Angel or Lilith~天使な僕と魔性なキミの旅~ 作:伊駒辰葉
男の娘が苦手な方は自力で回避してください。
慌ただしく支度を済ませ、今日は夕食の支度は手伝えないと弟子の一人に伝えてから、ライツは塔を出た。門をくぐって小道を急ぎ足で進む。塔の敷地を囲む白樺の林を背になだらかな坂を下っていくと、まばらに建った家が見えてくる。ライツは通りすがった顔見知りにいつものようににこやかに挨拶をした。が、どの人も驚いたように目を見張っている。ライツは何事かを問われる前にさっさと家の並びを後にした。
しばらく行くと今度は森が広がる。広葉樹の生い茂るこの森が、塔の建つ丘全体をぐるりと取り囲んでいるのだ。立て看板の前で一息ついてからライツは森に入った。西に傾いた日差しは濃い緑に覆われた森の中には殆ど届かない。弟子の中には暗いときにこの森に入ることを怖がる者もいるらしい。
かつて魔物が人の暮らす場所に姿を現していた頃、エヴァン国の至るところでは戦いが繰り広げられていたのだという。その中には魔物と人間との戦いもあった。
今はこの森に魔物たちはいない。彼らは住処を人に追われ、今は決められた場所に棲息している。稀に人の居る場所に姿を見せることもあるようだが、それも魔道士に召喚される時に限られる。魔物たちはひっそりと隠れて生きているのだ。
魔物との戦いについては幾つかの書物に簡単に記されているだけで、詳しい資料は残ってはいない。歴史書にも戦いの原因や結末については書かれておらず、魔物が跋扈した時代があったと記されているだけだ。
力ある魔道士が記した魔術書には魔物の取り扱いや召喚法、その他、魔物に関係する魔術の記述しかなく、戦いについて触れられている書物はほぼ皆無と言っていい。あのエタンダールの記した書にすら、魔物との戦いのことは一切書かれていないのだ。
その戦いを境に魔物は人に従属する存在となったのだという。そうでなければ淫魔作成術のような魔術は使えない。あれは平たく言えば精霊を介して魔物と別の動物を混ぜ合わせる魔術なのだ。
一度だけ、ライツは魔物と人との戦いについてエタンダールに質問したことがある。が、エタンダールは口を濁して戦いの真相は教えてくれなかった。
「ほら、抜けた」
考えを巡らせながら歩いていたライツは、森を出たところで足を止めた。道しるべの看板を軽く手のひらで叩いて振り返る。日が大分傾いたからか、森の中は入る前より暗い気がする。だが、怖ければ魔術論の復唱でもしながら歩けばいいだけの話だ。ライツはふん、と笑って先に進んだ。
森を抜けて進むとあるところから通りは急に賑やかになる。周辺には人々の家が連なり、道を行く人も増えてくる。賑わいに紛れてライツは街に入った。次第に道幅が広がり、やがて家々の並びが唐突に終わる。その辺りから今度は道の両側に店が並び始める。ライツは薄手のマントを翻らせて先を急いだ。
王宮から送られてきた書簡は恐らく急ぎの報せだ。早くエタンダールを捕まえなければならない。そう考えつつ、ライツは人々の賑わいを外れてリナベル通りに向かった。細い路地を抜けて進むと賑わいの性質が変化する。ライツは誰に邪魔されることもなく、リナベル通りに入ることが出来た。時折、物珍しそうに見られることもあるがそれだけだ。心の中で、やった、と歓声を上げて、ライツは目立たないよう気をつけつつ、道沿いに立ち並ぶ店を回った。
木枠の嵌った窓から覗く女性達も、道で客引きをする女性達も今日は声をかけてこない。ライツは次々に店を覗き、エタンダールがいるかどうかを訊ねて回った。最初は戸惑った顔で追い払おうとしていた楼主たちも、ライツが身分証を見せると途端に態度をころりと変える。街では悪口を叩かれているエタンダールも、この色町では扱いが異なるのだ。
「久しくお見えになりませんなぁ」
のんびりとした物言いでしかし、ちょっと残念そうに答えた若い楼主に頭を下げ、ライツは次の店に急いだ。これで七軒空振りだ。次の店は、と足を運んだところでライツは間違いなく当たりだと頬を引きつらせた。
独特の大きな門の向こうにいなければならないはずの楼主が不在だ。しかも慌ただしく店の中を女性たちが行き来している。その手には酒だの食事だのの乗った盆が抱えられている。おまけに店先の明かりはこの早いのに消えているし、格子窓から覗いているはずの女性達の姿もない。つまり、誰かが景気良く店を借り切ってしまったため、総仕舞いしているのだ。ライツは険しい表情で店の門をくぐった。
通り沿いの店はどこも大きな色鮮やかな門を構えている。紅色の鮮やかな門を横目にライツは店の中に声を張った。すると店内を行き来していた女性達が怪訝そうに足を止める。ライツは普段は楼主が構えているだろう入り口の床を避けて奥に進んだ。
間違いない。二階から賑やかな声が聞こえてくるのを確認してライツは機嫌悪く舌打ちをした。
色町の店の表には大抵こうした茶屋がある。表では普通に飲食をすることも可能だが、その気があれば気に入りの遊女に奥で相手をしてもらえる、という訳だ。が、そこを通じた二階の揚屋なら、人気の遊女やその店自慢の遊女達を揚げて遊ぶことが可能なのだ。
問題の賑やかな声はその揚屋のある方から聞こえてくる。ライツはうんざりしながら額を覆い、深々とため息をついた。
「すみません。こちらにエタンダール師がいると思うんですが」
色町には色町のルールがある。不躾な聞き方かも知れないとは思ったが、ライツは思ったままを訊ねた。食膳を運んでいた一人の女性が物珍しそうに寄ってくる。だがそれを制してライツはポケットから王宮から飛ばされた封筒を取り出した。両手にしっかりと握ったそれを掲げて喚く。
「王宮から急の報せです! 通して下さい!」
ライツの声に驚いたように廊下を歩いていた女性達が立ち止まる。次の瞬間、女性達はそれぞれが慌てたように顔を見合わせ、店先のライツに駆け寄った。だがどの女性もエタンダールを呼んでくることを渋る。
通常、この手の店では客の相手をした時間によって、遊女の頭数分だけ料金は加算される。気前良く総仕舞いしてしまうエタンダールは店にとっても、相手をする遊女にとっても上客に違いない。その上、親しくなれば身請けをしてもらえる可能性もある。年齢相応の枯れた老人ならともかく、エタンダールは見た目には働き盛りの好青年でおまけに女性にもてる容姿をしている。その上、エタンダールは気前よく金を遣う。身請けしてもらうにはかっこうの相手、という訳だ。
早い話がここの店の者達はエタンダールに長居をして欲しがっているのだ。ライツは苛々しながら人の輪をくぐり抜けた。のんびりとした制止の声もかかるが無視する。
立ち並ぶ店に沿って茶屋の裏手には川がある。ライツは素早く茶屋に並ぶテーブルの間を縫って川の見える窓に寄った。店の真裏に設えられた大きな窓を開ける。
「危ないですからね。近づかないで下さい」
客や店員に忠告してからライツは使える数少ないものの中から一つの魔術を展開した。川に向かって差し伸べたライツの手から放たれた魔術の力が真っ直ぐに川に向かう。
「何とまあ……お嬢ちゃん、魔道士かね」
傍にいた一人の年老いた客がのんびりとした口調でライツに言う。ライツは複雑な表情の中に微かに笑みを浮かべて首を傾げてみせた。ライツの飛ばした魔術が川に沿って広がり、次々に色鮮やかな花火が上がる。
少年の姿のままでは追い出されてしまう。それなら少女に見える格好をすればいいのだ。悪乗りしたシャルレラに薄化粧までされたライツは、今はどこから見ても少女に見えるなりをしていた。この姿なら誰かと通りすがっても町の住人だと勘違いしてもらえるだろう。だからライツは誰にも邪魔されずにこの色町にすんなりと入ることが出来たのだ。
魔術の弾ける音と共に、色とりどりの花火が川に沿って打ち上げられる。茶屋にいた客も女性達も一様に感嘆の声をもらして窓の外に見入っている。そんな彼らを余所にライツはため息をついてその場にへたり込んだ。一気に複数の花火を展開させたからだろう。体力が減っているのが自覚できる。優しい風合いの木の床に広がったスカートの裾をライツは情けない気分で見下ろした。
けたたましい足音を立てて、誰かが階段を駆け下りてくる。
「この、馬鹿弟子! 力量考えずに使いやがって!」
エタンダールが大声で喚きながら茶屋に入ってきて、真っ直ぐにライツの元に駆けて来る。だがライツの目の前まで近づいたところで、エタンダールはあんぐりと口を開けて立ち止まった。
「……ライツ?」
「王宮からの書簡です。早急に中身を確認してくださいとアルセニエフが」
唖然としているエタンダールを無視してライツは懐から封筒を取り出した。だがエタンダールは受け取ろうとしない。ライツは顔をしかめてエタンダールを睨みつけた。
「似合うじゃねえか! その格好!」
茶屋中に響き渡る声でエタンダールが爆笑する。それにつられたようにエタンダールを追って来た遊女達がはしゃいだ声をあげてライツにたかる。ライツは憮然として彼女達を見回し、次いでエタンダールを睨んだ。
「誰のせいだと思ってるんだ!」
だがライツの怒鳴り声よりエタンダールの笑い声の方が大きい。ライツは力を振り絞って立ち上がり、エタンダールの手に封筒を押し付けた。遠慮のない笑い方をしつつもエタンダールが封筒を開く。ライツは機嫌の悪い顔をして、伸びてくる女性達の手を避けた。
ふと、エタンダールの顔から笑みが消える。書簡に目を落としていたエタンダールは厳しい面持ちで頭を上げ、無言で書簡を封筒に戻した。何事かと問おうとしたライツの腕を物も言わずに引く。
「帰るぞ」
ライツの仕掛けた花火はまだ美しい火の花を空に咲かせている。多くの者が花火に見とれる中、ライツはエタンダールに連れられて店を出た。追いすがる遊女達を適当にあしらい、支払いを済ませ、二人が店を出るまでにかかった時間はほんの僅かだった。慌ただしい足取りのエタンダールに半ば引きずられたライツは、店を出たところで解放されてやっと一息つくことが出来た。
これまでこんな風にエタンダールが動じるところを見たことがない。エタンダールはいつも一つ文句を言えば百くらいは言い返してくるし、頼まなくても要らないことまでよく喋る。なのにそのエタンダールが黙り込んでいるのだ。そのことを珍しく思い、ライツは笑い飛ばされた不愉快さも忘れてエタンダールに問い掛けた。
「一体、何事ですか」
数歩先を歩いていたエタンダールが振り返る。エタンダールは色町特有の淡く揺らいだ雰囲気に妙に溶け込んでいる。
「早く帰らねえとアルセニエフの野郎が泡噴いて倒れるぞ」
さらりと話を逸らしてエタンダールが再び前を向く。ライツは釈然としないものを感じつつも、大人しくエタンダールに従って色町を出た。なるべく早く戻る方がいいだろう、とエタンダールがさっさと馬車を頼んでしまう。強引に馬車に放り込まれたライツは文句を言った。
「師匠が明るいうちから遊びに出かけるからですよ」
エタンダールが乗り込んだ後、御者が静かに馬車の扉を閉める。馬に鞭を当てる音が微かに聞こえ、馬車がゆっくりと動き始める。
エタンダールがローブの内側から封筒を取り出し、中身を差し出す。怪訝に思いながらもライツはそれを受け取って読み始めた。長い挨拶に続いて奇妙なことが書かれている。
「天使?」
文書の内容は天使というモノについての話し合いが行われるというものだった。ライツが差し出した紙をエタンダールが手早く封筒に戻す。
「厄介なことにならなきゃいいがな」
封筒をローブの内側にしまいこんだエタンダールは、深く椅子に寄りかかって呟いた。外れていたボタンを掛け、きっちりとローブの前を留める。赤い宝石のあしらわれた襟留めも、こうしてまともに使って貰える機会は滅多にないのではないだろうか。ライツはきっちりとローブを着直したエタンダールをぼんやりと見つめてそんなことを考えた。
少しの間、黙してからエタンダールがおもむろに言葉を継ぐ。
「オレが前に天使が現れたのを見たのは十代の時だ」
天使というのは百年に一度、出るか出ないかの希少種らしい。だが天使という言葉の意味をライツは理解出来なかった。これまで読んだどんな魔術書にも天使という言葉は書かれていなかった。だがエタンダールの口ぶりからすると、どうやら天使というのは生き物のようだ。
ライツが疑問に思っているのを感じ取ったのか、エタンダールは簡単に天使の容姿を説明した。天使は人の形にとてもよく似た姿をしてはいるが、決定的に違う部分が一つだけある。それが天使の背中に生えた白い翼なのだという。
「それ、人なんですか?」
形は人に近いという。だがエタンダールは天使を人だとは言わなかった。だとするともしかしたら魔物の類なのだろうか。そう感じたライツは素直に質問した。だがエタンダールは困ったような笑いを浮かべただけで、返事はしなかった。
馬車が塔の前に着く。馬車を降りたライツはエタンダールについてこいと言われ、大人しくそれに従った。だが何故かエタンダールは塔ではなく寮に向かって歩いていく。ライツは怪訝に思いながらもエタンダールについて寮に入った。
調理場から近い寮は夕食を終えた弟子達で賑わっている。
「……何でわざわざ寮を通過するんですか。その上、階段?」
寮の一階にある移動のための魔法陣を避け、階段をのんびりと上がり始めたエタンダールをライツは鋭い目で睨みつけた。上がりたい気分だから、とエタンダールが答えて振り返る。その目はしっかり笑っていた。
くそ、笑いものにする気だな。そう思ったライツは踵を返し、階段に背を向けた。
「やっぱり着替えてきますっ」
「あれ? 詳しいこと、知りたくないのか? もしかしたらオレはすぐに出かけるかも知れないぞ」
意地の悪い笑いを浮かべてエタンダールがそんなことを言う。ライツはぴたりと足を止め、嫌な顔をしてエタンダールを見た。自然と頭に天使のことが浮かぶ。わざと知識欲をかき立てる言い方に怒りを覚えたが、ライツは仕方なくエタンダールについて階段を上がり始めた。
最初は普通の賑わいだったはずの寮内に弟子達の歓声が響く。ライツは恥ずかしさに逃げ出したい気持ちになりつつも、はやし立てられることにしばらくは我満した。が、苛立ちと怒りが募り、耐えられなくなってくる。
「違う! 僕だってば!」
師匠が若い娘を連れ込んだとはやし立てる弟子達にライツは勇気を持って主張した。そう、ここの連中は控え目に対応しても無駄なのだ。ここは一発、強気で主張しなければ。そんなライツの考えは見事に裏目に出た。
それまで騒いでいた弟子達が静まり返る。ライツは周囲に集まった連中を鋭い目で見回した。すると二人を取り囲んでいた弟子達が、何やらひそひそと小声で話をし始める。
「何か聞き覚えがある声のような……?」
「そういえばあいつに似てないか?」
などと、潜めた声で話をする弟子達を睨み、ライツはもう一度、今度は自分がライツであると名前を入れて喚いた。すると弟子達の間にどよめきが広がる。
「なんだ、ライツかよ! 似合うぞ!」
「そっか、おまえ、そんなに師匠のことを」
笑い混じりに誉める者もあれば、わざとらしく同情した顔をして見当外れのことを言う者もある。茶化されたりひやかされたりからかわれたりするたびに、ライツは余計にむきになって彼らに言い返した。
「ちがーう! 僕はぐうたらな師匠を仕方なく迎えに行って!」
ライツが必死の面持ちで言うと、にやにや笑っていたエタンダールがぼそりと言う。
「ぐうたらは余計だ」
「とにかく! 僕は、仕方なく、この格好をしてるだけですから!」
そんな賑やかなやり取りをしつつ、ライツはエタンダールと一緒に寮を抜けた。渡り廊下を過ぎて塔に入ったところでライツはほっと息を吐いた。寮とは違い、塔に個人の部屋を持っているのは数名の上位の弟子だけだ。彼らならきっと見間違えることなく自分だと判ってくれるだろう。
「し、師匠!」
慌てた声が廊下に響く。ライツは見知った相手に思わず顔をほころばせた。廊下の向こうにいるのは貧乏くじ仲間の一人、女弟子のサマラだ。サマラは丸い眼鏡と愛らしい顔立ちから実年齢より幼く見えるためか、塔を訪れる外部の者に新入り弟子と間違えられることもある。その純朴さがいいのだと弟子達の人気をシャルレラと二分する存在でもある。
そのサマラが何故か全速力で廊下を駆けてくる。一心不乱に走ってくるサマラを不思議に思いつつ、ライツは首を傾げた。
「おう。これから勉強か? 感心感心」
駆けて来たサマラにエタンダールがのんびりと言う。だがサマラはそれに答えず、緊張した面持ちでエタンダールに詰め寄った。慌ただしく駆けて来たためか、サマラが抱えていた魔術書が腕から落ちかけている。
「こ、こ、こんな若い子をたぶらかして!」
ライツを指差してサマラが喚く。その瞬間、ライツは表情を凍らせた。エタンダールは笑いを堪えているのか身体を震わせている。
「……サマラ。僕だよ」
受けたダメージから何とか立ち直ってからライツはそう言った。意識して低い声を作ってはみたが、変声期を迎えていないライツの声は他の男弟子に比べるとどうしても高い。
訝るようにライツを見つめていたサマラがやがて目を見張る。続いてサマラは腕に抱えていた魔術書を何故か落っことした。タイミングよくエタンダールが手を伸ばし、サマラの腕から落ちた魔術書を受け止める。
「ライツ!?」
「そうだよ。何ですぐに判らないかな、もう」
不服を込めて言ってからライツは頭をかいた。慌ただしく眼鏡を外したサマラがローブの裾でレンズを拭く。改めて眼鏡をかけてライツをまじまじと見たサマラは眉を寄せて何事かを納得したように何度も頷いた。やっと理解してくれたか、とため息を吐いたライツにサマラが遠慮もなく言う。
「やっぱりそうだったのね。師匠が男の子を引き取るなんて妙だと思ってたの……」
「違う! 僕は男だ!」
しみじみと告げたサマラにライツは思わず怒鳴り返した。今度はサマラがええっ、と不満の声を上げる。どういう意味か、とライツが問おうとした瞬間、エタンダールが唐突に笑い出した。腹を押さえて笑うエタンダールをライツは悔し涙の滲んだ目で睨みつけた。
ライツは赤子の時に色町に捨てられていた。それを何の気紛れか、エタンダールが拾ってくれ、ここまで育ててもらった。だからライツは物心着く前から塔で暮らしている。エタンダールがもしも気紛れを起こさなかったら今の自分はないだろう。そのことをライツはよく自覚していた。
実は親なしの子供はこの国ではさほど珍しくない。捨てられた子供達を引き受ける制度は整備の途中だが、じきに機能し始めるだろう。親から見放された子供たちを公共施設で育てられる程度にはこの国は豊かなのだ。
このエヴァン国は周辺国と比べると土地が豊かで作物もよく実る。農業が栄え、国も富み、そして商業や工業も発達してきた。豊かなエヴァン国を近隣の国が侵攻しようとしたことも何度かあるらしい。が、そのたびにエヴァン国は発達した魔術の力を駆使して侵攻しようとした敵を退けた。
医療技術もエヴァン国は周辺国に比べて格段に優れている。その背景には高等魔術による治療技術がある。医療と魔術はある意味では共に進化してきたのだ。だがエヴァン国の中でも婦人特有の病気、それと妊娠や分娩に関する医療の発達は大幅に遅れているのだ。
人は快楽を求めて色の町を作った。だが妊娠しないための技術は追いついていない。無論、堕胎に関しても同じだ。享楽を金で買える、という娯楽の裏には生臭い話が幾つも転がっている。ライツはそんな話をエタンダールから聞かされて育った。だからライツは年齢の割に色町の裏事情に精通しているのだ。
ライツの境遇を羨む者も弟子の中にはごくたまに居る。幼い頃からエタンダールの傍にいる、ということが魔術を学ぶ者にとって恵まれた環境であるというのだ。
表面だけを見るな。この塔の弟子達は教師からそう教え込まれる。魔術とは物事の仕組みを理解するところから始まるのだ。不思議なことにライツの表面だけ見て評価した者たちは、やがて塔を去ってしまった。結局、彼らには物事を広い視野で見るという力が欠けていたのだろう。魔術を学ぶ者は広い視野で様々なものを見なければならないのだ。
なのに!
ライツはぎりっと歯を食いしばってサマラを睨んだ。
「一等魔道官とは思えない言い草だね!」
ライツは怒りをこめて吐き捨てた。そんなライツをエタンダールが面白いモノでも見るかのような目で見る。だがサマラは怒るでもなく、感心したように頷いている。
「あなた、自分のその格好、鏡で見た?」
「見る必要ないじゃないか。何のためにだよ」
何を言い出すのかと思ったら。そう付け足したライツにサマラが何かを差し出す。ローブのポケットから取り出されたそれは小さな鏡だった。怪訝に思いながらライツは鏡を何気なく受け取った。
何となく鏡を見たライツの頬が引きつる。
「ね? 私の言うこともあながち間違っていないような気がするでしょ」
鏡に映る自分を見て凍りついたライツにサマラが頷きながら言う。
どう見ても少女そのものの顔が鏡に映っている。しかも薄く化粧をしているからなのか本来の年齢より大人びて見える。これではエタンダールが若い女を連れ込んだと思われても仕方がない。客観的にそう判断し、ライツは憂鬱になった。
うん、彼らが騒いでいた理由は判った。僕の女装が珍しいからじゃなくて、ほんとに女の子に見えるからだ。
そこまで考えて、ライツはがばっと顔を上げた。
「でも僕は男だから!」
それとこれとは話が別だ。サマラはエタンダールが男を引き取るのはおかしいと考えていたという。ということはつまり、ライツは実は女だという結論に達したと言うことだ。それは何としても避けたい。というか、間違っている。
力を込めて訴えたライツをサマラが不思議そうに見る。ライツはそれからしばらくサマラに必死で言い訳した。
主人公、女装する。
この話は通して大体はこんな感じです。
苦手な方は避けてください~(汗)