この手を離さない   作:八銀はジャスティス

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大変長らくお待たせしました
ツイッターでは報告したのですが、仕事の影響で、投稿が大幅に遅れてしまいました
仕事の方も、なんとか落ち着いてきたので、今日から投稿を再開いたします
今後も、完結まで頑張って投稿してまいりますので、よろしければお付き合いください
合い言葉は、八銀はジャスティス


第42局 清滝一門の熱い夏4

八月上旬のとある朝。

その日俺は、東京へ向かう新幹線に乗っていた。

 

「7六歩」

 

「8四歩」

 

「6八銀」

 

「8五歩」

 

「7七銀」

 

いつものように銀子ちゃんと目隠し将棋をしながら移動する。東京へ向かう理由は当然、将棋のためだ。とは言っても、今日の主役は俺じゃない。今日の主役はなんと言ってもこの人だ。

 

「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」

 

今まさに、緊張のあまりまるで某汎用人型決戦兵器のパイロットのようになってしまっている俺と銀子ちゃんの妹弟子、桂香さんだ。今日は東京で、マイナビ女子オープンの一斉予選が行われる。チャレンジャー予選を無事勝ち抜いた桂香さんは、この一斉予選へと駒を進めていた。そして、今日生き残ることができたならば、本戦トーナメントへの出場が決定する。そして、本戦トーナメントで初戦を突破することができたならば、晴れて桂香さんは女流棋士になることができる。このマイナビ女子オープンは、女流棋士になるための近道でもあるのだ。まぁ、難易度は研修会よりも格段に高いけど。

 

「桂香さん、そろそろ駅に着くよ。早く覚悟を決めないと」

 

「だ、だけど、一斉予選にまで残れたのだって初めてなのよ……?も、もしかしたら……これが最初で最後のチャンスかもしれないって考えると……余計に緊張しちゃって……」

 

桂香さんは、女流棋士になると決心した頃から、毎年このマイナビ女子オープンには挑戦していた。今年で三度目の挑戦。そして三度目でたどり着いた、夢への扉。正確にはその扉へ続く階段と言ったところだろうか。そして、今日を生き残れば、その夢の扉に手がかかる。その扉が見えてしまってるが故に、桂香さんは必要以上に緊張してしまっているのだ。だけど、その夢の扉を開けるためには、とにかく将棋で勝つしかない。だというのに、ここまで緊張してしまっていると、勝てる将棋も勝てないだろう。どうしたものか。

 

「銀子ちゃん、どうしよう?」

 

「わ、私に言われても……」

 

今朝からずっと、幾度となく桂香さんの緊張をほぐそうと試みてはいる。しかし、未だに結果には結びついていない。銀子ちゃんと二人、あぁでもない、こーでもないと頭を悩ませる。今の俺たちは、難解な詰め将棋を解いてる時よりも悩んでる自信がある。

 

「本当に、どうしようかなぁ……」

 

「ここは、こなたに任せるでおざるよ」

 

「え?」

 

どうしようかと銀子ちゃんと二人途方に暮れていた時だった。座席に座った俺たちの奥、通路から声がかけられた。聞き覚えのある京言葉。そして、その声の主である彼女が、更にこちらに近づいたかと思うと、彼女のその両手が、通路側の席に座っていた桂香さんへと近づいていく。段々、段々と近づいていき、そして……

 

「えい♡」

 

ボヨン

 

その両手が、桂香さんの象徴である二つのお山を鷲づかみにした。……って、何やってんの!?

 

「あれまぁ、桂香サン、また大きくなったんとちゃいます?この張りといい形といい、きっと世の殿方が群がるどすなぁ」

 

「……え?え?え?……うひゃぁ!?」

 

桂香さんの絶叫が車内に木霊する。乗客の視線が、桂香さんと、この事態を起こした張本人、万智ちゃんに集まる。それでも、万智ちゃんは構わず、桂香さんの象徴を鷲づかんだ手を動かし、揉みしだきはじめた。

 

「ふむふむ、揉みごたえもええどすなぁ。ご立派やわぁ」

 

「ひゃ……あん……そ、そこは……ダメぇ……」

 

そして、次第に桂香さんの口から艶めかしい声が出始める。ちょ、ちょっと万智ちゃん!?なんて羨ましい……じゃない、けしからんことを!

 

「ちょ、ちょっと万智ちゃん!?何やってるの!?そんなこと万智ちゃんにさせられないよ!ここは俺が代わりにやるから……ふぎゅ!?」

 

万智ちゃんを止めようとした俺を、背後から銀子ちゃんが止める。銀子ちゃんは両腕を器用に使い、俺の両耳、そして両目をふさいでくる。その姿はまるで、後ろから俺の頭を抱きしめているかのようだった。

 

「あの、銀子ちゃん、何も見えないし聞こえないんだけど?」

 

「見なくていいし聞かなくていい」

 

銀子ちゃんが言う言葉は、耳を塞がれているのではっきりとは聞き取れなかった。だけど、こんな超絶レアな桂香さんの姿と声を拝める機会は、今後二度とあるとは思えない。ここは目と耳にしっかりと焼き付けておきたいというのに、それを銀子ちゃんが許してくれそうにない。なんとか振りほどこうともがくけど、体勢が不利な俺は、全く銀子ちゃんを振りほどけない。せめて、あの桂香さんの象徴が万智ちゃんの手によって歪められる様だけでも拝みたいというのに、全く拝めそうにない。仕方なく、本当に仕方なく諦めて、俺は銀子ちゃんに背を預ける。銀子ちゃんの胸が、俺の背中に当たる。何の感触も無い。桂香さんのあのお山様と比べると、天と地の差、正に月とすっぽんだ。年齢的に当然とも言えるが、俺は知っている。幾ら年齢を重ねても、銀子ちゃんの胸は無に等しかった……って痛い痛い痛い痛い!?頭が思いっきり締め付けられてる!?

 

「ぎ、銀子ちゃん痛い!本当に痛いから!締まってる!締まってるぅ!思考力が弱くなっちゃうよ!?」

 

「ぶちころすぞわれ」

 

その銀子ちゃんの声は、耳をふさがれているというのに何故かよく聞こえた。聞き慣れたフレーズ。桂香さんの象徴があのお山様ならば、銀子ちゃんの象徴はこのフレーズなのかもしれない。新幹線は、もうすぐ東京に着く。その東京に着くまでの車内で俺たちは、ずっとこの調子で騒いでいた。結局俺は駅に着くまで銀子ちゃんに開放してもらえず、ずっと頭を締め付けられたまま、痛みを訴えながら、残り短い旅路を過ごすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ……」

 

その後俺たちは、無事会場までたどり着くことが出来た。できたのだが、あれからずっと桂香さんがこの調子だ。涙を流しながら歩く姿は、とても弱々しかった。

 

「うぅ、もうお嫁にいけない……」

 

「だったら、俺がお嫁さんにもらって痛い痛い痛い痛い!?」

 

そんなことを言ったら、銀子ちゃんに足の甲を思いっきり踏みつけられたうえに、グリグリされた。めちゃくちゃ痛いんだけど!?

 

「銀子ちゃん、凄く痛いんだけど!?」

 

「あん?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

銀子ちゃんに文句を言ったら、凄い目で睨まれて、つい引き下がってしまった。こ、怖すぎる……

 

「せやけど、その様子やと緊張はほぐれたどすな」

 

「確かにほぐれたけど、その代償に大事なものを失った気がするわ……」

 

まぁ、あんあ大勢の前であんな姿を晒してしまったらそう感じるのも当然だろう。一緒に乗り合わせた男の人は皆、席を立つとき前屈みになっていた。どうしてそんな体制になっていたのかは、察してあげてほしい。

 

「けど、確かに緊張はほぐれたわ。これなら、少しは良い将棋指せるかも。それじゃ二人とも、行ってくるわね」

 

「うん!頑張ってきてね!」

 

「桂香さんなら大丈夫だよ。自信を持って、指してきて」

 

そして桂香さんは、自身の対局場所へと向かっていった。その後ろ姿は、正にいつも通りの桂香さんだった。緊張についてはもう全く心配しなくても良さそうだ。

 

「それで、万智ちゃんはなんでいるの?」

 

万智ちゃんは今日の一斉予選には参加していない。別に、マイナビ女子オープンに自体参加していないわけではない。マイナビ女子オープンは、昨期の本戦トーナメントベスト4以上、もしくはタイトル戦出場者に、本戦トーナメントへのシード権が与えられる。万智ちゃんは、昨期挑決まで勝ち進んでいるため、本戦へのシード権が与えられている。つまり、万智ちゃんの出番は今日からではなく、この次の本戦トーナメントからなのだ。だから今日はここに来る必要は無いはずなんだけど、なんでいるんだろう?

 

「今日は只の敵情視察どす。特に深い意味は無いでおざるよ。ただ、一つ心配事はあるどすが……」

 

「心配事?」

 

「それは直にわかるどす」

 

そう言ったきり、万智ちゃんは心配事の内容を教えてはくれなかった。万智ちゃんの言う心配事は気になるけど、今は桂香さんだ。もうまもなく、桂香さんの初戦が始まる。桂香さんは、組み合わせの結果今日2回勝てば本戦トーナメントに勝ち残れる組み合わせとなった。初戦の相手は、女流初段の女流棋士となった。いきなり女流棋士が相手と、かなり厳しいスタートとなってしまった。桂香さんは後手だ。対局が始まると、相手はまず角道を開けてきた。それを見て、桂香さんも角道を開け返す。

 

「万智ちゃん、桂香さんの対局相手について知ってる?」

 

「あのお方は確か、居飛車党でおざるよ。得意にしてる戦型は、矢倉か雁木。攻めよりも受けの方が得意なお方やったはずどす」

 

「居飛車党か」

 

女性棋士は、割合として振り飛車党の方が多い。居飛車を指して、尚且つ矢倉や雁木を好む女性棋士というのは珍しい。だが珍しいだけで、いないわけではない。現に、ここにもう一人。

 

「この形は……相矢倉だ!」

 

「清滝桂香って、もしかしてあの清滝九段の娘さんか?」

 

「だとしたら、元名人直伝の矢倉じゃないか!」

 

周りの観客が次々と声を上げる。そう。桂香さんも矢倉を好んで指す女性の一人なのだ。

 

「おい清滝先生の娘さんで、相手が矢倉となると……もしかしたら……」

 

「出るのか!?伝家の宝刀矢倉殺し!?」

 

その周りの声に反応してしまったのか、桂香さんの対局相手の表情が引き攣り、そして青ざめる。心なしか、手も少し震えているように見える。囲いは完成し、そろそろ開戦かといったところで、相手は少考に入る。そして程なくして、次の一手を指した。

 

「え?」

 

そう最初に声を零したのは、桂香さんだった。その桂香さんの声を聞いて、対局相手は自分が指してしまった手の意味を理解したのだろう。只でさえ青ざめていた顔が、余計に青ざめ、青を通り越して白になってしまっている。周りの観客も、段々と事態に気づき、ざわめいていく。俺や銀子ちゃん、それに万智ちゃんも、驚愕のあまり声すら出ない。対局相手の手は、真夏だというのに、まるで防寒具を着ずに南極にいるかの如く、震えている。そして、その手と同じく震えた声で、彼女はこう告げた。

 

「ま、負けました……」

 

彼女が最後に指した手。それは悪手ではなかった。大悪手でもない。彼女が最後に指した手、それは銀を真下に動かすという手だった。確かにそうすれば、囲いは更に堅くなる局面だった。例え矢倉殺しが飛んできても、簡単には崩されない手だった。指せればの話だが。この会場に態々足を運んでいる将棋通なら誰もが知っている。銀は、真下に動かすことができないということは。つまり彼女が放った一手は、悪手でも大悪手でもなく、反則手だったのだ。その手を指してしまった瞬間、彼女の敗北は決定してしまったのだった。まだ序盤にしての、初戦反則負け。その手を指してしまった彼女は、盤面を見つめて、ピクリとも動かない。顔は未だに青ざめたままだ。そしてやがて、盤面に雨が降り始めた。彼女の瞳から零れる雨が、盤面を静かにぬらしていく。その後彼女は、足をもつれさせながらも立ち上がり、駆け足で去っていった。その背中を追いかける人はいない。敗者にかける言葉なんて、誰も持ち合わせてはいない。それがありえないような反則による結果なのだとしたら、余計にかける言葉なんて見つからない。後は、彼女自身の問題でしかない。

 

「あの人、怯えてた」

 

「そうどすなぁ。桂香サンの後ろに清滝先生の姿を見てしもうたんやろなぁ。可愛そうに。矢倉殺しに怯えて、自分の将棋を指せなかったでおざるな」

 

銀子ちゃんと万智ちゃんの言うとおりだ。今の対局中彼女は、矢倉殺しという言葉が外野から聞こえたとき、明らかに様子がおかしかった。もし、桂香さんが矢倉殺しを指してきたら、というのを意識しすぎてしまったのだ。

 

「それで、ほんまに桂香サンは、矢倉殺しが指せるんどす?」

 

そう、万智ちゃんが尋ねてくる。その質問に対して、俺は……

 

「さぁ?どうだろうね?」

 

はぐらかすことにした。

 

「えー、教えてくれてもええどすやろ?」

 

「教えるわけないでしょ。本戦で対局するかもしれないんだから」

 

はぐらかした理由は、銀子ちゃんが説明してくれた。その通りだ。桂香さんが本戦まで勝ち進めば、万智ちゃんと当たる可能性は十分にある。敵に情報を教えるわけにはいかない。とは言え、万智ちゃんが矢倉を指すとは思っていない。だけど、棋界というのは意外と狭い。ここで万智ちゃんに言うことによって、どこに情報が漏れるかわからない。桂香さんを応援してる身としては、少しでも桂香さんの将棋に関する情報は、秘匿したいのだ。

 

「それはつまり、桂香サンが本戦に勝ち残れると思うてるということでおざる?」

 

「当たり前でしょ?桂香さんは勝つよ」

 

「八一クンもそう思うてるどす?」

 

「さぁ?どうだろうね?」

 

なんてことを言ったら、また銀子ちゃんに足の甲を踏みつけられた。本当に痛いです。俺、もう自分の足で歩けない体になってしまうかもしれません。それはともかく、別に今の俺は、はぐらかしたわけではない。本当にわからなかったのだ。桂香さんが勝ち残れる可能性は十分あるだろうとは思ってる。だけど、次の相手は強敵だ。先ほどのように、簡単にいく相手ではないだろう。万智ちゃんもどうやら、次の相手には流石に勝てないと思っているようだ。だけど万智ちゃんは、研修会で一時期一緒だった頃の桂香さんの将棋しか知らないはずだ。確かにあの頃の桂香さんだったら勝てなかっただろう。だけど今の桂香さんは、あの頃とは全く違う。そのことを、今から桂香さんには証明してほしい。

 

「皆、おまたせ」

 

そうやって皆で話していると、桂香さんがやってくる。これから昼休憩を挟んで最終戦だ。桂香さんにはゆっくり休んでもらって、次の一局に全力を注げるようにしてもらおう。これで女流棋士まで後2勝。また桂香さんは、夢への階段を一段上がったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

昼休憩が明け、運命の最終戦の時間がやってくる。盤の前には、既に桂香さんが座っている。先ほどから目をつぶり、頻りに深呼吸をしている。新幹線で緊張は吹き飛ばしてきたとはいえ、流石に最終局前。また少し緊張が戻ってきているらしい。だけど、様子を見る限りじゃ対局に支障はなさそうだ。

 

「アンタか。クズの妹弟子ってのは」

 

そして桂香さんが緊張をほぐそうとしていると、対局者が姿を現した。俺たちのよく知っている顔だ。前生からの腐れ縁と言ってもいい。月夜見坂燎()()()()()。燎ちゃんは、去年銀子ちゃんと同じタイミングで、奨励会入会試験を受け、そして見事に合格してみせた。6級で奨励会に入会した彼女だが、しかし、あれからほぼ一年経った今でもまだ6級に甘んじている。それどころか……

 

「お燎、次の例会次第では7級に降級するどす。前回の例会後はえらい荒れはってなぁ。こなたも朝方まで愚痴吐かれながらネット対局に付き合わされたでおざるよ。こなたが今日来た最大の理由は、お燎の様子を見るためどす」

 

そう。燎ちゃんは今、降級の危機にある。燎ちゃんがこのマイナビ女子オープンに参加したのだって、奨励会での鬱憤晴らしのためだ。奨励会では苦戦している燎ちゃんだけど、流石は未来の女流タイトル保持者。女流棋士の中では、無双モードに入っていた。

 

「お燎はチャレンジャー予選からここまで、一度の王手もかけられず、一方的な将棋で勝ち残ってきたどす。桂香サンには悪いどすが、今のお燎がアマ棋士に遅れを取るとは思えんなぁ」

 

万智ちゃんの言うことも尤もだ。だけど、それでも、俺は桂香さんならなんとかしてくれると信じてる。

 

「桂香さん……」

 

そしてそれは銀子ちゃんも同じだ。銀子ちゃんも、目の前で両手を組み、まるで祈るかのように桂香さんんのことを見守っていた。俺たちは信じている。桂香さんなら、この逆境を乗り越えて、燎ちゃんに勝ってくれると。

 

「さて、んじゃさっさと初めてさっさと終わらそうぜ」

 

そして対局が始まった。先手は桂香さんだ。桂香さんがまずは角道を開ける。燎ちゃんは飛車先の歩を突いていった。それを見て桂香さんは、6八銀と指す。更に燎ちゃんが飛車先の歩を突き進め、桂香さんが7七銀と銀を進めた。

 

「これは……矢倉どすな」

 

そう。矢倉だ。清滝一門お得意の矢倉だ。将棋の純文学とも称される戦型。この矢倉で、桂香さんは燎ちゃんとの対局に挑む。

 

「チッ、囲われたら面倒だな。完成させる前に一気に終わらせてやるよ!」

 

その宣言通り、燎ちゃんが序盤から攻勢に出る。しかし桂香さんは落ち着いていた。冷静に、燎ちゃんの手を一手一手対応し、自身の囲いを固めていく。そしてある程度矢倉が完成したところで、桂香さんが指した手に、会場内がほんの少しだけざわつく。その手は、9八香だ。

 

「矢倉穴熊?」

 

会場内の誰かが口にする。そう、桂香さんが指した9八香が意味するところは、それしかないだろう。矢倉穴熊。名前通り、矢倉と穴熊を合体させたような囲いの名称だ。当然のように堅い。桂香さんは、その後も、燎ちゃんの攻撃を受け止めつつ、囲いをより強固にしていく。強固な穴熊だ。これは流石の燎ちゃんも攻略に苦しむだろう。その証拠に、燎ちゃんの表情が引き攣っている。目の前の固い壁に嫌気がさしていることだろう。

 

「……あの穴熊、ただの穴熊と違うどすな?」

 

そう、万智ちゃんが尋ねてくる。流石穴熊使いの万智ちゃんだ。まだ、完成したわけではないのに、もう気づいてしまうとは思わなかった。

 

「さて?どうだろうね?」

 

「教えてくれへんの?八一クン意地悪やわぁ」

 

「だから、態々本戦で対局するかもしれない相手に桂香さんの手の内教えるわけないでしょ」

 

銀子ちゃんの言う通りだ。俺たちは桂香さんの味方だ。万智ちゃんには悪いけど、桂香さんの手の内を万智ちゃんに教えるわけにはいかない。そしてその後も、桂香さんはゆっくりと、慎重に囲いを組んでいく。そして、その囲いは完成した。

 

「なんだ、これ……」

 

燎ちゃんがそう呟く。隣で万智ちゃんは、その盤面をジッと見つめている。桂香さんが盤面に描いたのは穴熊囲いだ。だが、ただの穴熊囲いとは違う。俺は前生において、穴熊対策の研究を推し進めていたのは、以前にも説明したことがあるだろう。その研究の末、穴熊殺しを生み出したことも。それと同時に俺は、より強固な穴熊の研究も行っていたのだ。穴熊殺しも通じず、蟻の侵入すら許さないような無敵の穴熊の研究を。その研究の末に生み出したのが、この穴熊だ。前生では、九頭竜穴熊と呼ばれていた。俺が生み出した、最固の穴熊だ。たぶんこれが一番固いと思います。

 

「グッ!?固ぇ……!?」

 

燎ちゃんも、その固さに驚く。女流棋士には、比較的に振り飛車党が多い。穴熊と言えば、振り飛車の天敵だ。だからこそ、強固な穴熊を組めれば、対局を有利に進めることができる。だからこそ、桂香さんにこの囲いを伝授した。だけど、どんなに強固な囲いを形成しても、実力が伴わなければ勝てるとは限らない。

 

「しゃらくせぇ!」

 

「ッ!?」

 

囲いを形成して、攻勢に出ようとした桂香さんの隙を見逃さず、燎ちゃんの駒が桂香さんの穴熊に罅を入れていく。流石は、前生において攻める大天使の異名で呼ばれた燎ちゃんだ。こと攻め将棋においては、女流棋界でもトップクラスだ。その攻撃力が、桂香さんの穴熊に牙をむく。しかし、桂香さんも負けじと攻め返す。攻めに比重を置いた燎ちゃんと、受けに比重をおいた桂香さんの攻め合い。互角の攻め合い。果たして、先に相手玉に食らいついたのは……燎ちゃんだった。

 

「一気に行くぜ!」

 

燎ちゃんの怒濤の攻撃が、桂香さんに襲いかかる。桂香さんは、必死にそれを躱し、受ける。燎ちゃんの猛攻は止まらない。強固だったはずの穴熊は、既にボロボロになっている。桂香さんは、ミスをおかしたのだ。今はまだ、攻め合いに応じるべきではなかった。受けに集中するべきだったのだ。攻めに応じるタイミングを見誤ってしまったがために、ここまで追い詰められている。しかし、まだ負けている訳ではない。ここからの逆転だって十分可能だ。桂香さんは、必死に燎ちゃんの猛攻を耐えていた。堪え忍んで、反撃の機会を伺っていた。そして、その時は来た。

 

「桂香さん……!」

 

銀子ちゃんが祈るように両手を強く握り、目をつぶっている。燎ちゃんが指した手は、王手になっていなかった。まだ詰めろでもない。今は正に反撃の機会だ。桂香さんのこれからの一手で、この対局が決まると言っても過言ではない。桂香さんが、ここで長考に入る。とは言っても、持ち時間の少ない対局だ。そこまで、深く読むことはできない。しばらくして、桂香さんは自身の持ち駒を一枚手に取った。銀だ。銀将の駒を手に取り、それを盤上に打ち付けた。桂香さんが指した手は……8八銀打。

 

「なにぃ!?」

 

その手に、思わず燎ちゃんが叫び声をあげる。会場内もざわつき、万智ちゃんも驚愕を露わにしている。

 

「よし!」

 

しかし、銀子ちゃんはその手を見て、喜んでいた。それは、俺も同じだ。思わず、ガッツポーズをしてしまう。桂香さんが指した手は、自陣に銀を打ち付けるという、受けの一手だった。だが今は、それが正解だった。今、また無理して攻勢に出ていたら、今度こそ桂香さんは攻め負けていただろう。今は落ち着いて、自陣の玉を安定させる方が大事だ。

 

「銀子ちゃんの祈りが通じたのかな」

 

銀子ちゃんはずっと、桂香さんが受けに回るように祈っていた。その想いが、もしかしたら桂香さんに届いたのかもしれない。だけど、銀子ちゃんはそれを否定する。

 

「ううん。全部……桂香さんの実力だよ」

 

そして桂香さんは、立て続けに受けの手を打つ。9八香、8九桂と打つ。玉を囲むように、銀、香桂と連続で駒を打ち付けたのだ。

 

「か、固ぇ!?」

 

「また穴熊かよ!?」

 

周囲がざわつく。そう、桂香さんは今、簡易的な穴熊を形成したのだ。その囲いに、またも燎ちゃんの表情が歪む。折角穴熊を攻略したと思ったら、また穴熊が姿を現したのだ。目の前の盤面に嫌気がさすだろう。

 

「なんとも、粘り強い将棋でおざるな。これは、まるで……」

 

「鋼鉄流」

 

万智ちゃんの言葉を、銀子ちゃんが引き継ぐ。そう。これはまるで鋼鉄流だ。俺たちの師匠、清滝鋼介九段の棋風だ。棋風とは、人に教えられて身につくようなものではない。その人が、産まれながらに持っている個性によるところが大きい。現に俺や銀子ちゃんも、師匠に将棋を教わってきたが、その棋風は師匠とは全く異なる。しかしどうやら、桂香さんの棋風は師匠に近しいようだ。流石は親子と言ったところだろうか。似ていないようで、その根本はしっかりと似ている。この二人は本当の意味で、親子なんだなと実感した。

 

それからの桂香さんは、簡易穴熊を軸に、燎ちゃんの猛攻を耐え忍んでいく。見てるこっちがハラハラするほどの一方的な将棋。しかし、一方的に攻めてるはずの燎ちゃんの方が、表情は苦しそうだ。桂香さんの受けが固い。どうやら、ここにきて桂香さんの眠っていた棋風が開花したのかもしれない。粘り強く、只管に粘り強く、耐えている。奥歯を噛みしめて、必死に耐えている。桂香さんの玉は、未だに簡易穴熊に囲まれて安定していた。

 

「桂香さん……」

 

銀子ちゃんは、未だに桂香さんの勝利を祈っていた。正に姉の勝利を信じて祈る妹だ。棋界では、銀子ちゃんが姉だけど。だけど本当に、二人は仲が良い。血は繋がっていないのに、まるで本当の姉妹のように仲が良い。いや、もしかしたら血が繋がっていないからこそ仲が良いのかもしれないが。

 

「……穴熊って、銀子ちゃんと桂香さんみたいだよね」

 

「え?」

 

「ほら、玉の周りを桂香(けいきょう)、そして銀が囲ってるでしょ?まるで、桂香さんと銀子ちゃんみたいに引っ付いて仲が良いな、って思って」

 

「……じゃあ、桂香さんと私に守られてる玉は八一?」

 

玉が俺か。それはそれで嬉しいし、アリかもしれない。だけど、きっと俺ではないのだろう。俺よりももっと相応しいものを、きっとあの玉は意味している。そう、きっとあの玉は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二人の絆じゃないかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして対局は終わりへと近づいていく。必死に攻める燎ちゃん、それを冷静に受け止める桂香さん。そして次第に、燎ちゃんの攻めが弱火になっていく。攻め駒が足りなくなってきたのだ。今の燎ちゃんにはもう、堅固な桂香さんの囲いを突き破る力は残っていなかった。そして、燎ちゃんの攻めが途切れる。そのチャンスを、今度こそ桂香さんは逃さなかった。一気に燎ちゃんに攻めかかる。燎ちゃんの最低限の囲いを直ぐさま貫き、燎ちゃんの玉へと手を伸ばした。そして、手が届いた。王手だ。燎ちゃんが、この大会で受けた初めての王手だった。そして、最後の王手だった。

 

「負け……ました……」

 

燎ちゃんの投了宣言。それも仕方ない。攻め手を無くし、桂香さんの持ち駒は潤沢。ここからどう粘ろうとも、桂香さん玉に手が届くことはもう無かっただろう。詰むのも時間の問題だ。これにて、勝敗は決した。未だに簡易穴熊に囲まれた(きずな)。正に、銀子ちゃんと桂香さんの絆の勝利と言えるだろう。

 

「やった!桂香さんが勝った!やったよ八一!」

 

「うん!完璧な……本当に完璧な桂香さんの勝ちだ!」

 

喜び飛びついてくる銀子ちゃんを受け止める。二人で桂香さんの勝利を喜び合った。

 

「まさか、ほんまにお燎が負けるやなんて……」

 

万智ちゃんも驚き、呆然としている。だが、その視線は桂香さんを強く見つめている。油断ならない強敵として、桂香さんのことを認めたようだ。盤の前で未だに座る桂香さんは、溢れ出す涙を手で抑えようとしているが、抑えきれずに手の隙間から雫がこぼれ落ちている。それにつられて、俺と銀子ちゃんも涙を流していた。これで、夢まであと1勝。桂香さんは、夢の扉の前に立ったのだ。後は、その扉をこじ開けるだけ。桂香さんならきっと開けることができる。そう俺は信じていた。桂香さんの美しい涙を眺めながら、そう信じていた。しかし、勝者がいる一方で、当然敗者もいる。

 

「ちくしょう……なんで、なんでなんだよ……お前らの家系はなんでどいつもこいつもよ……ちくしょう……」

 

燎ちゃんは、そう呟きながら、弱々しい足取りで立ち去っていった。万智ちゃんが、そんな燎ちゃんの後を追おうか迷っていたが、どうやら追わないことに決めたらしい。それが正解だろう。敗者に情けは不要。情けをかけられると、余計に惨めに感じるだけだ。今は、できるだけ一人にしてあげる方がいいだろう。余談だが、燎ちゃんはその後、次の例会にて奨励会7級への降級が決まった。それと同時に、奨励会を退会し、女流棋士へと転向することを決めた。彼女には今生でも、女流棋士として是非とも大成して欲しいと思う。そしてもちろん、桂香さんにも。俺は、未だに涙を流し続ける桂香さんを見ながら、静かにそう願うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

全ての対局が終わると、本戦トーナメントの抽選会が行われた。大事な大事な抽選だ。夢の扉を守る番人を決める抽選。果たして、どのような結果が待っているのか?

 

「次は見事アマチュアから本戦へと勝ち進んだ清滝桂香さん!どうぞ前へ!」

 

「は、はい……」

 

司会の人に呼ばれて、桂香さんがひな壇を降りて前へ進む。その動きも表情も硬くぎこちない。相当緊張しているようだ。あぁ、右手と右足が同時に前に出てるよ……

そして桂香さんは、勝ち進んだ感想を述べて、運命のクジを引く。果たして、結果は?

 

「出ました!清滝桂香さん、一回戦の相手は……供御飯万智女流初段!」

 

そのクジ結果が出た瞬間、俺の隣から、不気味な気配が膨れあがった。殺気とでも呼ぶべきだろうか?不適な笑みを浮かべる万智ちゃんは、(まばた)きもせずに桂香さんのことを見つめていた。その視線は、強く鋭い。

 

「お手柔らかにお願いするどす……桂香サン」

 

その呟きは、決して壇上の桂香さんには聞こえなかっただろう。しかし、桂香さんも万智ちゃんから何かを感じ取ったのだろう。同じように、強く鋭い視線で万智ちゃんのことを見つめ返していた。夢の扉に手をかけた桂香さんと、夢の扉を守護する最後の番人万智ちゃんの対局は、既に始まっていたのだった。

 

こうして、師匠に続き、桂香さんの熱い夏が幕を閉じた。この熱戦は、秋まで持ち越されることになる。夢への挑戦、この続きは、もう少しだけ先のお話だ。そして、清滝一門の熱い夏はまだ終わらない。もう一人……

 

 

 

 

 

 

 

「ま、負けました……」

 

関西将棋会館の対局室に、少年の投了宣言が響き渡る。この日この場所では、奨励会入会試験、その最終試験が行われていた。今投了宣言を行ったのは、現奨励会員。そして、その奨励会員の前でホッと息を吐いている銀髪の少女が、新しい奨励会員だ。

 

「銀子ちゃんおめでとう!」

 

俺は思わず、銀子ちゃんを抱きしめる。銀子ちゃんも、満更でも無さそうに俺のことを抱きしめ返してくれる。

 

「ありがとう、八一」

 

「今日はお祝いしなきゃね!」

 

「ん。九頭竜君。お祝いするのはいいですが、今はまだ対局中です。静かに退室するように」

 

そう久留野さんに言われ、周りを見渡してみる。周りで対局中の奨励会員や受験生から、もの凄く睨まれていた。つい嬉しくて、周りを気にせず部屋に飛び込んじゃったけど、当然今日対局を行っているのは、銀子ちゃんだけじゃない。

 

「は、はいぃ、すいませんでした……」

 

俺は肩身狭く、部屋から早足で出ていく。とんでもなく恥ずかしかった。穴があったら飛び降りたい。何はともあれ、これで銀子ちゃんも晴れて奨励会入りを果たした。皆頑張ったんだ。次は俺の番だ。こうして、清滝一門の熱い夏は幕を閉じ、また、俺の闘いへと繋がっていくのだった。




本当に長らくお待たせして申し訳ない
GWも返上して社畜してました(白目
これも全部人事が悪い
ただ、ようやくそれも落ち着いてきたので、これからは今度こそ投稿ペース上げれそうです
最低でも週一ペースで投稿したいな
とりあえず、遅くとも八月中には三段リーグ編終わらせたいですね
八月は八一生誕祭特別編も投稿したいし、忙しい夏になりそうだ(白目
これからもがんばって投稿していきますので、お付き合いいただけるとありがたいです
よろしくお願いします!
八銀はジャスティス
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