ぬくもりだけが湊月がそこにいることの証明だった。暗闇の中では、背中に感じる彼女の体温だけが教えてくれている。今が夢や幻ではないことを。
懐かしい話をした後で、
「……僕だって一度も忘れたことはない」
どんな言葉を掛けるべきか迷って出したのは慰めの言葉なんかじゃない。否応のない事実。僅かに触れた肌から緊張が伝わり、湊月が息を呑む音がはっきりと聞こえた。
「喜ぶべきかな、悲しむべきかな、圭は私を恨んだだろう?」
私なら、そうする。
それが湊月の答えなんだろう。
僕だって、それは否定しない。
湊月が心の内を晒しているのに、隠すのは卑怯だ。
向き合うには、今しかないのだから。
今を逃せばきっと後悔する。
「あの頃の僕は子供だったからな。確かに腹が立った」
「……嫌いになっただろう」
「そうしたら、楽になれたのかもな」
すれ違いを正そう。
「そもそも期待するのが間違いだったんだ。おまえには何も出来なかった。じゃなきゃ、僕が手を貸す必要なんてなかっただろう」
「慰めるふりして痛いことを言うな」
僕に言葉を選ぶ暇などない。だけど、はっきり言わせてもらおう。間違っていたのは僕だと。それで傷つくのはお互い様だとしても、僕は思っていることを全部伝えなくちゃいけない。
「本当のことだろ」
「そんな私が私は嫌いだった」
僕は遠く離れた後でも湊月のことばかりが心に浮かんでいた。上手くやれてるかとか、僕がいなくて大丈夫かとか。どうやらそれは僕だけではなかったようだ。湊月も僕のことを考えていたらしい。
「……だから、変わろうと思った。圭に会った時、今度はちゃんと好きって言うために。会える確証なんてないのに、それを心の支えにしてきたんだ」
恋愛感情なんてものを、僕に持ってくれていたらしい。
あの頃、燃え尽きた僕の中に、燻っている火は確かにここにあって。
蘇ろうとしている。
灰の中にまだ、燃え尽きていない何かが……。
なんだろう。上手く言葉にできない。
「もういいだろ。あの頃のことなんて」
本当にどうでもいい話なんだ。その気持ちを言葉にすれば、湊月が涙声で反論する。
「……圭はきっと優しくそう言うと思った。だから、私は私を許せないんだ」
湊月にとって、あの頃の失敗はそれほど重要だったのだろう。
見て見ぬ振りをされたことが辛いのは、僕も少なからず理解している。
何が正解で、何が間違っていたのか。
あぁ、そんなことすらどうだっていい。
「……っ」
寝返りを打てば、透き通った瞳が此方を見つめていた。数秒間、視線が交わると湊月の方から顔を逸らされてしまう。俯き気味な彼女に手を伸ばすと一瞬、触れることに躊躇したが僕は欲求に素直になることにした。
–––君に触れたい。
肩を抱くとそのまま引き寄せる。
思った以上に柔らかい身体と、伝わる体温に胸が熱くなる。
指先から伝わった熱が、まるで麻酔のように僕を痺れさせた。
その理由を僕は知らない。
「……っ」
僕も言葉が出なかった。掛けるべき言葉は何か考えてみたが、いざとなると頭の中がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたみたいに思考が上手くまとまらなくて、言葉にならない。
抱き寄せたままの腕を上へと動かして髪に触れる。そのまま掻き分けるように指を差し入れて頰に手を添えた。理由を考えても何がしたかったのかわからないが、起こした行動から発生する別の何かが胸に湧き上がるのがわかった。
もどかしい気持ちが胸の中にあって、燻っている。熱くて、苦しくて、どうにも落ち着かない。
「……そういえば、僕は湊月に告白されたんだったな」
言い逃れることなどできるはずもない。
口にして事実を再確認したところで、この感情に名前をつけたくなった。
もしこれが一種の『愛』だと云うならば、僕は湊月のことが好きなんだろうか。
そんな理由で子供の頃の僕は彼女を助けたわけではないが、今となっては笑い話にもなりはしない。あいつらは恋だ愛だと声高々に叫んでいたが、どうも馬鹿に出来ない話になってきた。言い得て妙だな、と納得する始末だ。
僕は正義のヒーローとか、そんなものに憧れていたわけじゃない。恋愛感情だってあったはずもない。ただ、湊月に笑って欲しくて過去のことを起こしたのだ。そこに明確な理由はない。ただ、理不尽を許せなかっただけだ。
–––答えが出ない。
–––僕は湊月が好きなのだろうか?
–––わからないから、僕は問い続ける。
–––いまなんて答えるべきか、苦悩する。
–––本当はわからないのではなく、認めるのが怖いだけかもしれないが。
「僕の偏見だと思うが、“恋人”というのは男女が両想いの場合に発生する関係だと思う」
それ以外にも“恋人”になる条件があるらしいが、僕の価値観の話だから、そういうことは横に置いておく。
「僕は湊月に触れたいと思うし、キスだってしたい、独り占めしたい、そう思う」
素直な気持ちを吐露したが、明確な答えはやはり出なかった。その原因として挙げられるのが、僕が人を信じることさえできなくなってしまったが故だろう。
僕の言葉に反応した湊月が顔を僅かに上げた。
「僕は誰かを信じることはできない」
でも、湊月になら騙されてもいいと思ってしまう。
告白を全て鵜呑みにできるほど、僕はできた人間じゃない。
捻くれた感情を持った異端分子だ。
僕はこんな話をしている今も君を疑っている。
本当に僕のことが好きなのか、とか。
「湊月のことだって例外じゃない」
まだマシな方だが、どうも彼女相手でも僕は壁を作ってしまう。
本音を言うなら逃したくないけれど、僕は最終確認のために不器用な返事をした。
「……それでもいいか?」
『好き』という言葉の代わりに放った言葉、その返答は勢い余った甘い女神の口付けだった。