遠くから、声が聞こえた。
眠っていたのだろうか。眠っていたのだろう。酷く喉が乾いているし、意識もどこかはっきりとしない。瞼を持ち上げても、暗闇ばかり。
カツン、カツン、と。
革靴の音が聞こえる。先程聞こえた声の正体だろうか。でもそれはあまりにも遠すぎて、音も反響しているようで、正確な位置がわからない。
上体を起こそうと思って、気づく。
私はどうやら、既に立っているようだ。
否。厳密には、立たされている。
拘束具のようなもので体が固定されていた。
このような状態で良くものんびりと眠れていたものだと、自分の図太い神経に驚かされる。
やがて、なにかが開く音と同時に、光が差し込んだ。先程まで遠かった足音は、いつの間にか目の前まで迫ってきていたようだ。
「ここは、慣れませんね。ガンドルフィーニさん……」
男性の声だった。
なんだか聞き馴染みのある、落ち着いた若い男性の声。
「同感だ。……やはり君には辛いだろう。前にも言ったが、無理しなくてもいいんだぞ。ただでさえ危険なのだから」
「いえ、僕が担当していた子ですから。最後まで責任を果たしたいんです」
「……責任感の強さは人一倍だな。だが、今の彼女に理性はない。それに君は優しすぎる。前々から思っていたことだが、危なっかしいんだ」
「分かっています。でも……」
「みなまで言うな。私も理解しているよ。ただの忠告だ」
「……はい」
声が近づいてくる。光に慣れていない眼球が悲鳴を上げて、その姿をはっきりと目視することはできなかった。
「しかし、エヴァンジェリンもよく分からん奴だな。“提供”してくれる人物として今では重宝されているが……。もう一年にもなる。ヤツだって見返り無くしてこんなことを続けはしないだろうと考えていただけに、どこか奇妙だ。なにを企んでいるのやら」
「その言い方は、あまりにも酷ですよ。鈴葉ちゃんがエヴァンジェリンと会話している姿は何度も目撃されていました。鈴葉ちゃんも、エヴァンジェリンは“優しい”と、そう言ってましたし……」
「全く理解できんな。童姿の悪鬼だぞ。今でもエヴァンジェリンは自作自演を疑われている。無論、私も疑っている者の一人だ。言わば、生徒を一人人質に取られているような気分だよ。最悪極まりない。事実、蒼井くんの強大だった魔力反応も今では……。エヴァンジェリンの実験の失敗だと仮定すれば――」
「――ガンドルフィーニさん。そろそろ、始めましょう」
「……ああ」
二人の男性は目前まで迫ると、なにか杖のようなものを取り出し、よく分からない言葉を並べ始めた。聞き取れそうで聞き取れない言葉の羅列に、少しだけ不安を覚える。なにより、その言葉が進むにつれて、拘束具が私を締め付けてくるようで、酷く苦しかった。
「……っ。――だ、れ……?」
やっとの思いで、声が出せた。声帯に千切れるような激痛が走るが、悲鳴を出すことすらできない。
二人の男性は動きを止めて、此方を凝視しているようだった。聞こえなかったのだろうか。
何度か咳き込み、もう一度、声を捻り出す。
「だ、れ……です、か?」
しかし、やはり反応らしい反応は返ってこなかった。自分の鼓膜でさえ聞き取れるか怪しい、か細い声しか出せない。二人の男性に私の声が聞こえていなかったとしても、なんら違和感はない。
しかし、私にできることは声を出すことだけ。
ならば、何度だって声を出してやろうと考えて、もう一度深く空気を吸った。喉と肺が逆剥けているように痛いが、気にしてはいられない。
拘束されているという現実は、あまりにも恐ろしかった。
「ガ、ガンドルフィーニさん……」
いざ声を出そうとした瞬間、若い男性が声を上げた。それは私に向けたものではなかったが、反応を貰えたという判断で間違いはないだろう。
「あ、ああ……。意識が、戻ったのか……?」
「鈴葉ちゃん! 僕が見えているかい?」
若い男性が、私の顔を覗き見る。光に慣れた今の私の視界には、その表情がよく見て取れた。
期待と、不安。そして、安堵。それらが入り混じった表情が、その整っている顔のパーツを歪めていた。
声を出すのはやっぱり辛くて、私は精一杯頷いた。拘束具のせいでその動きはあまりにも小さかったが、それでも男性には伝わったようで、表情を喜色に染めた。
「瀬流彦くん。私は救護班と学園長に連絡を入れる、“給餌”は任せてもいいか」
「はい!」
「頼んだぞ。それから、拘束具はまだ解かないように」
褐色肌の男性は急ぎ足で部屋を出ていき、若い男性と二人きりになる。
男性は手に持っていた杖を懐にしまうと、鞄の中から洋紙に包まれたなにかを取り出す。包みを丁寧に剥がすと、中からは真っ赤な肉が――美味しそうな生肉がその姿を現した。
乾ききっていた口の中が、唾液で満たされて、口の端から溢れる。
「食べられるかい?」
綺麗に切り分けられているそれを、私の口元まで運ぶ。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。
力が入らないが、それでもなんとかして口をいっぱいに開けて、その肉に噛み付く。瞬間、濃厚でクリーミーな味の深さに驚かされる。
なんだか、数年ぶりの食事のように思えて、涙が零れた。
咀嚼して飲み込むまでの時間が無限に感じられる。それは比喩などでは無い。実際、顎は疲れきっていたし、飲み込むという動作が、まるで忘れてしまったかのように酷く難しかった。
それでも、牛歩が如く遅い食事を、その男の人はゆっくりと見守ってくれていた。というよりは、肉の端を手に持って私の咀嚼を支えてくれているのだから、見守らざるを得なかったのだろう。
やっとの思いで最後の一切れが食べ終わるという頃に、彼等はやってきた。
先程の褐色肌の男性と、胸にマークのついた外套を被っている複数の団体。それに追従するようにやってきた、一人の老人。
外套を羽織った集団は慣れた手つきで私の頭や腕や胸になにかしらの装置を付け、また、先程男性たちがしていたように、よく分からない言葉を並べ始めた。
拘束具が締め付けてくることはない。むしろ、冷えきった体が温まるような、不思議な感覚。
突然、私の周囲を不可解な光が取り巻く。それらはただの光ではなく、なにか記号や文字のようなものが入り乱れていて、なんだか、とても懐かしい気持ちにさせた。
「――意識レベル、数値、全て正常。異常、ありません!」
装置を弄っていた一人の女性が、その言葉を口にした瞬間、周囲から”おお……“と声が漏れた。
セルヒコと呼ばれていた男性は、涙を流し、褐色肌の男性に肩を抱かれている。
――なんだか、とても嬉しかった。
よくわからないけれど、嬉しかった。
「……鈴葉」
一人の老人が、私の目の前にやってくる。後頭部が長い、なんだか、変なおじいちゃんだった。
「良く、耐えたな。頑張ったな……」
そのおじいちゃんは私の頭を撫でてくれて、それがまた妙に懐かしかった。
耐えた覚えも、頑張った覚えも、ないけれど。それでも、なんだか褒められているのだと言うことは理解できて、無条件に嬉しくなる。
でも――。
「わしが分かるか?」
――嬉しさの反面、不安だらけでもあった。
「だれ……ですか? あな、た、たちは、……私は、だ、れ……? す、ずはって、わた、し……?」
知らない人間。そして、今も尚続く拘束。
この人たちが私に害を及ぼす悪い人だとは思えないが、それでも、怖いと感じて、警戒する私の気持ちと思考は、この上なく冴え渡っていた。
だからこそ、浮き彫りになる。
分からないこと。
覚えのないこと。
なにか大事なものが、欠落している感覚。半身が溶けて、消えてしまったような、喪失感。
ただ、不明瞭な感傷だけが、胸にジクジクと残り続けていた。
◆ ◆ ◆
暫くの時間を、私はあの部屋で過ごした。
照明の一つもない寂しい空間は、しかし、落ち着いて頭を動かすには最適な場所だったとも言える。
拘束具は外された。常に監視は続くと言われたが、特に気にするようなことでもなかった。
冷静になった頭なら、理解できないこともない。事情の説明はされなかったものの、ある程度の憶測はできる。
拘束するということは、異常な行動に出る可能性があったということ。牢獄のようなあの部屋は、正しく牢獄で、私を監禁するだけの理由があったということ。彼等を敵ではないと断定するには情報が足らないものの、殺すことなく生かしていたということは、現時点で殺す理由は存在しないということだ。
あれから、いろんな人達が数日おきに代わる代わる私の元を訪れ、私の大好きな“お肉”と飲み物を渡してくれた。
ベッドと小さな電灯も用意してもらい、急造ながらもお手洗いまで設置してくれた。暇潰しも兼ねて、“残っている記憶”に関するデータも見たいということで、いろんな本を持ってきてくれた人もいた。
その時点で、彼等に対する“敵かもしれない”という疑惑は無くなっていた。
そんな地下牢獄での生活が一ヶ月ほど続いた後、私は地下の部屋で軟禁されることとなった。
これだけ聞くと物騒だが、環境的にはかなり改善されていた。
牢獄ではなく、そこは正しく部屋だった。薄いピンクの壁紙や、ハート柄のベッドなど、如何にも“女の子”を意識した部屋。胸焼けしそうだった。
やはり、ここもまた急遽私専用に改築された部屋だった。元々は地下一階にある修道女たちの宿直室のような場所だったらしく、今までの場所が地下三五階に位置する特別な牢獄だった事を考えると一気に地上に近くなったと言える。
部屋を出て少し歩くと見えてくる階段を上がれば、そこには麻帆良のカトリック教会があるとかないとか。
頻繁に私のもとへ訪れる瀬流彦先生は、とてもいろんなことを教えてくれた。
元々、“魔法生徒”であった私に魔法を教えるための“魔法先生”だったということ。
魔法先生として魔法生徒をマンツーマンという形で担当するのは、彼にとって私が初めての経験だったらしく、でも、私が優秀だったから困ることも少なかったということ。
私が良く懐いていた“吸血鬼”は、今も私のことを心配してくれているということ。
私が何故、このような状態になっているのかは、訊いても「ちょっと大きな事故にあったんだよ」の一点張りだったが。仮にそうだとしたら、私は相当特殊な入院の仕方をしていたと言える。拘束されて磔にされていたのだから。
そういう、誤魔化された情報も幾つかあったものの、私が地上に出たとしても然程困らないであろう程度に、いろんな情報を教えてくれていることは確かだった。
――ここへ引っ越しをしてから、どれだけの時間が経ったか。カレンダーはあっても、地下での暮らしは時間感覚が分からなくなる。少なくとも二度ほどカレンダーを交換したから――ニ年は経ったかもしれない。とにかく、膨大な時間をこの空間で過ごした事だけは確かだった。
本を読むくらいしかやることがないとは言え、流石に活字を追うのも飽きるし、それなりの退屈も感じてきた。
しかし、飽きというものは一過性のものに過ぎず、ある程度時間を置けばむしろ本を読みたいという欲求に駆られるのだから、人間の体は良く出来ている。
退屈に殺されるなんて、真っ平ごめんだった。
「鈴葉ちゃん。ちょっとだけだけど、外に出れる許可が貰えたんだ。どうかな、外に出てみるかい?」
唐突に、瀬流彦先生はそんな提案を持ちかけてきた。
その提案が魅力的かと問われると、とても難しい。“外”という概念は記憶にあるし、ある程度イメージしてみろと言われれば、簡単に頭に思い浮かべることができる。故に、“外”に思いを馳せることは無かった。むしろ、この部屋は十分に満たされている。
体感時間にして、二年間、文句も言わずに閉じこもっていたのだから、この部屋がいかに充実しているのかはお分かりいただけるだろう。
強いて不満を言うならば、入浴が難しいことだろうか。基本的に体は毎日拭いているものの、シャワーを浴びることが出来るのは一週間に一回だけ。
元から修道女が使っていた空間ということもあり、地下一階にはシャワールームが取り付けられていた。だが、それは部屋の外にある。つまり、この部屋から出なくてはいけないということだ。それは最低限に抑えさせてくれという、学園長からのお願いだった。
勿論、私はそれを承諾した。彼等にはいろんな要望を聞いてきてもらった。その上で自分の欲求を押し通すほど、厚顔無恥ではない。
それに、監視役の人達は皆男性だ――やんごとなき理由があるのだろう――。私は私で、一応女性という自覚がある。私の体がいかに幼児体型であるとは言っても、やはり、信用できる人を選びたいというのは、我儘ではないだろう。シャワールームの前で待ってもらうだけとは言え、裸を見られないとは限らない。
故に、基本的に監視役の人は空き時間を作って不定期に訪れるのだが、毎週金曜日の決まった時間には必ず瀬流彦先生か高畑先生がやってくる。その時だけ、シャワーという至福の時間が訪れるのだ。
――やはり、その一点に限ってはどうしても不満があった。
決して外に興味があるわけでもないが、もしかしたら、“外に出しても大丈夫”という認識を持っていただける可能性があるというのは魅力的だった。
それは要するに、監視の目を緩めることに繋がるだろうし、そうすれば“毎日シャワーを浴びれる”という特典に結びつくやもしれない。それどころか、私にとって未知の経験である、“浴槽に貯めたお湯に浸かるという、いわゆる入浴という行為”に到れるかもしれない。
――で、あれば、乗らない手はないだろう。
「…………ん」
か細い声で返答し、頷く。
未だに声を出すのは苦手だった。喉に妙な違和感を覚えるのだ。一方通行の弁を、無理やり弄くり回すような、気持ち悪さ。
月に一度ほど私の診察にやってくる救護班の先生は、それを“心的外傷”が原因なのではないかと言っていた。
声を出すことへの恐怖。
……特にイメージできることはない。
なにより、記憶を失くした私に、心的外傷というものは当てはまるのだろうか。
「それじゃあ、さくっとシャワー浴びてから外に出てみよう。あと、これも事前に了承しておいてほしいんだけど……」
そう言うと、瀬流彦先生は鞄の中から、妙な道具を取り出した。
「チョーカー型のデバイスなんだけどね、これを付けてもらわなきゃならない。いいかな?」
頷く。
制限が有るのは当然だ。ここまで厳重に監禁しておいて、いきなり制限のない自由を謳歌しろと言われるのは、むしろ違和感でしかないだろう。
黒い革製のそれは、オシャレとも呼べなくはないし――まぁ、いいのではないだろうか。
原作を読み返してみると、エヴァは学園結界によって力が封じられていることを知りません。厳密には三巻にて茶々丸がハッキングすることでその内情を知るのですが、今作ではエヴァは学園結界についてのことを理解しています。更に、《登校地獄》によっても力が何割か制限されているような描写がある(むしろ学園結界よりも強力な制限なのでしょうか)のですが、ここではそのパーセンテージを逆転させてもらっているとご理解ください。学園結界の介入さえなければ吸血鬼として十分に振る舞えるくらいには力を取り戻してもらわないと、この作品は立ち行きません故。
まぁこればかりはご都合主義です。まさしくご都合主義です。これをご都合主義と言わずしてなんと言いましょうか。ご都合主義以外に言葉を表すならば原作に対する冒涜でしょうか。純粋な話エヴァが好きだけど原作キャラと原作キャラでの絡みを基本にした二次創作(むしろそれこそが二次創作のあるべき姿だと思うのですが)があまり得意ではないためにオリキャラをクッションにしてエヴァを眺めていたい(妄想)だけなので、あまり深くは考えないでもらえると有り難いかもしれません。
あと普通に考えてArchiveも本編の一部だし、もともと後書きに書こうと思っていたのですが後書きじゃなくて普通に本文の最後に書いていくことにしました。特にプロットとかある訳でもなく、書きたいように書いてるだけなので、読むも読まないも自由でございます。
ちなみに、さらりと書きましたが、既にかなりキンクリしています。
最後のシーンに関しては、目が覚めてから二年程経っています。ご注意ください。