「素人の君には見せられない場所触られたら困る場所は流石に開けられないようにしてるけど、大体の場所には入れるようにしてるから」
人理修復の最初の頃。そう言ってロマニはマスターの彼にキーを渡した。
先ほど言ったとおり、厳重区域以外には出入りを許可された準マスターキーのようなものだ。
こんなものを渡されても何に使うことになるのだろう。
渡された当初は素直に受け取りながらも何度も大いに首を傾げたものだ。しかしこれが以外と便利だったと痛感するまでそう時間はかからなかった。
召喚には応じたものの、趣味というかライフワークである執筆活動に没頭しすぎて引きこもりのストライキと化したアンデルセンやシェイクスピアを引きずり出す時とか。女性サーヴァントの強い要請で黒髭の秘密これくしょんを強制押収に踏み切ることになった時とか。それなりに有用に使う機会は多かった。
けれどそれだけだ。
彼がその支給されたキーを使う時はマスターとして動かなくてはならない時だけで、私用で使うことは一切なかった。
「キーを使って内緒で遊びに来て」などのささやかな申し出や甘い誘惑に応じることはなかった。それは多分、してはならないことだ。そう厳として己を律していた。
ただひとりの例外を除いては。
今日もひと時の憩いとしてやってきたヘクトールの部屋で、彼はしげしげと一枚のキーを眺める。彼が持つマイルームの部屋の鍵でもなく支給された準マスターキーでもない、ヘクトールの部屋の合鍵だ。
ここは元は物置だった部屋だ。スペアは作らなくても既に存在していたのかもしれない。それにマスターのためだと言ったら簡単に渡してくれたのかもしれない。
分かるけれど。
「でも、開く鍵持ってるよ?」
「オジサンの気分の問題さ」
きょとりとした声にヘクトールはへらりと笑う。
「マスターが勝手にお邪魔してるんじゃなくてオジサンがいつでも来てほしいと思っているから渡すんだ」
その言葉に「ふうん?」と彼は曖昧な理解をしていそうな生返事をしてまたしげしげとキーを眺めだす。
他に座る場所がないとはいえ、無防備に腰を掛けるベッドから投げ出される足がぶらぶらと揺れているのが年よりも幼い雰囲気を出していた。
「ならオレの方からも渡さなきゃな」
「うん?」
「不公平だろ」
そして彼なりに思考すること短く。意を決したかのように告げられた言葉に今度はヘクトールの方が目を丸めることになる。
確かに言いたいことは分かるけど。果たして許可は下りるだろうか。
あの所長代理ならば出すだろう。ほとんど誰も反対意見は出さないだろう。
現在世界に残されたレイシフト適性を持つ唯一のマスターであるが、魔術の心得なんて何もない一般人。しかも未成年。そんな彼にいきなり人理修復なんて無茶を頼んでいる心苦しさからか、ロマニや職員たちは意識的に無意識的に彼を相当に甘やかしてしまっている。
彼の幼く淡く無自覚であるから秘められることもない恋心を楽しく見守っているダ・ヴィンチや職員たちもいる。
ほぼ即答に近いオーケーを出して作ってしまう姿しか見えてこない。
「でもヘクトールに作ったって言ったら皆も欲しがるかもしれないから、内緒だぞ」
間違いなくあっという間にバレるだろうなあ。
ビシと指を立てる彼を前に、これから突き刺さるであろう様々なまなざしや案件を思いながらヘクトールはそれら全ての覚悟を決めていった。
なんて話はだいぶ前のことで、
ヘクトールが本当に私的な理由で彼の部屋に訪れたことは一度もなかった。
最初から分かっていたことだと彼は思う。
だからこそ自分たちは皆に許されているのだと。
分かっていても夢は見たかった。
ヘクトールが自分にそうしてくれたように、「いつでも遊びに来てもいいですよ」と心を渡すようにキーを渡したかった。いつでも遊びに来てもいいように準備もしたかった。
自分はヘクトールの部屋に行ってもベッドを占領して眠ってばかりで、ふたりですることといったら他愛のない雑談だけだ。けれどヘクトールがこちらの部屋に来て眠ることはないだろう。だから時間はたくさんある。
だからといってマシュと一緒にいる時のようにカードやボードゲームばかりでは趣味が合わないだろう。ヘクトールは大人なのだから。いや、大人でもそれらは十分楽しめると思うけれど、何か違う。
大人の男性の楽しみとはなんだろう。カルデアで用意できるものだろうか。部屋に持ち込めるものだろうか。部屋主である自分が未成年であるから酒類の持込は禁止されているし。それとなく大人な皆に聞いてみても、優しく曖昧に笑われてはぐらかされてしまうし……。
何も出来ないまま日々は過ぎ、オーダーをこなし、磨耗した心身に今日も寂しさを蓄えて彼は愛し人とその弟の名を持つ薔薇たちに「おやすみ」と告げて眠りについた。
「……………………ぅ?」
ところで、誰かが布団に潜りこんで来た。
いつも通りの清姫や静謐、ではなさそうだ。潜りこんで来た方に背を向けているから見えないけれど感触が明らかに違う。彼女たちは確かに人である彼よりずっと強い力を持っている。けれど彼を物理的にすっぽり包んでしまうような大きさはない。武骨な戦士の硬さはない。大人の苦味を含んだ匂いを持たない。
どうしてこの人がここにいるんだろう。
「マスター、オジサンに合鍵渡しておいて鍵かけてないなんてそりゃないぜ」
「ぅ…………ぇぅ……………」
耳をくすぐる低音に脳が痺れて身が竦む。
「いくらカルデアには敵はいないって信じてるからって、危ないだろ」
「……でも、皆の話を聞くのもオレの仕事だから、いつでも来てくれたらなって。ここで自分にできることって、これくらいだし」
「まるで人柱だな」
「それでいいんじゃないかなあ」
何故とかどうしてとか。混乱にまみれながらも習性として冷静な部分がすぐさま作り出されて応対する。
普通に考えれば鍵をかけるべきと言う言葉は分かる。しかしこのカルデアに主に住まうサーヴァントたちは霊体化してしまえば鍵に意味はなくなってしまうのだ。ならばわざわざ拒絶の意思しか意味を持たない鍵をかける必要もないだろう。
先にも言ったように、自分にはこれしかないのだから。
何も持たずにさ迷い歩き、協力者のために差し出せる礼になるものなんて何も。
だから捧げるのだ。求められれば求められるように。差し出されたもの全てを受け入れる。それで世界が救われてくれるならなんて安いものだろう。
ヘクトールの突然の訪問に驚いた心が落ち着いてくるにつれて眠気が戻ってくる。暖かく包まれている安心感がまた意識をとろつかせる。
なんて幸せな時間だろう。
もっと早い時間に来てくれていたらもっとちゃんとおもてなししていたのに。お茶とお茶請けくらいなら出せたのに。
惜しむ心はあった。けどそれでもヘクトールから自分に会いに来てくれた。その事実が嬉しくてたまらなかった。
「それじゃあオジサンはまたひとりだな」
「……う?」
けれど背後から沁みるヘクトールの声はどこか寂しそうだった。
「マスターがそうやって皆に感謝して何かしたいって思うことはいい心がけさ。ただ利用されるだけよりかはよっぽど気分がいい。だけどマスターがそうやって、身を切って魂を削って全部全部渡しきって最後に何も残らなかったら、トロイアはまた空っぽだ」
「……」
「ま、そんなのはオジサンの自己満足で国ってのは元々そういうもんだ。人が心地よく暮らす場所は人を縛りつけたりなんてしない。マスターの好きにすればいい」
「…………」
優しく沁みこむ言葉の奥を彼は考える。
ヘクトールは優しい。子供な自分の子供な部分を許してくれる。そういうものを嫌と思っていないからそうしてくれている。多分。
けれど本当は何を思っているのか。実際のところを彼が読み取るのは難しい。「それはマスターが知らなくてもいいこと」と分かりやすく開示する気もないからなおさらに。
そんなとろかすような愛に甘えきってしまうのもありだろう。いずれ消えてしまうサーヴァントとの色恋なのだ。彼だけの記憶となってしまうのだ。「まるで夢のようなひと時だった」と終わらせるにしてもいいだろう。それで誰かが彼を責めるわけでもない。
しかしと彼は考える。幼くても足らなくても。出来る限り近付きたい寄り添いたいと。相応しい自分でありたいと。度重なる死線上での即決即断の反動か、日常では日々回転が鈍くなっていく思考を巡らせる。
この恋が誰から見ても幼稚で一瞬のきらめきでしかないにしても、自分にとってはこれから先のずっとずっと、果ての見えない旅路のための何よりも大切な北極星になりえる輝きなのだから。
自分の意思は命は身体は魂は、どこにあるべきなのだろう。
「……おれは、私は、自分、私、オレ、俺、私、自分、私、私、私、は、やっぱりここにいたいよ」
「ここ?」
「ここ。トロイア」
眠気に揺られた曖昧な意識で彼は願いを紡ぐ。
「これだけ皆の世話になって、恩があって、返せるものが何もなくて、だから、すごくワガママ。ワガママなだけ。ワガママなんだけど、ここにずっと居れたらなって思ってしまうんだ。私のために用意してくれたたったひとつの椅子が嬉しくて。守ってくれる貴方が暖かくて優しくて嬉しくて……、幸せで幸せで根付きたくなる」
自身の無力さから生じる数多の負い目から、彼は自身の心が虚無に流れることすら止める権利があるのだろうかと悩み惑う。
そんな彼でも残しておきたい想いがあった。許されないワガママと思いながらも必死に抱え握っていた願いはささやかで。そんな小さなきらめきを心底大事そうに今ある心全てをこめる。
「ねえヘクトール。いつか私をトロイアに喚んで」
「……」
「貴方が愛したものをちゃんと見たい。同じように見れなくても、ちゃんと見て触れ合ってちゃんと刻んで、貴方がくれた貴方が愛したもの、ちゃんとなりたい。近付きたい。だから、喚んで」
「…………」
「なんて、やっぱりワガママすぎる、かなあ」
「マスターはもっと我がままでいい。我がなくなった人間なんてつまんないだけだ。皆だってそう言うさ」
「そう?そうかな?……過ぎるくらいだと思うのに。もう世界を救える人なんて、私以外にもたくさんいるのに、変なの」
眠気と多幸感にとろけきった声で彼はくすくすと控えめに笑みをこぼし、やがて眠りについた。自分は十全に守られているという安心で満たされた幼子のような寝息だった。
その朧に移ろいかけている魂が抜けてしまわぬよう慎重に抱きしめる。
「……マスター、俺はあんたをトロイアには連れて行かない」
そう眠る彼に告げる言葉には寂しさの中にも強い芯があった。
「俺があんたに用意できる椅子はここだけだが、それはあんたが本当にいるべき場所じゃない」
彼は口癖のように自分を呪う。
自分には何も出来ない。出来ることは捧げることだけだと。
それは違うとヘクトールはじめ多くのサーヴァントが心苦しく思っている。
未来が過去に身を心を捧げたところで何にもならないというのに。礎にしかなれない過去にそうやって捧げられたところでどこにも行けやしないというのに。
捧げているのはこちら側なのだ。だというのに、その捧げた未来に肝心の、常に自分たちの傍らにいてくれた彼がいないというのはどれだけ悲しいことか。
常にこちらの言葉に耳を傾け柔軟に対応してくれる彼だというのに、それだけには聞こえを良くしてくれない。
それでもいつか、自分の力と心で気付いてくれたらいいのだけれど。
「……………………マスター」
けれど、それと同時にヘクトールは思う。
命も身体も魂も全てを自分に預けて盲目的に信頼を寄せてくれる、自分の手で全てを護ってきた守護者のままでいさせてくれる彼を見ていると、思ってしまうのだ。
「ずっと『ここ』にいてくれよ、 」
覆われた闇の中で告げることの出来ない願いと名をそっと混ぜて消す。
その願いは本心であり願えば叶うものだ。自分がそう言って手を伸ばせば彼がどれだけ喜んで握り返してくれるかも分かっている。
けれど言わない。それがどれだけ本心であっても、彼にはやはり先を行く人であってほしいから。その背を押せる自分でありたいから。そう決めた。
とびきりのワガママを頑なな見栄で切り伏せ鎮めていく。
「 」
それから腕の中にあるぬくもりが大きな不条理に連れ去られぬよう祈るように力を込め、ヘクトールもまた意識を眠りにつかせた。