長い戦いが終わった。その報せを受けた生徒達は我先にと机に突っ伏して、回収されていく答案用紙には目も暮れない。死屍累々の姿を壇上から凛とした眼差しで見守るのは我らが副担任、藤宮先生だ。少し苛立って見えるのは、また、ものぐさ教師の担任が仕事を放棄して何処かに行ってしまったがためだろう。仕事を押し付けられた藤宮先生の不機嫌な理由は周知の事実であり、触らぬ神に祟りなしと態々災いに触れるものはいない。
「解散」と一言命じて、藤宮先生は教室から出て行った。
「さて、と……帰るか」
今日から解禁される部活動に従事する者、バイトする者、帰宅する者、寄り道する者に分かれるであろうその中で、僕も用事があって帰り支度をするとさっさと教室を出ようと鞄を持った。そんな矢先、僕を呼び止める声があった。
「圭、帰るのか?」
湊月だ。この数日、一緒に帰っていたため慌ててやって来たらしい。手に持った鞄のファスナーが空いている。
「あぁ–––」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
僕が何かを言う前に湊月はそんなことを言った。嬉しそうな笑みを浮かべては、頰を染める姿は何処か色っぽくて魅力的だが、生憎とそんな愛らしい顔をされても僕は了承することが出来なかった。
「悪い、バイトが入ってるんだ」
「そ、そうか……それは仕方ないな」
しょぼんと萎れた花のように落ち込む湊月は、視線を下げたがすぐに僕を見上げた。
「な、なら、明日は?」
「明日は……」
小鳥先輩のところに顔を出さなければいけない。テスト期間が終わって活動が再開したのを理由に僕を待っている可能性もある。下手したら毎日、僕を待ちぼうけているかもしれない。それは可哀想だ。良心が痛まれる。
「……私よりその幼女先輩の方が大事なのか」
と、説明すれば湊月は不機嫌そうに頰を膨らませた。拗ねてしまったのか、ぷいっとそっぽを向いた。僕の注意を引こうとしているのかチラチラとこちらを盗み見る。僕と視線が合うと逸らす。
何度かそのやりとりを繰り返したが、状況は変わらず膠着状態に。
「そうは言ってないだろう」
否定もしていないけれど。
「……まぁ、圭のそういうところ好きだけど。でも、やっぱり彼女としては、一番に大切にしてほしいというか……」
僕の性質を理解してくれているのか、湊月は諦めたように言ったその後でボソボソと何かを呟いた。はっきりとは聞こえなかったが、ニュアンス的には嫉妬しているらしい。醜いところを見せたくなくて、小声になってしまったというところか。
「なら明日、先輩のところについてくるか?」
「……うぅ。私、あの先輩苦手なんだよな……」
妥協案を出せば、湊月はさらに苦々しい顔をした。出会い頭に心の中を土足で踏み荒らされた過去は重いようで、それが全て小鳥先輩への苦手意識に変わったらしい。全部ひっくるめて「図星」と言うのだが、普通は気分の良いものではないのだろう。まったく気にしない僕が異常だと言われるほどだ。
「さて、どうするか……」
出来るだけ湊月のことは大切にしているつもりだ。優先順位を考えれば“恋人”の一択なのだろうがそう簡単にはいかないのが世の常だ。全人類の大半を悩ませてきた『仕事と私どっちが大事なの?』問題が、今、僕に襲い掛かっている。
改めて、思い悩んでいると湊月が慌てて手を横に振る。忙しない焦燥の見える表情に変わると、彼女は慌てて言い繕った。
「こ、困らせるつもりはなかったんだ。ただ、圭と一緒にいたくて……」
ぎゅっと胸を押さえ、苦しそうにする彼女の姿に思うところがあるものの、決断には至らない。言外に四六時中一緒にいたいという想いが伝わってきたが、それもまた不可能だ。朝昼は学校で会えど、夜は離れてしまう。
「どうする?行くのか?行かないのか?」
定期的に顔を出さないと拗ねたり悲しんだりとする小鳥先輩は、正直それでも足りないくらいだ。毎日でも通ってやらないと寂しくて死ぬ、とは藤宮先生の談。そんな先輩を放って置けるわけも無い。
「……行く。圭とあの先輩を二人きりにしたくない」
苦手意識と独占欲を天秤に掛けた結果、湊月は小鳥先輩と会う道を選んだ。
◇
翌日の放課後、寄る部の門を叩く。引き戸に手を掛けると開いているようだったので、勝手にお邪魔することにした。
「あ、おかえりけーちゃん!」
校内なのにアットホームな雰囲気を醸し出し、後輩を出迎える先輩の姿に違和感がない。むしろ兄の帰宅を喜ぶ妹だ。どうやら僕も小鳥先輩の魔力に惑わされてしまったようだ。
「ただいま帰りました。小鳥先輩」
「……」
「あれ、そっちの女の子は……」
僕の背中に隠れる湊月を見つけた小鳥先輩は、今度こそ隠れなかった。
むしろあの時とは、立場が逆転している。
きょとんとした顔を一瞬だけ見せて、その顔を満面の笑みに変える。
あどけない笑顔は、湊月の警戒心を僅かに緩めた。
「また来てくれたんだ。もう来ないかと思ったよ」
それだけの自覚はあったらしいが謝る気もないらしい。それだけ言った小鳥先輩の顔は、屈託のない笑顔で純粋な喜びを感じられる辺り、相当嬉しいようだ。
「小鳥先輩、藤宮先生は?」
いつもいる姉の姿がない理由を問うと、小鳥先輩は悲しそうな顔をする。
「お姉ちゃん、テストの採点で来れないんだって」
テストはある意味で生徒に地獄を与える。それは逆も然りで、作るも地獄、採点も地獄なのだろう。過去に百問の問題をテストに出した教師がいたが、単純計算で一人百問。学年に百人いれば一万問の採点を行わなければならない。考えただけで気の遠くなる作業だ。それを今回、藤宮先生はやらかした。
『百点崩し』は生徒と教師、共通の呼び名。
『教師殺し』は教師だけの呼び名だ。
僕は今のうちに職員室に向けて、黙祷を捧げておく。
「……ねぇ、けーちゃん、みーちゃん」
静かに祈る僕の姿を見上げて、小鳥先輩が小首を傾げる。
「二人とも何かあったの?」
どうやら僕らの内心にも変化があったらしい。
それを読み取るとは、さすがは小鳥先輩と言うべきか。
「今の僕はどう見えますか?」
「荒野に一つ花が咲いたの。とっても可愛いお花」
尋ねたら、そんな言葉で返ってきて、僕は解釈し切れずに小首を傾げた。
「それはどういう意味で?」
「多分、愛でたいものができたんじゃないかな」
思い当たる節があるといえばある。
湊月を大切にしたいとは、思っているが……。
そんな事を考えながら本人を見ると、湊月は顔を真っ赤にして逸らした。
どうやら相当嬉しかったようで、耳まで赤い。
僕はすかさず話題をすり替える。
「湊月はどうですか?」
「雨が止んで、太陽の光が強くなったの。……海が枯れそうなの」
恋焦がれるとは言うが、むしろ蒸発しそうなくらい激しいらしい。取り扱いには注意が必要だと言われた。
「まぁ、確かに……それくらい圭のことは好きだ」
そんな客観的な意見を述べられても、どれくらい激しいか分からない。もっとも説明されたとしても理解できないのが現状だ。
「やっぱり二人とも、付き合うことになったんだね。おめでとう」
「……ありがとうございます?」
湊月がお礼を言う。
でも、小鳥先輩は首を傾げたままだ。
僕達を観察し続けるような視線を向けてくる。
「じ〜……普通はそんな心境で恋人になんてなるはずないんだけどな」
最後に余計な一言を小鳥先輩は添えたが、抗議するように湊月が僕の腕に抱き着く。
「やっぱり私、この先輩は苦手だ」
「言いたい事をはっきりと言えるのは悪い事じゃないと思うけどな……」
普通の人からしたら度が過ぎるだけで、言い換えれば自重しないのが小鳥先輩の良いところだ。逆に小鳥先輩がはっきりと言いたい事を言ってくれるおかげで、僕は楽に人付き合いが出来ているのだ。そうでもなければ、先輩のことなんて早々に忘れてこんな場所に通わなかったと思う。
「えへへ、そういうけーちゃん大好き。わたしもけーちゃんみたいな彼氏欲しいなー」
「なっ、圭は私のだ!」
小鳥先輩は素直な気持ちを言っただけなのだろうが、湊月は過剰に反応して更にぎゅっと腕を締め付けてきた。ただ触れている大半は柔らかくて年相応に大きな胸なので、痛くも痒くもないが。
先着一名の豪華景品と言いたいところだが、僕が景品とは貧乏くじではないだろうか。
そんな景品を取り合っている構図が、目の前にある。
「それでそれでみーちゃんはこの部に入ってくれるの?」
僕のことはどうでもよかったらしい小鳥先輩は、新しい仲間が増えるとあってハイテンションだ。期待に満ちた純粋無垢な(他人の汚い部分を見過ぎで若干疑わしい)瞳を向けられて、同性である湊月ですらたじろいだ。同性かどうかは関係なく、真の武器は幼さである。
「……」
入るべきか、入らないべきか、湊月は悩んでいるようだ。
その答えはすぐに出た。
「……圭をこんな先輩の隣に置いておいたら、いつ性癖が歪むかわからないからな」
藤宮先生といい、湊月といい、酷い事を言ったものである。
少なくとも僕はロリコンなどではない。
その後、小鳥先輩と様々なゲームをして遊んだ僕達は日が暮れる頃に学校を出た。夕焼けに染まった坂を下りながら、湊月は疲れた様子でこう呟く。
「なんていうか……子供みたいな先輩だな」
幼女先輩と渾名をつけるくらいだから、容姿は幼い。その上、言動も幼ければ小学生くらいと勘違いしてしまうくらいには、小鳥先輩は立派な幼女だった。
小鳥先輩が提案した遊びに疲れてしまったのか、湊月の足取りはやや重い。
帰路を歩いて、駅で電車に乗り湊月が住んでいる街までやってくる。
朝は湊月が起こしに来てくれるが、帰りに送るのは僕の役目だ。
流石に、こんな時間に女の子を一人で夜道を歩かせるわけにはいかない。
もう既に道は暗い。太陽が沈んで、月が昇っていた。
最後の曲がり角を曲がって、湊月の家の前に着く。
「じゃあ、また明日」
毎朝、起こしに来るため別れの言葉はいつもそれだ。
僕は湊月が家に入るまで見送ろうとするけれど、湊月はいつまで経っても家に中に入ろうとはしなかった。
いくら家の前とはいえ、危険がないとは限らない。だから早く帰って欲しいのだが、湊月は少しも動くことがなかった。それどころか僕の制服の袖を掴んで離さない。
「……明日は学校休みだ」
今日は金曜日、二日会えない。僕としては問題はないのだが、湊月には死活問題らしい。
「それに夜だって、圭は携帯持ってないから電話できないし……」
因みに、僕の家に固定電話はないし、あったとしても長電話なんてしたら何を言われるか。妹様から借りてもいいのだが、妙な条件をつけられても困る。例えば、妹の目の前でスピーカーオンで会話するようにとか。
「なら、泊まりに来るか?」
「そうしたいけど、男の家に泊まったことがバレて外泊は当分禁止になった。解除して欲しかったら、その男を連れて来いって」
湊月の親父殿と鉢合わせる前に帰った方が良さそうだ。
挨拶したいのは山々だが、かえって怒らせそうな気がする。
「なら、これで我慢しろ」
どうあっても動こうとしない湊月の唇を塞ぎ、小鳥が啄むような軽いキスをするとそのまま家の方に向かって押し返す。何が起きたか一瞬理解しなかった彼女は、夜の闇の中でもわかるくらいに顔を真っ赤に染めて、こくりと頷いた。
「……わかった。帰る」
よほど恥ずかしかったのか家の中に逃げ込むような背中を見送って、僕は踵を返した。