「おはようございます、妹様」
左側頭部で髪の毛を纏めた少女――刹那は、私の部屋の前で跪いていた。
時間にして、午前十時の出来事だった。
いつも通りの時間に眼を覚ました私は、身体を襲う疲労感と倦怠感に従って二度寝を決行。そのまま二時間ほどぐっすりと眠った後、流石に起きなくては生活リズムに支障を来たしてしまうと判断し、上体を擡げた。
シャワーを浴びたら、昨日一日手の付かなかった人形作り(初級者向けの簡単なもの)を再開させようと考えながら部屋を出てみれば――この、目の前に広がる光景が飛び込んできたのである。
「おは、よう。……なに、してるの?」
「起床時間を伺っていなかったので、五時から待機していた次第です」
つまり、五時間もここにいたと?
労るよりも先に畏怖を覚えた。
誰がそんなことをしてくれと頼んだのか。まさか、おじいちゃんが? いや、考えるまでもなく刹那の独断だろう。
そもそも、この地下区画は立ち入りが制限されているはずだが――まさか、掻い潜って来たのだろうか。
そういえば、過去にもシスターさんが迷い込んでいたか。あの教会には見張り番がいる訳でもないし、門番がいるわけでもない。シャークティ先生がその身一つで管理していると言っても過言ではない現状、刹那であれば、この地下への侵入など、赤子の手を捻るよりも簡単なことなのだろう。
いや――この部屋の場所を知っているということは、おじいちゃんから話を聞いたのだろう。ならば、この区画への侵入は許可済みか。
「……とりあえず、入って」
「はい」
昨日の、あたふたしていた少女はどこへやら。硬い表情で、刀のような雰囲気を纏っている。なんというか、扱いづらい。触れただけで皮膚が裂けそうだ。
とりあえず部屋に入ってもらい、テーブルの前に座らせた。一先ず、茶の一つくらいは出すべきだろうと考え、紙コップを取り出す。
「――妹様! このような毒物をお吸いになられているのですか!?」
何か慌てるような、そんな声に振り返って見ると、一本のくたびれた吸い殻が横たわる灰皿が、テーブルの中央に置かれていた。
……あの野郎。神多羅木先生め。さては昨日私がいない間に訪れて、ついでと言わんばかりに吸っていきやがったな。昨晩は帰宅してシャワーだけ浴びてすぐに寝てしまったから気付かなかった。
「私、じゃ、ない」
「……そういえば、この部屋には先生方が良く訪れるそうですね。なるほど。しかし感心できません! 妹様の部屋で喫煙なんて……!」
まぁ、そうでしょうね。
家庭訪問にやってきた教師が突然、煙草に火をつけるようなものだ。どうなってやがる倫理観。まぁ、それを許してしまっている私も悪いのだが。
しかし、今の発言からするに、やはり私のことについては多少なりとも教えてもらったのだろう。そうでなければ、この吸い殻についての誤解を釈明するための所要時間はもう少しだけ延びていたはずだ。
くわばらくわばら。
とりあえず、お茶を注いだ紙コップを刹那の前に置く。
「あ、ありがとうございます。――って、なにをしていらっしゃるのですか!」
「え……?」
「三日だけとは言えども、今、私は妹様の従者なのです! 主人が従者にお茶を用意するなど前代未聞です! 妹様、そういった雑用はどうか私にお申し付けください!」
そうは言われましても。
冷静になっていただきたい。
雑用を任せるということは、まずこの部屋にある日用品の配置などを一から説明しなくてはならないということだ。
それも、この関係の期間はたったの三日間である。その三日間のために、この部屋の収納スペースの場所や冷蔵庫の中身諸々を教えるというのは、非効率的ではないだろうか。勿論、この部屋の各所スペースについての説明なんて、一時間もかからないのだろうけれど。
なんにしても、そういうことは省かせていただきたい。説明は下手なのだ。それに――冷蔵庫の中のワインを見られたら、それこそ面倒なことになる。
なので、この部屋の中において、刹那にお世話をしてもらう必要性はない。五時間も待っていただいて申し訳ないのだが、これが事実だ。
故に、刹那にお願いできることと言えば――
「……じゃあ、刹那」
「はい! なんなりと!」
「おすわり、して、わん」
「何故ですか!?」
いや、本当、これくらいしかないんですよ。
◆ ◆ ◆
――妹様のことは学園長が全て教えてくださいました。
まずは自己紹介をしようと提案した時、私は私自身が知りうる自分の情報の無さに驚いた。今まで気にしたこともなかったし、一度記憶を失っているのだから仕方がないのだが、まさか正確な年齢すら思い出せないとは恐れ入った。
そうして困っているときに、刹那にそう言われた。自分の知らないところで自分の知ってること以上のことを他人に晒されるというのは、なんとも言えない掻痒感を覚える。物心つく前にこっそりと埋めたタイムカプセルを見知らぬ人に掘り起こされたような気分だった。
「私の名前は――既に御存知かと思いますが、桜咲刹那と申します。改めて、昨晩の失態、誠に申し訳ございませんでした。私のような若輩者に汚名返上の機会を与えてくださったこと、心より感謝致します。……斯くして、不肖ながら、妹様にお仕えさせていただくこととなりました。不束者ですが、よろしくお願いします」
刹那はテーブルの向こう側で深々と頭を下げた。土下座にも相当する深さだった。そういう光景に優越感を覚えるほど、私は器の大きな人間ではない。反射的にこちらも頭を下げそうになったが、踏み止まる。私よりも下に位置しようとする少女はそれに対抗するだろう。そうなってしまえばそれはもう本当にただの土下座だ。ここは堂々と胸を張り、それを受け止めることが最適解であると判断し、刹那の旋毛を眺めることにする。
たっぷり十秒ほどその姿勢を保ってから、頭を上げた。端正な顔に、鋭い目つきが目立つ。傍らに侍らせている長い得物も含めて、その雰囲気は武士そのもの。張り詰めた弓のような緊張感は、
「よろ、しく」
小さく頭を下げて、応える。
やりにくい。
こういう眼をした人と言葉を交わすのは初めてだった。今にして思えば、昨日のような闇討ちをする、現役の兵士なのだ。退役軍人のような雰囲気を見せる高畑先生や神多羅木先生と比べてみても、エンカウントする人物としてはとんでもないレアケース。隠すことすらしない雰囲気が、それを実感させる。
「先ずは、ごめん、ね。こんなことに、なっちゃって……」
一先ず、謝罪。
正直、かなり後悔している。昨晩は疲れていたし、もうなるようになれと、その後の事を全ておじいちゃんに丸投げして、そのまま茶々丸さんと帰途に着いた。つまり、打ち合わせすらしていなかったのだ。当然、起床時間も伝えていなかった。故に、刹那は実に五時間もの暇を持て余してしまったのだ。これは謝らなくてはならない。主人とか従者とか、それ以前に、人として。頼んでなんかいないと一言に蹴散らしてしまえばそれもそうなのだが、人の誠意と気遣いを無下にするほど腐っているつもりはない。
なにより、木乃香さんの護衛を名乗った彼女のその任務を、私とおじいちゃんの都合で中断させてしまったことは、やはり謝らせてほしかった。
いや、まぁ、処分など必要ないと言う私の意思を飲み込んでくれればこんなことにもならなかったのだが……それはそれ、これはこれ、である。
「気に病まないでください。全ては私の責任です。それに――妹様はお嬢様ととても親しい御方と存じております。妹様にお仕えさせて頂けることを光栄に思うことこそあれど、忌避感など微塵もございません。御安心ください」
その尖った雰囲気を少しだけ柔らかくさせながら、刹那はそう言った。
木乃香さんと親しいかと言われると、疑問も残る。二度、顔を合わせただけだ。確かに木乃香さんは私を“ウチのや”と豪語するくらいには気に入ってくれているのかもしれないが、それは持て余した母性の矛先が私に向いただけの話だろう。
「あの……その妹様、って、いうのは……?」
その呼び方も、少し気になった。
如何せん、私は木乃香さんの実妹と言うわけではない。あくまでも立ち位置がそれに近いというだけの話だ。
「血縁関係にないことは伺っております。戸籍上、学園長の娘として迎え入れられていることも、それ故に、お嬢様の叔母と呼んでも過言ではないことも。ですが、妹様の年齢を鑑みるに、“妹様”と呼ばせて頂けると、私としては違和感もないのですが……」
勿論、お気に障るのであれば訂正させて頂きます、と刹那は付け足した。
別に気に障る程の話でもないし、差し障りもない話なのだが――然程付き合いがあるわけでもない、言わば他人と呼んでも差し支えのない木乃香さんの妹と呼ばれるのが、少しだけむず痒かった。
まぁ、刹那がそう呼びたいのであれば、それでいいのではないだろうか。別に、敬称を外せとも言えないし、名前に“様”と付けられるよりはマシだ。
“鈴葉様”……うん、似合わない。私は極めて一般的な庶民なのだ。生活水準がどうとかじゃなくて、そういう精神性のもとで生きている。
「刹那が、そう呼びたい、なら、それでいい」
「ありがとうございます」
有難がられる言われもないのだが。
一通り、自己紹介も済ませたし、昨晩のいざこざも、私の気にしている部分についても、話は終わった。ともなれば、ここから先は、未来の話をしなくてはならない。
これが困りものだった。
はて――主従とは、どういったことをするものなのだろう?
「えっ、と――刹那?」
「はい」
刹那は真っ直ぐな眼で私を穿ちながら、私の言葉を待つ。それは、なにか、“おすわり”という命令を待つ忠犬のようで、私としては居心地が悪い。
「主人って――従者に、対して、なに、すれば、いい?」
大前提。
エヴァと茶々丸さんという例を頻繁に目にしておきながら、しかし、主従という関係はなにをどうすれば成立するのかが分からない。
まぁ、こんな話、『主従ごっこ』に興じればいいだけと考えれば複雑に考えずに済むのだが、それは刹那に対して不躾である。少なくとも、朝から五時間に渡って部屋の前で待機するという真剣そのものな姿勢を見せつけられてしまっては、中途半端には出来ない。
「言われてみれば……」
しかし、私が投げかけた疑問に対し、刹那は顎を撫でながら思案顔を浮かべた。どうにも、考えたことすらなかったらしい。
だが、それも当然なのかもしれない。
刹那は昨晩、自らのことを『従者ではなく護衛』と訂正していた。それに加えて、刹那自身が主人という立場を経験したことは、多分、ないのだろう。主人の為すべきことなど、主人経験者にしか分からない。
なにより、刹那の主人である木乃香さんは、自身の置かれた立場どころか、魔法のことすら知らないときた。つまり、木乃香さんは刹那の主人であるという自覚がないのだ。言わば、刹那の一方的な忠誠心。刹那からすれば、木乃香さんから『主人としての命令』なんてものを授かったこともないはずである。
主人像として木乃香さんを例に持ち出すことが不可能であるならば、誰を参考にすればいい?
…………エヴァは、ちょっと、私とは性格が違いすぎるしなぁ……。あの立ち振る舞いを真似するのは少し大変だ。どこぞの図書館の亡霊からは及第点を貰ったとは言えども、それは無意識的に影響された部分があったというだけの話であり、決して意識的に真似していた訳ではない。というか、真似した結果、口が悪くなるなんて――それはエヴァに対して失礼が過ぎる。殺されはしないだろうけれど、不機嫌になること間違い無しだ。それすら理解して私に及第点を与えたと言うのであれば、あの亡霊の性格の悪さは私の理解を超えた先にあると言っても過言にはなるまい。
「妹様」
と、刹那が思考の海から浮上してきた。
「やはり、主人である以上は、従者である私に雑用なりなんなりを命令することこそが相応しいのではないでしょうか?」
それは盲点でもなければ、意外性も皆無な解答だったが、故に、最も正解に近い帰結だったと言えるだろう。執事や家政婦――主人という名の雇用主が存在するそれらの役職は、どこまで言っても主人の命令に従事する存在である。主従関係とは、概念的に捉えれば、お世話する者とお世話される者の関係だ。これは、やはりどう間違えようとも見失うことも出来ない明白な事実であった。
では、そのように――と、言うことができれば、どれほど楽なことか。
「私、お世話される、ような……そういう、こと、しないし」
家事なんて、既に人任せ。
調理も洗濯も、言わずとも誰かがやってくれている。入浴はシャワーで済ませるから前準備も必要ない。歯磨きを他人の手に任せるなんて、想像もしたくない。
命令すべき雑用が見当たらない。見当たらなくては、手もつけられない。
「ふむ……」
再び、刹那は思考の海へと沈んでいった。
刹那の解答を容易く一蹴しておきながら言えたことではないが、やはりこの問題はとても深刻な話だ。私という人間が主人の立場に置かれる以上、それはやはり『主従ごっこ』の域を出ない。先述したとおり、それはあまりにも酷な話だ。真剣で真面目な刹那という少女を弄んでいるようで――心が痛む。
最善手が無いわけではない。
三日間の契約そのものを破棄すればいい。
刹那は普段通り、木乃香さんの護衛へと戻れるし、私も無い頭を悩ませる必要性が無くなる。
しかし、難儀な話で、それをすると眼の前の少女は甚く悲しむのではないか――なんて、そんな自惚れた憶測をしてしまう。
いや、自惚れでも何でもなく、やはり、それは刹那になにかしらの感情と課題を抱かせてしまう。
無能の烙印と受け取るか。
無力の証明と受け取るか。
なんにしても、どんなにオブラートに包んだ言い方をしようとも、それがネガティブな言葉であることに変わりはない。
「妹様。妹様は、今、なにか人にされたいことは無いのですか?」
されたいこと……?
「思い、浮かばない、かな。家事も、洗濯も、自分でやってるわけじゃ、ないし……」
答えるまでもなく、というよりは、つい先程のやりとりが答えである。お世話されるようなことは、既に間に合っている。
「ああ、いえ、“してほしいこと”ではなく、“されたいこと”です」
……言いたいことは、なんとなく分かる。
してほしいこととは即ち、自分が主体となり、相手がそれに従うことで成立する要求。“されたい”とは、自分主体ではなく、相手の行動に自分の利害が一致した場合の都合の良い解釈――相手を主体に据え置いた希望的観測。
この二つは、確かに、よくよく考えてみれば似ているようで相対的な言葉だ。
「家事等の事務的なことが既に間に合っているのならば、それ以外の雑用――いえ、雑用というよりは、お願いのようなものです。なにかありませんか?」
必要性の有無ではなく、私自身の些細な願望要望。
されたいこと――無いわけではない。しかし、それを昨日の今日出会ったばかりの刹那に依頼するのは、やはり気が引ける。
と、先程の刹那を倣うように顎を撫でながら思考に耽っていると、なにやら唸り声のようなものが部屋に響いた。
「…………」
刹那を見れば、お腹を隠すように片手で抑えながら、頬を赤く染めて、私から目線を逸している。
思えば、当然の生理的欲求である。五時間前には私の部屋の前に待機していた訳で、朝食を摂ったのは恐らく六時間程前の話。ならば、その空腹というバッドステータスは、なにも不自然なものではなく、むしろ自然的な――当たり前のものである。
「ご飯、食べに、行こっか」
「い、いえ! お気になさらず! 過去には絶食の経験もありますので!」
どんな経験だよ。
正直、後悔している。
刹那が思った以上に扱いづらい。
でも、物語には絡ませたい。
結果、難産。南無。