降下部隊の帰還が伝えられたのは、ダブリンへのコロニー落としが成功した数日後の事だった。
「エゥーゴとの戦闘は少なくない被害をもたらしているものの、作戦の成功も相まって兵士たちの士気は高い。我々も宇宙へ上がり次第、君たちを迎えにいく。今しばらく、待っていて欲しい」
穏やかな声で状況を伝えるグレミーの音声データは、隠れ家で彼を待つプルシリーズにとって喜ばしいものであった。
姉妹たちは皆が代わる代わるその声を聞いて、嬉しげに破顔し、あるいは心酔しているようにため息を漏らす。
記録された音声の内容が変わるはずもないのに、日に三度も聞き入るものすらいるほどだ。
「──マスター、帰ってくるんだ。あたしの事、覚えてるかなあ」
プルテンだけはたったひとり、そんな姉妹たちを少し退いたところで眺めている。
物憂げな呟きは誰の耳にも届かずに、何処かへ流れて、消えていく。
グレミーへの思慕は変わらないはずだが、何故か彼女にとっては、録音された激励の声が遠く聞こえていた。
いや、遠く聞こえるようになってしまったのかもしれない。
「ジンロウ、起きてるかな」
楽しげにする姉妹たちをよそに、プルテンはひとり、寝室へと向かった。
訓練をするか、眠っているか。
プルテンが見るジンロウの姿といえば、そういうものばかりだ。
「心だとか魂だとか、そういうものがあるのなら。僕はきっと、コックピットに置き忘れてしまったんだろうね」
少女たちが眠りに就く寸前の、ひと時の会話の中で、ジンロウはそう言った。
いつものように遠くを見ながら、抑揚のない声で。
淡々としたそれは、いつもつまらなそうにしていると、プルシリーズの誰かに言われた時の言葉だった。
その顔を、声を思い出すたびに、プルテンは言いようのない胸の苦しさに襲われる。
他の姉妹は聞き流して忘れてしまった言葉が、何故かプルテンの中にずっと残り続けている。
モビルスーツに乗るのは、楽しい。けれど、それ以外にだって、楽しい事はあるはずだ。
理由のわからない憤りを感じながら、プルテンはノブを回す。
がちゃりという音が思った以上に大きく聞こえて、小さな肩がびくりと跳ねた。
「ねえジンロウ、起きてる?」
陽光が差し込まない、薄暗い部屋の片隅に置かれたソファへと、恐る恐る声をかける。
古びた毛布が小さく動いて、見知った顔が起き上がる。
「今起きたよ、何かあったのかい」
ジンロウの返答に胸を撫で下ろすと同時に、プルテンはまた眉を寄せて不機嫌な表情を覗かせる。
「なにさ、その言い方。別に用がなくたっていいじゃない。あたし、ジンロウに会いに来たんだよ、嬉しくないの?」
自分でも、どうしてこんなに突っかかるのかがわからない。
それでも、プルテンは言わずにはいられなかった。
ジンロウはプルテンの様子に瞬きを挟むと、ほんの少し考え込むように言葉を止めた。
何を言うべきか、何を言ってはいけないのか、そうした事を今までの経験から思考している。
そういう時の顔だと、プルテン自身も理解はしている。
「──いや、会いに来てくれて嬉しいよ」
だのに、この男はそういう相手だと、頭では理解しているはずだのに。
ジンロウのひと言で、プルテンは頬から耳の先にかけて、かっと熱が駆け抜けていくのを感じていた。
眼前に広がるコロニーの街並みを上書きするようにして、宇宙空間の光景がモニタに投影されていく。
見慣れた市街地は、瞬きひとつの間に深淵めいた世界へと変貌を遂げていた。
星々の浮かぶ海原に浮いたまま、プルテンはひとり、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
これはあくまで、作り出した偽物の世界でしかない。それでも、プルテンにとっては、ジンロウと翔べる楽しい場所だ。
コントロールロッドを握り、軽く引いて遊びと重さを確かめる。問題はないと判断するのに、時間は要らなかった。
「いつでもいいよ」
「諒解」
通信機から聞こえたジンロウの声は、今はまだ、抑揚がない。
それでも、うなじがちりちりとする感覚に、プルテンの胸の鼓動は高鳴っていく。
モビルスーツに乗り込んだ時の高揚感こそないが、シミュレータはコックピットを忠実に再現している。その中で、プルテンはぼんやりと、向こう側に視線を向ける。
見ようと思わずに見ていると、雑多な機械を隔てたジンロウの雰囲気が、見えなくても感じ取れていた。彼の心は、いつもより少しだけ、ほんの少しだけ熱を帯びている。
モビルスーツに乗っていると、彼がそう思えるなら、何でもいいのかもしれない。
完全に隔たれていながら、彼の存在をそこまで感じ取っている事を、プルテンはさほど不思議とは思わなかった。
コロニーに来てからなのか、訓練を重ねたからなのか、いつからだったのかは、プルテンにもわからない。
ただ、今では顔も姿も匂いも声も、まぶたを閉じればすぐに思い描けるようになった。
それがどういう事なのかを、言語化する術も理解する術もない。プルテンは誰に伝える事もしないまま、自分の中でその感覚を大切に抱き締めていた。
果ての見えない宇宙の片隅で、その感覚が踊っている。頭の奥に、澄んだ何かが流れてくる。
コンマ数秒の遅れと共に、青白いバーニアの炎がプルテンのイメージした通りの軌跡を描いた。
「ファンネルたち、あたしの言う事を聞いてる。──ジンロウ、今日はね、なんだか上手くいく気がする」
プルテンの脳波に応じて、キュベレイのファンネルが展開される。動作も反応も、実機と寸分違わない正確なシミュレーションだ。
そうしたインターフェースに意識をとらわれるのは、最初だけだった。今ではそれが当然として、気に留める事もない。
プルテンはジンロウの背中を、その足跡を無心で探す。その思いに従うように、ファンネルたちが解き放たれた猟犬の如く駆け抜けた。
今までの訓練ではまるで統率の取れなかった動きが、ミリ単位の精密さを宿しているように、思うがままに動かせる。
成長と呼べるのかも曖昧な感覚が、プルテンの心をくすぐる。褒められたいと、素直に思っていられる。
「驚いた、速い。違う、これは──」
何かを言いかけたジンロウの声が、変質する。プルテンには、その様が寝起きのぼんやりとした響きを脱ぎ捨てたように感じられた。
「見えてるのか、お前」
ファンネルの砲口から、眩い光が迸る。
バーニア炎が上下左右に揺れるたび、続け様に二発、四発、八発と畳み掛けるようなファンネルの掃射がそれを追った。
「見えるよ、見える! ジンロウ、そこにいるよね!」
「読んでるのか、お前、僕の動きを!」
ジンロウの声色が、後姿が、プルテンの中に喜びを呼び起こす。
彼は今、自分を見ている。取るに足らない落ちこぼれでなく、遊んでいる時の、楽しそうな声色で語りかけてくる。
それが嬉しくて、プルテンは笑った。子供らしい、無垢で純粋な笑顔を浮かべて。
急加速で振り切ると見せかけて、逆噴射。座標をずらしてからの急上昇、旋回の瞬間に隙が生じる。
だから、そこを撃つ。
「いけ、ファンネルたち!」
脳裏に浮かんだ光景が、そっくりそのまま再生されるような感覚に包まれる。
プルテンの命令を、ファンネルは忠実にこなしてみせた。
四方八方からの狙撃を躱すため、ジンロウのモビルスーツはバーニアを噴射する。急加速、逆噴射、そして急上昇。即座に捻り込むような旋回は、彼の得意な戦法だった。
実際、プルテンもその動きを全て追えていたわけではない。
あくまで、その動きを予測していたから、見失わずに追いかけられた。彼女からしてみれば、それだけの事でしかない。
だから、ジンロウを完璧に先回りをしたという実感がプルテンには欠如していた。
ファンネルのビーム砲が宇宙に幾重もの糸を張る。その一点で、小さな光が膨れ上がったように見えた。
あとにはただ、静寂があるのみ。
撃墜の表記がモニタに映し出され、プルテンが瞬きをするまでには一拍の間があった。
「──負けたよ、プルテン。今の、君、いったい何があったんだ」
通信機から聞こえるジンロウの声は、落ち着きつつあるものの、興奮の残ったそれだ。
何が何かもわからないまま、プルテンは言葉を探す。何を言ったら良いのかもわからないし、喜んで良いのかもわからない。
ただ、そんな少女にもわかる事がひとつある。
「じゃあ、約束通りパフェをおごろう。もう、すぐに出るかい?」
その言葉が、堪らなく嬉しい。
それだけは、確かなものとして感じられた。
半ば溶けかけたソフトクリームをすくいとりながら、ふたりでの外出はこれで何度目だろうとプルテンは考える。
スプーンに乗せたミルク味を口いっぱいに頬張りながら、プルテンは盗み見るようにちらちらと、向かいに座るジンロウを見やった。
平日の昼下りという時間帯もあってか、カフェは貸し切りのようなものだ。
空調の効いた室内で、自分の顔ほどもありそうなパフェを切り崩しつつ、プルテンは思いついた事を気の向くままに問いかける。
「日本って、どんなところ?」
「どんなところ、だろう。研究所の外って、あまり覚えていないからなあ」
プルテンが口にするといえば大抵がジンロウに関する質問で、同時にジンロウはその答えを持っていない事がほとんどだった。
プルテンはそれを責める事もなく、ふうんと曖昧な声を返しては、夢物語を口にする。
「じゃあさ、行ってみようよ、ふたりで」
それが叶うとは、彼女自身も思ってはいない。
ただ、そういう事を言ってみたかった。
もっと正しく言うのなら、そんな夢物語を投げかけても、ジンロウが否定しない事を確かめたがっていた。
「戦争が終わったら、かい」
「そう、終わったら」
チョコレートソースとソフトクリームを混ぜ合わせると、シリアルにそれを絡めてすくう。咀嚼のたびに味わうざくざくとした触感が心地良い。
プルテンはそうやって、目の前のパフェに気を取られている子供を演じていた。そうでもしていないと、緊張に耐えられないと彼女自身が感じている。
理由も正体もわからない不安に押し潰されないように、プルテンは甘ったるいパフェの味を頼る。
彼が拒んだら、どうしよう。プルテンの頭の中は、時計の針が動くたび、その思いでいっぱいに埋め尽くされていく。
「じゃあ、戦争が終わったら、行ってみようか。けどそうなったら、地球に降りる前に僕が退屈で死にそうだ」
そうやって、胸が苦しくなる頃になって、ジンロウは答えを返してくる。
プルテンが安堵に胸を撫で下ろし、ジンロウはその様子を眺めて不思議そうな表情になる。
そうかと思えば次の緊張に包まれながら、尽きない興味に促されてプルテンが質問を投げかける。
席についてから、もう何度、この波を迎えたかもわからなくなっていた。
「地球って、青いんだよね。青いところは、水ばっかりなんでしょ?」
「そうだよ、不思議なところさ。重力に引っ張られる感じはあるし、何より翔びにくい。モビルスーツが、なんて言うか、重たくなる」
ふうんと、また曖昧な声がプルテンの口から漏れる。
ジンロウはそれを咎める事もなく、時折、プルテンを観察するようにゆっくりと瞬きをする程度だ。
否定される事はなく、なんでも肯定してくれる。
プルテンがそういう風に誘導しているのもあるが、ジンロウの返答は、大抵が少女にとって心地良いもののはずだった。
それが、思っていたよりも嬉しくないのは何故だろうと、プルテンはひとり考える。
「ねえ、ジンロウはさ、地球で行ってみたいところとかないの? 日本じゃなくてもいいよ、どこだってさ」
「わからないなあ、行ってみたいところか。僕は、研究所かコックピットか、あとは基地の中しか知らないからさ」
どこまでいっても曖昧な、夢物語でしかないやり取りが続く。
外の世界を知らない者同士が、名前を聞いた事しかない何処かを目指すなど、最初から間違っている。
それに気付くだけの知識も経験もないふたりは、浮かんでは消える曖昧な言葉を交わしてばかりだ。
「じゃあ、コロニーの落ちたところを見てみるとか?」
「やだ、そういうのじゃないの。たまにはさ、戦争とかモビルスーツとか、そういうのと別のがいいんだ」
大人に導かれる事のないまま、人でないものとして成長してしまったジンロウもまた、その違和感を認識できていない。
彼から戦争を引いたら、何が残るのか。
プルテンの興味は、自然とそこへ集まるようになっていた。
パフェを堪能していたはずの少女から唐突に出された難題に、ジンロウは腕組みをして考え込む。
戦争やモビルスーツと関係のない記憶など、数えるほども持ち合わせていない。地球の記憶に限ってしまえば、それこそ何も知らないプルテンと同等と言っても過言ではなかった。
「あたしね、音楽が好き。それから、お風呂も好き。あと、パフェも好きだよ、ジンロウ」
そうして悩むジンロウに、プルテンは静かな声で語りかける。
会話の脈絡が認識できずに混乱しながら、ジンロウはその言葉を手がかりにして思考を続ける。
その様子を見ながら、プルテンは長いまつ毛をそっと伏せた。
「あとね、こないだ飲んだ甘いやつも好き。それからね、このリボンも好きだよ。さっきさ、選んでくれたじゃない、こっちの色が良いって。あれがね、すっごい嬉しかった」
後髪を結った赤いリボンを、プルテンが指先で撫ぜて照れ臭そうに笑う。
飾り気ないサテン生地の、取り立てて特徴がないそれ。これが一番好きかもしれないと、はにかみながらプルテンが呟く。
そんな姿を見ながら、ジンロウは組んでいた腕を解いた。彼女の言わんとしている事が、理解できた気がしたからだ。
「僕は、そうだね。静かなところが好きだよ、それから──広いところが良いな、何にも遮られないところ」
漠然として、答えとしては間違っているようにも思えるその言葉に、プルテンは嬉しそうに聞き入った。
プルテンが初めて聞いたのと同様に、ジンロウも、その答えには不思議な感覚があった。
モビルスーツとも戦争とも関係のない、自分が好きだと思えるようなもの。
そういうものがまだ残っていたのかと、自分の答えにジンロウ自身が驚きを隠せなかった。
「宇宙みたいな?」
「そうだね、あんな感じだ。ああ、それなら、海が良いのかもしれない。地球にはさ、水平線っていうのがあるんだ、空と海が混じるところ」
見た事もない、聞いた事もない、想像すらできない風景にプルテンは思いを馳せる。
空と海が混じるとは、いったいどういう事なのか。
「なにそれ、見てみたい。それって、どんな感じになるの?」
むしろ、ジンロウの言葉が漠然としているからこそ、良かったのかもしれない。
夢物語しか話せないふたりだからこそ、具体的ではない、漠然とした何処かを思う方が簡単だった。
「僕も、ちゃんと見てはいないよ。ただ、そういうものがあるって聞いただけさ」
そう言いながら、ジンロウはまた何かを考え込んでいる。
思考の中までは見えなくても、プルテンにはなんとなく、彼が興奮しているのが理解できた。
いつものぼんやりとした彼ではない、だからといって、モビルスーツに乗り込んだ彼とも違う。
初めて見るその姿にプルテンは見惚れ、とても小さな感情の揺らめきを感じ取っては、胸を躍らせた。
「ジンロウ、なんか、嬉しそう」
すっかり溶けてしまったクリームを、スプーンですくう。
目で見ないままの方が、空気の流れを感じるように、小さな揺らぎを見つけられる気がした。
「そう、なのかな」
最後のひと口を頬張るまで、それきり、会話はなかった。
無言のままでも心地良い、温かな感覚に包まれて、プルテンは時折ため息を漏らす。
そんな少女を不思議そうに見つめながら、ジンロウは黙ってその空気に身を委ねていた。
「ジンロウ、行こっか」
空になったパフェグラスにスプーンを預けると、プルテンは立ち上がる。
結った髪が馬の尾のように、さらさらと柔らかく揺れた。
ジンロウがそれに続いて立ち上がりながら、遠くを見つめるようにして、自然と水の星の方角へと視線を向ける。
「ああ、そうだね。それからプルテン、戦争が終わったら、水平線を見に行こう」
すぐに視線はプルテンへと向けられ、結果としてジンロウは頬を赤らめた少女を真正面から見下ろす形になった。
「──それ、約束?」
上目にジンロウを見つめたまま、プルテンが問う。
彼の声で名前を呼ばれただけで、胸の奥が震える感覚があった。
それに加えて、今日の言葉は、紛れもないジンロウからの誘いだ。
戦争もモビルスーツも関係のない、彼が好きなその場所へ、一緒に行こうと誘われている。
その事実が混乱に拍車をかけて、思考が千々に乱れていく。
何度も繰り返してきたやり取りのはずだったのに、ひどい胸の高鳴りで、プルテンにとっては初めて交わした約束のようだった。
「ああ、約束」
ジンロウに小指を差し出され、プルテンは自分のそれをそっと絡める。
肌が触れ合う瞬間に、緊張のせいでうなじの辺りがぢりぢりと痛んだ。
ささやかな儀式の後に手を取られ、プルテンが素頓狂な声を上げる。
ジンロウはそれを気にした素振りもなく、いつものように手を引いて、帰り道を歩き始める。
「戦争、早く終わると良いな。そうしたら、ふたりで海に行けるのに」
俯きながらのプルテンの呟きに、ジンロウは少しだけ考えてから応じる。
戦場でしか生きられない強化人間の彼が、その日だけは、彼女の前でだけは、とても穏やかな表情で。
「ああ、そうだね」
そう、短い言葉を口にした。