逃避とは、生物の本能である。
自分の身に合わない環境から逃げる。
自分を捕食しようとする外敵から逃げる。
自分の痛覚を刺激する物体から逃げる。
自分の臭味を刺激する物体から逃げる。
自分に降り掛かる火の粉から逃げる。
自分が抱く危険信号に従って逃げる。
兎に角、逃げる。
立ち向かうという行為は最終手段である。
当然だ。逃げられるのであれば、逃げた方が生存率も高い。立ち向かって命からがらに勝利したとして、致命傷を追ってしまえばその先に未来はない。
故に、端から戦うという手段を持って生まれた生物とは
生物なんて、呑気な顔をして植物を齧ってるだけで生きられるのなら、それが勝者だ。だから逃げることに特化する。肉食性の動物を嘲笑うように、それでいて必死になって命を絶やさない為に。
時には純粋な脚力で。
時には撹乱させて。
時には錯覚させて。
時には姿を隠して。
時には群の中の一を犠牲にして。
抵抗の手段を最低限として、逃避の手段を最大限に選択する。
それは、持つべくして持った生存本能。
無意識に囚われた、生き残るための行動。
だからこそ、私は恨む。
痛覚を持って産まれた身体を恨む。
どうせなら、痛覚もないただの餌として産まれたかった。痛みもなく、苦しみもなく。それはただ搾取されるだけの存在かも知れないけれど、それでもいいと思えた。
――慣れない日差しに焼かれた肌がヒリヒリする。熱い。痛い。日影が恋しい。
あれから数日後。エヴァは“夏休みに入った”と言って毎日私の部屋へ訪れるようになった。
話し相手になってやると言っていた割には、エヴァは口数が少ない。
ただ、裁縫道具を持ち込んでは、サイドテーブルの上でなにかをちくちくと縫っている。
その最中で、時折、“一人の時はなにをしているのか”とか、“飯はちゃんと食べているのか”とか、そういう無難な質問をしてくるのだ。
その度に短い言葉で答えたり、頷いたり、時には首を横に振ったりして、また無言の時間が訪れる。だが、その無言の時間は決して苦痛ではなかった。ベッドの上で横になりながらその様子を見ているだけで楽しかった。
一度だけ、“試しにやってみるか”と言われて、針に糸を通した事があった。しかし、その手際は最悪の一言。エヴァに手伝ってもらいながらなんとか完成させた花の刺繍は酷く不細工で――見てるだけの方が楽しいや、という結論に至った。
そんな日常の中で――エヴァが持ってきてくれた食事を食べている時に、エヴァは唐突に「今は夏休みで人も少ないから、外に出てみないか」と聞いてきた。
実を言えば、“外出申請”してそれが受諾されれば、私はいつでも外に出ることができる。勿論、付き添いは必須だし、チョーカー型のデバイスとやらも身に着けなくてはいけないが。
シャワールームの自由を勝ち取ったときの副産物である。
だが、逆に言えば私からすれば“副産物”としての認識しかなかった。
瀬流彦先生なんかは私の記憶を取り戻させたくてしょうがないらしく、そのきっかけになるようならばとあれからも外出を提案してくるのだが、私からすれば、それは疑問の残る行いであった。
――目を覚ました瞬間の光景は、今でも覚えている。
厳重に拘束した上で、地下深くの牢獄へと閉じ込められていたあの光景は、やはり忘れようにも忘れられないものだ。
なにをすれば、あそこまでのことをされる?
私は、なにをしたのか?
記憶を取り戻すということは、その過程をも思い出すということだ。それは、やっぱり怖い。
逃げていると言うならば、好きにしろ。
逃げられるのなら、私はどこまでも逃げてやろう。
記憶を取り戻したとしても、良い事ばかりではないことは、やはり確実なのだから。
ともかくとして、私から進んで外に出ることはなかった。
だが、エヴァに言われてしまうと、それを断ることはできない。何故かは分からないが、普段からあまり表情を変えることのない私の顔が綻んだ。自分でも分かるくらいに、破顔した。
素直に言葉にするなら、嬉しかったのだ。
こんなことを言ってしまうと、瀬流彦先生は悲しむかもしれない。だけれど、事実なのだ。瀬流彦先生に誘われた時とは比較にならない程に、私の心は喜んでいた。
一つの目的が、理由だけでネガティブにもポジティブにもなるということを学んだ。
そして、その提案の翌日――つまり、今日、私は麻帆良の地上を歩き回ることとなった。
まずは商業エリア。
これはエヴァの用事の付き添いと言ってもいいだろう。人形の服を作るための素材が欲しかったらしく、良質な生地を手に入れて満足そうに目を細めていた。ついでに私の服を買おうとしていたが、どうしてもニッチなゴスロリ――名称はエヴァに教えてもらった――を選んでくるものだから、謹んで遠慮させてもらった。最終的に、“お前が気に入る服を私が作ってやる”と言っていたが、はたしてそれは普通の服なのだろうか。
次に向かったのは、食堂棟。地下から地上まで全て飲食店で成立しているエリアらしい。エヴァは吸血鬼だが、吸血だけで生計を成り立たせている訳ではない。むしろ、学園結界とやらに能力を制限されているらしく、その身体は一般的な十歳ほどの子供と変わらないのだとか。それでなくとも、吸血鬼とて腹は空くし喉は乾く。
一週間に一度程度しか食事をしない私にとって、一日三食が一般的であるという話は違和感として胸に引っかかりを覚えさせた。
――なんとなく分かってはいたけれど、私は
それでも、現実としてそれを突きつけられると、やはり驚いてしまう。意識するまで数日おきの食事に違和感など無かったのだから、尚更。
まぁ、私は燃費の良い生き物なのだな、とだけ理解して、それ以上は考えないようにしたが。
“連れ回しておいて一人で食べるのは気分が悪い”と言われて、私も昼食に相席する。
数ヶ月前に読んだ小説に登場していた黒パンとボルシチがメニューにあったので、それを注文。
私が普段食べているものとは全く違った様相の料理にちょっとだけテンションが上がった。
そして、今、私はふらふらとした足取りでエヴァに手を引かれながら、また別の目的地へと向かっていた。
季節が夏であることは話に聞いていたが、前回とは全く様子の違う容赦のない太陽に対して、心の中で恨み言と呪詛を重ねがけで吐き出す。
エヴァに「大丈夫か」と訊かれる度に、私は頷き、少し乱れた歩調を正した。
やがて辿り着いたのは、エヴァが通っている女子中等部の校舎。既に私の肌は焼けていて、最早手遅れだったが、それでも日影に入れるならばそうしたい。早々と、夏の猛撃から逃げるように、私とエヴァは校舎の中へと足を踏み入れた。
“本来ならばお前は私と同じクラスにいるはずだった”というのは、エヴァの言である。瀬流彦先生よりも核心的な情報を教えてくれるエヴァには頭が上がらない。
それと同時に、自分の異常性をまじまじと見つめるきっかけにもなった。
今まで気にしていなかった――というよりも、逃避していた現実がそこにはある。
この前、部屋の前で目にした二人の少女。高畑先生の話では、そのうちの一人は私と同じ年齢だと言う。肩車されていた小さい方ではない。その肩車をしていたシスター姿の女性の方である。
それと比較して、私はあまりにも身長が低い。
人間は――生物は物理的に成長するものだ。今の私は、その女子生徒と比べると、あまりにも小さすぎた。
数百年を生きるという吸血鬼のエヴァを、ちらりと横目に見る。
成長することのない、その矮躯が視界に入る。
――そして、また目線を戻す。逃げるように。
校舎の内装は、まるで教会のようだった。大きなガラスが規則正しく並び、容赦のない陽の光を差し込ませている。階段の踊り場にあるガラスなんか、正しくステンドグラスのような意匠が施されており、瀟洒な雰囲気を漂わせていた。
「暑いな……。教室に着くまでは我慢してくれ」
頷きながら、ずっと私の手を握って先導してくれるエヴァに素直に着いていく。廊下は外の熱をそのまま吸収して閉じ込めている上に風がない。普段ならば窓は開いているのだろう。だが今は夏休み。窓は全て鍵がかかっていた。
エヴァが在籍しているクラスの教室に着くと、エヴァは早速冷房をつけた。天井のクーラーから冷たい空気が流れ始める。そのままエヴァは教室の最後列の机に座った。廊下側に位置するそこが、エヴァの席なのだろう。
その隣の席に座って、私は机に突っ伏した。まさか、外がここまで過酷な環境だとは思わなかった。計算外。想定外。でも――まぁ、たまにはこんな日も悪くはない。
「それで、こんなところになんの用があるんだ?」
そう――この女子中等部の校舎に行ってみたいと言い出したのは、他の誰でもない、私だった。
教室を見渡す。
一定間隔で並べられた机と椅子。一部の机の上には持ち主に忘れ去られたのか、体操服を入れるための袋などが所在無さげに居座っている。教室の前方には一際大きな机――教卓が堂々と鎮座していた。
深い緑色の黒板。汚れた黒板消しと、色とりどりのチョーク。
外から聞こえてくる、部活動に精を出す生徒達の声。
「……覚えてる」
失ったものを取り戻すことはない。
だが、それは抜け落ちることはなく、覚えていた。
友達がいたのかは知らないけれど、覚えていないけれども、記憶をなくすまでは毎日通っていただろうこの教室という雰囲気を、私は覚えていた。
「覚えてる? ああ、記憶か」
怪訝そうな声音で私の言葉を反芻したエヴァは、しかし一人で完結させた。
「久し振りの教室の雰囲気はどうだ、懐かしいか?」
「ん……」
突っ伏したまま、エヴァを見る。
頬杖をついて私に目線を寄こしていた。袖のないセーラー服のような真っ黒な服は、教室とは相容れない空気を出している。勿論、私もいつもの黒のワンピースなので、学校に来ているという気はしない。私服で学校に来ることなんて、きっと無かったのだろう。
それは、私の中の、学校という定義と概念があってこそ捉えられる違和感だった。小等部の制服がどんなものだったかは覚えていないけれども、目にした瞬間に“懐かしい”と思えるはずだ。それだけ、私の記憶に色濃く残っている場所であり時間だった。
――それと同時に、思ってしまう。
エヴァと同じクラスで、こうして隣に座って、授業を受けて、お昼になったら机を合わせてご飯を食べて――そんな、あったかもしれない光景。
それは、きっと、とても楽しい日々なんだろうなぁ、と。
「エヴァ」
「ん?」
「私、学校に、戻れる?」
エヴァは逡巡した。
目を伏せて、私から目線を逸らす。
少し、ずるいことを聞いてしまったかもしれない。
どうせ、私は戻れない。
それならそれで、構わない。
別に、戻りたい訳じゃないから。エヴァがいるだけで
その感覚は、エヴァと会ってからそんなに時間が経っていない私からすると違和感でしかないけれど、私の中の私はそれでも容赦なく、その感情を暴れさせるのだ。
「……分からん。だが、いつまでも地下暮らしという訳でもないだろう。そしたら、また通えばいい。時間だけは有り余っているのだからな」
頭の後ろで手を組んで、体重を椅子の背もたれに預けながら、エヴァはそう言った。
「いやー! 今日もいい汗かいたぁ!」
と、唐突に、その声が廊下から聞こえてきた。エヴァが「む……」と顔を顰める。
「早乙女と綾瀬は探検部だっけ? つっても図書館島で本読んだりするだけでしょ? 汗かくもんなの?」
「馬鹿にしないでほしいわね。そりゃあもう、ハードなんてもんじゃないわよ! 気分はインディージョンズ!」
「ハットも鞭もありませんが」
「探検帽とロープならあるわよ?」
「それで、失われたアークは? 見つかった?」
「そんなのとっくの昔に見つけてるわよ」
「二十年前にですか?」
「そして今はエリア五一に隠されてるってわけね。てか近衛と宮崎は?」
「二人ならまだ図書館島よ」
「大量に借りた本の返却をしてから戻ると言ってましたよ。本の虫ですから」
「それ、綾瀬にだけは言われたくないと思うよ」
「むぅ……」
「てか朝倉は報道部どうしたのよ。夏休み中にデカイ記事を書き上げるとか言ってなかった?」
「それがさー、ぜんっぜん事件も何も起きないもんだから、書ける記事も書けないっていうかさー」
「ちょうどいいです。目の前のインディージョンズに取材してみては?」
「うーん、まずはハットと鞭を装備してもらわないと」
「言っておくけど、インディアナの本体はハットと鞭じゃないからね?」
取り留めもなさそうな会話が、だんだんと近付いてくる。
エヴァは軽く舌打ちをして、立ち上がった。それから自身の荷物を手に持って教卓の方に向かうと、私に手招きをした。素直に言うことを聞いて、教卓の近くまで行くと、エヴァは私の手を取って、教卓の下に潜り込んだ。
それから、小声で私に耳打ちする。
「クラスメイトだ。教室に用があるのかどうかは知らんが、どっか行くまではここでやり過ごすぞ」
私は頷くものの、気が気ではなかった。
エヴァの言いたいことはわかる。面倒事を避けたいのだろう。少なくとも私は部外者であり、そんな私とエヴァが一緒にいるところを見られれば、質問攻めは避けられない。故に、隠れる。
気が気でない、というのは、その隠れる場所のこと――ではない。
教卓の下なんて心許ないと思われるかもしれないが、その実、教室の中では最も意識の行かない場所であると言える。教師のいない教卓に用のある生徒など、そうそういない。
問題は、この距離感。二人で潜り込むには、少し狭すぎる。
今まで
が、無情にも、教室の引き戸が開く音が室内に響く。
「おー、涼し。……あれ、なんか椅子が動いてる」
「別におかしなことではないでしょう。私達のように、誰かが教室に荷物を取りに来たんじゃないですか?」
「んー……でもここって、確かエヴァンジェリンの席じゃなかった?」
「あー、あの金髪幼女」
ビシッ――と。
エヴァの額に青筋が走る。幼女と言われたのが嫌だったのだろうか。
「それに隣の席も椅子が動いてるわね……」
「おかしいですね、そこは空席のはずですが」
「エヴァンジェリンが友達連れてきたんじゃないの?」
「えー、あの無愛想な金髪幼女に友達? 絡繰さんと一緒にいるところは良く見かけるけど、あれって友達なのかね?」
ビシビジッ――と。
ステイ。ステイだよ、エヴァ。
というか、早く出て行ってほしい。私も、そろそろ限界なのだ。
「失礼ですよ、ハルナ」
「そーそー。友情の形は人それぞれってね」
「そーだけどさ。なんていうか綺麗な顔してるのに勿体無いわよね、いつもむすっとしててさ」
「あ、そっち?」
「でも、確かに綺麗な人です」
「そのくせして目付きめっちゃ悪いし、話しかけるなって感じの雰囲気だし、仏頂面だし、幼女だし」
ブチッ――と。
なにかが切れる音は、多分、エヴァの堪忍袋の緒が切れる音。
それと、私の理性が千切れた音。
息が荒くなる。まただ。また、私の身体は主導権を私から剥奪する。
でも、だめなのだ。
この前は許してもらえた。
だが、二度目はない。
「――鈴葉?」
クラスメイトに文句の一つでも言うために身を乗り出そうとしていたエヴァが、私の顔を覗き見る。
多分、今、すごくだらしない顔してる。
だから、見られたくなかった。――見られてしまったら、恐らく、勘づかれてしまう。一度目の経験から物を考えない人ではないから、多分、気づかれてしまう。
自分の肩を抱いて、俯く。身体が震えていた。
「――まぁいっか。よーし、それじゃあ図書館島に残った二人を迎えに行くわよ」
「お、いいね。せっかくだからついていこっかな」
「……事件なんて起きませんよ?」
「起きないなら起こせばいいじゃん」
「ちょっとー、なんかあったら先輩に小言を言われるの私達なんだからね?」
そんな会話をしながら、彼女達は教室のドアを閉めた。
足音が遠ざかっていくのを聞いて、私は気を緩めた。緩めてしまった。それは失態だった。言い訳のしようもない油断であり、言い逃れのできない、失敗。
「やっと行ったか……」
そう言って立ち上がるエヴァが履いているミニプリーツスカートの裾を掴む。掴んでしまった。当然、エヴァは不思議そうな顔で私を見る。そして、やはり、気付いたようで――。
「す、鈴葉? ここじゃダメだぞ?」
ダメと言われて止まれるのなら止まっている。それはエヴァに言われるまでもなく自身が自身に下している命令だ。
立ち上がり、ふらふらと、ふわふわと、軽い足取りを咎めるものの、それは本当に花の蜜に誘われる蝶のように、本能的に、色を、匂いを、識別して、今、それを、エヴァを。僅かな身長差を埋めるために少し背伸びをして、その肩に、ぱくり、と。
噛み付いた。
「んっ、……。おい、くすぐったいから、やめんか……!」
いつの間に壁にまで追い詰めていたのだろうか。縫い付けられたエヴァに逃げ場はない。壁に額をぶつけた衝撃でちょっと正気に戻れそうだったけれど、その首筋から香ってくる柑橘系の甘い匂いが私を逃させてはくれない。
あむあむと甘噛み。
これが好きなのだ。
特に、今日は暑かったからか、汗がしょっぱくて、
……ん? 美味しいというのは、なにか、違うような。
いや、人を噛んで甘噛みして、どんな感想を抱けというのか、という話なのだが。
と。
その時。
教室のドアが開いて。
「ちっ……」
「お……?」
目が合ったらしいエヴァは舌打ちをして、何故か帰還を果たした女生徒達は、密着する私達を見て固まっているようだった。
うーん。
どうしよう。