深雪を踏みしめながら、夜道を歩く。
教会までの道程は記憶しているので、視界不良はそこまで問題ではない。むしろ、すこし特別感がある。こうして夜の道を歩くのは、クリスマス以来だ。なにより、今回は一人である。なんだかんだ言って、夜の帰り道は誰かが隣りに居てくれた。
あの変態からパーカーを貰った日の帰りも、途中からとは言えエヴァが迎えに来てくれたし。
――大学を出てからすぐのところで、チャオがエヴァに話があると持ちかけた。なんでも重要な話らしい。場所を移して落ち着ける空間で話したいと言っていた。
帰り道が不安なら話が終わるのを待っていてほしいと言われて、少しだけ迷った挙げ句の果てに、私は一人で帰るという選択肢を選んだ。
先述したとおり、道は記憶していた。大学エリアから女子中等部校舎に行って、そこから教会へ向かうという、ちょっと遠回りなルートになってしまうが、仕方ない。私の記憶は事実にしか基づかない。ルートというパズルを組み合わせて近道を割り出すような芸当は出来ない。決して自分の頭を信用していない訳ではないが、冒険はしない主義なのだ。
一人で帰るという行為は冒険なのではないかと言われると、否定しにくいのだが。
ただ、今日は少し疲れた。どうやら、私は慣れない環境での活動が不得手らしい。早く部屋に帰って眠ってしまいたいという気持ちでいっぱいだ。考え事は、別に明日起きた後にでもすればいいだろう。
そもそも、誰かに相談しなければ解決しないような考え事ばかりである。一人で黙々と思考に耽っていても仕方がない。
例えば――別にエヴァの肉を食べなくても、それこそ吸血鬼のようにエヴァの血を飲めばいいのではないか、とか。
例えば――身体は人間だとは言うものの、では、何故私には空腹感が無いのか。事実、一週間飲まず食わずでも問題なく生きているのか、とか。
こんなこと、素人の私が考えたところで考察の域を出ない。
もう一度、あの女性の部屋を訪れて、話を聞くしか無いだろう。
……あの部屋に行かなくてはいけないというのは、なんとも億劫な話だ。私のスタミナを奪ったのは、間違いなくあの濃厚な煙草の臭いとハウスダストである。それに加えて、チャオよりも露骨な観察するような女性の眼。ああいう眼は好きじゃない。見られてはいけないところまで見られてしまっているような気がする。それこそ、私の汚いところとか――。
そういえば、あの女性、名乗らなかったなぁ。
チャオも教授と読んでいたし、エヴァに至っては“貴様”である。もしかしたら素性を隠しているのかもしれない。名前で呼ばれることに、なにか不都合があるとか。
まぁ、これも、考えたって詮無きこと。
この暗い道――憶えていなければ迷子も必至な、この道のような話だ。情報も不揃いなものを考察したって、どうして正解に辿り着けるだろうか。時には思考停止だって美徳になるということだ。妙に勘繰るよりはマシという意味でしかないが。
街灯の下で、なんとなく腕時計を見る。一人になってから、既に三十分以上が経っていた。そろそろ中等部校舎が見えてくる頃だろうか。思ったよりは早く帰れそうだ。
なんて、そんなことを思いながら街灯の光から離れた瞬間――私の身体が一瞬だけ宙に浮かんだ。
足をなにかに引っ掛けた。なんてことはないシンプルな原理だ。しかし、それは引っ掛けたと言うよりは――引っ掛けられた、と言うべきだろう。唐突にバランスを失った身体を制御するなんて出来ない。前のめりに倒れていく私の肩を、後方から誰かが掴んだ。
その手が倒れそうな私を助けてくれるなんてことはなく、むしろ強引に地面へと押し付けるように力が加わった。力が強いというよりは、力学を利用する手段を知っているようで、私の体はまるで催眠術にでもかかってしまったかのように無抵抗のまま地面に吸い込まれた。
雪が積もっていてくれて助かった。顔面から倒れた割に、痛みは最小限である。怪我らしい怪我もないだろう。
そんな思考も束の間、私の体の上に誰かが跨り、背中を抑えつけられた。肩甲骨の動きを阻害されているようで、腕の動きが制限される。同時に肺も圧し潰されて、息が苦しい。
――気配なんてものは一切無かった。足音だって、雪が積もっているとは言えども、絶対に聞こえて然るべきなのに、それすらも無かった。
視界不良とは言えども、暗闇に慣れた眼であれば、人程の大きな物体が動けばそれに気付け無い訳がない。
魔力に関しては、今もなお感知できずにいる。
まるで幽霊に襲われたような感覚だった。
その幽霊こと襲撃者は、少しだけ不思議そうに、ぼそりと呟く。
「――怖がらない……?」
いいえ、ただ無表情なだけです。
いや、私から相手の顔が見えないように、相手も此方の表情は見えていないはずだ。ならば、それは雰囲気の話なのだろうか。
心まで無表情になった覚えはないのだが。
「やはり只者ではないな、貴様。外見に騙されてやる程、私は甘くないぞ。――蒼井家の残党め」
いいえ、こちら只者的な一般市民なのですが。
いや、只者ではないのか。吸血鬼の肉を食べる人間を只者とは呼ばない。
――それよりも、何故蒼井という姓名を知っているのか。残念ながら、襲撃者の声に聞き覚えはない。少なくとも私の知り合いではないし、見ず知らずの人間に恨みを買われるようなことを、地下暮らしの私がどうしてできる?
これは、冷静に“人違いです”とでも答えるべきだろうか。
「答えろ。木乃香お嬢様に近付き、なにを企んでいる」
木乃香お嬢様……?
私の知り得る木乃香という人物と言えば、近衛木乃香以外には存在しない。つまりは、近衛木乃香のことなのだろう。
驚いた。お嬢様と呼び慕う部下がいるということは、彼女の地位は想像よりも遥かに高いところに位置しているということだ。最早、ただ魔力を多く持っているだけの女子中学生とは呼べないだろう。
しかし、よくよく考えてみれば、これだけ大規模な施設を経営する理事長でありながら、東の魔法使いのトップである
訂正しよう。
思考停止など、美徳でも何でもない。ただの怠慢だ。
――しかし、それを考慮した上で、解せない。
私は木乃香さんに恨まれるようなことをしたのだろうか?
今日の「鈴葉はウチの子やで」発言は、もしかして、「鈴葉(の首)はウチのや」という意味だったと?
それは……剣呑剣呑。
「…………」
いや、剣呑とか言ってる場合ではないぞ、これは。
この人――或いは木乃香さんは、なにか勘違いをしている。私はなにも企んではいないし、下心すらない。
出会いは全て偶然だし――むしろ、二度の出会いでなにを企めると言うのだろうか。元々目的らしい目的も持っていない、平々凡々とした地下暮らしの私に、なにを企めと言うのか。
勿論、こんなものは私の都合だ。向こうからすれば知ったことではないのだろう。不用意に近付いてくる輩という見られ方をしてしまえば、それまでだ。
まぁ、でも、いきなり襲わなくても、いいのではないだろうか。
「まず、確認、させ、て」
「……言ってみろ」
「あなたは、誰?」
「安易に名乗るほどに愚かに見えるか?」
いや、そもそも見えないんですって。
できれば面と向かって会話をしたい。
表情が分からなくては、読み取れるものも少ない。
それは、そちらも同じはずだが。
「もう一度問うぞ。貴様は、何を企んでいる?」
「なに、も……」
「…………そうか。あくまでも答えたくないと言うなら、答えたくなるようにしてやるまで」
肩を掴まれる。
もしかしなくても、関節を外すつもりだろう。尋問というのは、いつの世の中でも正攻法の一つだ。如何に人道的ではないと言っても、痛みに勝る恐怖は無い。答えてしまえばそれまでなのだから、その痛みは答えなかった奴の責任と言う話だ。自身に正当性を持った暴力であると言い訳もできるため、罪悪感も少ない。
ぎしり、と。
強い握力に、骨が軋んだ。
「――そこまでにしていただけませんか、桜咲刹那さん」
その声は、私の前方から。襲撃者と相対するような位置から聞こえてきた。
抑揚のない無機質な声。
幸いにも、それは聞き覚えのある――聞き馴染みのある声だった。
「絡繰さん……?」
絡繰茶々丸。ガイノイドにして、エヴァの従者。
流石、悪の大魔法使いに仕えているだけあって、有名なのだろう。襲撃者は僅かに動揺しているようだった。
「マスターの命により、お迎えに上がりました。桜咲刹那さん、今すぐ鈴葉さんから退いてください」
「――そうですか、あなたが……あなた達が首謀者、乃至協力者ということですか」
「いいえ。話の一部始終を聞かせていただきましたが、桜咲刹那さん、あなたは勘違いをしています」
「…………」
「あなたの言う蒼井家は、あなたの知っている情報そのままの状態です。鈴葉さんを関係者と呼ぶのは無理があります」
「信じろと?」
「私の記憶データをお渡ししても構いません」
「データなんて、いくらでも改竄できるのではないか」
「そんなことが出来るのは私を開発した葉加瀬と超鈴音しかいません――それでも信用できないと言うならば、学園長に直接お話を聞いては如何でしょう」
それから、襲撃者は熟考を始めた。私の上で、数分間、悩み続けた。
実に迷惑な話だが、ここで身動きをして妙な警戒をされても仕方がないので、あくまで無抵抗を努めることになる。パーカー着てて良かった。寒空の下、冷たい雪の上で寝かせられるというのは、それだけで拷問だろう。
それから、襲撃者は携帯電話でどこかに連絡を取り始めたようだった。茶々丸さんの言うことにも理が有ると結論をつけたのだろう。その電話の向こうからは確かに
やがて、襲撃者の拘束力は弱まっていき、代わりに身体の震えが私に伝わってきた。マナーモードかな?
「あっ……あ、ああ…………!」
やがて、電話を終えた襲撃者はうわ言のように口を震わせた。顔を見なくても、その表情が青ざめていることがわかった。
茶々丸さんの発言からして、彼女は何かの勘違いをして私を襲ったということになる。
そして、なにより――
主人の名前を出して襲ったのに、それが勘違いだったなんて、そんな失態は部下としてあるまじき話だろう。
青ざめない訳がない。
それから、唐突に身体が軽くなり、雪を掻き分ける音がした。
「す、すみませ――申し訳ありませんでしたッ!」
身体を起こして振り返って見れば、雪を掻き分けて後退った痕跡があり、その先――実に十メートル程離れたところで、女の子が綺麗な土下座をしているようだった。
暗くて良く見えないけれど、間違いない。あれは、女の子だ。いや、声からして分かってはいたけれども。
「ま、まま、まさか
お、おう。
あまりそういうことは言わない方が良いのではないだろうか。容易く言質を取られてしまう。
「……まず、顔を、上げて」
「は、はい……」
桜咲刹那と呼ばれた少女は、おずおずと土下座の姿勢を崩した。髪の毛をサイドテールで纏めて、整った顔を捨てられた子犬のように歪めている。背中には長い得物がぶら下がっているようだ。もしかしなくても、刃物だろう。抜かれてなくて良かった、と安堵する。
「おすわりして、わんって、言って」
折角言質を取った――というか貰ったわけなので、ついついそのような要求をしてしまった。
丁度、チャオに“もっと素直になれ”と言われたばかりである。これもまた、素直になるための練習だ。そういうことにしておこう。
「へ……!?」
刹那さんは素っ頓狂な声を上げた。どうやら私の言ったことが理解できなかったようなので、もう一度、聞こえるようにゆっくりと告げてあげる。
「おすわり、わん。これ、処罰」
「ぐっ……。ご、御慈悲を――」
「じゃあ、にゃーん、って、言って?」
「そ、そんな……!」
まぁ、こんなものはただの冗談だ。まさか鵜呑みにはしないだろう。
そもそも、処罰なんて大袈裟な話である。現代日本の個人的な人間関係にそんな制度は存在しない。私刑は禁じられているのだ。他人の尊厳を欠くような行動を強制するなんて、人間性が疑われてしまう。
「………………にゃー、ん……」
お……?
おー……。
これはなかなか。
正座のままだし、本当にただ“にゃーん”と呟いただけの話なのだが――高揚感。これが上に立つ人間の優越感というものなのだろうか。まるで劇薬だ。
なにより、暗がりでも分かるほどに顔を赤くしている刹那さんを可愛いと思った。でも、この可愛さは、どちらかと言うと、虐めたくなるタイプのものである。
うーん、本当に劇薬だよね、こういうの。自重しなくては。
……これ、どうしよう。
勢いに任せてにゃーんなんて言わせてみたはいいものの、実はこれ、なんの解決にもなっていない。
彼女――桜咲刹那さんにかける言葉が、他に見つからない。それに加えて、私を迎えに来たと言う茶々丸さんもいる。このまま刹那さんを放置して茶々丸さんと帰途につくのは、はたして正解なのだろうか。
別に、私は刹那さんの主人という訳ではないのだから、気にしても仕方のないことではあるのだが。
とりあえず、主人である木乃香さんに連絡をするべきだろうか。茶々丸さんならば木乃香さんの連絡先も簡単に入手できるだろうし。主人として彼女を回収してくれれば此方としては御の字。あとは向こうで処罰なり何なり自由にやればいい。
……未だに正座のまま畏まっている様子を見る限り、今の「にゃーん」を処罰とは捉えていない。真面目な女の子なのだろう。
「刹那、さん」
「お、恐れ多くも、私のことはどうか呼び捨てにしてください」
正座を崩し、片膝を立てて頭を垂れる。それはまるで、中世の騎士のような佇まいだった。
……形式を重んじる人なのかなぁ。私は刹那さんの主人ではないと、彼女自身もそれは理解しているだろうに。
「じゃ、刹那」
「は、はい!」
「今日の、ことは、なかった、こと、に、する。いい?」
「なっ……! い、いえ! そんな! それでは私の気が収まりません!」
うーん。
これは真面目とは少し違うのかもしれない。
由緒ある家系ならば良くある話だ。
気に食わなければ身内の従者であろうとも捨て置くこともある。貸し借りを作り、それを盾にして主人に無茶なお願いをするなんて、有り触れた物語の一部だろう。
刹那は、それを恐れている――そう仮定すれば、ここで処罰もなしに引き下がることもできないという意思も、理解できなくはない。
「あなた、の処罰、は、木乃香さん、の、仕事、でしょ?」
主従の関係であるならば、それが事実である。
これでも食い下がって来るようならば――私は、まだ警戒されているということだろう。
「わ、私は……お嬢様の護衛であり、正規の従者ではありません。陰ながらお見守りすることこそが務め。……なにより、お嬢様は裏の世界のことをなにも存じておられないのです」
――それは、真実なのだろうか。
分からない。
裏を読むならば、せめてその責任を主人から遠ざけようとしているように見える。如何せん、主人が認識すらしていない従者の責任は、従者の責任でしかない。
処罰とは、言い換えれば「これでチャラにしてやる」ということでもある。
その処罰を今此処で形にしなければ、今後なにに利用されるのかも分からない。
――要するに、私のことを
なるほど、優秀なワンちゃんだ。
だからこそ厄介である。
如何せん、私は人に処罰を与えた経験など無い。なにが処罰になって、なにが処罰にならないのかすら分からない。私からすれば、さっきの「にゃーん」が既に処罰なのだが。
「……どう、しよ、茶々丸さん」
だから、投げた。
私の隣に立って事の成り行きを眺めている茶々丸さんならば、なにかいい提案をしてくれるかもしれない。なにせ、彼女はエヴァの従者である。この高性能ガイノイドがヘマをするとは思えないが――なにかしら罰を与えられたことくらい、あるかもしれない。
「……過去の刑罰を検索したところ、最もポピュラーな刑罰はやはり斬首刑かと思われます」
「違う、そうじゃない」
いきなり死刑は流石に重たすぎる。
「では、市中引き回しの刑などいかがでしょう」
あなたは刹那をどうしたいの。
抗議の眼を向けると、茶々丸さんは首を横に振った。
「すみません。私も、こういった事例は判断しかねます」
どうやら、茶々丸さんもエヴァから罰を与えられた経験はないらしい。
まぁ、もしかしなくてもそれは当然なのだろう。この現代日本で従者に与える罰なんてものは存在しない。あくまでもこの社会に当てはめるならば、損害賠償請求や解雇だろうか。損害賠償して貰うほどの行為はされていないし、解雇するかどうかなんて、それこそ私の意思で決めることができるものではない。
「――ふぉっふぉっふぉっ。予想外の連絡に驚いて来てみれば、なかなか面白いことになっとるのう」
魔法、だろうか。
ライト代わりに光球のようなものを空中に漂わせながら、その人は此方へと近付いてきた。その長い後頭部を見て、今更誰だ等とは聞きますまい。つい先程、刹那が連絡を取った学園長その人である。
「――学園長! 申し訳ありません! 言い訳のしようもない失態です。何卒、何卒お許しください……!」
「良い、刹那くん。あまり容易く頭を垂れると、器量さえも疑われるぞい」
「は、はい……。すみません……」
――こう見ると、流石はおじいちゃんと思わずにはいられない。いや、私がおじいちゃんと同じことを口にしたとしても、刹那はきっと引き下がらなかった。こればかりはその人の性格と地位と能力だ。私には、真似することもできない。
「さて、すまんのう、鈴葉。わしが刹那くんに伝えておけば、誤解されるようなことも無かったじゃろう」
「ん……」
くしゃりと、頭を撫でられる。初めてあった頃からそうだが、この人は私をまるで身内であるかのように扱う。恐らく、記憶を失う前からとてもお世話になっているのだろう。それこそ、祖父と孫のように。
「学園長の責任などでは御座いません! 全てはこの桜咲刹那の責任です!」
「さて――刹那くんはこう言っとるが、どうする、鈴葉」
どうすると言われても、どうすることもない。
別に怪我をさせられたわけでもないし――怪我をしたところで私の身体は即座に完治するらしいし。
この場には悪人なんていないし、責任もない。
刹那の忠誠心が仇になっただけの話だ。では、忠誠心に責任を取らせるのかと言われれば、それは現実的な話ではない。
「……ふむ、では、こうしよう」
無言のままの私を見て何を思ったのか、おじいちゃんは顎に蓄えた長い髭を撫でながら、宣った。
「――明日から三日間だけ、刹那くんには鈴葉の従者になってもらおう。鈴葉は刹那くんを自由に扱って良いし、刹那くんは目的である木乃香の護衛が果たせなくなる。これは、罰以外の何物でもあるまいて」
――斯くして、私は三日間、この優秀なワンちゃんを飼うことになった。
刹那とフラグが立つと思いますか?
僕は思いません。