僕ならやらない。
「うわ、きも」
「よくあんなの飲めるね」
「またやってるよあいつ」
周りからも酷評なようで、見ているだけで顔を歪めている生徒が多数。いや、見ている全員が気味悪いと距離を取っていた。ゲラゲラと笑っているのはいつも少女を揶揄う女子のグループだ。
僕はその様子に未だ名前をつけられない嫌悪感を覚えていて、少し不快だった。ただ少女の方が気になっていたので僕は牛乳とお茶の混合物と格闘する少女の方へ歩く。誰の椅子かは知らないが前の席のやつの椅子を拝借して、少女の前に座る。
「湊月、それ美味いの?」
「……え?」
突然、目の前に現れた僕に鹿島湊月は顔を上げた。
初めて話す相手だ。びっくりさせてしまったのかもしれない。
「…………」
湊月は無言でコップを握っている。顔を下げて、ただコップだけを見つめた。
彼女が喋るのを待つ。
「……ぐすっ」
何故か湊月は泣き始めた。
「お、おい、どうした?」
え?僕なんかした?とおろおろして宥めても湊月は泣くばかりで会話すらままならない。そうやってどうしたら泣き止むか考えること数分、外野が妙に煩かった。「榊原が女泣かした」等の喧しいクレーム、自分としても不本意なのだが周りはそう理解してくれない。
「そうだ、なんでそれ混ぜてんの?」
美味いかどうかを聞いてるのだから、聞き方を変えてみる。
すると泣きながらも湊月は答えてくれた。
「……牛乳、嫌いだから」
聞くまでは予想していなかった回答に少し感心する。
「え、美味いの?」
もう一度、聞くと今度はふるふると首を横に振った。
嫌いなものを混ぜて美味いと言う奴はいないだろう。
「へー、飲んでみたいな」
「……飲む?」
「おう」
即決するや湊月の手からコップを奪って、一口飲んでみる。するとなんとも言えない微妙な味が広がった。何かに似ているのだが牛乳と麦茶の風味とイメージが強過ぎてお世辞にも美味いとは言えなかった。
「うわ、間接キス!」
「榊原と鹿島がキスしたー!」
何やら外野が騒がしい。後になって思えば、かなりデリカシーというものに欠けた行為だったように思う。湊月の顔は耳に至るまで赤くなっていて、僕は登ってくる熱を発散するように怒鳴り散らした。
「うるせぇ馬鹿!」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんですー」
「つーか鹿島なんかとよく間接キスなんてできたわね」
「別に狙ってやったわけじゃねぇよ!」
この日の休憩時間は周りの言葉に噛みつくことに費やした。
しかし、噂は広まり何故か『榊原圭は鹿島湊月が好き』という噂が流布された。伝達速度も見事なもので翌日には教室の全員がその噂を鵜呑みにしていたし、友達にはそのことで揶揄われた。
なんでもかんでも恋愛にこじつけるのはガキだからか、「湊月なんて好きじゃない」と言っても本気にする奴はいなくて、むしろ過剰に反応するもんだから余計な誤解を生んでいる。
その被害者は当然、僕だけではない。
「またあいつら間接キスする気だー」
給食終わりの休憩時間、また牛乳と激戦を繰り広げている湊月のところに行くとそんな風に言われた。会話をしようとするとこれである。もう何度繰り返したか、無視するのに二週間の時間を要した。
「ごめんな湊月、僕のせいで」
「う、ううん。謝ることないよ。こうして圭君といると私にもいいことはあるし」
この二週間で警戒心は僅かに解けたのか、湊月は言葉に詰まりながらも話してくれるようになった。当時の彼女は引っ込み思案で暗い性格だからか、友達は少なかった。
「……最初はびっくりしたけど、嬉しかった。圭君は私を見ても笑わないから」
はて、笑う要素なんてあっただろうか?
「だから、圭君は好き」
顔を赤くして言う湊月に僕も照れる。
「な、何言ってんだよ!」
「べ、別に変な意味じゃないよ?」
彼女はこのやりとりの間もお茶牛乳と格闘していた。口に運んでは嫌そうな顔をして飲む。ちびちびと口に運んで、ようやく最初の一杯が飲み終わった。あと何回で飲み終わるのだろうか。
繰り返すこと三杯目、僕と湊月の元にはいつも揶揄う女子三人組が来た。
「また気持ち悪いもの飲んでるー」
「榊原君、よくそんな子と間接キスできたね」
「本当、気持ち悪いから他でやってくれない?」
そんな気分の悪くなるような言葉を並べ立てて、ケラケラと笑う。三人が近寄ると湊月は妙に怯えてコップを握り締めた。コップの中身が振動で揺れている。その発生源は湊月だ。彼女は震えていた。
「何を笑ってんの?」
つい、頭がカッとなって立ち塞がる。
僕は男子の中でも背が高かったから、三人を見下ろす形になった。
その凄みに負けたからか、三人は後退る。
青山、伊藤、佐藤だったか。
クラスメイトの名前は大体覚えている。
同じクラスにいるんだし。
「笑うなよ。湊月は苦手なものを一生懸命克服しようとして頑張ってるんだ。それを努力もしないような奴が笑うなよ」
給食ばかりが楽しみな僕は全部知っている。
「青山はピーマンが苦手だったな。伊藤は人参、佐藤はレバーだったか?」
「はぁ?それがどうしたって言うのよ?」
「おまえら全員、残してるじゃないか。食おうともせず避けて残して、そんな奴らが湊月を笑うなって言ってんだよ」
彼女達が嫌いな食べ物を残していることを。
「はぁ、残して何が悪いわけ?食べれないんだから仕方ないじゃない」
「嫌いな食べ物がないあんたにはわかんないのよ!」
「ふ、二人とも流石にそれは言い過ぎじゃ……」
二人は依然高圧的な態度で、もう慣れた身としては挑発には乗らない。
「僕にだって嫌いな食べ物はある。南瓜と里芋。本当、南瓜の煮付けが出た日は地獄で……」
つらつらと南瓜の煮付けの恐ろしさを語っていると、青山と伊藤の二人は僕の言葉を遮る。
「あんたが南瓜嫌いなことはわかったわよ!」
給食の献立表に嫌いな食べ物が書かれていると、気持ちが沈む。その気持ちがわかる奴は多いだろう。
「そうか。ならいいんだが……別に僕も残すことが悪いとは言ってない。嫌いなものを克服しようと努力しているやつを笑うなって言ってるんだよ」
二度同じ事を言った気がするが、言わせられたんだから仕方がない。
「うわっ、私が残したもの覚えてるとかキモいんだけど」
「……えへへっ、榊原君が私の嫌いなものを知ってくれてるってなんかいいよね」
「いや、なんでよ」
三者三様、酷い言い分である。しかし、効果はあったのか三人は何も言わずに去って行った。追い払ったあとで席に座り直すと何故かまた泣かれていた。大きな声にびっくりしたのだろうか。感情が抑えられずに吠えてしまったから。
「急に大きな声出して悪かったな」
「……ううん。違うの。その、嬉しくて……」
涙を拭う彼女に戸惑うばかりだった。
鹿島湊月との交流は続く。放課後は毎日のように一緒に帰って、毎日のように彼女の家で遊んだ。僕が笑えば彼女もたまに笑顔を見せてくれるようになった。
だけど、それと同じくらい泣いている顔を見た。
たとえば、湊月がトイレに行った時、びしょ濡れで出てくることがあった。朝会うと泣いていることがあった。どうしてか彼女は持ち物をよく無くした。その度に聞くが、誤魔化されるばかりだった。
僕は馬鹿だったから、その理由にさえ辿り着かなかった。
ある時の席替えで湊月と僕は隣の席へ。彼女は凄く喜んでくれた。僕も嬉しかった。
小学生の僕はお調子者で忘れ物も多々あって、教科書を忘れてしまい隣の人に見せてもらうことになった。仲が良い隣の席の人といえば湊月だったので、教科書を見せて貰うことになる。運が悪いことに教科書の朗読に指名されてしまった。
「悪い、湊月教科書見せて」
「……え、ええっと。あ、だめ」
頑なに湊月は教科書を開きたがらなかった。
もう一つ隣のやつに見せて貰えば良かったのだが、生憎其方とは話したこともない。
「なんで教科書開かないの?」
教師が教科書を開くようにと指示を出しているのに、何故か湊月は開かない。根が真面目な彼女らしくないとそう思った。
「鹿島さん、榊原君に教科書を見せてあげなさい」
教師に言われてようやく湊月は教科書を渡してきた。どうやら自分では開きたくないらしい。と、不思議に思って教科書を開くと飛び込んできたのは、油性ペンで赤く大きく書かれた文字。
『死ね』『学校やめろ』『牛乳女』等の罵詈雑言。
それがまるで寄せ書きのように、落書きされていた。
「なんだよ……これ……」
「そ、その……自分で書いたの……」
いくら馬鹿な自分でも、湊月が自分で書いたわけではないことはわかった。僕だってやらないし、やるなら教科書の隅に落書きをしてパラパラ漫画を作る程度だ。あとやるとしたら、教科書じゃなくてノートにやる。
「榊原君、五十六頁の四行目『ルロイは〜』からですよ」
教師の催促に僕は立ち上がった。
頭には完全に血が上っていた。
犯人の心当たりはある。あったのに気づかなかった。
半分は、気づいてやれなかった自分への怒り。
相談してくれなかった、湊月への怒り。
そして、残りが湊月を“いじめ”てる奴らへの怒り。
「『死ね』『バカ』『学校来るな』–––」
「あ、あの、榊原君?ふざけてないで朗読を」
「え、だって書いてあるんですよ?」
「いいからちゃんと読みなさい」
「ふざけてないですよ先生。書いてあるんですもん」
「鹿島さんが書いた落書きを読まなくて結構です」
教師までもがそう言う。
馬鹿な僕が気づいたんだ。教師が気づかないはずがない。
もう、我慢なんてできなかった。
冷静ではいられなかった。
「自分で書くわけないだろ!」
「友達と悪ふざけでもしてたんでしょう」
「大人のくせにそんなこともわからないのかよ!!」
気づけば吠えるように、大声を出して叫んでいた。悲しみと怒りが溢れ出してしまう。どうにも自分は祖父譲りで短気らしく、暴走を始めたら止まることなどないとは、よく言われたもので。
「もういいです。座ってください榊原君」
面倒臭そうに言う教師に腹が立って、更に言葉で噛みつこうとしたけれど。
「……圭君。いいから、座って」
目を潤ませている湊月に制されると、感情が冷えていった。
僕は何か間違った事をしただろうか。湊月は帰り道、何も話してくれなかった。お互いに無言で通学路を歩いて、先に口を開いたのは僕の方からだった。
「湊月、このことおまえの両親は知ってるのか?」
「……ううん。だから、言わないで」
「なんでだよ」
僕は無力だから、大人に頼るのが一番だと思った。
担任はだめだ。見て見ぬ振りをしてる。
だから、時点で信頼できそうな人間といえば湊月の両親。
そう提案すれば、彼女はこう言う。
「お父さんとお母さんを心配させたくないから」
きっと自分の両親であれば力になってくれることがわかっているのだろう。でも、いじめられていることを知られることが嫌らしい彼女は頑なに拒む。
でも、僕は他に方法が思いつかないわけで。
「圭君のバカ、だいっきらい!!」
僕は湊月を“いじめ”から救う代償に、彼女と喧嘩別れしてしまった。