せめて幸せであれるなら   作:酢酸のいも太郎

23 / 23
EP.22

「――……」

 真空を錯覚する。息の詰まる静かな台風の目。可視も不可視も一切の区別なく、圧迫された空気の中では身じろぎ一つとして許される者もいない。窓の外を揺蕩う綿雲だけが、童女に睨まれる長頭長髭の翁を嘲笑うように形を変える。

 部屋の主を凌駕し新たな主となった童女――エヴァンジェリンは、腕を組み、脚を組み、何度目かも分からぬ溜息を零した。苛立たしいのか、組まれた脚にぶらりと繋がる小さな足が、赤べこの様に規則正しく振られている。脱ぎかけの、つま先に引っかかっている革靴は、暴風に煽られる提灯が如く、されるがままで頼り無い。

 傍から見れば、私物を弄ぶ、手持ち無沙汰の童女。しかし、その冷えきった双眸は、幾百年を生きる老獪な魔女の歯牙そのものである。魔力を、能力を、あらゆる含蓄を封じられていたとしても、この童女が真祖の吸血鬼であるという事実は揺るがない。

 当然、対面に座る近右衛門とて、有象無象とは一線を画す魔法使いであり、全盛期ならいざ知らず、弱体化を超えて最早ただの人間相応になった童女に負ける道理などどこにもない。

 その老体を打ち据える寒冷とした圧力は、しかし、エヴァンジェリンの全盛期にも劣らない魔力を錯覚させる。肩の力を抜くことなど、近右衛門の本能が許さなかった。

「……貴様とて」

 鋭い声に空気が震えて、近右衛門の鼓膜をじんわりと焼く。

「あいつの内側に直接触れることの危険性くらいは認知しているはずだ。……違うか?」

 それは、ただの確認。お互いの認識に相違がないかを知るための言葉。

 耳が痛いのは、エヴァンジェリンの冷えきった声に鼓膜が凍ったから――なんてことはなく、その忠告にも似た言葉を無視することができなかったからだった。

「分かっておる。だからこそ、儂が直接覗いたのじゃ」

 勿論、近右衛門とて貧弱な蛙のままではいられない。蛇の餌食となって逃げることもなくその瞬間を待つだけならば、気は軽い。しかし、学園長として、関東魔法協会の会長として、自身の行動に伴った責任から逃れることだけは許されなかった。

「ふん――だからこそ、か」

 しかし、エヴァンジェリンは近右衛門の言葉を嘲弄するように舌で転がした。

「楽観的過ぎるな。いつぞやの暴走を忘れたわけでもあるまい。アレはなにかが鈴葉の深奥に干渉したことがきっかけであるという結論に落ち着いた。逆に言えば、それ以外のことは分からずじまいだったはずだが?」

 ――誰かが何かを隠そうとしているほど、不自然にな。

 エヴァンジェリンは確信的な眼差しで老体を穿ちながら、いつからか話題にすら挙げられなくなった過去の疑問を声に乗せた。耳が痛い――というのは、なんの比喩でもない。まるで真空に投げ出されたように、酷い耳鳴りがする。分かりきっていたことだ。エヴァンジェリンに気付かれた時点で、この程度の詰問は受けるだろうと、想定はしていた。エヴァンジェリンだけではない。蒼井鈴葉という存在を認知している魔法関係者の耳に届けば、その真意を糾されていただろう。故に、想定外でもあった。特別な処置を申請すれば大事になる。それを避けるために、必要最低限の工程で完結させた。故に、魔法は使わず、証拠の残りにくい希釈した魔法薬を使用した。刹那――木乃香が鈴葉を連れてきたことこそ偶然だったが、都合は良かった。絶好の機会だったことに違いはなく、運命的に完璧な隠蔽も可能だった。

 しかし、エヴァンジェリンの嗅覚は、人間の体であったとしても人間離れしたものを発揮させた。それは、ひとえに魔法使いとしての勘だったのかもしれない。或いは、彼女の足元を黒猫が横切ったのかもしれない。それがどのような因果だったとしても、近右衛門が術を行使するその直前に扉を足蹴にして彼女が入室を果たしたという事実だけが、淡々とそこに残された。

「根拠もなく、不穏なことを言うものではないぞ。誰かがなにかを隠そうとするならば、その結論へすら導かれなかったろうて」

 額を伝う汗が凍るようだった。まるでエヴァンジェリンの魔力に中てられたように。

 当然、彼女はただの童女でしかない。牙を抜かれた吸血鬼に、そんな力はない。

「そうだな、こんなものはただの妄想でしかない。だがな、どこかの火星人も言っていたが、裏打ちされた憶測はもはや事実と呼んでも差し支えはないそうだ。癪だがな。今ならその本意も理解できるというものだ」

 シニカルに笑みを浮かべる。外見不相応に。年齢相応に。

 片眉を吊り上げるようなその表情は、どこか幼く、彼女の言う火星人のような、天真爛漫とも取れるような雰囲気を醸し出す。

 呑まれるようだった。近右衛門とて、全知ではない。火星人というものがなにを示しているのか。或いは、なにかの比喩なのか。焦点が合わない。しかし、その口振りからしてふざけている訳ではないことくらいは察せられる。

 猫の口のように、多くは語らずと、彼女は言葉を紡がない。

 それは暗に、「分かっていることを議論するつもりはないのだ」と告げているようだった。

「わしよりも知っていることが多そうじゃのう。是非とも、この無知な老翁にも教えてほしいのじゃが」

「ほざけ。貴様の学園だろ」

「全てに手が届くならばそうしておるよ。そう上手くもいかぬからこそ、タカミチ君たちに頼っておるんじゃ」

 自嘲気味に、近右衛門は俯いた。ここ最近の鈴葉のことも含めたあらゆることが脳裏を過ぎり、肩を落とす。いかに熟練の魔法使いであろうとも、いかに洗練された魔術師であろうとも、肩に圧し掛かる事柄について、投げ出したくなる衝動にかられることがあるだろう。近右衛門にとって、今がまさにその時なのかもしれなかった。

「爺が落ち込むな、気色悪い」

 辛辣な言葉に、近右衛門の垂れた髭は萎びていくようだった。

 当然、この童女が老体如きに同情してくれるような感情を持ち合わせていないことは知っている。彼女の優しさは歪な茨に包まれている。

 彼女が、他人に優しくしようとしても、優しくできないサガの持ち主であることを、理解している。彼女の心は鉛のように重く、彼女の足を掴んで離さない。性格の一言で済ませてしまえばそれまでなのだが、他人に対する不信を暴いてみれば、虐待された子猫のような存在なのだろうと思うと、その難儀な性質に顔をしかめたくなる。

 ――優しくされたかった訳ではない。一瞬の気のゆるみが見せた本音の一部だ。枯れた咳払いをしてみせれば、いつも通りの己がそこにいる。

「返す言葉もないわい。じゃが、わしも考えなしに行動している訳ではない。鈴葉のパートナー候補であるお主に相談の一つもしなかったのは失念じゃったが」

「茶化すな。何故このような行動に走ったのか――その動機くらいは理解しているつもりだ。私が言っているのはそんな些末な話ではない。方法の話だ。もしもあの時――鈴葉が図書館島へと単身赴いた日、私が帰宅に寄り添わなかった場合、あいつは今頃、地下監獄へと逆戻りだった。その危険性を孕んだ方法を、貴様が手段として行使したことに問題があると言っている」

「むぅ……」

「唸るな」

「じゃがの?」

「言い訳をするな」

 もはや、喋らせるつもりもないらしい。

 エヴァンジェリンの言い分は至極真っ当なもので、近右衛門の行動は強行とも凶行とも言えるものだった。それを自覚的に行っただけに、どのような言葉も所詮は結果論であり、言い訳のしようもないことは確定的だった。それを理解しているからこそ、エヴァンジェリンはその急所へと棘を刺す。

「鈴葉に対する様々な権限を貴様が握っていることを自覚しろ。あいつを呪物にも聖遺物にも――人間にも変えることができるのは、貴様と一部の上層部だけだ。裏を返せば、あいつの人間的な部分を殺すとき、それは貴様の手で行われる。孫娘を泣かせたくなければ肝に銘じておけ」

 ――後悔のないようにな。

 エヴァンジェリンはそう付け足すと、組んでいた四肢を解き、立ち上がった。彼女の憤懣やる方ない気持ちは決して溶けていない。霧散するどころか、むしろ昂っているに違いなかった。だが、矛先を向けるべき明確な対象を前にして、背中を向けようとしている。

 わざわざ呼び止めるような酔狂な真似はしないが、それで疑問が払拭されるわけでもない。

 そんな近右衛門の複雑な心境を見透かしてか、否か、エヴァンジェリンは振り返ることもなく、呟くように言った。

「その長い頭を充分に冷やしておけ」

 扉の閉まる音に掻き消えそうな小さな声。

 どうにも、老翁に説教をするつもりはないらしい。

 圧迫感だけが微かに残った部屋で、近右衛門は肩を落とした。先程までエヴァンジェリンと鈴葉がいたソファを見つめながら、あり得たかもしれない未来を想像する。血に濡れた床。酷く抉れた壁。肉を刻まれ骨を砕かれ――倒れ伏した自分と、発動した封印に囚われ、駄々を捏ねるように自我を失った鈴葉。最悪のシナリオ。避けなくてはならなかった結末。

「……過保護なのはお互い様じゃのう、エヴァ」

 無意識に零した言葉は、反省から程遠く、また一つ、近右衛門は唸り声を上げた。

 

 

 

 

 

 ――理事長室から退室したエヴァンジェリンは、サボタージュに使用しているいつもの屋上で頭を抱えていた。

 日の当たらない陰にいることもあって、菌糸類が生えてきそうな雰囲気すら醸し出している。冬の風は冷たく、皮膚を貫通して心臓を刺すようだ。陽に当たれば多少は和らぐだろうに、吸血鬼としての癖なのか、どうにも眩しい紫外線は好きになれずにいた。

 そんな中、“後悔のないように”と零した自分の声が、頭に反響する。

 遠くを照らす太陽が煩わしかった。自分の言葉を何度も何度も反芻してしまうのも、すべて太陽のせいなのだと、責任を転嫁したくなる程に、忌々しい。

 後悔したくないのは自分だ。

 別に、他人なんてどうでもいい。愛してくれた両親は遠い過去に死んだ。愛した男は約束も守らずに近い記憶の中で死んだ。死ぬはずもないかつての旧友の半数以上が行方を眩ませている。狭い籠に囚われた哀れな一匹の蝙蝠は、その過去と未来に蓋をされた。

 鈴葉という少女も、そのうちの一人に過ぎないはずだった。

 ロンドンで彼女が行方を眩ませたとき――またか、と思った。

 それと同時に、自覚してしまったのだ。

 どうでもいい他人のうちの一人に対して、旧友に似た感情を抱いていたこと。

 少女の振る舞いは、思い返せば、自分が愛した男に対して行ったアプローチと似たものだった。相手の都合など知らず、ずかずかとその心象に踏み込み、相手の活動の都度に理由もなく目の前へと立ちはだかる。くだらない理由で連れ出そうとするし、くだらない理由でついて来ようとする。

 理不尽だし、面倒くさい。愛しさなんて抱けないし、突き放すようにあしらった。

 あの男も、きっとこれと同じような感情を己に抱いたに違いない。

「まったく、歳をとったつもりでいたのだがな……」

 恋慕の感情も。

 友愛の感情も。

 喪失の感情も。

 全てを過去に置いてきたと思っていた。

 だが、考えてしまった。何度となく、脳裏に過ぎってしまった。幾度となく、思い出してしまった。

 ――鈴葉という少女を、自分の魔法で凍らせたあの日を。氷の棺の中へと閉じ込めたあの感触を。それからの、喪失感の日々を。

 虚無と呼ぶには長すぎる時間だった。

 諦めてしまえば、無限の時間に囚われしまう気がした。

 だから、あの女性に助言をした。自分の仮説を実践して見せた。それでも、全ては憶測の域を出ない。そのもどかしさに、いつからか、諦めという感情に支配されていたのだろう。それが厳密にいつなのかと言えば、彼女の元気そうな姿を目の前にした、あの時だ。なにもかもを忘れてしまった少女の目が自分を映した、あの時だ。

「失うくらいなら今のままでいいなどと――」

 独白にも似た言葉は、自戒も込められた杭のようなものだった。

 嫌気が差す。

 近右衛門に対する言葉はすべて本音だ。だが、そこに八つ当たりのような意思がなかったのかと言われれば、嘘になる。生温い学園生活に身を浸した結果か、慣れたはずの恐怖という本能が顔を覗かせた。

 

 それを自覚したのは、数か月前の話だった。

 

 

 

 

   ◆   ◆   ◆

 

 

 

 

「――にゃーん」

 そんな鳴き声を上げる鈴葉に、眩暈がするようだった。

 金曜日という、鈴葉にとっては一週間に一度の“給餌”の日のことである。

 いつものように学業を終えたエヴァンジェリンは、一度自宅のログハウスへ帰りロングコートに身を包むと、教会へと向かった。地下へ向かう階段を降りて、ノックをすることもなく鈴葉の部屋の扉を開けたのだが、しかし、そこに鈴葉の姿はなく、ベッドの横のサイドテーブルの上で項垂れるランプに照らされた一枚の紙切れだけが家主の代わりに自己主張していた。これだけなら別になんてことはなかった。暫時待たされるくらいなら構わないかとベッドの上で寛いでいたのだが、二〇時を過ぎても帰ってくる気配がない。

 鈴葉の性格や特性なら、ある程度は把握している。あの少女は自力で迷子になるような冒険心など持っていない。知らない人間についていくような童心すら持っていない。あどけない少女の見た目とは裏腹に、堅実な現実主義者である。一部の突発的な行動を除けば、大人しい子供のそれである。

 故に、エヴァンジェリンはこの現状を異常と判断した。近右衛門へ携帯電話で短い報告と指示を出し、紙切れを手にして部屋を飛び出した。

 ロンドンに行く前の鈴葉ならば、心配は無用だったろう。年齢に対して過剰な成長速度を見せた魔法使い見習いの蒼井鈴葉ならば、この程度のことでエヴァンジェリンが身を乗り出すことはなかった。しかし、今の鈴葉は魔法など扱えないし、身体能力で言えば見た目そのままの幼女である。そのくせ、内側に孕んだ呪いはまさしく化け物と呼ぶ他になく――久方ぶりに、アレは爆弾なのだと思い知らされた。

 紙切れに残留した僅かな魔力の名残りと少女自身の魔力を感知したのは、猫耳を付けた当の本人がエヴァンジェリンを見つめながら首を傾げた時からだった。今更ながら、学園結解が解除されたのだと察したのと、気が抜けたのと、吸血鬼として月明かりに照らされる懐かしさから、鈴葉を見つけた報告と一緒に学園結解の現状維持を近右衛門へと念話で指示した。何かを察したのか、近右衛門はそれを快諾してくれた。

 ――それが、明暗の分かれ目だったのだろう。

 

 不快な呼ばれ方に一瞬だけ気分が崩れそうになったものの、冬の澄んだ空に浮かぶ月が心地よくて、いっそのことワインでも持ち寄って時期遅れのお月見に洒落込もうかとすら思えた。

 

 鼻の奥を冷たい空気が通っていくのを感じながら、小さな少女の手を引いて、引いて――引いて、ぽとり、と、その手が離れた。

「……鈴葉?」

 振り返れば、鈴葉が道の上で倒れ伏していた。糸の切れた操り人形のように。

 それから刹那のうちに、得体の知れない魔力がぞわりと沸き上がる。それは渦を巻き、鈴葉を呑み込んだ。その魔力の出所は、追及すれば鈴葉の体そのもの。魔力が持ち主を襲うような構図に、その異常性が詰め込まれていた。

 その矮躯を、貪るように、どこからか肉質的な咀嚼音が聞こえてくる。その度に、鈴葉の伸ばされた手が空を掴もうとする。苦しいのか、小さな喘ぎ声が漏れていた。

「バカな……」

 放心する。見る見るうちに鈴葉の魔力が侵食されるように消えていく。

 そこで初めて気付いた。

 ――鈴葉自身の魔力が、なぜか、いつもよりも少ない。

 一週間に一度の食事は、最低限の話ではない。特殊な魔力供給方法による事故を防ぐための安全マージンである。真祖の吸血鬼(エヴァンジェリン)の魔力を、消化器官から取り込むのだ。注意を払ってデータを取りながら導き出された精確な解答である。契約による魔力供給は、基本的にその場で使い切る消耗品であるのに対して、鈴葉のそれは“生命維持”に近い。“他人の魔力を他人の魔力のまま行使する”のとは訳が違う。過度な供給は毒にもなる。魔法を行使する術を知らない鈴葉は、過度に蓄積されたその毒のような魔力を発散することができない。

 しかし、逆に言えば、一週間に一度で充分である、という結論もまた、確かなものだった。

 それに反して、鈴葉の内側にいる化け物とも呪いとも呼べる異常は、どうにも、腹が満たされずその鎌首を擡げたらしい。

 吸血鬼の夜を見通す瞳が、鈴葉の周囲の変化を確かに映した。服の隙間から、赤黒い液体が意思を持つように流れ出て、行き場もなく彷徨い始める。本来ならば好物のはずの、血液。今だけは、それを啜りたくなる本能も引っ込んでしまう。

 

「――ご、……さ、い」

 

 譫言の様に、鈴葉の口が動く。

 呆然としていたエヴァンジェリンは、その声に無意識的に反応した。鈴葉を抱き起こし、その口を自分の肩口へと押し当てる。

「ごめ、――い」

「なんだ、なにを言いたい。まだ意識はあるのか? 答えろ、答えてくれ、鈴葉ッ」

「ぁ、――あ、……」

 食われる覚悟は出来ている。いつでも食えばいい。学園結解が解除されている今ならば、どれだけ食われようと再生できる。食い千切られる痛みに耐えるだけだ。だから、早く食べてくれ――。

 頭の中で、ぐるぐると思考が回転する。対処の仕方など知らない。分からない。これが正解なのかも不明だ。それでも、なにもせずに立ち尽くすだけなど、言語道断だった。

 ――どろり、と。鈴葉の喉が裂け、生暖かい体液が零れ落ちていく。それを皮切りに、全身に裂傷が現れ、不健康な白い肌を鮮血が侵していく。

「ごめん、なさ、い」

「なにを謝っているんだ……? 鈴葉、私の声は聞こえてるか? 鈴葉ッ!」

「ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさいッ、ごめんなさい!」

 膨大な魔力が、エヴァンジェリンごと鈴葉を包み込もうとする。それを撥ね除けんとばかりに、吸血鬼は真祖の魔力に外部への志向性を持たせる。具体的な名前もない魔力のコントロールを、魔法と呼べるのかは別として、とにかく暴力のような魔力から鈴葉を守ろうと歯を食いしばる。

「大丈夫だ――大丈夫。大丈夫だから」

 ――不死性を持つ吸血鬼にとって、治療は縁のない技術だ。それでも、意識を失いそうな人間に対しては声をかけ続けるべきであるという初歩的な知識くらいならば持っている。要領を得ない謝罪の言葉を並べ立てる鈴葉に対して、エヴァンジェリンは少しでも自分の声が届くようにと声を上げる。

 呪いとも呼ぶべきその症状は、今の今までずっと鳴りを潜めていた。だからこそ忘れていた。この爆弾がなにかをきっかけにして暴発しようものなら、最悪、その矮躯ごとまとめて封印されて無かったことにされる。そして、その命は、殺す方法が見つかるその時まで、延々と鼓動を叩く。

 そうなってしまえば最後、二度と、会話はおろか、会うこともできなくなるだろう。

 ――思い至った瞬間、吸血鬼の魔力は一つ、大きな波を描くように跳ねた。

「エ、ヴァ……?」

 その吹雪のような寒冷な魔力が届いたのか、鈴葉は謝罪を繰り返すことをやめて、吸血鬼の名を、乾いてしゃがれた声で呼んだ。裂けた喉に冬の風が染みるのか、空気の抜けるような呼吸に苦悶が混ざる。

 純白のコートが汚れることも厭わず、自分の存在を示すためにも強く抱きしめる。今の鈴葉の感覚がどこまで生きているのかも分からない――少なくとも、ロンドンでの鈴葉は錯乱し、痛覚を始めとした五感に鈍くなっていたように記憶している。あの時と近い状態になっているのだとすれば、もしかしたらもう自分自身(エヴァンジェリン)のことを認識するのも困難なのかもしれない。だから、強く抱きしめる。その裂傷に、自身の体温と魔力を浸透させるように。

「そうだ、私だ。安心しろ、大丈夫だ。だから――」

 言葉を繋ごうとして、躊躇った。その言葉は、長らくの間、抱くこともなかった、慟哭に近い。

「――だから、ここにいろ。どこにも行くな」

 鬼の目に、雫が震える。

 数百年を生きた鬼にとって、その心象は毒だった。両親に泣き縋り、甘え、屈託のない笑みを浮かべる一〇歳の少女へと回帰する。そこに芽生えたのは、恐怖と不安だった。原初的で本能的な、肌が粟立ち、脊椎を撫でられるような、未知へと踏み出せない臆病な思惑う幼子。

 理不尽など味わい尽くしたはずだった。

 恐怖に震える手など千切り捨てた。

 躊躇する足など砕いて這った。

 不安に揺れる目など抉り打ち据えた。

 弱音に怯える舌など吐き捨ててやった。

 不要と判断した脆弱性が、影から絡めとろうとその手腕を伸ばす。

「エヴァ……――どこ……?」

 息が止まる。

 手指が力む。

「ここだ! ここにいる!」

 歯が軋む。

 この異常は、鈴葉の首に付けられたチョーカー型の監視システムによって、既に近右衛門を始めとした関係者に伝達されている。一〇分と経たずして到着するであろう特殊班に、歯噛みする。エヴァンジェリンを含め学園が把握している対処法と言えば、十分な魔力を供給し、ほとぼりが冷めるのを待つことだけだ。それですら特殊班の機材は必要不可欠である。“眠りの霧”で意識を奪ったとて、根本的な解決には至らない。

 場合によっては深い地下へと鈴葉を送り返すことになるだろう。

 最悪な未来(イメージ)を払拭するように、エヴァンジェリンは体を強張らせた。

 

 

 

 

「――あ、いた」

 

 

 

 

 神経が狂ったように震えた二本の腕が、エヴァンジェリンを捉えた。

「鈴、葉……? ――ッ!」 

 瞬間、エヴァンジェリンの腕をなにかが突き刺した。それを皮切りに、腹を、胸を、二の腕を、足を、首を――全身のありとあらゆると箇所に、痺れと激痛が駆け抜けた。唐突な神経の反乱。内臓を抉られたのか、口角からどろりと血が垂れる。刹那の衝撃に四肢の力が抜けていくのと同時に、その鋭利ななにかが瞬間的に引き抜かれていく。

 血の気が引く。真祖の吸血鬼は不老不死である。致命傷など存在しない。それでも――不安と混乱に支配された今のエヴァンジェリンにとって、“鈴葉に攻撃された”という事実は、心の臓に杭を打たれたのと同等の絶望感に等しかった。倫敦の夜が走馬灯のように脳裏に投影される。

 鈴葉の体を捕まえていた腕が、落ちていく。ぐにゃりと、三半規管が揺れた。

 今度は自分の番だと言わんばかりに、鈴葉がエヴァンジェリンの肩を掴み、固いアスファルトの上に彼女を押し倒す。後頭部を襲う鈍い音に反応が遅延する。引き延ばされた時間の中で、鈴葉の両手がエヴァンジェリンの頬を包み込んだ。

「あっ、ぐぅ……」

 ぐっと顔を寄せて、馬乗りになった鈴葉がエヴァンジェリンを覗き見る。視界が失われているのか、息と息が混じる距離まで、上気した顔の温度が伝わる距離まで、じぃっと虚ろの瞳でエヴァンジェリンの顔貌を確かめる。その双眸は、毛細血管が破裂しているのか、赤黒く染まっていた。目尻から垂れたのだろう血液はくすんだ焦げ茶色に乾いている。

「エヴァ……。一人は怖いし、寂しいよ」

 言いながら、鈴葉の体内からこぼれ出た血液の一部が志向性を持って形を作った。それは鈴葉の指先へと集まっていき、鋭い刃となって顕現する。馬乗りのまま、喉の下から下腹部にかけて指を振るうと、バターナイフ程のそれは、器用にもトグルに留まっていたコートのループを切断し、下に着ていた制服をきれいに裁断してみせた。

「は――? ぐッ、ぁッ!」

 言葉の意味を聞こうとしたが、その言葉は喘ぎ声に塗り替えられる。裂かれた服を強引に肌蹴させた鈴葉は、肩口に小さな犬歯を食い込ませ、薄い皮膚を柔らかい筋肉ごと噛み千切った。外気に晒されてはならない体の内部に、冷え冷えとした空気が侵入してくる。全身に鳥肌が立つ。いつもの医療的な採取とは違う。痛覚を麻痺させる魔法薬も使用されず、ただ獣のように乱暴な歯牙に抉り取られる。しばらく、耳の傍で咀嚼する音が続く。ゆっくりと、その噛み応えを確かめるように。食用ではない肉の繊維に苦戦しているようだった。調理されていない皮膚と肉は、決して、その小さな顎に優しくない。

 ごくり――と。耳の傍で嚥下する音が響く。

「はぁ――、はぁ――……」

 恍惚とした吐息が傷口と鼓膜を撫でた。

 

 反撃しようと思えば簡単にできただろう。

 鈴葉の四肢を千切り飛ばし、氷の棺に閉じ込めてしまえば、それで終わる話だ。少なくとも、鎮圧するまでに要する時間はものの数秒である。今のエヴァンジェリンならばそれができた。学園結界の支配下から解放された吸血鬼にとっては、赤子の手を捻るようなものだ。

 しかし、同時に不可能でもあった。

 鈴葉に依存されていると思っていた。まだ滑舌もあやふやな小学生の頃から矢鱈と話しかけてくる少女は、どんな理由からなのか、エヴァンジェリンに話しかけることで何かを解消していた。それが癖となり、習慣となり、終いには依存にまで発展したのだと。

 だが、違った。

 依存していたのはエヴァンジェリンの方だった。

 

 “光に生きてみろ”と、愛した男はそう言い残した。

 その男が死んだと噂された時、生き方が分からなくなった。エヴァンジェリンにとって、光とは男だった。道を照らす街灯であり、道標だった。それが潰えて、消えて、途絶えて、光が失せた。

 道はまた、暗い闇に包まれた。

 殺せばいい。潰せばいい。奪えばいい。

 死ねばいい。

 闇の世界とはその連続だ。生きるために殺すし、生きるために死ぬ。殺すために生きるし、死ぬために生きる。酷く簡潔な、絶対的なルールだ。

 だが、麻帆良学園で学生生活を強いられたエヴァンジェリンには、その闇すら指標にならなかった。

 ひとえに、虚無だった。

 ――正義とは何か。

 年端もいかぬ少女にそう問われた時、三日三晩に及び考え続けた。ボランティアでもすればいいのか、悪政を敷く政治家を殺せばいいのか、犯罪から被害者を守ればいいのか。そのどれもが釈然としない。少なくとも、自分は正義を張ってそれらを成し遂げるような性質ではないと結論付けた。

 今となっても、その本質の答えは出ない。

 だが、当時、思ってしまった。

 これが最後の機会なのだろうと。

 飽きることなく話しかけてくる少女が、立派な魔法使いとなるその時まで、或いは、その後の、彼女の行く先にこそ、求める光があるのではないかと。

 ――しかし、その道は閉ざされた。

 少女は、もう光の魔法使いにはなれない。その志すら忘却した少女に、光や正義など、既に無関係だった。

 切り捨てれば良い。この少女は道標ではなかったのだと。二度と、あの男の遺言を叶えることはないのだと。その機会など、端から無かったのだと。失われたと勘違いしていたのは自分だけで、運命は既に決まっていたのだと。

 

「んぐ、ぐ……」

「ッ――! 鈴、葉ぁ……!」

 

 出来なかった。

 この少女を切り捨てることが、できなかった。光などどうでも良くて。正義など露程も知らず。ただ、横に座って呆っとしているだけの少女との日常が、只管に愛おしかった。気付けば、学園生活の半分以上を、蒼井鈴葉という少女が締めていた。それが心地よかった。どこか自分と似ている、世を捨てたような双眸で遠くを眺める姿に、親近感すら抱いた。

 

「あーむ、んぐ」

「くっ……ぅ……」

 

 今更、失うことなど、無理だ。

 エゴだなんだと言われても、胸の深奥にある自我は、融通が利かない。

 自分の体に跨って自由を奪いながらその血肉を貪る目の前の少女を、蒼井鈴葉と呼んでいい存在なのかは不明瞭だ。言い換えれば、些末な問題である。錯乱して誰に対してかも分からない謝罪を繰り返そうとも、いじらしい声で名前を呼ぼうとも、その歯牙で人肉を食い漁ろうとも。その表層にいる人格が、たとえ蒼井鈴葉ではなかったとしても、その中に彼女が存在していることに違いはない。

 それは、独占欲に似ている。

 食えども食えども再生する肩の肉を何度も何度も噛み、時に下顎の小振りな歯が剥き出しの鎖骨を撫で、再生する前の噛み痕をざらついた猫のような舌でなぞって内側の肉を削ぎ落とそうとする。基本的に無欲で、なにかを強く欲することのない蒼井鈴葉の珍しい姿に、脳髄の奥がゆらりゆらりと揺れ動く。無意識に動いた両腕は、もう一度、その矮躯を慈しむように抱きしめた。

 覚悟はしていても、突き抜けるような激痛は体を震わせる。

 エヴァンジェリンと鈴葉の血が混じるように溶け、アスファルトに赤黒い水溜りが出来ていく。荒くなった呼吸に、寒冷とした空気が肺を凍てつかせた。唯一熱を持っているのは、噛み痕だけ。頬を紅潮させながら親鳥に恵まれた雛のように忙しなく餌をつついている鈴葉の熱い吐息が、晒された肉と骨を焼く。

 食い千切るだけの工程に遂に飽きたのか、鈴葉は肩口からそっと離れ、耳の下側へと潜り込み細い首筋に歯を当てると、柔らかい皮膚に食い込ませた。今までと同じようにその皮膚を破れば、諸共に引き裂かれた静脈から、どくんどくんと赤ワインのような血液が止め処なく溢れ出す。

「んんっ……」

 露になった傷口に唇を当て、啜るように窄めれば、舌の上をあっさりとした鉄臭い液体が転がっていった。こくりこくりと、小さな喉仏が上下運動を繰り返す。

「つッ……!」

 慣れて麻痺し始めていた痛覚が、違う方向性の刺激に再び反応した。飛び出そうとする悲鳴を我慢しようとして唇を噛めば、吸血鬼を吸血鬼たらしめる鋭い犬歯が薄い皮を突き破り、僅かな血がゆっくりと白い肌の上を滴り落ちる。無我夢中になって濃厚な血を文字通り飲み干そうとする鈴葉の動きが一瞬だけ止まり、首から口を離すとゆっくりと体を起き上がらせる。心なしか赤みがかった黒髪を妖艶に垂らし、その黒ずんだ目で、息も絶え絶えなエヴァをじぃっと見つめる。

「ごめんね」

 小さく、短く呟くと、再びエヴァの頬を両手で包み、血の垂れた唇に一度だけ舌を這わせた。唐突な、接吻に似た行動に驚くこともできない吸血鬼は、ただ呆然とその少女へと視線を向ける。いつぞやと違い、理性を失っているようには見えない。むしろ理性的で、それどころか、なにか既視感のようなものを覚えた。いつもと変わらない、掴みどころのない無表情なのだが、なにか雰囲気が違う。その違いが、妙に胸をざわつかせた。

 気付けば、いつもの黒いワンピースの下から覗く肌からは裂傷も消え、陶器の様にきめ細かい綺麗なそれが夜の闇に眩しく主張していた。同様に、首の傷も再生しきったエヴァは、整わない息を無理やり飲み込み、疲れ切った声で問うた。

「もう、大丈夫、なのか?」

 魔力は供給されたのか。体調に異変はないのか。理性は保っているのか。人間の形をしたものを食べたことに罪悪感はないのか。いつもとは違い調整されている訳でもない量の肉を食べたことで何か違和感を覚えていないか。

 ふつふつと湧き上がる疑問は絶えることを知らない。出てきた言葉は酷く端的なものだったが、同時にその全てが集約されていた。

 鈴葉は答えない。なにかと物憂げに眉を潜ませている。なにかを言おうとして、しかし、思いとどまるように口を閉ざす。それを何度か繰り返しているうちに、瞼が落ちていき、うつらうつらと頭が揺れていき、やがて――

「む……」

 ――エヴァンジェリンに覆い被さるように倒れてしまった。

 自分の体の上で穏やかな寝息を立てる鈴葉に、先ほどまでの貪欲な姿はとても想像できない。なんとなく鈴葉の頭を撫でてみれば、数秒前までの出来事がまるで夢のようで、今この瞬間こそが現実であると実感が湧いてくる。奪われた魔力は微々たるものだが、精神的な疲労感はあまりにも大きく、このまま瞼を落として眠ってしまいたい欲求が頭の中で囁く。

「お待たせしました、マスター」

 聞き慣れた抑揚のない声。それと同時に、複数人の足音が聞こえてくる。そのどれしもが忙しなく、むしろ、今の自分自身を取り巻く空気こそがズレているのだろうと声もなく苦笑した。

 優秀な班員たちが鈴葉を素早く丁寧に抱き上げる。エヴァンジェリンに詰問をする様子は見られない。事情聴取は任務に含まれていないのだろう。声の主である茶々丸にゆっくりと抱き起こされ、ブランケットを背中にかけられる。

「マスター、怪我はございませんか?」

「ん? ……ああ、無事だ」

 主人が吸血鬼であることを忘れているのか、茶々丸は至極当然と言わんばかりにその矮躯を気遣う。しかし、無理もない。押し寄せてくる倦怠感に意識が覚束なくなっていることは、本人であるエヴァンジェリンが一番理解していることでもあった。

 班員の恙無い作業を見つめながら、今日の夜は長くなることを予想しながら、エヴァンジェリンは空を仰ぐ。

「茶々丸」

「はい、マスター」

「私の服を直せるか。明日の朝までにだ」

「お任せください」

「頼む。それと、少しだけ、休む。五分後に起こせ」

「仰せのままに。……おやすみなさい、マスター」

 返事を待たずとして、エヴァンジェリンは瞼を落とし、茶々丸の肩に寄りかかるようにして意識を落とした。

 幼気な少女のような寝顔。それは、距離を置いたところで機材と班員に取り囲まれた鈴葉の表情と、どことなく似ている。

 お互い、疲れ切ってしまったのだろう、と、認識する。二人とも、その矮躯に収まらない強大なものを内部に秘めている。茶々丸にとって、エヴァンジェリンのこんな寝顔は、体調を崩して弱り切った時以外には見たことがなかった。

「どうか、ゆっくり休んでください」

 周囲には聞こえない範囲の小さな声でそう呟きながら、少しだけずり落ちたブランケットを掛けなおして、預けられた小さな小さな体重を支えた。

 ――その後、忠実な従者は、一秒のズレもなく、五分後に主人を叩き起こしたのだった。

 

 




 時間って、どうしてこんなに早く過ぎていくのでしょう。
 不思議なものです。
 どうしても書く機会に恵まれなかった部分を書けました。なかなか辿り着けないから近道をした、とも言います。

 おそらく、本話につていはある程度の疑問が浮かぶかと思います。
 野暮なのでそれについては書き控えますが。自分が想定している疑問については、大した理由もありません、とだけ。ただ、前に記述したかもしれませんが、基本的にアンチ的な表現をするつもりはありません。学園長が無能か有能かを議論するつもりもありません。

 長いこと書けずにいたこともあって、文章力というものが0からマイナスを振り切っていて読みづらいかと思います。まぁどうあがいてもゴミはゴミなので、読めたものじゃないって思ったら無理をなさらず、どうか他のことにお時間をお使いください。時間は有限ですので。いえ、皮肉とかそういうものではなく、真理的に。
 いつも以上に長くなった本文ですが、読み切ってくれた方には感謝です。死ぬまでに書き終えられるかも怪しい駄文ですが、たまに更新すると思うので、10年後くらいに暇な時間があったらまた読んでやってください。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。