それは何の前触れもない誘いだった。
「海に行こう」と彼が言った。
「悪かないな」とヘクトールは頷いた。
それからのスピードというのはまあ迅速で、あらかじめ万全の根回しをしていたのではないかというほどの手際の良さでレイシフトは行われた。シミュレーターではなくレイシフトであるところに彼なりの気合いを感じる。
しかしそうして跳ばされた先にあった海に、ヘクトールは一瞬言葉を失った。
特段異常のある海に連れてこられたわけではない。至ってどこにでもある特徴らしきものすらない普通の海だ。
ただ、海の色も空の色も砂の色もない、全てが灰で出来ているような海であったから。
デートで海ならルルハワのような突き抜けた爽快さのある海だろうと思っていたから。
「指定ミスかい?」と尋ねたら「そうじゃないよ。そんな気分」とだけ返される。
不思議な気分もあったものだと思っていたら次は「結んでるリボン貸して」とまた不思議なお願いをされた。
またもおかしな気分もあったものだと解いて渡せば今度はそのリボンで互いの小指と小指が結ばれた。
本当に、不可思議な気分もあったものだ。
そうして結ばれた指に引かれながら海岸線を歩いていく。会話は特にない。
ザラザラと、放送が閉じられたテレビの音を聞いているかのような物悲しい気分にさせられる潮騒だけが響く世界だった。
彼がそうしたいのならばヘクトールもそれで構わなかった。「リボンじゃなくて手を繋いだほうがいいんじゃないかい」と提言しても「オジサンはマスターと手を繋ぎたいんだけどなあ」とお願いしても「だーめ」と軽く却下されてしまったのも、まあいいだろう。ヘンテコな繋がりでも彼がそうしたいのなら悪くない。
結局この日の彼が何を考え何を望んでいたのかは、ヘクトールが察することは欠片も出来なかった。
けれど少しだけ、少しだけ横顔が微笑んでいるように見えたからそれでも良かったのだろうと思う。
いつかもう一度同じ場所に行こうと誘われたら間違いなく即座に頷き跳んでしまうのだろう。
リボンだっていくらでも貸す。小指だけのささやかな繋がりだって、彼がそうありたいと望むのならば叶えるまでだ。物足りないと言ったらまあそうであるけれど、悪くないと言ったら悪くない。
色のない海。息をしていない空。沈みまとわりつく砂。ざらついている潮騒。全てが死に絶えたような物悲しい世界。始まりも終わりも繋がりも何もなさそうな、隔絶の中で停滞し崩れていきそうな世界。
そんな中で見る彼の横顔は穏やかに楽しそうで、青の瞳はいつも以上に鮮烈に見えた。まるで惑星の色を丸ごと飲み込んで、瞳の中に収めてしまっているかのような美しさがあった。