Lady Maria of the Astral Clocktower 作:疾風怒号
そこは奇妙な場所だった。血臭の蟠る実験棟とは明確に違う、仄暗い空間を切り裂く様に大時計の隙間から薄明かりが差し込む広間。薄汚れて軋む床。耳が痛い程の静寂に、ブーツの足音と僅かな息遣いだけが染み込んで、消えた。
踏み込んだ男の視線。全身を血や、脳漿や、何か得体の知れない液体に全身を濡らし、それでも尚鋭く揺るぎない視線が、この場所の奥にある『それ』に向けられる。気付いたのだろう、彫像の様に鎮座する、女の姿に。
男は徐にそれに近付いた。ごく自然に、だが油断無く。
自らが身につけた装束に似たマント付きのコート、尖った帽子に隠れて顔を拝む事は叶わないが、一房の銀髪が流麗に流れている。なだらかに起伏を描く胸から腹にかけて乾いた血が染み付いているが、寧ろそれは彼女に彩りを添えるかの様。緊張と弛緩の、丁度その狭間を揺蕩う腕には、一振りの刀剣があった。
……美しい。それがこの男、狩人の抱いた感想だった。無論、彼には
死体とばかり思っていた彼女のが動き、腕を掴んで引き寄せたのだ。ぐっ、と互いの顔面が肉薄し、互いの息すら触れ合うほどの距離感にあって、彼は二度驚愕を味わう事になる。
心臓を射抜く猛禽の如き眼光、血色の通う肌、微笑とも何ともとれない表情を浮かばせるその容貌は彼が頼りにする人形と瓜二つであり、だが、静謐とした人形とは正反対の雰囲気と存在感を纏うそれは、彼の心を奪うに十分だった。
「……死体漁りとは、感心しないな」
薄い唇が開き、軽やかな声が響いた。
「だが分かるよ、秘密は甘いものだ」
「だからこそ、恐ろしい死が必要なのさ」
そこで言葉を切って腕を離した女がゆらりと立ち上がる。風に戦ぐ草花の様で、巨樹の様に揺るぎなく、きんと高い金属音を響かせて刀剣を『分離』させた。どうやらあれは一振りでも、二振りでもあったらしい。
「愚かな好奇を……忘れるようなね」
言葉を紡ぎ切るや否や、風切り音を伴って刃が閃いた。きっとそれは、未だ惚けたままの男の命を刈り取るには十分な一撃だっただろう。
その男が、『狩人』でなかったなら。
振り抜かれる筈だった刃が、狩人の首に到達する前に無骨な金属塊に止められていた。三角帽と顔布の隙間から覗く眼に
「…………此処まで来ただけの事はある、という事か」
彼女の言葉を他所に、狩人の握る金属塊___仕掛け武器が花開く。右手にノコギリ鉈、左手に散弾銃。どちらも強く握られ、持ち手に染みた血がぼたぼたと床を汚した。広がったコートから吐き出されるがごとく溢れ出す甘い血の匂い。えづく衝動が鼓動を早める。
シィ、とどちらからともなく鋭い息を吐く。それが合図であったかのように、二人の身体が床を蹴って躍動した。
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「はァッ!!!!」
女の握る血刀が、炎を吹き荒らして振るわれる。だがその軌道をかするように狩人は走り抜け、彼女の間合いの内側に到達した。
お返しとばかりに風を斬るノコギリ鉈、発火ヤスリによって炎熱を伴う連斬撃が女に殺到。その間隙を縫って水銀弾が飛び交い、息つく間もない戦闘を演出する。
片や舞うようにしなやかに力強く、片や獣の如く荒々しく冷徹に。
互いの攻撃が擦れ合い血が振り撒かれるのも構わず、何が入り込む余地も無い。寧ろ望んでそれを排斥する様に段々とスピードは増してゆく。
ここで付け加えるならば、追い込まれているのは女の方だった。忌むべき血刀と、自らの深き部分より溢れる炎。二度の"隠し玉"を晒してなお、目の前の狩人に致命傷を与える事は出来なかったのだ。理性と人間性を
それでも未だ対等に斬り結ぶ事が叶っているのは、ひとえに彼女もまた狩人、その中に於いても数少ない古強者だったからだ。
「……っふ、ぅ、はぁ……ッ……」
「オオオォォッ!!!!」
無理矢理に間合いを開けた女に、狩人が追い縋る。振り撒かれた炎に肌を焦がしながら吶喊し、大上段からの唐竹割りじみて振り下ろされた鉈を、しかし女は踏み付け床に縫い止めた。体勢を崩した狩人の顎にブーツの爪先が叩き込まれる。
彼の身体が持ち上がり大きく仰反った。だが如何なる超常か、特に堪えた様子も無く引き起こし、狩人はギラついた目線を相手に向ける。
「……ッ」
「……ぁぁぁあッ!!!!」
驚嘆の息を長く
男の手が届くよりも速く彼に向かい剣尖を突き出し、しかし、次の瞬間跳ね飛んだ金属塊に胴を打ち据えられた。
見れば男の足が振り上げられた形で止まっている。 つまり彼は自らの得物を蹴り飛ばしたのだ。常人が見れば彼の正気を疑うであろう所行、だがこの場に於いてはこれ以上なく効果的で、即ち致命的な隙を作り出す。
素早く伸びた狩人の腕が、意匠返しのように女の襟を掴んだ。そのまま自らに引き寄せ、足を掛けて引き倒し、細い胴に跨る。
かしゃん、となにかが落ちる音。視線を向けた先には小さく細長い瓶が転がっている。
僅かに光を反射するのは赤く濁った血液の滴。女はそれを見て、合点したようにため息を吐いた。
「……アデライン、血の施しか」
「あぁ」
「彼女は」
「殺した」
暫くの静寂があった。 そしてそれを破ったのは、未だ跨ったままの狩人。興奮冷めやらぬといった様子で、熱く粘つく視線で女を睨め付ける。
「……名前は」
「そんな事を、知って何になる」
「答えろ」
「……マリア」
「そうか」
自分から聞いた割には淡白な返事だった。 だが満足はしたのか、穴の空くような視線は離さないまま、彼女からぱっと離れる。
「剣を拾え」
「何のつもりだ」
「先刻は小細工を弄した、故に」
「『情けを掛ける』、とでも言いたいのか」
「そう受け取られても仕方のない事をしている、自覚は有る」
兎角、剣を拾えと男は続けた。対する女も、それ以上追求する事はなく素直に従う。 そうして空いた間合いを尚も視線で貫いて、彼はまた口を開く。
「名は聞いた、次は
「……それを聞く限り、貴公は医療教会を疎んでいるようだが、何の為にアデラインから施しを受けた?」
「施しを受けたのは、俺が"彼女個人"を嫌えなかったからだ。 血を飲む気など無かった」
「だが貴公は現に」
「貴女の名を知りたかった。死人から名前は聞けない、
生かして倒すには相応の血を流さなければならない、だから飲んだ」
「私の、名を……?」
「それだけの価値が在ったと知れ、マリア」
その言葉を最後に狩人は自らの得物を拾い、構えた。 面食らっていたマリアだったが、即座に意識を切り替え、鷹が両翼を開くように落葉を広げる。 もう言葉は無かった。如何なる事情があり如何なる感情を持とうが、男には先に進む意思があり、女には
静寂、刹那にも、とこしえにも思えるその静寂の中、ごく僅かに床の軋む音が鳴る。
その瞬間、ほぼ同時に二人の身体は、血風と化した。
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ぞぶり、と腹に腕が喰らいつく感覚。幾度となく経験し、しかし永遠に慣れる事の無いであろう感覚に身震いする。ぐちゃり、ごり、ごり、と内臓が漁られ掻き回され、口内に鉄臭く濁った血が溢れた。
それでも逃げられないよう背に回された手は、幼子を抱くように柔らかいのだから、思わず笑ってしまう。霞む視界に映る彼女も、心なしか微笑んでいるように思えた。
「……いいものを、見た」
「そうか」
「…………また、くるぞ、つぎはもっと、あなたの
「……そうか。ならば私は此処にいるとも、貴公を迎え討ち、狩る為に」
はらわたに沈み込んだ腕が引き抜かれ、狩人は崩れ落ちた。その刀傷塗れの身体はすぐに薄れ……跡形もなく消える。
事の顛末は単純だ、狩人の技量を、先達の古狩人が制しただけの事。先程とは違い、聖女の血によるタフネスは無く、狩人が炎を突っ切るなど無茶な所行も望むべくも無い、故に隙を突かれた狩人は、討ち果たされるに至った。
……"愉しそう"だった。それがあの狩人に対してマリアが抱いた感想だった。 言わずもがな、彼女は命のやり取りの中に楽しみを見出す程倒錯はしていない。それはあの男も同じだろう、と彼女は思うのだ。
では何故、彼はあんなにも楽しそうに、心底嬉しそうに刃を振るっていたのか。それはきっと、彼女にはずっと分からない。
「ゲールマンゲールマンゲールマン!!!!!!!!」
「狩人か、どうしたのかね」
「貴方は俺の助言者だな!!!!????」
「そ、そうだが、何かあったのかね……?」
「俺に男女の付き合いを教えてくれ!!!!!!!!」
「????」
「美しい、本当に美しい方を見たんだ!剣を振るい、血に濡れる姿までも美しい女性を!名前はマリアというらしい!」
「????????」