Angel or Lilith~天使な僕と魔性なキミの旅~ 作:伊駒辰葉
聞き慣れない物音にトゥーラは薄く目を開けた。眠い目を擦るとぼやけていた視界がはっきりする。暗闇に灯る火の明かりをしばらく見つめてからトゥーラははっと我に返った。
ここは寮の自分の部屋ではないのだ。トゥーラは慌てて身を起こしかけてぴたりと身体の動きを止めた。何かが足に乗っている。トゥーラは恐る恐る足元に目をやって思わず苦笑した。火の番をすると言い張っていたライツがいつの間にかトゥーラの足を枕に眠っているのだ。起きている間に連発されるあの憎まれ口がまるで嘘のように、ライツの寝顔はあどけない。
トゥーラはそっとライツの頭を支え、起こさないように注意して身を起こした。自分の代わりにライツを敷き布に横たえて掛け布を肩まで被せる。そうしてからトゥーラは眠るまでライツが座っていた場所にそっと腰を下ろした。
どのくらい眠っていたのだろう。細くなりつつある火に適当な枝を放り込んでトゥーラはぼんやりとした目で周囲を見回した。振り返ったところで胸元で小さな音が鳴る。トゥーラはふと自分の胸元に目を落として沈んだ顔になった。
服の中にしまっていた首飾りがいつの間にか外に出ている。胸元に落ちた赤い石のついた部分をトゥーラは手に乗せてみた。金色の細い鎖につけられたこの石には魔術の暴発を防ぐ効果があるのだとライツは言っていた。それを聞いた時、トゥーラはクロードのことを思い出した。この首飾りはトゥーラが自分で買い求めたものではない。クロードがお守り代わりだと寄越したものだ。
結局、唯一頼れると思っていたクロードも自分の事を煩わしく思っていたのだろう。だから攻撃魔術が使えないよう、トゥーラの力を封じてからリカルトたちに襲わせたのだ。
魔術の使えなくなった自分には戻る場所はないと思っていた。首飾りが原因で攻撃できなかったのだということはライツの話で判った。けれどやはりもうあの塔には戻れないのではないかとトゥーラは感じていた。あの塔に戻ったところで何を信じればいいのか判らない。ライツに言わせればあの塔で教えられた魔術は魔術以前だという。
だがそれでも天使討伐の任はまだ解かれていない。せめて彼らに迷惑をかけないようにまっとうすることだけが自分に出来ることだ。ここに辿り着くまでにトゥーラはそう考えを固めていた。けれどその考えも揺らぎつつある。
何のために天使は狩られるのだろうか。確かに先に天使が現れた時、この国では激しい戦いが起こり、何の罪もない人々が戦いに巻き込まれた。私欲に溺れた者たちが天使を我が物にしようとした結果がそれだ。そして今回はその戦いを未然に防ぐために天使の討伐が決定されたのだ。
どこも間違ってはいない。最初はトゥーラもその決定は当然のこととして受け入れていた。だがライツと出会って話をするうちに本当にそうだろうかという疑問がわいたのだ。
物語に登場する天使は見目麗しく、世界を変えるほどの力を自在に操ることが出来るという。だがそれはあくまでも物語、お伽噺に過ぎない。現実に天使を見た者はほぼ皆無なのだ。ライツの話ではエタンダールは先の天使を見たという話だったが、詳しいことは聞けなかったのだとも言っていた。
相手の正体も判らないままに討伐することは本当に正しいのだろうか。確かに先の戦いでは多くの血が流れ、人々が犠牲になった。だがそれは本当にその天使が悪かったのだろうか。天使を我が物にしようという我欲にまみれた人間の起こした惨事なのではないか。人は天使の持つ、世界を変えるという力にかこつけて、問題が起こる前に天使の存在そのものをなかったことにしようとしているだけなのではないだろうか。
トゥーラは手に乗せた赤い石を握りしめた。クロードが寄越したこれをずっと着けたままにしていたのには訳がある。本当はトゥーラも外したくて仕方なかった。リカルトたちに襲われたあの夜のことを思い出すと今でも震えがくるほど怖い。その原因となったこの首飾りなどさっさと捨ててしまいたかった。
だがこれがあれば少なくともトゥーラは攻撃魔術は撃てない。考えがまとまらないうちに天使がもし見つかったら、結局は命令に従って討伐してしまいそうだった。だからトゥーラは自制の意味でずっとこれを外さなかったのだ。
ライツと口喧嘩をして判った事が幾つかあった。一つはライツは塔でトゥーラを苛めていた連中とは全く異なるということ。ライツは口では厳しい事を言うが、トゥーラを苛めている訳ではない。自身の信じることを素直に口にしているだけだ。もう一つ判ったのは、自分がまだ喧嘩できるということだ。人と関わりたくないと思っていたトゥーラは苛めを受けても感情のままに言い返したりはしなかった。だがライツを相手にするとどうしても我慢出来なくて言い返してしまうのだ。
そして気付いた。今までトゥーラは塔でどれだけ苛められても嫌だと言ったことがないのだ。勿論、彼らは言いがかりをつけたり理不尽なことを言ったりもしていた。リカルトたちのように集団になって襲い掛かってくることもある。だが、それでもトゥーラはこれまで彼らに毅然とした態度で嫌だと言ったことがないのだ。
上の者の命令は絶対という環境にあって、トゥーラはそれが当り前だと思っていた。多少の問題は自分が我慢すればいい。誰にも言う必要はない。彼らはその内に飽きてこちらに関わってこなくなる。トゥーラはずっとそう思っていたのだ。
だが本当は違うのではないか。ライツと話している内にトゥーラはそう感じるようになった。エタンダールの塔とゼクーの塔は全く違う。話を聞くうちにトゥーラはライツが酷く羨ましくなってしまった。何故ならライツは塔や魔術の話をする時、とても楽しそうなのだ。
何でこんなに違うのだろう。もしも自分が例えばエタンダールの塔に入門していたらどうなっていたのだろう。幼い頃に心に受けた衝撃を笑って済ませられるような強さを得ていたのではないか。あの頃は子供だったから、と納得出来るように成長していたのではないだろうか。
羨ましいという気持ちと悔しさがこみ上げる。トゥーラは首飾りの石を両手に握って俯いた。
魔道士になりたいと言い出した時には、本当は魔術には大した興味はなかった。あの頃はとにかく両親の元から逃げたくて、同じ家に居るのが汚らわしいような気がして、だからトゥーラは塔に入門することにした。
だが学ぶうちにトゥーラは魔術に興味を持った。知ることが楽しかった。ゼクーの塔で学ぶ魔術は偏っていたが、それでも新しい知識を得ることは嬉しくて、だからトゥーラは懸命に勉強をした。
学ぶことがなくなったのはいつだったろうか。ゼクーの塔で教える魔術は魔術以前なのだとライツは言った。それ故にゼクーの塔で学べることには限りがある。ライツのように多岐に渡る知識を得る必要はない。言ってしまえばあそこでは上位の者に下位の者が従う、言わば規律が全てなのだ。
エタンダールの塔では各自が食事の用意や掃除を分担しているのだという。それもトゥーラには信じられない話だった。ゼクーの塔では食事にしろ、掃除にしろ、雑用は専属の人を雇って全て任せている。だがそこまでして時間が与えられても、弟子達は攻撃魔術を学ぶか訓練を行うかくらいしかすることはない。それ以外の時間は弟子達は自由に好きなことをして暇を潰しているのだ。
本当はもっと知りたかった。魔術というものが何故できたのか。その力の使い方や色んな魔術に触れてみたかった。だがあの塔ではその機会はない。必要なだけの攻撃法を学ぶ以外のことは出来なかった。
今まで何をしてきたのだろう。同じ数年という時間を弟子として過ごしていても、ライツの得ている知識と自分のそれでは格段の差がある。そして最も決定的な差は塔を出た後だ。エタンダールの塔で学んだ魔道士たちは色んなところに生きる場所がある。だがゼクーの塔で学ぶ者は軍しか生きる場所がないのだ。
この差はなんだろう。そう思ってからトゥーラは苦笑した。きっと自分にはもう生きる場所はない。ゼクーの塔にもしも戻ってもきっと自分は居たたまれなくなるだろう。かと言ってもう軍に入隊する気はない。兎の一羽が絞められただけで卒倒しそうになってしまったのだ。どうして人が殺せるだろう。
微かな物音にトゥーラは慌てて顔を上げた。目元を拭って目を凝らす。だが音のした方には暗がりがあるだけで、何も見えない。トゥーラは訝りに眉を寄せて息を潜めてそっと立ち上がった。
そういえば、とトゥーラは思い直して魔術を展開した。魔力を視る目でじっと物音のした方を見たトゥーラは愕然と目を見張った。とてつもない大きさの魔力が視える。この森に入ってから随分と色んな大きさの魔力を見たが、これは桁違いだ。トゥーラは眩みかけた目を擦ってからライツを振り返った。
穏やかな寝顔をしばし見てからトゥーラは小さく頷いた。急いで荷物を探って短剣を腰に差す。相手が天使かどうかを見極めてからライツを起こしても遅くはないだろう。
暗がりの奥へ奥へと魔力は移動している。トゥーラは火の中から長い枝を一本だけ拾い上げて魔力を追った。
*****
淡い橙色の光が部屋の中央に灯っている。すっかり日が暮れた窓の外は闇に覆われ、天には星が幾つも瞬いている。広々としたベッドに横たわったシャルレラが顔にかかった長い髪を指先で退ける。そうだなあ、と笑ってエタンダールは枕元の灰皿に手を伸ばした。長く伸びた灰を落としてから煙草を咥え直す。
「この話は飽きたか」
「そうねぇ。飽きたと言えば飽きたかしらね」
気だるい表情で言ったシャルレラの白い背中を撫でてエタンダールは困ったな、と苦笑した。
「じゃあ、魔道士と天使の出会いの話でもするか?」
「そうね。あなたまだあの時は童貞だったわ」
小さく笑ってシャルレラが腕を伸ばしてエタンダールの首を抱く。おいおい、と笑ってエタンダールは煙草の火が触れないように手をシャルレラから遠ざけた。片腕に抱いたシャルレラに軽く口づけてからエタンダールは懐かしい昔話をし始めた。