ドクターは無闇矢鱈に研究内容を公開しない。これは大学の中でも有名な話だ。これまで挙げられてきた歴史的快挙は、ただ一つの例外もなく軍事技術への転用がなされてきた。彼はそれを恐れている。病にかかり、死を恐れる人間を戦争の道具にするなど断じて許されるものではなく、淘汰されるべきであると彼は一貫している。
そんな彼は、時折高等学校に呼ばれることがある。生徒に専門分野への関心を持ってもらうため、のものらしいが、正直な話、そういった話は聞き手からの関心が寄せられにくいものだ。それは彼自身理解している。
だが、巡り合わせというのは中々面白いもので、高校の演説で興味を持った生徒というのは一定数存在している。それはひとえに鉱石病に対する関心が高いものだと彼は考えているが、実際は彼が聞き手に伝える能力が高いことに起因していた。
「……あのっ!」
彼女に声をかけられたのも高校で演説を行い、質疑応答の時間になった時のことだった。
よほど聞きたいことがあったのだろう。質疑応答になった瞬間に手を挙げもせず、段上に立つ彼に対して熱い視線を投げていた。周囲からは声を抑えた笑い声が聞こえていて、彼女は顔を赤くしていたが……。
瞬間、スピーカーからノイズが流れ、段上に視線が集中したが、あくまでドクターは笑顔を浮かべている。全校生徒の視線を一手に引き受けていたのだ。今更注目の的になったところで動じるわけがない。
「──ああ、申し訳ない。マイクの位置がズレていたものだから直したんだけど……」
嘘だ。少なくとも、彼女にはそう思えた。あの行動はどこか不自然に思えたのだ。周りの人間はそれに気が付いているのかどうかは分からないが……彼と一緒に来ていた助手らしき小さな女の子は苦笑していた。それが意図するところは彼女には分からなかったが。
「話の腰を折ってすまないね。聞きたいことはなにかな?」
「えっと……その……」
出鼻をくじかれてしまった。冷静になればなるほど、自分のしたことが恥ずかしくなってくる。周囲からの視線が痛い。何故こんなことをしてしまったのかと後悔の念ばかりだ。しかし、段上に立つ彼だけが彼女の言葉を待っていた。
「こ……鉱石病は、治ると思いますか……?」
出てきたのは、そんなありきたりな質問。それでも彼は笑顔を崩し、真剣な顔で応対した。
「難しい質問だね……。出来ない、とは言わない。ただ、限りなく困難なものだとは考えている」
当たり障りのない応答。しかし、その瞳はそれだけでは足りないと語り足りないと訴えかけている。
「……さて、他に質問はある人はいるかな?」
質疑応答の時間はまだ続いていたが、彼女の耳には聞こえてはいなかった。頭の中はずっと、終わったあとにどう時間を取ってもらうか……そのことばかりを考えていた。
結局具体的なことは思い浮かばず、当たって砕けろの精神で教師の誘導から抜けて応接室から立ち去る彼に声をかけた。
「少しお時間をいただけますか?」
「
「いえ、構いませんよ。大学に戻ったところで講義はありませんから」
講義はなくとも、やることは山積みなのだ。それでも、興味を持ってくれた子を無視するのは、将来育っていく可能性の芽を摘み取ることだと考えている彼にとって出来ない事だった。
「さて、安心院さん……でいいのかな?」
「は、はい! 安心院アンジェリーナといいます!」
緊張でガチガチになってはいるが、必死に自分の思いを伝えようとしているのが目に取れた。
「確か貴女は、質疑応答の時に聞いてくれたよね。鉱石病が治るかどうかを」
ドクターは少しだけ興奮したように目を輝かせる。少しだけ子供のような雰囲気を感じて目を丸くしてしまった。
「結論から言うと、まだ治す方法は分かってない。だけれど……絶対に見つける。見つけてみせる」
直後に浮かべた揺るぎない決意を宿した瞳に、アンジェリーナは押し黙る。なるほど、確かにそれは、大衆の前で見せるべきものではないかもしれない。
そして、同時に思ってしまった。彼のもとで研究したいと。いや、もっと掘り下げて言うなら、彼の隣に居たいと。
「それが、私の研究する目的であり、すべてだからね」
ともすればそれは……いわゆる、一目惚れというやつだった。
あの時の憧憬をそのまま、アンジェリーナは研究室に入っていた。
「ドクター! これ見てほしい!」
「見るからとりあえず、落ち着こうか」
目上の人には敬語で話すもの。そんな当然のことすら忘れて興奮しているアンジェリーナを宥める。実を言うと、ドクターの研究室に入りたいという人間は多い。倍率で言うとおおよそ20倍以上。
それだけ多ければこれまでの経歴や発表内容で入れる人間を選びそうなものだが、彼の研究室に入るための条件はそんなことではない。
選定に際してレポートや話し合いが行われるが、そんなものは形式上でしかない。必要なのは熱意、それだけだ。
人間、大切なのは今までではなくこれからだと彼自身の考えがある。好きこそものの上手なれ。
「相変わらず熱心だなぁ、君は」
困ったような表情こそしているけれど、本当に困っているわけではないことを、彼女は知っている。彼はその忙しさを裏付けるように人が
作業を邪魔しているようで申し訳なさこそあるが──胸中の大半を占めるのは嬉しさ。彼の時間を独り占め出来ているような充足感を得るために、彼女は研究を頑張っている。不純な動機、ではある。
それでも彼は否定しないだろうということだけは知っている。
「うーん……今回もよく出来てる。ただ、症例が足りないかも」
「論文とかを見ても、それだけは難しくて……」
自信満々で提出した論文の中で唯一自信のないところを指摘され、しょぼくれる。実地でのデータだけは学生には中々荷が重い。
ふむ、と考えるドクターの横顔に見惚れていることを自覚しながらも目が離せない。
「明日空いてる?」
「空いてます!」
本当のところは数コマあるのだが、彼のためならば惜しくないと即答する。
「じゃ、明日の9時に集合ね。現場に顔を出す日だったからデータにしていいよ」
本来は一学生を招き入れていい場でもないのだが、彼の前で文句を言える人間もいない。
将来の研究者のためならば自分の評価などどうでもいい、というスタンスを貫いているのが彼だ。が、恋する乙女としてはそんなことは関係がない。
(これってデートじゃん!)
場所がどこだろうが、二人で居られるなら実質デート。今してるのもデート。頭の中お花畑と言われればそれまでだが、恋はそういうもの。
元からそういうタチだったのはあるが。安心院アンジェリーナは今日も空転気味だった。
憧憬が叶うことは基本的にない。いつの間にか忘れていたり、諦めているものだからだ。それでも彼女が未だ進み続けているのは彼のせい。
だって彼は──
『やぁ、待っていたよ。安心院アンジェリーナさん』
たった一度、それも講演会という多くの人間が居る中で、自分のことを覚えていてくれたヒトだから。
『……はいっ!』
だから、彼に追い付くために止まってられない。彼の隣に、並び立つために。
あの日の憧憬は確かに胸に残っている。大人になった今も焦がれているのかは分からない。