≪As to the potential of the ANIMA≫
≪Observation by 蜈?ココ蠖「≫
海。
広大な海。
情報に満ちた海。
情報。無数のセカイ線。
無数のセカイ線がひしめく海を私は彷徨っている。
遥か
昔過ぎて、私という存在がいつ、どのように発生したのか思い出すことはできない。
気付いたときにはもう、セカイ線の合間を縫うように漂い続けていた。
一つのセカイ線を覗いて、次のセカイ線を覗いて、また次のセカイ線を覗いて、その次、更に次、次、次、次………。
なのに、そもそも何を探すべきなのかさえわからない。
悠久の彷徨を経て、私という存在は緩やかに消滅に向かっている。
魂に刻み付けられた、諦めを戒める思念だけが私を生き永らえさせている。
理由も意味も分からない彷徨。このまま消え失せてしまって何の問題が有るのか。
わからない。
私は一体何を探しているのか。
わからない。
わからないまま彷徨い続ける。
ひたすら漂い続ける。
ただ、見つければ
一体幾つのセカイを覗いてきただろう。数えようとするのすら莫迦莫迦しい数だ。
億劫だ。何もかも億劫。
私の魂は限界だ。
今回の“限界”は本当の限界だ。
もう終わりにしてしまおう。
そう決心した。
今度こそ本当に……。
だが。そのときだった。
近傍のセカイ線から、ある特異な波動を感知した。
≪Review by Asuka≫
たとえば“運命”と“宿命”というワード。
人知を超えた巡り合わせとか前世の業が関係しているとかの違いはあるけれど、極めて端的に身も蓋も無くそして雑にいうと、両方とも“なるべくしてなる(なった)”という事象を表すワードだ。この二つを換言して“神の筋書き”と言うこともある。“神のシナリオ”や“神の台本”などとする場合もあるかもしれない。
ここまでは、まぁ、いい。いずれにしても、背景に壮大な物語を感じさせてくれるから。
しかしこれを単に“筋書き”や“シナリオ”や“台本”と呼んでしまうと話は別だ。意味合いとしてはそう変わらないのは事実である一方、確実に神秘性とでもいうべきものが失われ、“お仕着せ感”が出てしまう。役者個人の意思は関係なく、決められたタイミングで決められた言葉を吐く見世物。それが演劇というエンターテイメントだが、同じことを劇場の外でやらされるとなるとたまったものじゃない。それはもう人の生とは言えない。
人は言う。人の世はとにかく生きにくいものだと。人を縛る見えざる枷があるのだ。“世間”や“身分”や“規則”などはその最たるものだろう。
そしてまた人は言う。“世間体なんて気にするな”、“身分で差別をするな”、“規則は破るためにある”なんて。それは正論でありながら、同時に弱者の恨み言だったり、強者が述べる綺麗事であったりの側面もある。
共感だけを求めたような言葉を弄しても結局何も変わらない。世は今日も事も無く、相も変わらず生きにくい。
どうしようもない窮屈さ。
全く自慢できることではないけれど、ボクはこの窮屈さを人一倍感じている側の人間であると思う。いつから感じ始めていたのかはもう覚えていない。ボクがボクであるという、当たり前を意識した頃には既にそうだった。
しかし。少なくとも。窮屈さとは無縁だった時期が、ボクにも在ったことは確かだ。
このテーマに想いを巡らせるとき、いつも思い出す記憶がある。
十年くらい前、まだボクが小学校にも上がっていなかったある日のことだ。
父親が物置から集めたガラクタたちをリビングに持ち込んで、ゴソゴソと何かをしていた。父の背中にもたれながら見ていたボクも手伝うことになった。
父に頼まれた仕事は、円筒型の菓子箱に細くてキラキラした糸のようなものを巻き付けていくことだった。重なったりしないように丁寧に巻くように言われたが、これがなかなか難しい。
ボクが苦戦している間、父親は古くなったまな板に鉛筆の芯やらガラクタから取った部品やらを、画鋲とガムテープで固定していった。
どうにか言われたところまで糸を巻き終えると、それもまな板に固定された。それから父は残ったキラキラの糸を、底の抜けた風呂桶の外周に十回ほど巻き付け「これでいいはずだ」とニヤリと笑った。
父はボクに片耳分しかない黄ばんだイヤホンを渡してきた。ボクがそれを耳にはめるのを見ると、父はまな板の上の部品の位置を少しずつ変えていく。
父が何をしているのか、ボクには全く理解らなかった。何なのか聞こうとすると「しーー」と止められる。
父は黙々と部品を弄りながら、ボクに「どうだ?」と聞いてくる。どうにかなるわけがない。父が弄っているのはただのゴミの集まりなんだから。
ちっとも面白くない、もういいや、もうすぐアニメが始まるしやめよう――そう思った矢先のことだった。耳に当てていた部品から微かな音が聞こえた。ジジジ、という雑音だ。それを伝えると、父は目の色を変えて、これまでより慎重に部品を弄り始めた。すると雑音は段々とまとまっていく。
それは意味のない雑音ではなかった。人の声だった。ボクでも父でも母でもない、誰かの声だ。それが何故か、こんなガラクタを通して聞こえてくる。
とても、とても、不思議だった。
その日、ボクと父は眠るまでずっと、代わる代わるイヤホンを耳に当てながら過ごした。
このとき父と作っていたのが“塹壕ラジオ”と呼ばれるものだと知ったのは、何年も後のこと。父はおそらくテレビか何かでこのラジオのことを知り、ただの好奇心で作ってみたのだろう。
菓子箱に巻いていたのは扇風機のモーターから解いたエナメル線で、つまりボクはコイルを作っていたのだ。それはラジオでは同調回路の役割を果たす。錆びたカミソリ歯と鉛筆の芯は検波回路、エナメル線が巻かれた風呂桶はアンテナ、そしてセラミックイヤホンによって音声が出力される。
この手の原始的なラジオで最も興味深いことは電源を必要としないことだろう。捕らえた電波のエネルギー自体が電源になるからだ。それ故に使えるイヤホンは限られるし、聞こえたとしても微かな音量になってしまうのだが、だとしてもやはり、原理を知った今になっても不思議な魅力がある。
当時のボクは当然のごとく、この不思議な装置の虜になった。
テレビを見るにはコンセントに繋ぎ、リモコンを使うには電池を入れる必要があることは既に識っていたから、無電源で作動するそれは魔法の装置だと思っていた。
今ボクはセカイの秘密に触れているのだと思い込んでいた。
翌日からはガラクタラジオを抱えて外へ行った。
左手で風呂桶アンテナを天に掲げながら、右手にまな板ラジオを抱いて、我が物顔で町内を練り歩く。そして何か聞こえそうになるとその場にうずくまって、コイルを弄り始めるのだ。そんな日々を、おそらく一か月ほど続けたんじゃなかろうか。たしかまだ暑い時期だったのに、子供のボクには些末なことだった。
目を閉じて、木の葉のそよぎよりも小さな音に耳を澄ませる。それは男性の声だったり、女性の声だったり、別の国の言葉だったり、歌だったり。
その頃のボクはラジオの原理は元より、ラジオ番組なんてものがあることも知らなかった。この魔法の装置を介してセカイの何処かに繋がって、そこにいる誰かの声を聞いているのだと思っていた。
だからきっと、ボクの声も何処かの誰かが聞いてくれているのだと、あの頃のボクは信じて疑わなかった。
――ねぇ、ボクはここにいるよ。きこえたらここにきて。いっしょにあそぼうよ。
虚空に向かってそんな風に囁いたことも一度や二度ではなかった。
ここまでが映画で言うところのプロローグです。
毎日1万字程度を投稿予定です
全部で20万字ほどになると思います