Angel or Lilith~天使な僕と魔性なキミの旅~ 作:伊駒辰葉
あー、もう!
ライツは黙々と食事をしつつ内心で叫んだ。宿の主人は無愛想だがとても美味い朝食を用意してくれた。なのにトゥーラは落ち込んでいるのか、今朝は食事は要らないと部屋にこもったままだ。
ふんわりとした卵も、香味野菜の混ざったサラダも、丸い特徴のある焼きたてのパンも、ミルクで伸ばしたスープもこんなに美味いというのに、それを食べたくないなどというトゥーラの気が知れない。ライツは仏頂面で食事をしつつ、心の底で思い切りトゥーラを罵倒した。
おまけにこの腸詰も美味しいしさ。ライツは二本目の腸詰にフォークを付き立てて深々とため息を吐いた。燻製にされた腸詰は程よく焼いてあってとても香ばしい。ライツは食事を続けつつ昨晩のことを思い起こした。
まさかいきなり平手打ちを食らわされるとは思わなかった。なんて直情的なんだ、とぼやいてライツは腸詰を手早く片付けた。続いてスープを口に運んでこれも美味しいのに、と呟く。
昨晩、ライツが床に横たわった後、トゥーラはしばしその場にいたがやがてはベッドに大人しく一人で入った。明かりの落ちた部屋の中ですすり泣くトゥーラの声が聞こえ、ライツは随分と長い間寝付けなかった。
たかが平手打ち程度のことを何でトゥーラが泣くほど気にするのか判らない。塔では組み手を行うことが良くある。そしてライツの相手をするエタンダールは顔を殴るのは忍びない、とは言うが、顔面以外のところを遠慮なしで攻撃してくる。加減のないエタンダールの攻撃に目を回したことは一度や二度ではない。
だってたかが平手打ちだよ。そう呟いてライツはまたため息を吐いた。
「泣くほど気にするんなら最初から殴らなきゃいいじゃないか」
唇を尖らせて言ってからライツは皿に残っていた卵と腸詰をじっと見つめた。
もしかして言いすぎたのかも知れない。そんな不安がこみ上げてきてライツは慌てて首を振った。相手は魔道師補だとやたらと強調し、それを盾に見習のライツに好き放題に命令しているのだ。何を遠慮することがあるだろう。
「でも女の子だし……」
塔内でも女弟子には乱暴をしないように、とエタンダールはいつも口うるさく言っている。どうやっても体力的に男は勝っているのだから、女を殴るなどもってのほかだということだ。
いや、僕は殴ってないし。エタンダールの言葉を思い出してライツは頷いた。殴られたのは自分なのだ。だから悪くない。そう自分に心の中で言い聞かせてからライツは食事の手を止めた。
もしかしたらトゥーラは馬鹿にしているのではなく、本当に何も知らないだけではないだろうか。そんな考えが頭を過ぎる。だとすると昨日の自分の言葉はトゥーラを傷つけてしまったのではないか。例え実際に手で殴らなくても、人は言葉で殴ったり切り付けたりすることが出来る。トゥーラが泣いていたのは酷く傷ついたからではないか。そう考えるとライツは憂鬱になった。
食事を終えて部屋に戻り、ライツは荷物をまとめて背負った。トゥーラはすっかり支度を済ませている。多少、目の周りが赤いのはきっと昨夜に泣いていたせいだろう。だがライツはあえて気付かない振りをしていつも通りに振る舞った。トゥーラは落ち込んでいるのか、受け答えする声にも張りがない。
宿を出て高原に入ったところでライツは手元の地図と立て札とを見比べた。どうやら高原を横切るには道なりに進めばいいようだ。そのことを伝えるとトゥーラは黙って頷いた。やっぱりまだ気にしてる、と心の中でだけ呟いてライツは素知らぬ顔で道を進んだ。トゥーラは少し遅れてライツの後をついてくる。俯き加減のトゥーラを何度目かに振り返ったところでライツはあー、と低い声で言って足を止めた。驚いたようにトゥーラが顔を上げる。
「休憩」
仏頂面で言ってライツは道の脇に向かった。馬車が一台通れる幅の道の左右は柔らかな緑の草に覆われている。ライツは短い草の上に荷物を降ろし、中から布を取り出した。四つに折って草の上に広げてからトゥーラに顎をしゃくる。戸惑った顔をしつつもトゥーラは大人しくその布の上に腰を下ろした。
「ほら」
荷物を探って大きなハンカチの包みを差し出しながらライツは機嫌悪く言った。トゥーラがライツの差し出したハンカチの包みを見下ろして小声で言う。
「なに」
「いいから、ほら! もう、そんな泣きそうな顔で歩いてないでよ! 僕が苛めたみたいじゃないか!」
そうまくし立ててライツは手にしていた包みを強引にトゥーラの手の上に乗せた。トゥーラが顔をしかめて包みを開く。中身が現れたところでトゥーラが驚きに息を飲むのがわかった。
ハンカチの中には特徴のある丸いパンが入っていた。切込みを入れたパンには腸詰と卵が挟まれている。ライツが宿の主人に頼んで作ってもらったのだ。
「これ、わたしに?」
「だってトゥーラさん、食事に来なかったでしょっ。捨てるのもったいないじゃないかっ」
口早に言ってライツは荷物から水筒を取り出し、トゥーラの膝元に据えた。それからふん、とそっぽを向く。早く食べてよね、と不機嫌に言ってからライツはちらりとトゥーラに目をやった。トゥーラの表情は変わらず暗かったが、口許には辛うじて笑みが浮かんでいる。消え入りそうな声でありがとう、と言われてライツは慌てて余所を向いた。
高原は広く、周囲は青い草に包まれている。時折吹く爽やかな風が撫でて草を揺らす。その様をライツはぼんやりと見つめた。先の試験で描いたのはこのクオーレ高原の様子だった。青い空に緑色の草、所々に見えている灰色の石、それらをライツは魔術で作った色粉で描いたのだ。
結果は不合格だった。だが未だにどこがいけなかったのか判らない。まるで現実の光景を写し取ったようにライツの絵は精巧に出来ていた。他の弟子もライツの絵を見てそう言っていたのだからただの自画自賛ではないという自信がある。だがエタンダールはその絵を見て駄目だと言ったのだ。
何がいけなかったんだろう。エタンダールは頭が硬いと笑っていた。だがあの絵の何を見てそう言われたのかがライツは未だに判っていなかった。クオーレ高原は気候が変わりやすく、よく雨が降る。そして雨の後は空に美しい虹がかかる。その様もあの絵には描かれていた。
「ご馳走様」
「あ、うん」
考えに没頭していたライツはトゥーラの言葉に生返事をした。トゥーラがパンくずを叩き落としてハンカチを丁寧に畳む。差し出されたハンカチをライツは慌てて受け取った。多少は元気も出てきたのだろう。トゥーラは暗い顔はもうしていない。少し力なくはあるが笑う元気もあるようだ。よし、と頷いてライツはハンカチと水筒を荷物にしまいこんだ。最後に布を手早く畳んで荷物に入れる。
この話には基本的にはエロシーンはありません、念のため。