大きなお庭。
端っこに置かれたベンチから、■■が元気に走り回っている姿が見て取れた。二匹の大きな白い犬――グレート・ピレニーズ――に追いかけられている姿は、まるで猟犬と獲物のような構図だが、それが遊んでいるだけだということを私は知っている。
ほら、だってあんな小さな歩幅なのに、犬達はいつまで経っても■■に追いつかない。
やがて、■■が転ぶことでその狩りごっこに終止符が打たれた。犬達にべたべたに舐められて、■■は嬉しそうに、しかしどこか虚無を彷彿とさせる無表情な様子でそれを甘受していた。
幸せな光景。
楽しい憧憬。
いつまでもこのままだったら良いのにと思わずにはいられない情景。
光に満ち溢れた、ありふれた家族の、たった一部を切り取った一幕。
この頃から、■■と私は対象的だったと思う。だけど、それも良いのだろう。
そんな点対称だって、ありふれているじゃないか。
そんな鏡の外側と内側のような姉妹なんて、どこにでもいるではないか。
別に恨めしいこともなければ妬ましいこともなかった。むしろ私は■■のことが好きだったし、■■も私のことは好きだったと思う。多分、きっと、恐らく。
目線を落として、私は手に持っている本を開く。
多分、童話だったような気がする。
ありふれた童話だ。
囚われたお姫様を助ける王子様のような、怖い人達から魔法の力で抜け出す悲劇のヒロインのような、呪われたお姫様を王子様がキスをして助けるような、そんなありふれたお話だったと思う。
――■■。
呼ばれて、顔を上げる。
気づけば■■は私の眼前にいた。その後ろで大きな犬達は舌を垂らして獲物を見るような目で私を見つめている。
「どうしたの?」
■■の髪の毛についた芝生の葉を取ってあげて、それから私によく似た真っ黒な髪の毛を梳くように撫でる。
――一緒に遊ぼ?
ああ、なんて可愛らしいのだろう。
だけど、そのお願いを聞くことは、私にはできなかった。
だって、私はもう■■■から。
「ごめんね、私は本を読まなきゃいけないの」
別に読まなきゃいけない訳でもないけれど、遊ぶことは絶対にできないから、そんな言い訳をした。
すると■■は不思議そうに小首を傾げるのだ。
本当に可愛らしい。愛らしい。
――なに読んでるの?
そう聞かれて、私は分からなくなった。
なにを読んでいたのか。
それは多分、お姫様を捕らえる悪者のような、とにかく憂さ晴らしをするように可愛い女の子を虐げる悪女のような、お姫様に呪いをかける魔女のような、そんなお話。
「……お姫様を不幸にするお話、かなぁ」
多分、間違っていない。
――ふぅん? でも■■はお姫様を助けてあげたい。
「うん、そうだね」
それは本心だったと思う。
誰かを助けられるようなヒーロー。悪に立ち向かう強い心を持ったお姫様。愛した人のために奮闘する王子様。
それは、どうしようもないくらいに眩しくて、どうにかできるくらいには羨ましい人たち。
――だからね、■■は正義の味方になる。
「……うん、そうだね」
それはね、無理なんだよ。
絶対的に不可能なのだ。
絶望的に不可能なのだ。
相対的に不可能なのだ。
だって私達は――。
――■■も、■■と一緒?
「…………うん、そうだね」
この頃から分かっていた。
だけど足掻いたような気がする。
この頃からわかっていたのに。
藻掻いたような気がする。
どうせ、■■の血は私を追いかける。
そして、結局追いつかれてしまったではないか。
「ずっと、一緒。ね、■■」
嘘つき――。
――……うん、ごめん。
◆ ◆ ◆
最悪の目覚めだった。
寝汗で寝間着はしっとりと蒸しているし、そのせいで肌に纏わり付くような感覚が気持ち悪い。更に汗はマットレスまで侵食し、掛け布団もまた湿り気で冷たくなっていた。荒れた息はなかなか整わないし、悪夢の残滓が脳裏を掠めているし――とにかく最悪だった。
布団を蹴飛ばすようにして退かして、上体をもたげた。ベッドのすぐ横にあるサイドテーブルの上に置かれたリモコンのボタンを押すと、照明が点いて暖色の光が部屋を明るくさせる。
視界の確保に成功してやっと安心を覚えたのか、呼吸が落ち着きはじめた。
胸元のボタンを外してパタパタと仰ぐ。冷房の風も相俟って、熱くなった体が急激に冷えていくのが分かった。それはとても気持ちのいい感覚だったが、しかしこのままでは風邪をひいてしまう。例え風邪をひいたとしてもなにか不都合があるわけでもないが、自ら病気を患おうとする程、私は酔狂ではない。
ベッドから下りて、改めてマットレスを見ると、それはそれはもう酷いなんてものではなかった。人間の体からこんなに水分が抜けるなんてことがあるのかと感心したくなる。これはもう、湿っているというより水溜りだ。
ため息を零しながら、マットレスカバーを外す。ついでに掛け布団のカバーも外し、部屋の隅にあるハンガーラックに掛けてみる。冷房の風があるから乾いてはくれるだろうけれど、これは流石に洗濯案件だ。諦めて、洗濯かごに投げ入れる。
あとは着替え――いや、着替える前にシャワーだ。暑いお湯を浴びなくては、本当に風邪をひいてしまう。
そう、私の目論見通り、私の行動範囲が少しだけ広くなった。今やこの教会の地下一階は私に所有権がある言っても過言ではないだろう。好きな時に好きなだけシャワーを浴びれる幸せとはかけがえのない喜びなのだということを実感した。
閑話休題。
兎にも角にも、寝間着をさっさと脱いでしまおう。
濡れた衣服を纏ったままで動くのはとても気分が悪い。
インナーに手をかけて、いや待てよ、と。冷静になった。いくらここが地下で、最近はあまり監視役の人達の立ち入りも少なくなってきたとは言えども、真っ裸で部屋の外に出るのは、流石に開放感が強すぎるのではないか、と。
この地下一階というフロア全体が最早私の部屋のようなものではあるけれども、流石にそれは、露出趣味の痴女の行いなのではないか、と。
そんなことをぼうっと考えていると、突然部屋の扉が開いた。
「お、っと……」
「…………」
人の部屋に入る前にノックをするという今時縄文人だって知ってる常識をかなぐり捨てた闖入者は、意外なことに高畑先生だった。
いつでも清潔感のある白いスーツに身を包む無精髭のヘビースモーカー。
高畑先生という人物を要約するとしたら、こんなところだろうか。瀬流彦先生の話では、なんでも魔法世界の大戦にて功績を重ねた超一流の魔法使い――その仲間の一人だったらしい。正直、そんなことを言われても、私から見ればただのダンディなおっさんでしかないので実感はない。
「ごめんごめん。僕としたことが、ぼうっとしててね」
そんなことを言う暇があるのなら早く退室していただけません?
おい、後ろ髪を掻くな。
カバーを貫通したマットレスの水溜まりを見るな。
そんな、“あー、おねしょか。まぁ君くらいの年齢なら無い話でもないから、気にすることはないさ”みたいな顔をするな。
…………。
「……おねしょじゃ、ない、です」
「へっ!? あ、ああ。うん、そうだね。大丈夫、誰にも言わないよ」
おい。
◆ ◆ ◆
拙いながらも事情の説明と、それからシャワータイムを終わらせて、私は高畑先生と二人でベッドに腰掛けていた。サイドテーブルには湯気の立つ紅茶が置かれている。高畑先生が“さっきのお詫びに”と、上の教会のキッチンを借りて淹れてきたらしい。
高畑先生は私の監視役のうちの一人だった。こうして二人で時間を過ごすことは決して珍しくはない。ただ、ここ最近はあまり顔を見せることも無かったので、意外と言えば意外だった。超一流の魔法先生ともなれば、その多忙さは想像に難くない。てっきり、私の監視役からは既に外されたのかと思っていたのだが。
湿っている髪の毛をタオルで軽く拭いてから、早速紅茶をいただく。ここに来る度に淹れてくれるおかげで、その味は既に知っている。意外性も何もあったものではない。
いつもの味を舌で感じ、喉に通し、一息。
まぁ、嫌いではない。
「許してくれたかい?」
図に乗るな、と言いかけるものの、私はとても優しくて素直な子なので無難に頷いておく。
そもそも、別に高畑先生は嫌いではない。むしろ、好感を持って接していると言っても過言ではない。スーツに染み付いた煙草のニオイでさえも、今となっては“落ち着く”と思えてしまう。
常に余裕のある彼は瀬流彦先生と比べてとても相談もしやすく、おじいちゃんとのコネクションも強いのでこちらのお願いもある程度は聞いてくれる。
普段はその落ち着いた物腰と柔軟な思考に助けられているのだ。今回のような紳士にあるまじき失態こそ、イレギュラーである。タイミングの悪さから女難の相が見えているぞと伝えたい。
高畑先生は“良かった”と、心の底から安心したと言いたげな声色で呟くと、手に持ったコーヒーを一口だけ飲んだ。
「瀬流彦くんから聞いたよ、先週から勉強を始めたんだってね」
その通りである。
《とある事故》で私はいろいろと厄介な爆弾を抱えているらしい――残念ながらその爆弾がなんなのかは教えてくれない――が、私の本分は“生徒”もとい“児童”である。記憶を失くしているとは言っても、その現状に甘えて勉強を疎かにするのは十全ではない。故に、私からお願いしたのだ。
国語に関しては問題ないと思う。目が覚めてからずっと本を読んでいたし、同時に国語辞典も用意されていたので、分からない言葉は調べる事ができた。分からなかった言葉の復習なんかは良い暇つぶしになる。だが、問題は計算だった。理科や社会なんかはもっと問題だ。まるで覚えていなかった。一部の単語こそ覚えていても、“何故そうなったのか”までは分からない、というのが現状。正直、文法や漢字以上に厄介だった。
なので、内容は小学一年生から。教科書とドリルとノートを用意してもらって、一人で黙々と、監視や食事を持ってきてくれる先生が来たときは教えてもらいながら、しっかりと勉強を始めたのである。褒めろ。
「もう提出できるドリルはあるかな?」
言われて、私は頷いた。
サイドテーブルの棚を引き、算数と社会と理科のドリルと道徳の課題プリントを取り出す。
「え、もうこんなに提出できるのかい? 凄いじゃないか!」
そうだ、いいぞ、その調子でもっと褒めろ。
とは言え、私にとって、暇な時間は無限にあると言っても過言ではない。指定されたページまで進めるくらい、なんてことはなかった。
小さく胸を張る私に何を思ったのか、高畑先生は私の頭を優しく撫でた。いや、うん、これは流石に恥ずかしい。だがまぁ嫌な気分ではない。
「じゃあ、これはきちんと預かって、採点したらまた持ってくるよ」
コーヒーをサイドテーブルの上に置くと、高畑先生は鞄にドリルをしまう。
……それにしても、いつまで
私がシャワールームに向かう時にも上手く隠れたつもりなのだろうが、正直に言えば、それは気づかざるを得なかった。如何せん、
……何故か、口の中の唾液量がいつもより多くなる。
隠れているということは、見られたくないということだ。変に詮索しない方が身のためか。
思わず部屋の外を凝視しそうになるが、紅茶に口を付けることで強引に意識を匂いから引き剥がした。
「……今日は他にも話があるんだ」
暫時、互いに飲み物を飲むだけの時間が続いたあとに高畑先生はそう切り出した。
「エヴァと会ったんだってね?」
頷く。
もう数週間前の話だが、あの対面は今でも夢に見る。分かっていても困惑してしまう、そんな自分自身に困惑しているかのような表情が、瞼に焼き付いてしまっていた。
「……君はエヴァととても仲が良かったんだ。学校が終わると一目散に中等部エリアに向かっていく君の姿は、いろんな先生たちの目についてた。勿論、僕も見かけたことがあるよ。その時の君は、なんだかとても楽しそうだった」
それは、もしかしなくても、悪い意味で目立っていたのだろう。
「瀬流彦くんとも良くその話をしていたよ」
……相談してたんだろうなぁ。
自分の教え子が悪の代名詞と仲良くしてるなんて、どんな気分なのだろう。
……今の私はエヴァンジェリンさんについて知らなすぎる。だから、彼女がどうしてそこまで“悪”とされているのかは分からない。それでも、ガンドルフィーニ先生の様子を見ていると良く分かる。彼女の嫌われ方は尋常ではない。
なにしたんだろ。
やっぱり万引きとかかな。
いや、他人に万引きを強要していたのかもしれない。
或いは煙草か。飲酒か。はたまた無免許運転か。暴走族なのか。
――やめておこう。不良なエヴァンジェリンさんをイメージするのは何故か容易いのだが、これ以上は彼女の名誉を傷つけてしまう。
なにより、壁一つ越えた向こう側までこの思考が漏れてしまったら――おお、考えるだけで身長が三センチくらい縮みそうだ。
「だから、もう一度、エヴァと仲良くしてやってくれないかな。これは君の為でもあるし、――エヴァの為でもある」
なんだかとても優しそうな声色と表情に、私は納得した。再確認したと言ってもいい。高畑先生は、本当に裏表のない、純粋な心でその言葉を並べているのだと。まるで浄化されそうではないか。毒を吐くことの多い私の心までも溶かしてしまいそうな、暖かな心。正義の味方とは、こういうものなのだろうか。立派な
と、そんなことを考えていると、唐突に部屋の扉が蹴破られた。
見なくても分かった。
それは、まさに、今まさに話題の中心にいた、悪鬼羅刹の権化である。
「…………」
「ど、どうしたんだい、エヴァ? 僕はまだ鈴葉ちゃんとお話が――」
エヴァンジェリンさんはそのままずかずかと部屋の中に入ると、高畑先生の胸ぐらを強く掴んだ。
「――タカミチ! 貴様ッ、話と違うぞ!」
「ええ? そうかな? 僕はエヴァに言われたとおり、もう一回友達になってくれないかっていうお願いを――」
「戯けか貴様!? そんな話をしろとは言ってないわ!」
そんな夫婦喧嘩――夫婦喧嘩がどういうものなのかはよく分からないが――のような応酬を聞きながら、まぁ、少なくとも、高畑先生に伝言をお願いすることは、これから一生絶対に無いだろうなと、そう思ったのでした。
◆ ◆ ◆
エヴァンジェリンさんの話を要約すると、“貴様の話し相手になってやる光栄に思えガハハ、なのでこれから頻繁にこの部屋へ訪れると思うのでよろしく”ということだった。多少の脚色と曲解は隠し味。むしろ、これ程までに的確な要約は他に存在しないだろう。
将来の夢は通訳に決定かな。
しかしなるほど、高畑先生の友達云々の話も頷ける。エヴァンジェリンさんは強く否定していたので、わざわざそれを口に出すつもりはないが。
それにしても、隣に座るエヴァンジェリンさんの匂いが、どうしても気になってしまう。
いや、決してクサイと言いたい訳ではない。
むしろいい匂いだ。頭がくらくらする。シャンプーの香りなら私も負けじと噴出しているだろうが、そういう類のものではない。もっとナチュラルな、人間的な香り。――これがフェロモンというやつだろうか?
未だにエヴァンジェリンさんと高畑先生は漫才のようなやりとりを繰り返している。挟まれている私の身にもなってほしい。これでは激しいツッコミからボケを守るための緩衝材だ。
しかし、そんな嵐の渦中にいてもお構いなしに、エヴァンジェリンさんがそんな魅力的な香りを振り撒くせいで、こちらとしては気が気でない。なるほど、もしかしたら昔の私はこの匂いに釣られた――まるで花の蜜に誘われる蝶のような儚くも美しい存在だったのかもしれない。
……そろそろ自己評価が天元突破しそうなので自重を覚えよう。
エヴァンジェリンさんの匂いは、しつこく私を追い回していた。
数週間前から、あの出会いから、私の頭の隅っこには常にエヴァンジェリンさんがいたし、時折、ふとこの匂いを思い出しては、安眠に誘われている気がして布団に潜りこんでいた。だけれど、その度に胸中に靄がかかるような気分になる。
冷たいのに暖かい、妙な感覚を覚えるのだ。
私の松果体を、脳髄を、まるで指でなぞられるような、そんな寒気と共に、それに呼応する脈動が、熱い血流が、全身の毛細血管を刺激する。
頭の中枢にあるもう一人の自分が垂涎していた。
願望を剥き出しに、欲望を掻き立てる。
だけれど、いまいち、なにがしたいのかがはっきりしない。
漠然とした欲求。判然としない欲求。それは最早、三大欲求の一つとして、さも当然のような顔をしてそこに鎮座している。それは底の抜けた水瓶だ。満たし方が分からない。
エヴァンジェリンさんに会えれば、満たされるのだろうか――。そう思っていた。だが現実はどうだろうか。脳を直接くすぐられるようなもどかしさが、余計に欲求を加速させている。
全身が痺れる。
体の奥深くから、じんわりと滲むような熱に、身体が疼く。行き場もなく曲がりくねる衝動が、身体の中で暴れている。
どうしようもない程に快感を求めているのだろう。欲求とはそういうものだ。だが、その快感を得るための手段を知らない。痒いところに手が届かない。意識の中に存在する選択肢には解決策がない。時間が経てば経つほど、私の意識と思考は蒙昧になる。黒洞々たる闇に沈んでいく。
陶酔して、心酔して、泥酔して、浸水する。
――そうか、私は既に溺れているんだ。と、それに気付いたときにはもう手遅れだった。
深く息を吸う度に、心臓が跳ねる。その鼓動が脊髄をよじ登って、延髄を抉って、脳幹を貫いて、髄液と脳細胞を沸騰させた。
「――す、鈴葉?」
唐突に、今まで外界の音を遮断していた鼓膜が、機能を取り戻す。
気付けば私はエヴァンジェリンさんの背後に回り込み、両腕でその痩躯を拘束して、星を編んだような金の髪を掻き分けて、首筋へと鼻を押し付けていた。
すんすんと、嗅ぐ。
おお、これはなかなか。やばいかもしれない。
「おい、聞こえてないのか……?」
エヴァンジェリンさんが持つそもそもの匂いとシャンプーの匂いと混ざって、身体の中がぐちゃぐちゃになる。
その長い金髪は綺麗だったけれど、今は少しだけ、それが邪魔だった。
なんとかその髪の毛を掻き分けて、退かして、そのきめ細やかな首筋に頬ずりをすると、お腹の奥が、ぐるぐると鳴る。
「――はあぁ」
自分でも驚くくらいに、恍惚とした溜息が漏れた。
私は――知らない。
こんなの、知らない。
だけれど――頭の奥のどこかで、誰かが、私の身体を操っているようで。
かぷり、と。
その吸血鬼の首筋を、優しく噛んだ。
「っん、……ちょ、ちょっと待て、鈴葉」
残念ながら、今の私に“待つ”という選択肢は無かった。端から用意されていない。私の身体を動かしているのは、私ではない。だから、待てない。
あむあむ、と――甘噛みする。
「――ええい、待たんか!」
エヴァンジェリンさんは勢い良く立ち上がることで、無理矢理私の歯牙から離れた。振り返って、真っ赤にさせた顔をそのままに、私を恨めしそうに睨む。その激怒している様子に、私は萎縮した。いや、萎縮したところでどうなるというわけだもないのだが、これは一種の防衛本能だろう。ベッドの上で割座した姿勢のまま、俯く。
嫌われただろうか。
嫌われたのだろう。
私にとってはそれは私ではなかったのだけれど、エヴァンジェリンさんからすれば、実行犯は私ただ一人なのだ。
エヴァンジェリンさんは私が噛んだ首筋に手をあてながら、一言。
「時と場所を弁えろ!」
「…………弁えたら、いい?」
この期に及んで言質をとろうとしている自分が空恐ろしい。
「あ、いや、違っ……。そもそも、一体何をしているのだ、貴様は! 腹はまだ減ってないはずだろ!」
それはその通り。
なぜエヴァンジェリンさんが私のお腹の状態を知っているのかは分からないが、ご飯は
だからこれは、食欲とは別の欲求。未だに不明瞭な、私の知らない、私の欲求。
そもそも、空腹になったからと言ってエヴァンジェリンさんを食べるなんてことはしない。
「お腹じゃ、なくて」
下腹部を両手で抑える。そう、本当にお腹は減っていないし、眠くもない。残念ながら、性的な欲求については未だに理解が乏しい。しかし、これがもしも性的な欲求なのだとすれば、私は同性であるエヴァンジェリンさんでその欲求を発散しようとしたことになる。それは、あまりにも、自然的じゃないと思った。
男性は女性に、女性は男性に、そういう欲求を持つものなのではないのか――?
少なくとも、私はそう認識している。
だが、私は男性にこんな感情を持ったことはない。瀬流彦先生にも、高畑先生にも、こんな――丸呑みにしたくなるような、衝動は、持ったことがない。
「心――?」
分からない。
分からないなりに解析する。
エヴァンジェリンさんに、なにかを求めている。
それは物欲的な、それでいて即物的な、他人の感情も、利害の勘定も、それら全てを度外視した、素直なまでの――。
そんな私の様子に、エヴァンジェリンさんは小首を傾げる。それに倣って、私も小首を傾げる。
「――えっと、僕はそろそろ仕事に戻るんだけど……、エヴァはどうする?」
その声に驚いて、私は左を、エヴァンジェリンさんは右を向いた。――ああ、そういえば、いましたね。なんて、言いたげに。
いつの間にか、高畑先生はポケットに手を突っ込みながら、部屋の出口に立っていた。
額にしっとりと汗を浮かべている。まぁ、仕方のないことなのかもしれない。私は意味も不明な行動を取るし、エヴァンジェリンさんは激怒しているし、この場を収めなくは、去るものも去れないだろう。
「…………ああ、そうだな。私も今日は帰るとしよう」
一瞬だけ躊躇して、エヴァンジェリンさんはそう結論を出した。最早怒りも冷めてしまったのか、呆れたものを見るような目で私を見る。
なんとなく、既視感を覚えた。
「エヴァン、ジェリン、さん……」
立ち去ろうとしたエヴァンジェリンさんの、その、なんか独特なひらひらとした真っ黒な服を、身を乗り出してつまんで、引き止めた。
その背中を、私は多分、追いかけてしまう。
今、私の身体は、主導権が奪われてしまっている。頭からイニシアチブを引き剥がされてしまっている。
だから、追いかけないためにも、私は彼女の足をそれ以上前へと進ませないことに必死だった――のだと思う。
「また、来て、くれます、か……?」
喉が掠れて痛い。
だけれど、それでも声に出す。
私に出来ることは、それだけだから。
「……最初にそう言ったはずだぞ」
それは、そのとおり。
もうこれ以上引き止めることは出来ないだろう。次は、私のこの衝動を引き止める番だ。そう考えて、指を離す。
自由になったエヴァンジェリンさんは、しかし、振り返り、何故か私の頭を梳くように撫でた。くすぐったくて、気持ちよくて、目を閉じる。
「エヴァと呼べ」
「……?」
最初、その発言の意味を捉えることができなかった。
「その喉じゃ、長い名前は呼び辛いだろ。だから、エヴァでいい」
そこまで言われて、やっと理解する。
「……エヴァ」
「……うむ」
――呼び慣れない。だけど、喜んでいる。
自然と頬が緩んだ。
――誰が? ――私が。
「エヴァ」
「な、なんだ」
湧き上がる気持ちが、制御できない。
ダメだ。
これ以上、主導権は、預けられない。
「……エヴァ。……またね」
だから、これが最後。本当に、これが最後。
――もういいでしょ? これだけ名前を呼べたなら、もう、それでいいでしょ?
「ああ」
やっぱり、エヴァは“さよなら”とも“またね”とも言わず、去っていく。エヴァが部屋を出たのを確認して、高畑先生は「ふぅ……」と一息ついた。そらから、「じゃあ、また来るから」と言い残し、エヴァの背中を追いかけるように部屋をあとにする。
――いいなぁ。
なんて。
思うな。考えるな。
ベッドの上で、背中を壁に預けて、膝を抱えた。
脚が動かないように。追いかけないように。
我儘な身体を、必死に抑えつけた。
――洗濯かご、外に出しておかなきゃ。
そんなことを考えながら、しかし私の身体は言うことを聞かず、ぱたりと横に倒れた。マットレスに染みた汗は未だに乾いてなくて、ちょっとだけ湿っていた。
――不貞腐れないでよ。髪の毛だって、まだ乾かしてないのに。
本当に、わがまま。
書きたいものしか書いてないというのは、つまり具体的なプロットもないということで、要するに時系列とか、割とバラバラになります。
原作読んでみると、意外とエヴァンジェリンって抜けてたりノリが良かったりするんですよね。
高校生とのドッヂボール対決の時には茶々丸がバズーカを売ってる横で耳を塞いでる可愛い姿が見て取れますし。