「ほう、コイツが、鈴葉の従者にな。……いや、なにがどうしたらそうなる?」
エヴァは、眉間に皺を寄せながら小首を傾げた。
話は少しだけ遡る。
随分と長い時間をかけて散歩をして、それから無事に帰宅。時計を見れば、短針は四という数字を指していた。
約四時間も歩き回っていたのかという驚きと、刹那のことを気遣うならばもっと早くに帰るべきだったという反省と。
刹那は部屋に戻っても座ることはなく、扉の前で静かに立ち尽くしていた。それは立ち尽くすというよりは、まさに護衛らしく、部屋へ侵入しようとする不逞の輩を阻止すべく金剛力士像が如く立ち塞がっていると形容すべきなのかもしれないけれど、この部屋が危険などとは程遠い場所であることを知っている私からすれば、それはやはり立ち尽くしているのだなと思わざるを得ない。
座ってもいい、と許可を出したところで、刹那はそれをやんわりと拒絶する。
なるほど、
――そんな刹那の様子を眺めるだけの時間を過ごすわけにもいかず、私はこれから何をしようかと悩んだ。予定らしい予定はなかったし、別になにかをしていなくてはならないという訳ではないのだけれど、人に見られていると思うとなにかをしたくなる。
しかし、作業風景を他人に見られるのは、好きじゃない。
特に、人形作りに関しては、まだまだ不出来なものを量産するだけの素人でしかない。もとより手先が不器用なようで、片腕だけ長くなったり、左足が右足になったり、まるで怪談に登場する恐怖の人形である。
それでも、自分で作ったものとは愛着が湧くもので、そんな不出来で奇々怪々な人形たちを捨てたりせずタンスの中に陳列してしまうというのは、良いことなのか悪いことなのか。
なんにしても、そういったものを見られるということに羞恥心がないわけではない。素人だから仕方ないとか、これから上手になるとか、そういう子供騙しの激励など不要だ。私はどちらかと言うと人知れず努力するタイプなのだ。いつの間にか影も薄くなり消えかかっていたライバルキャラが、主人公のピンチに現れるとなんか知らないけれど凄く強化されていたりする――ああいうタイプなのだ。
なので、まぁどうせやることも無いし、私はテーブルに教材を広げて来週の分の課題に手を出した。
それから二時間程。
集中力を切らした私は、相変わらず扉の前から動かない刹那に一つだけ質問をした。
「“されたいこと”、一つだけ、あるんだけど、いい?」
それは、やはり出会ってから一日しか経っていない人間に頼むようなことではないのだけれど、しかし、強いて、無理強いに、無理矢理にこじつけるように挙げるならば――それは確かに“されたいこと”の一つだった。
刹那はまるでおやつを差し出された子犬のように瞳を輝かせ、
「はい、なんなりと!」
と、二つ返事でそれを了承した。
小物入れの中から取り出したのは、一本の棒。ずっと昔に『日用品』という名目でプレゼントされた、一級品。それを如何程のものかと訊いてみれば、“最高級の心地良さ”とプレゼンされた、紛うこと無き本物。
乳白色のふわふわとした梵天がチャームポイントの――耳かき棒。
「これ、やって」
「耳かき……ですか?」
「ん」
これでも、こまめに部屋の掃除をしたり、シャワーに執着心を抱く程度には、綺麗好きな私である。耳垢が溜まるのはどうにも我慢ならなくて、ほぼ毎日のように耳かきをしてきた。しかし――どうにも、極上の心地良さというものがいまいち感じられない。
これを持ってきてくれた瀬流彦先生の話を疑うつもりはない。パッケージは確かに量産品とは違った雰囲気を醸し出していた。
では、この耳かき棒が偽物ではないとするならば――私が下手くそであるという話に落ち着くのは、自然的な着地点ではないだろうか。
とは言うものの、誰かの手に私の耳を任せることはやはり不安と恐怖でしかなく、今の今まで、私の頭を悩ませる一つの命題だった。
「だめ?」
渡された耳かき棒を見つめて固まる刹那にそう問いかける。
事実、無理強いをするつもりはない。
「いいえ――是非、私に任せてください!」
いや、そんな、意気込まれても仕方ないのだが。
それから、刹那はベッドに腰掛けて、私は横になってその太腿に頭を預けた。
いわゆる膝枕と呼ばれる行為だが――なんか、これだけでもういろいろと満足だった。
「それでは、失礼します」
頬にかかる私の長い髪の毛が、遠慮がちでくすぐるような手つきをした刹那の指によって、耳の裏へと避難させられる。
ひんやりとした空気が耳を打ち据えた。耳を露出することは決して少なくもないが、それはつい最近、あのヘアアレンジセットを貰ってからの話である。慣れているか慣れていないかで言えば、断然、後者だった。
静かに聞こえる刹那の呼吸音からは、ちょっとした緊張が感じ取れる。
それも束の間、私の耳の穴に、慣れ親しんだはずの木製の棒が侵入した。
「んっ……」
と、息が抜けるような声が漏れた。
やばい。
なんだろう、この――これは。
凄い新鮮だ。
自分の意思とは違う――自分の思い通りに動かない、その木の棒が、私の耳の中の外壁を、優しくなぞる。
自分でやるのと、他者にやられるのと――その違いは、明確だった。
「んん……んー……!」
足の爪先まで力が入る。
こそばゆい。こそばゆいのだが――それが、とても心地良い。
夢心地というか、新天地というか。敏感な耳の中の皮膚が、その快感を増幅させて、全身に巡らせた。
「す、すみません。痛いですか……?」
漏れた声と、身動ぎした私の反応に、刹那が不安そうな声を上げる。当然、耳の穴から耳かき棒が引き抜かれてしまい、お預けを食らう。
「ちがう……。でも、ちょっと、慣れない……」
「……優しくしますから、あまり動かないでくださいね。危ないですから」
「ん……」
その言葉通り、更に慎重になったその手つきは、しかし逆効果だった。こそばゆさにより一層、拍車がかかる。
他者に触れられたことのない神経が、その激しくないはずの刺激を、脳に激しく伝達していく。
「妹様は、こんなところも小さいのですね……。少しだけ動かしますよ」
耳の話なのか、或いは耳の穴の話なのか。
というか、“も”とはなんだ。“も”とは。
身体が小さいとでも言いたいのだろうか。いや、それは認めざるを得ない現実なので異論を唱えることはできないのだけれど。
そんな私のちょっとした不満を知ってか知らずか、刹那は私の頭の位置を調整する。やはり耳の穴が小さいと、角度によっては見えづらくなるものなのだろう。
「どうですか、気持ちいいですか?」
耳の奥まで見える角度を見つけたのか、刹那は再び耳の中に耳かき棒を入れる。ごそごそと、鼓膜のすぐ側で聞こえてくる音に、腰が震えた。
「ん……、良い……」
刹那は、耳かきの才能があるようで――私の耳の中にある気持ちのいいポイントを的確に突いてくる。
これでは、耳かき棒が優秀なのか、刹那が優秀なのか、判然としない。まぁどちらにしたところで、私の不器用な手指ではこのような体感を得られることはないだろう。或いは、耳かきとは、元より自分でやるものではないのかもしれない。そもそも自分で耳の穴の中を見ることなど不可能なわけで、そんな状態で耳垢を取り切れるとも限らないのだから。
「妹様、もしかして、短期間の内にいじり過ぎたりしていませんか?」
「ん、んー……? ん、ほぼ毎日、してる」
「やり過ぎは良くありません。ほら、こことか、少し赤く腫れていますよ」
ほら、と言われても、私にはそれは見えないのだが。
しかし腫れているとなると確かに刹那の忠告は受け流すわけにはいかない。
どうせ出血しようがなんだろうが、私の身体はすぐにその傷を塞ぐ――らしい。しかし、中耳炎のような病気がすぐに治るのかは、分からない。あの煙草とハウスダスト塗れの研究者に話を聞けば、もしかしたら解答を得られるのかもしれないが、やはり、あの人ともう一度あの場所で話をするのは気が引けた。
「でも、自分でするのも、好きだから……」
「だめです。せめて一週間に一度とか――とにかく頻度を抑えた方がいいかと」
むぅ。
まぁ、仕方ない。言われたとおりにするのが吉だろう。
「良ければ、これからも私にお任せくださ――」
刹那の言葉は、そこで遮られた。
「貴様等、一体なにをしている!?」
「ひっ!?」
「んなぁ!?」
エヴァの怒声と、扉を蹴破る音は刹那を驚愕させるには十分な音量だったようで――それと同時に狂った手元が私の鼓膜が突き破ってしまったのは、まぁ、仕方のないことだったのかもしれない。
産まれてこのかた、出したこともない声が出た。
◆ ◆ ◆
「なんだ、耳掃除か、そうか……。全く、ややこしい会話をしおってからに……」
一体いつから私と刹那の会話を聞いていたのかも、なにがどうややこしい会話だったのかも分からないが、兎に角、状況を飲み込んだエヴァは溜息を溢しながら丸テーブルの上で肘をついた。
それから、何故私の部屋に刹那がいるのかと訊かれ、そのまま“従者になったから”と返したら、冒頭に記述したように、エヴァは困惑した表情を見せたのだった。
「なにがどうしたらそうなる?」
というセリフと一緒に。
ちなみに、そんな私の従者であるところの刹那は、私の横で土下座をしている。
刹那が悪いわけではないから、そんな必死に謝られても困るのだが――そうしてしまう気持ちは分からなくもない。
私だって他人の鼓膜を破ったら土下座する。むしろ自分の鼓膜を破って「これでチャラにしてくれ」と懇願するかもしれない。
しかし、このままでは、刹那は一生その体勢を維持したまま私の横に居座り続けかねない。私が起きてこないからと言って五時間も部屋の外で待機し続けるような人間なのだ。きっと、きちんとした理由さえあれば、一生を土下座と謝罪に捧げることだって厭わないのだろう。是非とも、その貴重な一生をもっと有意義に生きて頂きたい。
耳かき棒に付着した血をティッシュで拭いながら、私はその視線をエヴァに移した。
「なにが、どうしたら、と、言われても。複雑、怪奇。難透、難解。説明、しづらい……」
エヴァは相変わらずむすっとした顔をしている。どうにも、なにかが気に食わないらしい。普段から気を食っているのかと言われるとそういう訳ではないだろうけれど。どちらかと言うと、私の認識では食われる側に立つエヴァである。食べさせてくれる側、とも言う。
「別に、構わんがな。どうせジジイが一枚噛んでいるんだろ? なら、奴に話を聞けばいいだけの話だ」
言ってしまえば、伏線も兆候も皆無なこの状況を、ひと目見ただけでおじいちゃんも絡んでいると言う正解を導くあたり、流石は幾百年という時を生きる吸血鬼である。いや、そういう妙なことには例外なくおじいちゃんが絡んでいると言う、ただの偏見かもしれないが。
「しかし、お前が従者なんて引き連れても持て余すだけだろうに」
それは、そう。
「だから、耳掃除、してもらってた」
「そうはならんだろ」
それは、そう――なのだろうか?
いや、明確な主従関係を持つエヴァが言うのだから、そうなのだろう。
茶々丸さんに耳掃除をしてもらっているエヴァの姿は、なんとなく想像できなくもないが、それはその外見が故の話だろう。
いや、決して、見た目が子供だからとか、言うつもりはないけれど。本当に。
「お前たちの言う主従というものがなんなのかは知らんが、少なくとも、魔法使いに於ける主従とは違うのだろう? いいところ、ハウスキーパーと家主のようなものか」
その通り。
魔法使いに於ける主従関係なんて、私には必要ない。
私は魔法使いではないのだから。況してや、刹那のような武闘派の従者を得る必要は、端からありはしない。
「そういうものにはな、きちんとした契約が必要なんだよ。家主が求めるものと、使用人に求められるもの。それがはっきりとしない内に契約を成立させるなんて、愚の骨頂だ」
むぅ。
「明確な必要性と、必然的な目的。それが無くては、主従関係は立ち行かん。――まさか、耳かきしてほしくてその契約にサインしたわけでもないだろうに」
茶々丸さんの主人としてその地位を確立しているエヴァの言葉は、決して軽いものではない。むしろ、現実的な話だ。
刹那が私に仕える理由は“罰”であり、そこに目的はない。あくまでも、“罰”という目的のための手段である。故に、刹那が私の従者になったという事実さえあれば、成立してしまう。成立してしまうからこそ――そこに中身が伴わない。
そりゃ、何をしてもらえばいいのか、分からないのも当然だ。
如何せん、前もって“してほしいこと”があってこその契約である。
契約した後に“してほしいこと”を探すなんて、本末転倒もいいところだった。
なるほど。本格的に茶々丸を従えているエヴァから見れば、今の私と刹那の関係は児戯にも等しく、滑稽なものなのだろう。
これでは、おままごとの延長線でしかない。
うーん。それを認識してしまうと、尚更、刹那に対して申し訳ないと思う気持ちが積もっていく。三日間、木乃香さんを放ったらかしにして私の児戯に付き合え、と言っているようなものなのだから。
「それに、耳かきくらい、別に従者に頼むようなことではないだろう。なぜ私を頼らないのだ」
睨みつけるように、エヴァは私を見る。
そりゃ、エヴァに耳かきなんかされたら、きっと私の人生の満足度は天井を叩くに違いない。エヴァの魔力と太腿とその柔らかな金髪で私の矮躯を包みながら、その迷走神経を刺激しようものなら、間違いなく私の人生は完成してしまう。
だがしかし、耳かきを依頼する仲とは、なんぞや?
親が子にそういうことをするのは、分かる。
恋人同士が戯れるようにそういうことをするのも、分かる。
では、私とエヴァの相関図とは。
少なくとも私はエヴァのお腹から産まれたわけではないし、告白をした覚えも、された覚えもない。
つまり、現実的な私とエヴァの関係は、友人に留まる。
友達に耳かきをお願いするのは……ね?
「それは、ハードルが、高い……」
刹那にお願いできたのだって、それが形骸的なものであったとしても、“主従関係”という名目があったからこそである。
漠然とした、“従者は主の言うことを聞くもの”というイメージがあったからこそ、なのである。
「私は、お前に信用されていると思っていたのだがな」
しかしそんな私の言い分など知ったことではないと言いたげに――エヴァは腕を組んで、そっぽを向いた。
なんか、怒ってるというか、拗ねてる?
他人の耳掃除を趣味や生業にしている人間というのは――もしかしたら一定数いるのかもしれないけれど、それでも極少数だろう。少なくとも、そういう話は聞いたことがない。いや、他人様の趣味なんて、そもそも、あまり聞くこともないとは思うのだけれど。
エヴァの趣味を完全に把握しているなんて思い上がっている訳ではない。
ただ、エヴァが耳かきを趣味にしているという話は聞いたことがなかった。
信用以前に、信頼以前に、知らない話を参考にすることはできないのだ。
「信じ、てるよ?」
――ただ、ここは、まず、私のエヴァに対する信用云々よりも、エヴァの私に対する信用を取り戻すべきだろう。
『信用しているということを信用してくれ』とは、言葉にすると少し滑稽なものだが。
「…………」
エヴァは困ったような顔で、私を見つめた。
なにかおかしなことを言っただろうか?
信用されていると思っていた――つまり、思ったよりも信用されていなかったのか、というエヴァの勘違いを正した結果になったのだが。
エヴァは、一つ、咳払いをしてから切り出す。
「ま、まぁ、別にいいのだがな。つまり何が言いたいのかと言えば、耳かきくらいならば私もやってやる、と。そう言いたいわけだ」
何かを、或いは何かに言い訳するかのような言い方だったが――分かってもらえたのならば十全だ。
しかしエヴァに耳かきを要求するというのは、それにしたってハードルの高い話だった。ハードルというか、最早それは壁だ。屹立する壁。刹那に対してお願いするのと、エヴァに対してお願いするのとでは、その難易度が桁違いである。
それは、自分の耳を任せる事に対する不安ではなくて、耳の細部を見られることに対する羞恥心。あまり人に見られるものではないから――というよりも、耳垢という自分の身体の汚いところをお世話してもらうことが、恥ずかしい。
どうにも、私の耳の中は赤く腫れているらしいし。
エヴァに耳かきをされるならば、まずはそれを治してから、耳垢どころか耳毛すらもない綺麗な状態で挑みたい。
本末転倒な話だが。
「さて――それはそれとして、桜咲刹那。貴様、いつまで惨めったらしく頭を垂れているつもりだ」
今の今まで、その土下座という姿勢を一切崩すことなく維持し続けた刹那に送られた言葉は、賞賛ではなく叱責だった。
いや、元はと言えばエヴァの強引な乱入が招いた事故が原因なのだが――私は私の鼓膜の紛失に対する責任の所在を追求するつもりはない。
そういう意味では、エヴァの言葉には大方同意見である。
鼓膜はとっくに再生しているし、痛みも引いたし。
土下座されているというこの状況は、むしろ居心地が悪い。
「し、しかし」
「しかしも駄菓子もあるか。主である鈴葉が許すと言っているのだから、それを甘受するのは従者の特権だろう」
「いいえ――それでは私の気が収まりません!」
刹那って、実はマゾなのだろうか。
なんて言ったら、それこそ不躾なのかもしれない。
でも、こう考えてしまう私の気持ちもどうか察して欲しい。
昨晩の一件と言い今回のこれと言い、自ら罰を受けたがるその姿勢を尊ぶことは難しい。
「刹那、本当に大丈夫、だよ? もう、治った、から」
「治れば良いというものではないのです! たとえ、たとえ私の手元を狂わせた理由が、エヴァンジェリンさんの唐突な乱入と大声であったとしても、妹様の鼓膜を穿ち貫いたのは私なのです!」
「…………」
刹那は、その全てが自分の責任であると言いたいのだろう。
図らずしてエヴァに罪悪感を植え付けるような言い回しになっているのは、多分、故意ではない。むしろエヴァの責任さえも背負おうとしているのかもしれない。
ただ、額を床に擦り付ける刹那には、ばつが悪そうに目線を逸らしているエヴァの姿は見えないのだった。
それにしても、なんだか既視感を覚える光景である。まさか人が土下座している姿を連日目にするとは思わなかった。
「エヴァ。どう、しよ……?」
とりあえず、投げてみた。
茶々丸さんとは立場が違う――正しく、主人という地位に鎮座する大魔法使いであるエヴァならば、こういった場合の対処法を知っているかもしれない。
「知るか。言うことを聞かない従者など縊ってやればいいんだ」
「ええ……」
事も無げに言う。
主従ともなれば考え方も已己巳己ということなのだろうか。結論に至るまでの過程こそ違えど似通った終着点を迎えるのだから、なんとも興味深い話だ。
勿論、私は刹那を縊り殺すつもりはない。刹那もまた、縊り殺されようとしている訳ではないだろう。
……満足するまで土下座させておけば、意外とそのうち勝手に立ち直るのでは?
いや、それは楽観視が過ぎるか。この土下座モードの刹那はやけに頑固である。それは昨晩のファーストコンタクトで証明済みだ。てこでも動かない――と言うよりは、てこがなくては動かない。
「そもそも」
と、エヴァが言った。
「従者とは主に従う者のことを指す。読んで字のごとくだ。桜咲刹那――貴様が何をどのように勘違いをしているのかは興味もないが、その醜態を晒す意義など、今この現状においては無価値であると知れ」
無価値――無意味。
それは、こうして言葉として発するにはあまりにも冷たいものだったが、その一方で、無慈悲なまでの正論でもあった。如何せん、私はその土下座に意味を見出していない。刹那の独り善がり。自己満足である。
いや、本当、冷たい言葉だが。
「妹様……」
そんな言葉に恐怖すら覚えたのか、いよいよ刹那は顔を上げた。懇願するような――或いは救済を求める子羊が如く顔だった。
忘れそうになるが、彼女はただの中学生。年端もいかない少女である。怒られれば、そりゃ、そんな顔にもなるのだろう。
昼間の引き締まった様子こそ、年齢不相応というものだ。
このような顔で見られてしまうと、私はとても弱い。困っている人を助けたいと思えるほど善人ではないが、無視するほどの悪人でもない。
血の色が多少こびり付いてしまった耳かき棒をテーブルの上に置いて、私は刹那の小さな頭を優しく梳くように撫でた。
「妹様……?」
「今は、私が主。だから、私の言うこと、聞いてほしい」
刹那を助ける――つまり、罰を与えるということは、何度でも言わせてもらうが、私にはできない。折り合いを付けようにも、刹那が受け入れてくれる妥協点を見出すことも困難。ならば、私の意思を刹那に呑ませる他になかった。
「…………」
不承不承といった様子で土下座モードを解除。正座を保ちながらも目を伏せる姿は、本当、叱られた直後の子犬が如くである。刹那の頭に犬のような耳が着いていたならば、それは力なく萎びて垂れ下がっていることだろう。
――何故、これ程までに罰を欲して、罰を受けられぬ事に対して気を落とすのか。
いや、そうではないのかもしれない。
刹那にとっての『主』というイメージ――理想像。
それと、私という人格が、決定的に不適合なのだろう。
私は、良くも悪くも中庸的で、あまり物事に白黒つけるタイプではない。誰かの都合が悪くなるならば、それを回避して、逃避する。
それに対して、刹那はその逆で、物事をはっきりとさせている。それは、昨晩の襲撃からも見て取れる。黒ならば黒、白ならば白。そして、その判断に忠実に従う。故に、それを『主』という
刹那という抜き身の刃を収めるには、少し緩すぎる――そんな鞘こそが、私というわけだ。
分かりやすく言えば、自分にとっての常識が通用しない相手と対話をしていることに相違ない。それは、図らずとも、お互いを否定し合っているのと、なんら変わらないことなのかもしれない。
「妹様は、優しすぎます……」
ふと、刹那がそう呟いた。
それは、もしかしたら苦情だったのかもしれない。
従者のくせに生意気な――とは思わないが、ちょっとした意趣返しにその頭を撫で回してやった。
それから、刹那は部屋を後にした。
学園長からの呼び出しもあり、今日は早めの解散というわけだ。
刹那曰く、明日は私が寝るまで付き添うつもりらしいが、彼女にはプライベートという概念が無いのだろうか。私にはプライベートという概念が存在しているので、是非とも具体的な解散時間を定めたいところだったりする。
こういう部分も、きちんと話し合った上で主従関係を結ぶべきだったのだろう。先程のエヴァの苦言が耳に刺さる。
「全く――面倒事に巻き込まれる体質だけはいつまで経っても変わらんな、お前は」
ベッドの上に腰を下ろしたエヴァは、私を見下ろしながらそう言った。
面倒事に巻き込まれているという自覚はあまり無いのだが、それは記憶を失う前の私との比較なのだろうか。回避や逃避こそがアイデンティティであると自負する私にとって、それは死刑宣告のようなものなのだが。
「面倒、なんて、思ってないよ?」
「だから面倒事に好き好まれるのだ」
さいですか。
まぁしかし、こればかりは主観の問題である。私という一個人が、エヴァが言うところの面倒事を、面倒ではないと認識している以上は、その面倒事は面倒事たり得ないのだ。
「面倒なことは嫌いなくせに、それを許容する――。あれだ、ダメ男に惹かれる女みたいなものだな」
「むぅ……」
「或いは嫌よ嫌よも好きの内ということか」
「そんな、曖昧な、線引きは、してない……はず」
「ふん、どうだかな」
やはりと言うべきか、どうにも、今日のエヴァは虫の居所が悪いらしい。触らぬ神に祟りなしとは言うものの、まぁ、触るくらいなら許されるだろう。いかんせん、エヴァは神ではなく吸血鬼だ。
ベッドに座るエヴァの足に体重を預けるように擦り寄る。
邪魔だ――と、文字通り一蹴されるかと思ったが、そんな私の行動に、エヴァは困惑しているようで、視線を寄越すだけだった。
悪い癖です。
自分の思ったストーリーに沿わせようとすると、なんだか途中から筆が乗らなくなる。
オリジナルの小説が書けない能力不足の最たるものですな。