この手を離さない 作:八銀はジャスティス
合い言葉は、八銀はジャスティス
「棄権した方が良い」
明石先生が言う。俺と銀子ちゃんは、関西将棋会館を出たその足で明石先生の病院までやってきていた。そして、銀子ちゃんの検診を終えた明石先生が最初に発した一言が、それだった。ドクターストップ宣言だ。
「ごめん。これは、銀子ちゃんが大会に出ることを許可した僕のミスだ。まさか、ここまで銀子ちゃんへの負担が大きい大会になるとは思いもしなかった。楽観視して判断を誤る。医師としてあってはいけないことだね。謝っても許されないだろう」
「そんな、明石先生は悪くないわ!」
桂香さんが言う。俺はここに来るまでに、桂香さんには予め連絡を入れてあった。師匠は対局で関東に行ってるため不在だが、桂香さんは報せを聞くなり直ぐにここまで駆けつけてくれた。
「いや、いいんだ桂香ちゃん。これは、事実だから」
確かに、銀子ちゃんは大会に参加する前に、主治医である明石先生に、大会に出場する許可を取りに来ていた。そして、明石先生は確かに銀子ちゃんに許可を出したのだ。だけど、その時は誰も、こうなるとは予想できなかった。予想できるわけが無かったのだ。これは何も、明石先生が悪いわけでは無い。
「そんな医師失格の僕だけど、今は銀子ちゃんの主治医だ。主治医として、銀子ちゃんに伝えるよ。棄権するんだ」
明確な、ドクターストップだった。続けるべきでは無い。棄権するんだと明石先生は銀子ちゃんに明確に伝えた。
「嫌だ」
しかし、銀子ちゃんの返答は拒否だった。明確な、拒否だった。
「銀子ちゃん!」
桂香さんが、思わず声を荒げる。その気持ちも痛いほどわかる。明石先生は、本気で銀子ちゃんのことを心配して止めているのだ。それを、真正面から拒絶する。失礼にも程がある態度だった。
「私は、絶対に優勝する。こんなところで、止まっていられない」
「銀子ちゃん、これは君の命にも関わることなんだよ?取り返しの付かないことになるかもしれないんだよ?」
「それでも、いい」
「銀子ちゃん!いい加減にして!銀子ちゃんに、もしものことがあったらどうするの!小学生名人になることが、そんなに大事?自分の体よりも?そんなわけ無いでしょ!もっと冷静に考えて!」
「桂香さん、私は冷静だよ。冷静に考えて、判断してるの。ここでもし棄権しちゃったら、きっと私は一生追いつけなくなっちゃう。それだけは、絶対に嫌だ。そうなるぐらいなら私は……死んだって構わない」
「銀子ちゃん!」
「待って桂香さん」
更に声を荒げようとした桂香さんを、俺が制する。今まで静観していた俺の介入に、桂香さんも声を引っ込める。桂香さんの言うことは尤もだ。明石先生の判断は正しい。二人の言うことは、何もかも正しい。それに、従うべきなのだ。
「明石先生、銀子ちゃんに、続けさせてあげてください」
それでも俺は、銀子ちゃんの背中を押す選択をした。
「八一君!?何を言ってるの!?」
「桂香さん、こうなったら銀子ちゃんは絶対に曲げないよ」
そう。銀子ちゃんは絶対に意見を曲げないだろう。自分がこうと決めた道を、傷つきながらも歩いて行く。そうやって、ずっと俺と同じ道を、遅れながらも着いてきてくれたのだから。
「……そうだったね。銀子ちゃんは、そういう子だった。そうやって、清滝先生のところに弟子入りしていったんだからね」
明石先生はそう言うと、目を閉じ腕を組んだ。どうやら、考え事をしているらしい。数秒もすると、明石先生は徐に目を開けて、声を発した。
「当然のことながら、主治医としては強制的にでも止めるべき状況だ。だけど、銀子ちゃんの応援者としては、銀子ちゃんに優勝して欲しいと思う。わかった。出場を許可するよ」
「ちょっと、明石先生まで……」
「桂香ちゃん。八一君の言うとおりだよ。こうなったら銀子ちゃんは絶対に意見を曲げない」
「だからって、そんな……」
「大丈夫。もしもの場合なんて起こさせない。明日は僕も同行するよ。銀子ちゃんを全力でサポートしよう」
「明石先生……ありがとう」
銀子ちゃんがお礼を言うと、明石先生は銀子ちゃんの頭を優しく撫でた。その表情は、手つきと同じように優しそうな、安心感を与えるようなものだった。こうして、2日目に銀子ちゃんは出場できることが決まった。残すは3局。激闘になることは間違いない。銀子ちゃんの体が耐えられるかもわからない。だけど、俺には、信じて見守ることしかできない。俺は、力になれない自分を呪いながら、悔しさに強く手を握りしめるのだった。
翌日。関西将棋会館には、前日の予選から勝ち残った棋力に覚えのある小学生が集まっていた。しかし、その腕に覚えのある小学生達が、たった一人の、低学年の少女に最大限の警戒を払っていた。正直に言うと、今日は昨日に比べて周りの警戒も落ち着くんじゃないかとも考えていた。だけどそれは、楽観視が過ぎたようだ。
「銀子ちゃん。開局前に、軽く検診をしておくよ」
同行してくださってる明石先生が言う。銀子ちゃんも大人しく、その指示に従う。明石先生は続行を許可してくださったが、場合によっては明石先生の独断で銀子ちゃんを棄権させることだってできるのだ。大会運営側も、医者が止めれば銀子ちゃんの続行を認めることはできない。今は大人しく明石先生の指示に従うしかないのだ。
「うん。体調面は昨日に比べて、かなり回復したみたいだね。だけど、全快でも無い。……銀子ちゃん」
明石先生が、改まった雰囲気で銀子ちゃんの名前を呼ぶ。
「30分だ」
明石先生が言った意味を、俺と銀子ちゃんは理解ができなかった。30分。それが指す意味はなんなんだ?その答えは、直ぐに明石先生が教えてくれた。
「今日、銀子ちゃんが1局に費やしていい時間だ。相手の手番も含めて総時間30分。それを超えた時点で、棄権してもらう」
明石先生の答えを聞き、俺は衝撃を受けた。今大会のルールは、お互い持ち時間20分の、切れたら秒読み30秒のルールだ。お互いの持ち時間だけを合わせても、40分。相手の秒読み後も含めた考慮時間を考えると、銀子ちゃんには持ち時間を消費している余裕が全くと言っていいほど無い。昨日だって、2局とも対局時間は1時間を超えていたのだ。これは流石に、無理難題過ぎる。
「わかった」
だがそれでも、銀子ちゃんは明石先生からの指示に即答してみせた。その眼には、一切の迷いが見えない。
「それじゃ、行ってくる」
「うん。頑張ってね」
そして、銀子ちゃんは初戦へと挑みに行った。対局相手は、どうやら居飛車穴熊に組んでいるらしい。その相手に、早指しで挑む銀子ちゃん。穴熊相手に早指しで詰ませるのは流石に無謀が過ぎる。だけど、銀子ちゃんの指し手に迷いは無かった。穴熊を、いとも簡単に追い詰めていく。銀子ちゃんが指している戦法、その戦法を俺は知っている。あの戦法は……
「こなたが、八一君と初めて対局した時に使われた戦法どすな」
そう。今生では万智ちゃん相手に初めて使った戦法だ。矢倉殺しに続く俺の戦法殺しシリーズ、穴熊殺し。通称狩猟戦法。穴熊を、即詰めに討ち取るための戦法だ。銀子ちゃんにも、この戦法は伝授してあった。それが、この対局で活きた……て、それよりもだ。
「
そう。万智ちゃんだ。何故、彼女がここにいるのだろうか。万智ちゃんは、今大会には出場していない。出場できないのだ。彼女は既に、アマチュアでは無いのだから。万智ちゃんは、つい先日研修会で規定階級に達し女流2級へと、つまり女流棋士へと昇格を果たした。小学生女流棋士となったのだ。惜しくも、女流昇格最年少記録は獲得できなかったが、それでも早すぎる女流昇格となった。
「そんな呼び方、他人行儀で嫌やわぁ。いつもみたいに、万智ちゃんって呼んで欲しいどす」
「だけど、棋士としての礼節もあるから」
「あーあー、聞こえないどすー」
「はぁ、わかったよ万智ちゃん」
「うん、その方がええわぁ♡」
「それで、どうしてここに?」
「敵情視察でおざるよ」
「敵情視察?」
「そうどす。銀子ちゃんとは、将来的にも、色々な面で敵になりそうどすからなぁ」
色々な面?色々なタイトル戦ということだろうか。だとしたら、それは遠からずも近からずだ。銀子ちゃんが出られる女流タイトル戦は、二つだけなのだから。万智ちゃんは、きっと銀子ちゃんが女流棋士になると思っているのだろう。そうに違いない。
「それにしても、凄い早指しどすなぁ。ほとんど持ち時間を消費してないでおざるよ」
「今日の銀子ちゃんには、時間制限があるからね」
「時間制限?」
「1局あたりに許された総対局時間30分。それを超えると、ドクターストップがかけられる」
「ッ!?……昨日銀子ちゃんが倒れたと噂に聞いたでおざるが、まさか、その噂は……」
「事実だよ。本当なら、対局を行うまでもなく棄権するべき状況なんだ。それでも、銀子ちゃんは出場することを選んだ。参加できないなら、死んだって構わないと言って」
「死……!?ぎ、銀子ちゃんはどうしてそこまでして……」
「……目標に追いつくためだって。ここで棄権するようなら、一生追いつけはしないと考えているそうだよ。その目標に追いつくために、銀子ちゃんは自分の身を削って対局に臨んでいる。俺はそんな銀子ちゃんを、見守ることしかできない。それが歯痒くて、悔しくて、堪らないんだ……!」
「八一君……」
万智ちゃんにこんなことを言っても仕方ないのはわかっている。それでも、俺は言わずにいられなかった。何も万智ちゃんに聞かせるためにではない。俺が想いを、抑えきれなかっただけだ。歯痒くて歯痒くてて、唇を噛みしめる。血の味がしたが、どうだっていい。悔しくて悔しくて、手を強く握りしめる。爪が食い込んで痛覚を刺激してくるが、どうだっていい。こんなの、銀子ちゃんが味わってる苦しみに比べたら、そよ風程度でしか無いのだ。気にする必要性が一切感じない。むしろ、もっと俺自身を痛めつけて欲しいとすら感じる。そうでもしないと、気が狂ってしまいそうだった。
「ま、負けました……」
銀子ちゃんの相手が投了宣言をする。それを聞き、銀子ちゃんは直ぐに立ち上がる。昨日みたいに倒れることは無かったけど、その足はやはりふらついていた。覚束ない足取りで、銀子ちゃんが俺たちの場所まで戻ってくる。
「お疲れ、銀子ちゃん。初戦突破おめでとう」
「うん。ありがとう」
「銀子ちゃん、早速検診するから、ちょっとこっちに来てくれる?」
銀子ちゃんは、明石先生に連れられていった。それを見送って、俺は一息を吐いた。これで一つ。後は2勝。まだまだ先は長い。だけど、確実に近づいている。銀子ちゃんなら、きっと大丈夫だ。そして2局目も、銀子ちゃんはなんとか30分以内に勝利することができた。これで、後1勝。いつもなら、相手の投了宣言を聞けば直ぐに立ち上がろうとする銀子ちゃん。だけど、その対局後は中々立ち上がることができずにいた。
「銀子ちゃん、大丈夫?」
どうやら自力で立てなさそうだったので、俺が肩を貸してあげてなんとか立ち上がることができた。正に、満身創痍の様相だ。
「だ、大丈夫……後、い、1局、だけ、だから……」
銀子ちゃんが弱々しく、俺の問いかけに応える。たかが1局。されど1局。今の銀子ちゃんには、その1局だけですら厳しい。本当なら、止めるべきなのだろう。だけど、止めたところで、銀子ちゃんが止まるわけがない。だったら、俺たちは少しでも銀子ちゃんの勝率が上がるように全力でサポートするべきだ。
「銀子ちゃん、即効性の解熱剤だ。これで、少しはマシになるはずだよ」
「銀子ちゃん、氷水とタオルを持ってきたよ!横になってリラックスしてて!」
次の対局まで時間は然程無い。それまでに、少しでも銀子ちゃんの体調が回復するように俺と明石先生が全力でサポートする。万智ちゃんや、今日もスタッフとして参加していた鏡洲さんも協力してくれて、万全の体制でサポートが行えている。その甲斐もあってか、銀子ちゃんの顔色は徐々に正常に戻っている気がする。
「それでは、ただいまより次の対局を行います!」
そして、時間となる。銀子ちゃんはそのスタッフさんの呼びかけを聞くと、徐に体を起こし、一つ深呼吸をする。これで最後の対局だ。改めて、気合を入れ直してるようだ。
「みんな、ありがとう」
「銀子ちゃんが気にすることじゃないさ。僕は医師として当然のことをしているだけだからね」
「こないな状況を見せられたら、流石に知らぬ存ぜぬなどと言ってられないでおざるよ」
「俺は、スタッフとして一人の参加者に肩入れするわけにはいかないんだけどな。けど、こんな状況で放っておけるわけないさ」
「銀子ちゃん。銀子ちゃんには俺たちが着いてる。だから、後のことは気にせず、全力で勝つことだけを考えて」
「うん、ありがとう」
そして銀子ちゃんが対局へと向かう。対局相手は、既に席に着いていた。おそらく、6年生だろうか。堂々とした佇まいで、ジックリと銀子ちゃんのことを観察しているようだ。
「あの対局者は……」
「万智ちゃん、知ってるの?」
「去年、こなたが小学生名人になった大会で、予選から通じて唯一負けた相手どす。関西大会の予選ラウンドで負けて、その後全勝で本大会には進めたでおざるが、かなりの強者どすなぁ。本大会ではあのお方、お燎に負けてなぁ、こなたはリベンジできなかったでおざる。お燎も、最後まで負けると思ってたと言って、らしくも無く弱気になってたわぁ」
なるほど。万智ちゃんの話を聞く限り、かなりの実力者であることは間違いないらしい。銀子ちゃんは、そんな相手に30分以内で決着を着けなければいけない。間違いなく、厳しい闘いになることだろう。
「将棋は、八一君によう似とるわぁ。これで受かってるのかと疑いたくなるような、変則的な受け将棋どす。実際に対局してて、八一君と対局してるみたいでやりにくかったでおざるよ」
俺に似ている、か。だとしたら、銀子ちゃんとしてもやりにくい相手だろう。だけど同時に、最もやり慣れた相手でもある。勝機は、十二分にあるはずだ。対局は、先手が銀子ちゃんとなった。審判長が開局の宣言をすると、銀子ちゃんは間髪入れずに飛車先の歩を突いていった。相手も合わせて飛車先の歩を突いてくる。お互いに更に歩を一つ進めて、左金を角に引っ付ける。そして歩交換まで一気に終わらせて、飛車を定位置にまで戻した。相掛かりだ。ここまで、攻撃を度外視してガチガチに守りを固めてくる相手とばかり当たっていただけに、この展開には少し驚いた。どうやら、銀子ちゃんと正面からぶつかってくるつもりらしい。それほど、自分の実力に絶対の自信があるということだろう。だけど、これは銀子ちゃんにとっても好都合だ。相手が真正面から挑んでくるなら、攻めてくる分受けにも隙が生まれるはずだ。その隙を逃さなければ、問題無い。
対局は、銀子ちゃんが攻める展開で進行していった。銀子ちゃんには、時間制限があるのだ。時間までに勝とうとするならば、攻めに重きを置くしかない。歩交換を済ませると、角道を開き、右銀を一気に押し上げ棒銀の構えを取る。どこまでも、攻撃的に行くつもりらしい。ノータイムで指し続ける銀子ちゃんに対して、相手は序盤からジックリと時間を使って、冷静に銀子ちゃんの攻めを受けきっていく。まるで、全て読んでいるとでもいうかのような完璧な受けだった。これは、ガチガチに固められるよりも厄介かもしれない。銀子ちゃんの攻めは、本当に受かってるのかもわからないほどの薄い囲いで、悉く受けられていく。確かに万智ちゃんの言う通りだ。あの将棋は、俺に似ている。力戦調かと言われれば疑問符を覚えるが、変則的な受け将棋という意味では俺に似ている。銀子ちゃんも、思わず苦しそうな顔を曝け出してしまう。といっても、その原因は盤面の状況によるものだけではないのだが。
銀子ちゃんの息が段々荒くなってきた。その額からは、止めどなく汗が流れ落ちてきている。銀子ちゃんも、限界が近いのかもしれない。早く決着を着けないと、銀子ちゃんの体が保たない。対局の方は、相手も持ち時間が秒読みに入り、終盤へと突入していた。お互いに攻め合う展開。激しく攻防が入れ替わる、一瞬の気の緩みも許されない展開。総時間のリミットも5分を切っている。そして、相手の猛攻が始まる。ここで決めるという覚悟が見て取れる。大駒を縦横無尽に移動させ、金銀で牽制し、銀子ちゃんの玉を追い詰めていく。そして、とうとう銀子ちゃんは崖っぷちに追い込まれた。詰めろが銀子ちゃん玉にかけられる。絶体絶命の状況だ。ここに来て、銀子ちゃんの手が止まった。タイムリミットまで、もう時間はほとんど残されていない。考えている時間は、全くと言っていいほど無いのに。それでも、銀子ちゃんは手を止めた。手が止まったと言っても、次に銀子ちゃんが手を進めるまでに要した時間は10秒ほど。ここまでノータイムで指し進めていただけに、それでも長く感じてしまうのだ。そして、その小考が対局の結果に直結することとなった。
「私の前で、その将棋を、二度と指すな……!」
銀子ちゃんが盤面に駒を1枚打ち付ける。王手だ。詰めろを無視して、王手をかけたのだ。この局面で、そうする理由は決まっている。即詰みがあったのだ。銀子ちゃんは、小考して即詰みを探していたのだ。俺も、盤面にしっかりと目を向ける。……なるほど。確かにあった。31手詰めの道筋が。銀子ちゃんは、その道筋を僅か10秒で見つけ出して見せたのだ。だが、時間が無い。もう残り時間は、30秒を切っていた。今から詰み行程を辿っていたのでは、どう考えても間に合わない。このままだと、銀子ちゃんの棄権負けだ。
「明石先生……」
「……約束だからね。銀子ちゃんには申し訳無いが、これ以上続けさせるわけにはいかない」
残り時間10秒。明石先生が、棄権を伝えるためにその足を進めようとする。
「……負けました」
そのタイミングで、相手が投了宣言を行った。相手も、即詰みの存在に気がついたのだ。正直、気がつかないんじゃないかと思っていた。この即詰みは、そう簡単にわかるものではない。体調が悪い中でも、10秒で見つけ出した銀子ちゃんが凄いだけなのだ。普通の小学生なら、少なくとも数分、いや数十分はかかるかもしれない。それでいて、詰んでいるのをわかったら、潔く投了できる勇気も必要になる。そうでないと、相手がミスをするかもしれないと、ダラダラと続けられていたら、銀子ちゃんは棄権することになっていた。即詰みを30秒で見つけ出せる棋力と、潔く投了できる勇気とプライドを持った対戦相手じゃないと、銀子ちゃんは負けていた。この勝利は、対戦相手に恵まれた結果だ。
「銀子ちゃん!」
座った姿勢で、倒れそうになっていた銀子ちゃんを、慌てて駆けよって支える。激闘を制した銀子ちゃんは、苦しみながらも、その顔は確かな笑顔を描いていた。
「やいち、私、勝ったよ……」
「うん、うん……!ちゃんと、見てたよ……!」
俺は、そんな銀子ちゃんの姿を見て、涙を堪えることができなかった。溢れ出した雫が、ポツポツと、腕の中の銀子ちゃんの頬に滴り落ちる。
「やいち、冷たいよ……」
「ごめん、だけど、抑えられなくて……」
「ううん、大丈夫……冷たくて、今は気持ちいい……」
「八一君。銀子ちゃんをこっちに。直ぐに治療をするよ」
明石先生の指示に従い、銀子ちゃんを抱きかかえて移動する。落ち着いた場所に銀子ちゃんを寝かせると、明石先生の診察が始まった。その様子を、俺と万智ちゃんは静かに見守っていた。今は、明石先生に任せるしかない。
「銀子ちゃん、怒ってたどすなぁ」
万智ちゃんが言う。確かに、先の対局中、銀子ちゃんは怒っていたように見えた。そんな将棋を指すなと言って。相手は本当に良い将棋を指していたと思うんだけど、何が銀子ちゃんの気に障ったんだろうか?
「こなたがあのお方と対局した時は、恐怖を覚えたどす。あまりにも似た将棋に、勝てないと心のどこかで思ってしまったのが敗因だったどす。それに対して、銀子ちゃんは怒りを覚えて、自分の力にしたでおざるわぁ。他の人が、あの将棋を指すことが許せなかったでおざるなぁ」
そう言うと、万智ちゃんは哀愁の篭もったような目で、銀子ちゃんのことを見つめていた。
「……銀子ちゃんは奨励会に?」
「そうみたいだね。目標に追いつくためには、避けては通れない道だと思ってるみたいだよ」
「……敵わんなぁ」
万智ちゃんが呟く。万智ちゃんは、前生でも今生でも、奨励会へ挑戦することを避けた。そのまま、女流棋士としての道を進むことを即決したのだ。それに対して、銀子ちゃんはいくら険しい道だとわかっていても、その道を選択した。そんな銀子ちゃんを見て、思うところがあるのだろう。今も、息を荒くして苦しそうにしている銀子ちゃんを見て、呟いている。
「ほんまに、色々と、敵わんわぁ……」
万智ちゃんは呟く。その眼は、一時も離さずに銀子ちゃんのことを見つめていた。万智ちゃんが、何を感じているのかはわからない。だけどその眼には、何か諦念のような感情が込められているように感じた。
「敵わん、わぁ……」
その後も万智ちゃんは、頻りに呟いていたのだった。その眼は最後まで、銀子ちゃんから離れることは無かった。
大会が無事に閉会し、俺は銀子ちゃんと将棋会館を後にしていた。明石先生の懸命な治療の成果もあり、銀子ちゃんは、ふらつきながらも、歩ける程度には回復していた。後は、安静にしてたら数日で全快するらしい。本大会には何の支障も無いそうだ。
「銀子ちゃん、大丈夫?」
「うん、まだ足が重いけど、大丈夫」
銀子ちゃんが言うとおり、銀子ちゃんの足取りは重そうだ。やっぱり、まだ歩くのはしんどいらしい。しょうがないな。これは、激闘を勝ち抜いたご褒美だ。
「ほら、銀子ちゃん」
「八一?」
俺は、銀子ちゃんの前に足を進めると、銀子ちゃんに背中を向けて地面にしゃがみ込み、手を後ろに伸ばした。おんぶの姿勢だ。銀子ちゃんもその意図を察して、戸惑いながらも俺の背中に乗っかってきた。俺は、銀子ちゃんがちゃんと乗っかったのを確認して、立ち上がる。
「八一、ありがとう」
「いいよ。今日頑張ったご褒美ってことで」
「うん。そういうことにしておく」
そう言って、二人で笑い合った。銀子ちゃんは軽い。正直、背中に乗ってるのかわからないほどに軽い。この分なら、駅まで問題無くおんぶすることができるだろう。そして、通常なら10分ほどの距離を、俺は銀子ちゃんに負担をかけないように、ゆっくり30分かけて歩いた。駅が見えてきた。流石に、改札を抜けるのに銀子ちゃんを降ろさないわけにはいかない。
「ほら、銀子ちゃん。駅に着いたよ。……銀子ちゃん?」
銀子ちゃんからの返事は無かった。返事の変わりに、静かな寝息が聞こえてくる。どうやら、よっぽど疲れていたらしい。まぁ、それも当然だと思うけど。だけど、これは困った。流石に、改札を抜けるのに起こさないわけにはいかない。……しょうがないか。俺は、駅へと向けていた足を別の方向に向ける。清滝家まで距離は一駅分。その距離を歩いて帰ることに決めた。棋士という生き物は、皆総じてインドア派だ。部屋に引きこもって、将棋の勉強をするだけの日々。運動不足で、不健康なことこの上ない。たまには、健康のために歩くのもいいだろう。なんて、小学生の体で爺くさいことを考えながら、俺は家までの道を歩み始めた。背中で眠るお姫様に負担をかけないように、ゆっくりゆっくり歩み始めた。
「お疲れ様、銀子ちゃん」
そう呟くと、背中で銀子ちゃんが頷いたような気がした。まぁ、見えないので本当に気がしただけだが。
そして翌月4月に、小学生名人戦の本大会は開催された。結果だけを端的に言うと、銀子ちゃんは見事に小学生名人の座を掴んだ。2局とも、見事なまでの完勝譜だった。決勝では、あの燎ちゃん相手に殴り合いを制しての完勝。文句なしの優勝だった。そして、その優勝が世間に与えた衝撃も大きい。
その衝撃の原因は、俺が優勝した年まで遡る。俺の優勝した年は、ベスト4に万智ちゃん、準優勝に岳滅鬼さんと、表彰台に女性棋士が二人もいた。更には、その翌年はベスト4に燎ちゃん、準優勝に万智ちゃん、そして岳滅鬼さんが女子初の小学生名人に輝き、女子が3人も表彰台に名を連ねたのだ。更にはその翌年、つまり昨年も、準優勝の燎ちゃんと優勝の万智ちゃんで2人。そして今年は銀子ちゃんが優勝し、燎ちゃんが準優勝となり、またも2人が表彰台に。その内、万智ちゃんは既に女流棋士となり、岳滅鬼さんは奨励会で奮闘している。世間からは、女流の時代が来るという声が上がり始めた。だが当然、小学生の大会で優勝してもなんの意味も無い。そんな時代は来ないという否定的な意見も出てくる。だが、そんな否定的な意見を出す人も、認めざるを得なくなる衝撃的な対局が後に行われることとなる。そんなことになるとは、この時はあの将棋の神様だって読み切ることはできなかった。だがそれは、まだ先の話だ。今はとりあえず一言だけ言っておこう。女流の時代は来るかもしれないと。今はただ一言だけ、言っておこう。この大会は、その序曲でしかないと。まだ激闘は、始まったばかりだ。
本編最長文字数大幅更新
分割してもこれだよ
大事なお話だからね
省略できる部分も無かったから仕方ない
次もあさってかもとだけ言っておく
更新情報などはツイッターでお知らせします
八銀はジャスティス