黄金芋酒で乾杯を   作:zok.

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61杯目 飛竜たちの休む場所

 

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 結論から言うと、あの晩にうちへやって来た兄弟は、現在、少なくとも死体じゃない。

 まったくの無問題とは言えないながらも、目の前の一日一日をのらりくらりと乗り越えて、商人兼ハンターをやっている。

 

 

 

「本末転倒だ。薬師の不養生とはこのことだ。情けないことよ」

 

 そう言って、店のカウンター席に座る青年は、目頭を揉んだ。

 

 彼はぽつぽつと断片的に、長い年月をかけてあたしに過去を語ってくれている。まるで、自分ひとりでは抱えきれない過去を、少しずつ切り崩すように。

 今日はあの晩――彼が初めてあたしの店に来たときの前日譚について。

 

 彼のハンターネームは、メヅキ。

 理知的な風貌と、右目に当てた眼帯。ガルルガS一式装備。背丈は決して高くないが、ガンナーらしい引き締まった肉体。

 あの晩から約五年が経った。

 薬師のたまごだった彼は今、一人前の薬師兼ハンターになっていた。甘いハチミツ酒が好きなところに、うっすらと少年の雰囲気の名残がある。

 

 あたしたちは今、五年前のあの晩について、記憶をたぐっているところだ。

 夜と酒は、昔を懐かしむ気持ちにさせてくれる。そこから得られる思い出話とは、偏見(バイアス)や矛盾が付け足されたつぎはぎ状なものであるけれど、それは思い出話を辞める理由にはならない。

 

「こうして薬で大失敗したというのに、結局今も薬で稼いでいるというのも、皮肉なものであるよな」

「闘技場に出すモンスターに使いたいとか言う、捕獲用麻酔薬の仕事だっけ?」

「そうだ。大した仕事でなかったさ」

 

 今もメヅキは薬師稼業に精を出している。

 肌のひりつく狩場で培ってきた薬学の知識と経験は、街の中でのんびりと暮らしてきた医者や薬師のとは性質がまったく違う。

 そこをハンターズギルドが目をつけない理由はない。

 

「ま、ギルドとはせいぜい、搾り取られない程度に付き合っていくことだね」

 

 あたしはメヅキにハチミツ酒を注ぎ足してやりながら、先程、彼が話してくれたことを頭の中で整理する。

 

 

 

 メヅキが狩猟に失敗した弟を引き取ったとき、実は四年ぶりの再会だった。

 雇われていた商隊が同じでも、別々の仕事をしていたという。

 

 久方ぶりに見た弟は、壊れた防具が皮膚に食い込み、何本も骨を折って、打ち身で身体中が赤黒く腫れあがった姿だった。

 狩猟に同行していたバカどもは、ほとんど死んだらしい。

 

 そんな、仕事ができなくなった下っ端に、頭の悪い雇い主が取る行動はいつの時代でも、どこの地域でも同じだ。

 二人はそのとき、雇われていた商隊に捨てられた。収入がゼロになった。

 

「もちろんそのとき、弟は俺に『君は薬師の腕があるんだから、自分のことは放っておいて、君だけでも食っていけ』とは言ったさ」

 そう言って、メヅキは肩をすくめた。「でも、だ」

 

「もし己に、人の苦痛をどうにかする知識があるとして。目の前にそんな人がいたら、放っておけるか?」

 

 メヅキはパニックになりながらも、弟を治療しようと考えた。

 骨や皮膚を整形するとか化膿止めを調達するとかより先に、痛みを止めるのが先決だと思った。

 己に整形の技術や、新たな薬を買う資金がないことを、頭の隅に追いやって。

 

 入念に文献で調べ、検討した上で、捕獲用麻酔薬を使おうと決めた。

 本来は大型モンスターのためのものだが、理論上は人にも使えるはず。けれど本音は、安価ですぐに手に入るのが決め手だった。

 弟のおよその体重から――兄弟で体格が同じくらいだとこういうときに便利だ――必要な薬の量を割り出し、投与した。

 

 しかし、そこに大きなミスが発生する。

 見積もり以上に、弟が弱っていた。麻酔は効きすぎてしまった。

 弟の身体にはもう、麻酔に抵抗する力が残っていなかった。怪我の治りが遅い時点で、気にするべきだった。

 

 メヅキは愕然とした。俺は、弟を殺してしまうのか?

 

 薬や物資のために外出しなければならないとき以外は、片時も離れられなかった。

 麻酔が効きすぎたときというのは、体温が下がって、心拍が弱く、早くなるという。それは、生体が命を絶つ直前と全く同じだ。あたしも無数の命を看取ってきたから、わかる。

 

 それがもし、弟の身だったら。己の勉学を、身を削って支えてきてくれた人の身に起こっていると思えば。

 確かに、気が狂いそうになるのも、わからないでもない。

 

「そのときの不安が、俺の心の病を発症させる最後のひと押しになった。……原因は取り除かれたというのに、五年も経ってなぜ完治しない? なぜこうも、心の病というのは、肉体の怪我と違うのだ?」

 

 心の病との闘いというのは、なかなか大変らしい。

 朝は起きられぬ、夜は眠れぬ。ある時は異様に元気で多弁だと思ったら、ある時はどん底の気分で己を責め続け、とにかく寝込む。

 今こそなんとか落ち着いてはいるが、小康状態になるまで五年かかった。しかも、決して治らぬ病なのだという。

 

 己のご機嫌の手綱を必死に握りしめ、彼は自分のカネで、めげずに薬の勉学を続けている。

 そうすることでしか、あんたは弟に対する罪悪感に立ち向かえなかったのか? 二度と、俺の薬で失敗などしない、ということか?

 

 あたしがそう伝えると、彼は困ったように笑う。どこか疲れたような、さりげない色気が、ふわりと漂った。

 

「そう言いたいところだが、ちがう。俺には薬学しかなかったのだ。アキツネのように手先が器用ではないし、ハルチカのように商談も上手くないからな。俺から薬学をなくしたら、何も残らないのだ」

 

 彼はどこか、わざわざ厳しい環境を選び、生態を変化させながら、生存競争をがんばって戦い抜く竜に似ている。

 

 

 

 そのとき、店のドアベルがころころと鳴る。

 

「お疲れ様。今日は仕事終わるの、早かったんだね」

 

 入って来たのは、白い甲殻が特徴のベリオS装備を身につけた男ハンター。物腰は穏やかながら、どこか擦れているところはメヅキと似ている。

 

 彼のハンターネームはシヅキ。あの晩、麻酔が効きすぎて、大怪我を負った体でアキツネと喧嘩を繰り広げた青年だ。

 五年が経ち、今は精悍な雰囲気の(いち)労働者になっていた。

 

「あぁ、お疲れ様」メヅキは上体を捻って、軽く片手を上げた。「今日の仕事は大したことなかったのだ。少し調合を手伝っただけで、あとは雑談だ」

「相手さんに迷惑かけてないだろうね? 君はすぐに高圧的な物言いをするんだからさ。……あ、姐さん、こんばんは」

 

 シヅキは上目遣いで、あたしに軽く会釈する。兄貴の隣に並ぶと、彼らの背格好がよく似ていることがわかる。

 曰く、彼らは双子の兄弟だ。顔は似ていないから、同い年の兄弟と言ったほうが近いか。

 

「シヅキ。あんたは確か、モンスター素材の鑑定に出かけていたんっけね?」

「はい、そうです。それで……」彼は申し訳なさそうに口ごもった。「調べたいことがあって。資料、また貸していただけませんか」

「お前、またか」メヅキはうんざりした声を出す。

「あたしゃ構わないけど、さっさと自分のを買いなよ。ジジイになる前に、多少は自分に投資することを覚えろ」

 

 シヅキは兄と違い、自分のために金をほとんど使わない。貯金ばかりが増えていく。金の使い方がとても下手なのだ。

 あたしは使い古したモンスター図鑑をブックラックから取り、彼に向かって軽く放り投げる。図鑑は、煙草の煙をめいっぱい吸って黒くなった梁を背景に、ページをはためかせて飛んでいく。

 

「ごもっとも」シヅキは造作もなくキャッチした。「この書き込みやメモが役に立つんですがね……なんて、言い訳は通じなさそうだ」

 彼は目尻に、いかにも人の良さそうな皺を作った。

 そこには、あたしが目を凝らしてようやく分かるくらいの、ぎこちなさがある。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 彼は五年前のあの晩――アキツネに担ぎ込まれたとき、麻酔が覚めきっていない状態だった。大型モンスターを弱らせて、中途半端に捕獲用麻酔玉を食らわせたときと同じ状態だったというわけだ。

 だから、彼が裏路地でアキツネと喧嘩したとき、話を聞かなかったり、ふらついていたりと、頭がイカれていたような様子だったのも納得だ。

 

 でもこんなのはまだ序の口だった。彼の本当の問題は、麻酔から覚めたときに発覚した。

 彼は、人と対話したり、距離感を測る能力が――コミュニケーション能力が壊滅的だったのだ。

 

「へぇ、五年前のことを喋っていたと」

 

 目の前のシヅキは、相槌を打った。そこに不自然さはほとんどない。少しずつ会話を練習していった成果だ。

「そうだ」と兄のメヅキ。「ほら、俺が初めてこの店に来て……お前が麻酔から目覚めたとき。それから、その後について」

 シヅキは微笑んだまま唇を噛む。目に翳ができた。

 

「知ってると思うけど、僕は当時のこと、ほとんど覚えてないよ」

 

 そう言ったっきり、シヅキは口を閉ざしてしまった。もちろん、本当に何も覚えていないような様子はどう見ても、ない。

 彼は兄とは違って、夜と酒の力を借りてさえ、過去を切り崩せずにいる。

 

 

 

 五年前のあの晩。

 暖かくして、きちんとした寝具で――あたしのベッドで寝かせてやったら、彼は半日もしないうちに麻酔から覚醒した。翌日の昼には目が覚めていた。

 けれど問題はここからだ。

 

 彼はとにかく変だった。

 ぼんやりと「はい」「いいえ」「すみません」くらいしか意思を示さない。

 それから、自分が寝ていたのが他人の寝具と知った瞬間に飛び起きて、ベッドを一切使わなくなった。

 四六時中、店の冷たい床の隅にうずくまり、満足に動かない体を持て余すように両膝を抱えていた。

 

 反応が鈍いのは、ババアのあたしが話しかけるときだけじゃない。同年代で同性のハルチカやアキツネでも、四年ぶりに再会した兄貴のメヅキが話しかけてもダメだった。

 

 毎日毎日、あたしが起床する夕方ごろに、まだあちこちの骨が折れている体を引きずって、「……なにか仕事はありませんか」とぼそぼそ聞いてくる。厨房のアキツネにも訊ねる。

 お前、その体でまともに働けると思ってるのか? とあたしが指摘すると、音もなく店の隅にうずくまる。石や草木のように気配を消す。

 

 メヅキが「体の調子はどうだ? 怪我は痛むか?」と訊ねても、「……」包帯ぐるぐる巻きで、目だけが覗く顔で曖昧に首を横に振るし(床には血が混じった体液がだらだら垂れている。痛くないわけがない)、

 あたしが「床に座ってちゃ寒いだろ、掃除しづらいからせめて客用ソファに乗れ」と言えば「すみません……」と謝って、あたしが呼び戻すまで店の外の地べたで縮こまっているし、

 アキツネが「今日、ガーグァさ一羽シメたっけ水炊きにすっぺや」と言えば、

「……」

「……飯残したら、おれがおめぇをどうすっか、わーってる(分かっている)よな?」

 

 あたしが朝に寝て、アキツネも居抜きで休み、店に誰も居なくなった真昼間。彼は深々と、ありがたそうに両手を合わせてから、すっかり冷えた椀に口をつける。

 しばらくたって、くすん、くすんと鼻を啜る気配がする。

 

 ハルチカはそのやりとりを、憐れむでもなく、興味深そうでもなく、ぶすくれた表情で、色々な気持ちを含んだ目線で見続けている。

 

 

 

 あたしたちが、この掴みどころのない青年とどうやって付き合うか、ほとほと困り果てていた頃。

 彼について、もうひとつわかったことがある。感性の鋭さだ。

 しばらく観察するうちに、彼は感情を表現するのが苦手なだけだと言うことがわかった。

 

 無人の通りを駆ける陸風の音、夜空を流れる月や星々、闇夜にゆらめく蝋燭の灯火。

 何より、店の壁に掛けている、あたしの狩ってきた数々のモンスターの皮や牙、鱗たち。

 彼はそれらをいつまでも、飽きることなく耳を澄ませ、熱心に眺め続けるような人だった。

 無感情に見えるが、実際には色々なことを感じ、考えているのだ。

 

 

 

 あたしはある日、何となく、そのことをハルチカにつぶやいてみた。

 

「実は、儂もそう思ってた」ハルチカは不貞腐れたような表情から一変して、安堵した顔になった。

「勘違いじゃねぇかと思ってなかなか自信が持てなかったが、姐さんもそう感じてるなら間違ぇねぇ」

 

 ハルチカは煙管に火をつける。あたしも煙草を取り出して、もらい火をする。

 

「姐さんは、あの子の怪我が治ったら、兄弟ごとこの店から追い出すつもりなんだろ?」

「そうだね」あたしは胸いっぱいに取り込んでいた煙を、鼻から出した。

 

「兄貴が自分のと弟のぶん、働いて飯代を支払い続けてくれているが……二人ともこの店に居続ける理由はないよ」

「そこで、だ」ハルチカは頭を下げる。「二人とも、儂に預けちゃくれねえか」

 

 傲慢な彼がそんな態度を取ることに、あたしは拍子抜けした。それに、同年代を二人も引き取るだって?

 なぜ? と聞くと、

 

「儂は、自分の商会を立ち上げたい。そのためには、儂とアキだけじゃ力不足だ」

「商会ぃ? バカが四人集まって、何ができる?」

「なんでもできるさ」

 

 ハルチカは面をあげ、ニヤリと笑った。彼の祖父――あたしの商売の師匠とそっくりの顔だ、と思った。

 

「儂が目指すのは、商売とハンター業を両立するような商会さ。商人とハンターを、いっぺんにやりたい。――この街の金回りがいったい誰に支えられているか、年寄りの手前(テメェ)にゃ垂れる講釈じゃねえよな?」

 

 

 

「仕事だ」

 

 次の日、あいかわらず店の隅にうずくまっている青年に、ハルチカは二つの籠を持ってきた。

 

「手前は普通じゃねえ」ハルチカはそう言って、空の籠を渡す。

 

「普通に会話できねえし、普通とは違うものの見方や考え方をする。そして後者はもう、大きくは変えられねぇ。手前は、価値観を柔らかく変えられるほど、もう若くはねえんだ。その自覚はあるか?」

「……」無言で青年は頷く。

「もう一つ聞く」ハルチカはもう一つの籠を渡した。

 

 泥や血で汚れた怪鳥の鱗がたくさん。それと、乾布やオイルが入っている。

 確かそれは、以前ハルチカが狩った、片翼の不自由なイャンクックのものではなかったか。

 

「普通でない人が普通の人の住む街で生きていくにゃ、普通の人のフリをするしかねえ。その覚悟はあるか?」

「……」無言で、青年は二度()頷いた。悩んでいる様子はまったくなかった。仕事を目の前にして、どこか活き活きしている様子さえあった。

 まるで、肉にありつくときの飛竜のように。

 

「手前の名を言え。まだ聞いてない」

「シヅキ、と申します」

 

 ぼろぼろの青年は――シヅキは、芯の通った声を出す。

 あ、そんな声をしてるんだ、と思うと同時に、声の出し方が兄貴とそっくりだな、と感じた。

 

「僕は、何度も名前を変えてきました。もとの名前はわからなくなりました。でも、兄が”メヅキ”と名乗るなら、僕は“シヅキ”と名乗ろうと、このお店に来た時からずっと思っていました」

 

 

 

 今、あたしはお気に入りの銀嶺ハイボールのグラスを揺らす。

 

「会話できねえ奴に、天気の話なんか振ってもしょうがないだろ? だから仕事を与えようってことになったんだ。仕事慣れはしてそうだったから、仕事の話ならできると思ってね」

「あの仕事は、姐さんが回してくれたのか……」なるほど、とメヅキは相槌を打つ。

 

 彼は弟が変な距離感で生活している間、ずっと一定の距離を保って、弟の容態を観察していた。心の病と闘いながら。

 その期間とは、自分の罪や失敗そのものと物理的に向き合うようなものだったに違いない。

 

「タイミングが合っただけさ。前にシヅキが質屋で流した素材を、知り合いの素材商人が気に入ってたってのもあるし」

 

 この若者たちが、雇い主に依存せずに自立するには、たくさんの人の協力が必要だった。

 あたしだけじゃない。ハンターとしての法的な手続きは、ギルドナイトのオズが。新たな装備の手配には、土竜族の親方が。

 何より稼いで、飯を食っていくのに、陶器屋のジジイ、酒屋の女将、干物屋の死に損ないババア……この商店街の人みんなが、この変わり者たちを育てた。

 

「おっと、放っといちまって悪かった。飲み物は何にする?」

「いいんです。いつもので、お願いします」

 

 シヅキは笑顔で応えた。その笑顔は一見、自然な仕草に見える。この顔が仮面だとは、街中の人だれも気づかないだろう。

 あたしは背の高いグラスに苦い雪山草のエキスを注ぎ、とびきり強いホピ酒を多めに加えて、大きめの氷結晶を浮かべた。

 巨獣ガムートも飛び上がるほど凶悪なマズさとアルコール度数。雪山草の味がして酔っ払えればなんでもいい奴向けの、なんちゃってポッカウォッカの出来上がりだ。

 彼はこの一杯を、ちびちびと飲むのを好む。受け取ったグラスを、メヅキのハチミツ酒のグラスと軽く小突いてから、嬉しそうにマドラーでかき混ぜはじめた。

 

 

 

 シヅキはハルチカから仕事を任され始めてから、日中は商店街で働き、夜に本を読んだ。文字の読み書きを必死に学んだ。

 最初は、商店街の子持ちママさんから譲ってもらった絵本を。シヅキは視覚情報に関してはとても敏感だから、絵本は効果てき面だった。

 いい年こいて会話が下手くそな(あん)ちゃんが絵本を集めているというので、彼は一躍、商店街の注目を集めるようになった。

 

 わからないことは兄貴のメヅキやハルチカに教えてもらいながら、シヅキはやがて本商人から安値で流してもらった。モンスター図鑑を、次はモンスターの専門書を手にとっていった。書物の文字数は増えていったが、なるべく図表も掲載されているものを選んでもらった。

 

 街の同年代の若者が年相応に――()()()将来のことを夢見たり、思い思いに遊んだり、甘い恋愛を楽しんでいる間、彼はずっと働き、勉強をしていた。

 商店街で根気よく街の人と触れ合ううちに、徐々に読み書きと、自然なコミュニケーションができるようになった。

 

 たとえば飛べない飛竜が陸で生活するには――本来なら死ぬしかないんだが、あえて生きていくとするなら――脚を鍛えないといけない。陸上の生物のフリをしなきゃならない。

 普通でないやつが、普通の人のように生きていくには、演じ続けるしかないんだ。“普通の人”を。

 

 シヅキは今も、世間とは少しズレた感性と、少しズレた考え方を持ち、必死に“普通の人”のふりをしている。

 外界と己の感覚との間で常に生まれ続けている、(ひず)みを見て見ぬふりをして、彼は今を生きている。

 

 

 

 目の前のシヅキは、酒というより化学薬品といったほうがふさわしい一杯を、喉に流し込んだ。アキツネの作る飯を除いて、いつもほとんど味を感じないのだという。

 酒とは、どうしようもない心の疲れや痛みを誤魔化す麻酔だ。

 薬が治せないことを、酒は癒せる。……あたしも薬師と似たようなもんじゃない?

 

 

 

「なんだい。二人とももう来てたのか」そのとき、ドアベルがやや乱暴に鳴らされる。

 

 入ってきたのはひょろっとした背の男。ハルチカだ。ウォーミル麦の穂の色に染めた髪は、使う髪油の量が適切になって、さりげなく撫でつけられている。昔はもっとこってり、ギトギトに固めていたもんだ。

 確かな実力で手に入れたミツネS一式装備も、その華やかさな色合いがよく似合ってる。

 

 対してアキツネは……その、なんの変わりもない。性格も、容姿も、価値観も。

 装備こそ、堅牢なセルタスS一式装備を着こなすようになったが……あえて言うなら……腹に肉がついたくらいか? 喜ぶべきか、がっかりするべきか。まぁ、老けてないって意味ではいいのかねぇ。

 

「悪ぃ」アキツネは巣に戻る飛竜のように、そそくさと厨房に吸い込まれていった。「すぐ何か作っから、待ってろ」

 対してハルチカは、ニヤケ顔でカウンターの席に滑り込んでくる。

 

「へぇ〜、兄弟水入らずで呑んでたのかい。店の空気を読むに、さては重っ苦しいやつと見た」

「空気を軽くしてくれて、心からお礼申し上げるよ。ハルチカ」シヅキは迷惑そうに肩をすくめて、グラスを舐める。

「どういたしまして。姐さん、儂にも一杯」

「あいよ」

 

 アルコールを摂取するとすぐに眠りこけるハルチカは、きりっとした苦味のトニックウォーターを好む。薬草や霜降り草など、数種類のハーブエキスに少しのシロップと、プレーンソーダを注いだものだ。安価で、頭を使う仕事の後に飲みたくなる。

 昔は、お祝いに作った高級トロピーチジュースを一気に飲み干していたのに。

 

 ハルチカとは、この問題児兄弟をどうするか、何回も何回も話し合ってきた。兄弟を引き取った後も、体調は大丈夫なのか? ハンターの資格はどうなるのか? オズを交えて、何度も確認した。

 

 あるとき、ハルチカはこんなことを(こぼ)した。

 

(ほどこ)しの是非は、授かる側が決めるんじゃねえ。そう思わねえか?」

「どういうこと?」

 そのときは確か、話が逸れて、なぜ無関係なあたしたちが兄弟の世話をしているのか、という話題だった気がする。

 

「陳腐な言葉で言えば、兄弟愛に心が痛んだ。気の毒だと思った」

 

 ハルチカは右上のあたりに視線をやって、眉を下げた。へらっと笑う。

 次の瞬間、表情が消え失せる。

 

「違ェな。ムカついたんだ。そりゃ確かに、あんな子は溢れるほどいる。だから目の前で困ってたあの子たちに、手を貸すのは偽善だってか? ……違ェよ。そんな世の中、まちがってる。……そう、だよな?」

「よくわかんねえけど」その場にいたアキツネは、こんなふうに答えた。

 

「いつも飯、美味え美味えと食ってくれっだよ。飯のありがたみをよォぐ知ってる。おれはそれだけで、付き合っててもえェ(いい)と思うンだっけどもね」

 

 

 

 この五年で、ハルチカは多少は良くも悪くも丸くなった。

 気に食わねぇとあたりに噛みつき散らかすことも少なくなったし、賭博も嗜む程度にしかやらなくなった。

 ずば抜けた機転から生み出される理想と、このクソみてえな世の中は程遠いんだと、少しずつ割り切れるようになった。

 

 地上を俯瞰して見れる飛竜は、間違いなく強い。たとえ彼と同じ高さで飛べたとしても、誰も、彼の視点についていけない。

 まるで、孤独な飛竜。

 ハルチカはハルチカなりに、自分がやっていることは少なくとも正義ではないと言い聞かせながら、商人をやって、ハンターをやっている。

 

 

 厨房から肉の焼けるいい匂いが漂ってくる。行き場のない飛竜たちのための飯。

「この店は、はぐれものたちの溜まり場だっていうのか?」と自問すると、「その通り!」と言わんばかりに月の光が窓から差し込んできた。

 寒冷期の月光は気怠げで、退廃的で、どこか優しい。

 

 これが《七竈堂》を一時閉店へ追いやった、死体になりそこなった兄弟についての話だ。

 

 

 

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