母を知らない私が、母性という、過去に抱くからこそ懐古することのできる感覚を誰かに想起することは、きっと間違っているに違いない。しかし、近衛木乃香という一人の女子中学生が私に寄せるその感情を、他にどのように言い表せばいいのだろうか。一体、どのように言い換えればいいのだろうか。
刹那には“懐かしい”と形容して見せたが、それが正しい言葉として収まっているのかを問い質されれば、私は否と答える。
先述したとおり、懐かしむような記憶はない。
加えて、私が記憶している――記録を再開したこの数年間に、彼女のような女性は存在したことがない。
人が本能的に求める感情――それが遺伝子に刻まれているとでも言うのだろうか。或いは、魂に。核に。克明に、鮮明に、鮮烈に、須らく刻み込まれているとでも宣うのだろうか。
科学的に見れば魂という概念は有無を証明することのできない不確定事項だが、魔法的観点で見るならば、魂という概念は確定的に存在するとされている。
魂に刻まれた記憶が私の奥底に存在しているとするならば、きっと、こんな話は悩む必要性すら無いのだろうけれど。
「……――鈴葉、ちょっとだけ痛いわぁ。そない強ぅ握らんでも、ウチは逃げへんよ?」
妙な胸騒ぎを覚えて――それから、そんなことを木乃香さんに言われて、思わず肩が跳ねた。いつの間にか強く握っていた手を緩めて、彼女の顔を見上げる。注意するような言葉とは裏腹に、慈愛に満ちた柔らかい表情を浮かべていた。
「んー……もしかして寒いん?」
悴んだ指先の感覚を失っているのではないかと勘繰ったのだろう。言いながら、彼女は私の頬に優しく触れた。むしろ木乃香さんの手が冷たくて驚く。少しでも暖めてあげようと、その薄い手に頬擦りをすると、彼女は少しだけくすぐったそうに笑った。
「この前も思たけど、あかんえ? こないなさぶい日にそないな格好しとったら、風邪ひいてまう」
さぶいぼ製造マシーンこと図書館の亡霊の呪い――という名の加護付きパーカーに、丈の短い黒のワンピースという、季節違いな格好をしていることを指摘された。むしろ、指摘されて然るべきものなのだろう。着ていく服を悩むのが億劫とは言えども、やはり外見だけに注目されれば、こんな服装は違和感でしかない。しかし、今日も今日とて加護は絶好調のようで、微塵たりとも寒冷な空気を感じさせない。
とは言えども、これをどのようにして伝えれば良いのか。魔法という単語を私が口にしたところで彼女はそれを真に受けたりはしないだろうけれど、刹那の努力を無に帰すような事は憚られる。
「ん。でも、大丈夫」
だから、こんな言葉でしか誤魔化せない。
「……ほんなら、せめてこれだけでも着とき?」
当然ながら、そんな言葉では誤魔化されない木乃香さん。繋いでいた手を離して自分の首に巻いていたマフラーを脱ぐと、私の前に立ち、それを私の首へと宛てがったかと思えば、慣れた手つきで巻き始めた。
木乃香さんの体温と匂いが残っていて、ちょっとだけ特別感。
「どーや? 苦しかったりせえへん?」
「ん……。あり、がと。……暖かい」
頷き、返礼すると、女神のような――それでいて無邪気な笑顔を返された。なんだか、母性がどうとか懐かしさがどうとかと悩んでいた自分が馬鹿らしくなる。こんな慈愛――母性と言わずしてなんと言う。
「そやけど、あれやな。足とかまだ寒そうやな。後でアスナのマフラー借りて足にも巻き付けよか?」
いや。
私はミノムシか。
ちょっとした抗議の目を向ければ、木乃香さんはくすくすと笑った。
「冗談や」
それだけ言うと、再び私の手を握り、歩き出す。
ちなみにアスナさんとは下駄箱で別れた。木乃香さん曰く、朝礼の時間に間に合わなかったら先生に理由を伝えてほしい、と。二人で遅刻するというリスクを回避した形だ。本当にしっかりした人だと思う。それでいてこの包容力と、可愛らしい意地悪を口にするその姿は、同性の私からしても魅力的に見える。この人、なんで結婚してないの?
――まぁ、それはともかくとして。
こうして女子中等部校舎の廊下を歩くのは二度目なのだけれど、前回と違う点があるとすれば、それは今日という日が祝日でもなければ長期休暇でもなく、教育機関として正常に動いている状態にあるということが挙げられる。
部活の朝練を終えたのだろう生徒たちの群れとすれ違うのは、はて、これで何度目だろうか。その度に、どこか奇異な視線を隠すことなく向けられるのだから落ち着かない。幸いにも、隣を歩いてくれる木乃香さんと私は、早乙女さんからお墨付きを頂く程度には似ているらしいので――あくまでも髪型やらなんやらが似ているだけだと思うのだけれど――他人からすれば、姉の通う学校を見学しに来た小学生にしか見えないはずだ。
そうと分かっていても、見ず知らずの他人から不躾な視線を集めるのは居心地が悪い。
「鈴葉――」
呼ばれて、また知らないうちに手を強く握ってしまったのかと思って木乃香さんの顔を見上げる。
その目は、私を見ていなかった。なにかを思い出そうとしているかのように瞼を落として、なにかを懐かしむように口元を緩めている。そんな様子が、なんだか妙に印象的で、私は彼女の顔を眺めることしかできなかった。
「――ウチな、昔にもこうやって誰かと歩いてた気がするんよ」
「……誰か、と」
「そーや。こうやってマフラーを巻いてあげて、こうやって手を繋いであげてな――そやけど、それが誰だったのか、全然思い出せへん」
昔のことやからかなぁ、と、苦笑いをする。
なるほど、思い出せないほど昔のこととは言えども、経験があるならば、私にマフラーを巻いたときの慣れた手つきも納得できる。
この母性に近いお姉ちゃんのような雰囲気は、そういった経験に育てられたのだろう。
お姉ちゃん、か。
もしも私にお姉ちゃんと呼べる存在がいたとしたら――家族がいたとしたら、きっと、こんな感覚なのだろう。
そういう身内の愛情とは、求めるまでもなく庇護されて、求められるまでもなく側にいて――それが当たり前の世界として、生まれるよりも先に構築されているものだ。
いや、知らないけど。ただの憶測だけれど。
ある意味ではエヴァがそれに近いポジションにいるのだが、如何せん、あの人は母性とか庇護欲とかとは少々無縁な位置にいる。お姉ちゃんと言うよりは、それこそ親友のような感覚だろう。
……お願いしたら、木乃香さんは私の姉になってくれるのだろうか。
そんなことを考えてみると、なんだか、体の奥が痒くなった。手の届かない場所を誰かにくすぐられているようで、とても居心地が悪い。多分だけれど、罪悪感のようなものなのだろう。如何せん、それは木乃香さんの言う“誰か”の居場所を奪うような行為だ。既に忘却された空席とは言えども、それは、きっと許されるものではない。
「せやけど、鈴葉のこと見ると、ちょいちょい思い出すんや。なんでやろなぁ」
……なんでやろなぁ。
なんて、言われましても。
木乃香さんも自覚しているように、思い出すということは、結局のところ、今と類似した状況を経験したことがあるという――いわゆる既視感のようなものに他ならない。私に対する扱いがそうであるように、きっと、過去に妹のような存在がいたのではないか。実妹のことを忘れる人なんていないだろうから、きっと、それこそ親戚に私のような人がいたとか、近所の子供から慕われていた記憶とか、そういう話に違いない。
ただ、そういう憶測を円滑に伝えるだけの語彙力も伝達力も無いので、私は木乃香さんを眺めながら小首を傾げるに留めた。
「こないなこと言われても困るだけやんな、すまんすまん」
そんな私の様子を見て何を思ったのか、彼女は苦笑しながらそう言った。
困るか困らないかで言えば、別に困るほどのことではないのだけれど。でも、なにかしらの答えを期待されるのは確かに困る。自分自身の記憶すらない私が、どうして他人の記憶を読み解けようか。
いや、木乃香さんがその答えを求めてその話を切り出したとは考えにくい。私が木乃香さんの人格や性格をある程度のレベルで認識しているように、木乃香さんもまた私の人格や性格を理解しているはずである。過ごした時間も、交わした会話も高が知れているが――少なくとも、私が外見不相応に、とある現象に対して追求し、言及するような人間ではないという結論に帰結することは、最早自然の摂理と言っても過言ではない。口数も少ないし、傍から見るとマイペースに見えるらしいし。
要するに、こんなものはただの雑談と相違ない。
もしもそうでないとするならば――いいや、戯言か。
兎にも角にも、このまま無言で首を傾げ続けるのは、まるで無視を決め込んでいるようで少しだけ居心地が悪かった。
「……分から、ない」
故に、こうして素直な胸中を吐き出してみることにした。
先述したとおり、木乃香さんの問いかけは困るほどのものではなかった。ただ、少しだけ、胸騒ぎを覚える。意味もなく、胸中が騒いでいる。空騒ぎ。こういう感覚は何度か経験している。ただ、慣れない。きっと、これから先、幾度となくそれに襲われたとしても、慣れることはないのだろう。
もしかしたら、こういうものを女の勘と呼ぶのかもしれない。
そんな不定形な感覚を正しく形容することが、少しだけ難しかった。
「ただ、羨ま、しい」
「羨ましい?」
「ん……」
いつの間にか足元に落ちていた視界に、彼女の顔は映らない。ただ、その声色から察するに、とても不思議そうな目線を向けているに違いなかった。
「その誰かは、多分、幸せだった……と、思う。木乃香さんと、一緒にいると、暖かい、から。だから、羨ましい」
もう少し素直になってみればいい――と、あの自称火星人は言っていたか。
しかし、私の口から零れた言葉は、存外に卑しいものだった。
羨ましい――幸せを妬むような、忌むような言葉。
勿論、自分自身を清廉潔白な人間であると思ったことなど、一度たりともありはしない。自覚はあっても自重はしない――そういう自分の性格は、理解しているつもりである。でも、それにしたって、他人の幸せを自分のものにしたいなんて――やっぱりそれは、せめて自分の胸中にしまっておくべきものだった。
後悔したところで、もう遅いのだが。
「ほんなら、今の鈴葉も幸せやんなぁ」
……ん?
「ウチに世話されるんが幸せやっちゅうんなら、そーゆうことやろ? なんや、えらい褒められてるみたいで照れるわぁ」
「…………ん。木乃香さんは、すごい」
いろんな意味で。
「あん、そない褒めんといてえなぁ、恥ずいわぁ」
困ったように頬に手を当てながら、その頬を赤らめながら、しかし満更でもなさそうに笑う木乃香さん。
彼女が意識してそう言ったのか、それともただそういう性格をしているだけなのかは分からないけれど、それは確かに真理だった。
幸せを妬むということは、転ずれば、今の私が幸せではないと言っているようなものだ。だが、それはどうだろうか。私は、幸せではないのか。
言うまでもない。
人間という一つの括りからはみ出しながらも――エヴァという吸血鬼の肉を食らって生きてきたという事実を肯定されても尚、私はそれを不幸だと思うことはなかった。
敢えて宣言させてもらえるのならば、私は他の追随を許さない程度には幸せだと言える。
好きなように時間を過ごし、好きな人と時間を過ごし、好きな人の時間を追いかける。なにより、それを許可されている。なんて贅沢な話だろうか。今の私を幸せと言わずして、なんと言う。
確かに、時折人肌恋しく思う事くらいはあるが、それを不幸と言い換えるのは無理がある。
――じゃあ、なにが羨ましかったのだろう。
木乃香さんという存在と共に過ごす時間か。
或いは、木乃香さんという存在そのものか。
それとも、それこそが木乃香さんに対して抱く懐かしさの正体なのか。
そもそも、その誰かのことが羨ましかったのか、木乃香さんのことが羨ましかったのか。そんなことすら分からなくなる。
――まぁ、考えても詮無きこと、か。
そうやってお得意の思考停止に帰結したのとほぼ同時に、木乃香さんは足を止める。前を見れば、一際目立つ木製の扉が、目の前に屹立していた。
「おじいちゃん、入るで〜?」
扉を二回ほどノックしてからそう呼び掛けると、木乃香さんは返事を待たずして扉を開けた。本来ならば無遠慮とされる行為も、祖父と孫の関係ならば許されるのだろう。
扉の先には、だだっ広い空間があった。その中央には客人用のものと思われるソファとテーブルが置いてあり、その先に、大きな窓から差す朝日に照らされた机が鎮座している。逆に言えば、それ以外のものはなにも無い。学園長室なのだから、それがそれとして機能すればそれでいいとでも言いたげな佇まいだった。
よく見れば、部屋の角にサイドテーブルがあったり、どこかへと続く階段があったりと、決して物や設備の数が少ない訳ではないのだが、部屋の広袤がそれを打ち消している。
斯くして、日差しを受ける机の上に積み上げられた書類の間から、その老大人は顔を出した。
「ほ……? どうしたんじゃ、木乃香。そろそろ予鈴も鳴る頃じゃろうに」
「あんな〜、ちょい相談があんねんけど……なんや忙しそうやね?」
朝から書類に埋もれている祖父の姿を見れば、少なからず心配してしまうのが孫心だろう。
学園長という立場に加え、彼は関東魔法協会の理事長も務める身。その多忙さとは、想像を絶するものなのだろう。その延びた後頭部は、その作業量に追いつくために脳が発達した――そういう生物としての末路なのかもしれない。いや、知らないけど。
「うむ、少しばかり急な仕事が多くてのう。して、その相談とは――鈴葉のことかのう?」
その双眸を私へ向けながら、おじいちゃんは簡潔に問うた。
予想通りなどと言うと少々大仰だが、しかし、正しくそれは目論見通りだったと言える。狼狽するような素振りも見せず、まるでこの瞬間が来ることを予知していたように、彼は毅然とした様子で孫娘の言葉を待つ。
「流石おじいちゃん、話が早うて助かるわぁ」
木乃香さんは両手の平を合わせ、微笑みながらそう返した。祖父におねだりする孫娘の姿とは、はて、祖父という立場からすると、どのように見えるのだろう。その様子をあざといと言うつもりはないが、どこか頭のキレる木乃香さんのことである。多少は狙っているに違いない。
そんな邪な思考を巡らせていると、逡巡するような間を一拍だけ置いてから、木乃香さんはその相談事を口にした。
「とりあえず、鈴葉に合うサイズのタイツとか見繕ってくれへん? 見てるだけで凍えそうやし、風邪ひいたらかなわんやろ?」
――あれ? そんなことをお願いするためにここに来たんだっけ?
そんな疑問を抱きながら木乃香さんを見遣るが、私の視線などなんのその。もしかして、私が思っている以上に、私の服装が気に食わなかったのだろうか。もしかしなくてもそうなのだろう。そうでなければ、たとえ冗談だとしても、人のことをミノムシにしようなどとは思わないはずだ。
「むぅ……。そうは言うがのう、木乃香。当然じゃが、わしは女児用のタイツなど持っておらんぞ」
当たり前だ。持ってたらキモい。私の中ではそこそこの地位にあるおじいちゃんの株が大暴落。バブル崩壊どころの騒ぎではない。紙屑のマルクだ。
「ややわぁ、おじいちゃん。ウチがお見合いから逃げる度に遅い時間まで探し回ってくれる心優しい人等がおるやろ?」
うわぁお。
木乃香さんの柔らかい声と表情に変わりはない。悉くを包み込むような柔和な空気からは、しかし、鋭い棘の先端がはみ出しているように思えた。
なんか、私、ここにいても良いのだろうか。何故かは分からないけれど、体がこの場から逃げようとしている。この感覚を敢えて形容するならば、本能か。
木乃香さん、あなた、不本意なお見合いを強要するおじいちゃんに対する不満をここぞとばかりにぶつけてません? それについては、私も無知ながら少しだけ関わっていた時期があるので、本当に居た堪れないのですが。空気がとても痛くて堪らないのですが。
「む、むぅ……。相分かった、すぐに用意させよう」
孫娘の威圧感に負けたおじいちゃんは、その小さな背中を丸めて携帯電話を手に取った。もはや、数秒前の毅然とした態度は影すら見えない。
暫く事務的な会話が聞こえたかと思えば、一分と経たずして、黒いスーツにサングラスを装備した、神多羅木先生のような格好の女性が部屋へと入ってきた。彼女は私の前で腰を深く折り曲げると、丁寧な口調で言う。
「鈴葉お嬢様。お着替えのため、別室にご案内させていただきます」
「…………ん」
不満というほどではないけれど、その呼び方はとてもむず痒いのでやめてほしい。しかし、彼女も仕事の一環でそう呼んでいるだけなのだろうし、私の我儘と仕事で板挟みにするのも可哀想なので私が呑み込むことにした。なにより、この空気から合法的に逃がしてくれるというこの女性は、私にとっては都合の良い救世主だ。文句など、不満など、いくらでも呑み込もう。
それから、近くの教室へと案内された私は、その光景に言葉を失った。
数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程に陳列された、タイツとタイツとタイツ。本来、タイツの山の土台となることなんて想定されていないであろう机達から、なんとも言えない視線を寄越されている気さえする。
おじいちゃんの電話から、未だ五分と経っていないのに、どうやってこれらを用意したと言うのか。なにより、仮に安物を揃えたとしても、その金額は計り知れない。勿論、近衛家が用意したそれが安物であるはずもなく――普段から動くことを良しとしない怠惰な私の表情筋も、この時ばかりは口角を大きく引くつかせたのだった。
◆ ◆ ◆
予鈴が鳴って、本鈴も鳴って、さて、どれだけの時間が経っただろう。なにを聞きつけたのかどこからともなく続々と部屋に入ってくる職員と思しき女性達に、なんの違いがあるのかも分からないタイツを代わる代わる履かされ、下半身の皮膚が削れて紛失するのではないかと考え始めた頃に、私の身柄は解放されることとなった。
梱包された様子からしてそれらのタイツが新品であることは間違いなく、その封が次々と切られていく様には戦慄すら覚えた。一度履いたくらいならば返品も可能なのかもしれないけれど、それだって気が引ける。受け取れと脅されているようで気が気じゃなかった。
加えて、タイツを履いただけで、果たして下半身が温かくなったのかと言われると、疑問が残る。如何せん、脱がされては履かされて、と――その繰り返しによる摩擦熱なのか、タイツの性能なのか、今の私には判断がつかない。そもそもパーカーを着ている以上、私の体温はある程度のレベルを一定に保っているので、これを脱がない限りはタイツの効果など不明瞭だろう。その点で言えば、やはりこのパーカーは呪われている。こんな便利な機能さえ搭載されていなければ、流石の私も着る服に気を遣った訳で――このような羽目にはならなかったはずだ。
恨んでやるからな、図書館の亡霊め。
責任転嫁とは言わせない。
だってほら、あの男は今、私の脳内で愉快そうにころころと笑っているではないか。
足を持ち上げるという動作をおおよそ一生分は熟したであろう私を横目に、けたけたと腹を抱えているではないか。
慣れないタイツのしめつけに思わず顰めっ面を披露する私を指差して、くすくすと笑っているではないか。
ああ――もう。
明日からはちゃんとした冬服を着よう。見た目くらいは暖かそうに見える、そういう服は、洋服ダンスの奥に眠っているはずだ。帰ったらそいつらを叩き起して、まとめて洗濯カゴに放り込もう。シャークティー先生とその生徒には迷惑をかけるかもしれないが、致し方なし。
「――疲労困憊、といった様子じゃのう」
ソファに腰掛けて慣れないタイツの感触を気にしていると、紅茶を淹れたおじいちゃんがそれを私の目の前のテーブルに置きながらそう言った。ハーブの香りが鼻腔をくすぐる。
私がこの学園長室に戻ったときには既に木乃香さんの姿はなく、残っていたおじいちゃんはどこか疲れた様子で萎びていて、とても私を気遣う余裕など無さそうなものだったが、どうやら立ち直ったらしい。切り替えの早さには感服せざるを得ない。
「こういうの、慣れない、から」
少しだけタイツを摘んで見せる。
模様が入っているものからシンプルなものまで、はて、どれだけの数を履き、どれだけの数を脱いだのか。あの女性職員は試着がどうのこうのと言っていたが、その必要性を感じなかったのは私だけだろうか。終いには私の髪をサイドで束ねて控えめなヘアアレンジまでしていったのだから、職務そっちのけで楽しんでいたに違いない。そういう遊ばれる状況というものはエヴァで慣れているが――理事長の直轄する部下が職務中にそれに興じるのは如何なものだろうか。甚だ疑問である。
「……似合うとるぞ?」
「そういう、ことじゃ、ない……」
別に、今すぐ脱いでしまいたいなんて思わないけれど、これは似合ってるかどうかなんて話の問題ではない。まぁ、順応性はそこそこ高いと自負しているし、慣れてしまえばそれまでの話であることは確かなのだが。
「まぁ、儂から見ても寒そうな格好をしていたことは明白じゃ。木乃香の心配も理解できるじゃろうて」
それは確かにそのとおり。否定はできない。
私が顔を顰めているのが珍しいからか、随分と嫌がっているように見えているのだろう。おじいちゃんの声色は諭すようなものだった。
亡霊を恨んだ手前、これを言うのも言い訳がましいかもしれないが、別にそこまで嫌悪感があるわけではない。ただ、こういうものには心の準備が必要なのだ。高畑先生から貰った腕時計だって、慣れるまでは身に着ける度に抵抗感を覚えていたのだから。
見るからに高級そうなタイツを揃えられた上に、そのうちの十足ほどを譲るなんて言われれば、動悸が激しくなったりもするのだ。
「分かってる。……いただき、ます」
せっかく用意してくれたのに飲まないのも礼儀ではない。差し出された紅茶を手に取り、一口だけ喉を通した。高畑先生が用意するハーブティーとは少しだけ味も匂いも違う。使っている葉っぱが違うのだろうか。こういうものにはどうにも拘りがないせいで、無知極まれり。それこそ、いつの日か高畑先生が紅茶について語っていたような気がするが、覚えているのは高畑先生の言葉が右耳から左耳へと言葉が抜けていったことだけだった。
「ふぅ……」
私の対面ではおじいちゃんが自分の紅茶を口にして息をつく。切り替えたとは言っても、蓄積された疲労は簡単に抜けるものではないのだろう。しかし、なにをそんなに疲れることがあったのだろうか。私が木乃香さんとおじいちゃんを残して部屋を後にしてから、凡そ一時間程度か。私も人のことは言えないが、一時間程度でここまで疲れるようなことがあるだろうか。
「……なにか、あった?」
「む……? うむぅ……、お主のことについて少し、木乃香から質問攻めされてのう」
私について、質問攻め。
それの意味するところは、木乃香さんが私に対しての疑問を複数個抱えていたということだ。はて、疑問を持たれるような身に覚えは――ありすぎて困るなぁ。
「辻褄を合わせるのも一苦労でな、拙老には堪えるものがあったんじゃよ」
なんというか、お気の毒様、と。どこか他人事のように溢れかけた言葉を飲み込んだ。
木乃香さんが私についておじいちゃんに質問を投げかけることは私が仕込んだことではないので、謝るほどのことではないと思うのだけれど、しかし決して他人事だと切り捨てるようなことも言えないだろう。
自分事とも思えないが。
「……刹那くんとは、上手くやっておるのか?」
過ぎた話をしても仕方ないと考えたのか、おじいちゃんは話題を変えた。
例の主従関係について、提案者であるおじいちゃんからすれば私と刹那が微妙な関係性になってしまうのはなんとも後味の悪い話だ。昨晩、刹那を呼び出したのも、恐らくは私の様子を知りたかったからだろう。私についてやけに詳しく、性格やら性質やらを把握しているおじいちゃんである。私が慣れない環境を嫌っていることから、多少は思うところがあるのかもしれない。
「ん……。昨日は、ちょっと、大変、だったけど。特別、反りが合わない、ことも、ない」
反りが合わないというよりは、尺度が合わないと言ったほうが正しいし。
こればかりは私がどうとか刹那がどうとかという問題ではないだろう。相性の問題だ。そんなものは、どんな人間関係にだって存在する。蓋を開けてしまえばそれだけの話だ。誰だって、誰かとの間に妥協点を見い出す。そうでなければ、関係は続かない。
エヴァが私の奇行をある程度のレベルで受け入れ、私がエヴァの蛮行にある程度の理解を示すように。
それらを妥協した先に、初めて、反りが分かる。
一度鞘に刀身を収めなくては、その程度は知れない。
……そういえば――エヴァは、私についてどう思っているのだろう。
部屋にノックすることもなく入ってくるエヴァを、なんなら蹴破ってきたエヴァを、私は許すとか許さないとかいう範囲の話で捉えていない。
私を外へと連れ出すときには自分の歩幅とペースで、私の手を引く。普段から基本動作が遅延している私にとって、それは多少の疲労感を覚えさせるが、それを疎ましいか疎ましくないかという範囲の話で捉えたことはない。
傲岸不遜たる態度を、唯我独尊たる様子を、どうとも捉えたことがない。
さもありなん、だ。
では、エヴァは?
遅鈍な私を、疎ましく思っているのだろうか。
曖昧な私を、浅ましく思っているのだろうか。
優柔な私を、痛ましく思っているのだろうか。
昨晩は、どうにも虫の居所が悪い様子だったが、私はエヴァにとっての妥協点を踏み越えてしまったのだろうか。
……なんだか自信が無くなってきた。なんとなく、謝ったほうが良いような気がする。でも、自覚もなしになんとなくで謝っても、許されるはずもない。
むぅ。
「――そうは言うが、やけに難しい顔をしておるぞ。思うところでもあるのかのう?」
おじいちゃんの声に、沼に嵌まりかけていた思考が浮上する。
「んーん」
首を横に振る。
「なにも、ない」
「そうか、ならば僥倖。刹那くんにとっても、良い経験となるじゃろう」
刀子さんも言っていたか。良い妙薬になるとか、ならないとか。なんの根拠があってそう口を揃えるのかは分からないが、忠犬が如く指示があるまで動かなかった昨日の刹那と比較してみれば、今朝の積極的な様子は進歩と言えるのかもしれない。
私が何かしたのかと言われると、何もしていないのだけれど。どちらかと言えば効いたのはエヴァの言葉で、そしてそれを受け止めたのは刹那だ。当事者であるはずの私は蚊帳の外。当然と言えば当然なのだが。
他者に影響を与えられるほどのなにかを、私は持っていない。
そんなナーバスな気持ちを飲み下すように、紅茶を啜る。
ティーカップをテーブルに置くのと同時に、力が抜けた。
かくん、と。
まるで関節が壊れた球体人形のように。
糸の千切れた操り人形のように。
視界が白む。
霧に包まれるように。
薄氷に閉じ込められるように。
「――すまぬ。このようなやり方、褒められたものではなかろうて……」
おじいちゃんがなにかを言っている。
だけれど、なにを言っているのかは分からなかった。
言葉は聞こえてるのに、それを理解することが能わない。
思考がなにかに絡めとられている。
兎にも角にも、この強制的な脱力感の正体がおじいちゃんの手によるものなのだとするならば――まぁ、別にいいか、と。
私は溶けた意識に身を委ねるように、瞼を落とした。
ネギま!の二次創作だと、ありがちですよね。
なんか眠らされてあれやこれやとされる感じ。
まぁ、原作でも眠りの霧とか結構多用してるので。
こういうことしてるからリメイクだとかエタッたりとかするのでしょうけれど、試験的にいろいろと。
もう引き返せないと思ったら日和って投稿できずにいました。
プロットとか作るのほんと、苦手なんですよねぇ。
作っても、地の文とかなんとなくでしか書けないから、そのうち「こんなはずでは……」ってなる未来が見える見える。
なんか知らないうちにUQとネギま!が本格的に交錯してたみたいですね。あとがき書いてるときに「眠りの霧って眠りの霧だよな……?」と疑問に思って検索したらいろいろと出てきました。もとからネギま!の続編のようなものだとは聞いていましたが、UQにはUQの主人公がいるだけに、完全な後日談のようなものだと思ってましたが……。
もはや漫画を購入できるほどに余裕のある暮らしをしていないので買えないのが残念ですが、むしろネタバレを見てもなんとも思わない最強無敵の存在になれました。
でも、やっぱりいつかはちゃんと購入して読みたいなぁ。