街に夜が降り静かに部屋の隅々まで闇が行き渡る。
キッチンの灯りと囁くように流されているラジオだけが結界のように夜から住人を守っていた。
その守られたキッチンの中で現在のキッチン主、ヘクトールはすこぶる機嫌がいい。鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌に明日の下ごしらえを進めている。
「……ぅ、ぐぅ、」
「おはようマスター。起きて大丈夫かい?」
「なんとか……」
キッチンから少し離れた、夜に染まったドアの奥から電子的な音がかすかに聞こえたかと思ったらすぐに止まり、実際の重量以上に重々しくそれは開かれる。そこから身と顔を出す少年の顔は酷く青いものであった。
が、ヘクトールに気にする素振りは少ない。少しばかり風邪を引いた相手にかけるような軽い言葉だ。
そんなヘクトールに彼も特段気持ちはなさそうで、青い顔のまま力なく ダイニングに灯りをつけ椅子に座る。
「どうする?何か食べるかい?」
「……食べる」
テーブルに突っ伏しつつもぎりぎり発せられる呻くような声にヘクトールは「了解」と返して食パンを取り出す。
2枚の両面を軽く焼いてから片面にバターを塗る。手頃な大きさのレタスと薄く切ったきゅうりとトマトを挟んで半分に切る。極めて簡素なサンドイッチだ。
しかしほどよい甘味とサクとした食感と滲む水気が起き抜けの口にはちょうどいい。「いただきます」の手合わせ以降、彼は何も語らず黙々と平らげ「ごちそうさま」と再び手を合わせる。
「……ヘクトールはさ、」
「はい?」
その一連を微笑んで見守っていたヘクトールに食事でいくらか顔色が回復した彼は問う。
「今楽しい?」
「うーん?」
「ほら……、今自分寝てばっかだし」
「別にこれといって不満はないかなあ」
申し訳なさそうな彼に返される言葉は飾るもののないぼんやりしたものだった。
「オジサン何にもしないでだらだらしてるの好きだからさあ、こうして不調なマスターの番をしながらのんびりしてるのも悪かないもんだぜ?」
「そお?」
「平々凡々。オジサンが願ってた日々そのもの。むしろ感謝してるくらい」
「うん」
それがヘクトールの本心でも気遣いでもあることは分かっている。
あまり暗くなりすぎて過度に気遣わせてはならない。そうなんとか笑みを返すも、あの頃と比べると随分と痩せた肩がわずかに落ちる。
「まあ、ゆっくり休めばいい。これくらいのロスタイムは許されるさ」
「……うん」
あの頃のように気張る必要はなくなった。けれどしっかりしたいと焦る気持ちはやはりある。けれどそうでなくてもいいとゆるやかに包んでくれる優しさが暖かくて、今日もなんとかそのままでいてしまう。
わずかに軽くなった心になってから飲むハチミツ入りのホットミルクの熱と甘味が心地よかった。
「さて、これからどうします?休む?起きてる?」
「うーん、見たい番組があるから頑張って起きてたいかなあ」
せっかく番組表をチェックして目覚ましまでかけていたのだから。
などと彼なりの気合いがあったものの、半分にもたどりつけずにヘクトールの膝を枕にして寝落ちてしまい、結局全部見れたのは次の日の陽が昇ってからになってしまったのだ。