霧が濃くなったようだ。これから向かう件の館はまだ、車窓からは窺うことができない。
湖の一端と、その畔が見えるのみである。
鈴仙は思い立ち鞄をまさぐった。懐中時計を取り出し、開いた。もうそろそろ到着するはずだ。
小さくため息をつく。この霧の中、慣れぬ道をひとり歩かねばならない事は、鈴仙の憂鬱に少しばかり拍車をかけた。
そもそも今回の訪問の要件自体が、鈴仙の心中を暗澹とさせていた。
ベルが甲高い声を上げた。時計をふたたび鞄へ放り込む。意を決して立ち上がり、出口へ向かった。
ふと見た窓の外に人影をひとつ認め、鈴仙はわずかだが救われた心地になる。扉を開け、ゆっくりと地面を踏みしめた。
「わざわざすみません、十六夜さん」
人影をみとめた方に向き直り、鈴仙は声を掛ける。彼女、十六夜咲夜は以前あった時と同じくメイド服を着ていた。
佇まいこそ凛としているが、鈴仙は彼女に何処か淋しげな印象を受けた。
「いえ、先生。――今度もどうか、よろしくお願いします」
咲夜はやや深く腰を折った。顔にも微笑が浮かぶ。それとともに今度ははっきりと寂寥が露わになったようだった。
「どうぞ、ご案内します。あまり湖に近づき過ぎませぬよう――」
咲夜が先立って歩き始める。鈴仙もそれに続いた。歩きながら湖に目をやってみるが、湖面の中ほどまでも見えてはいないはずである。鈴仙も、何か物淋しい気分になってきた。
「その後、容体はかわりなく?」
そうして咲夜に話掛けた。尤も、答えは察しがついている。
「ええ。――本当に、何も」
そうだろう、と鈴仙は思った。『患者』――彼女の主に少しでも何かあれば、この従僕はすでにやって来ていたことだろう。彼女の主人に対する接し方は、どことなく克明すぎるように鈴仙には見えたものだった。ちょっとした仕草や少ない発言からも、それは窺えた。
「――私はあくまで、医者ですから。やっぱり今後も期待しないほうがいいですよ。」
些かの皮肉も込めて言ってみる。言いたくもなるものだ。
彼女の主人、つまり患者自身は自身の現状に対して、極めて淡泊な面持ちで相対しているようだった。むしろ熱心なのはこの従者のようである。その熱心さが鈴仙には無性に苛立たしく思えた。なぜならば――
医者が『吸血鬼』を診るなんて――あまりにナンセンスだ。
滑稽であると鈴仙は思う。とはいえこのメイドにとっても、それは承知しきったことではあるようだ。
どうにも手の施しようが無いため、あらゆる可能性に縋り、そのうちの一つにでも有効な術があれば――そういう考えであろう。
だから鈴仙も、いくつか束ねられた細い可能性の糸の一本に過ぎず、わざわざ言うまでもなく大した期待はされていないはずなのである。
――やっぱり、馬鹿みたいじゃない。
だからこそ、そう思わずにはいられないのだ。尤も仕事は仕事であるし、この事自体はたいして迷惑というわけではないのだが、何とも間の悪いこと――
彼女の一身に、ある懸念がなかったならば――
そうして乾いた問答を繰り返しているうちに、大きな洋館が霧の中に出現した。
前回訪問した時は、一面朱で塗られた煉瓦造りのそれをつぶさに観察することができた。その外観と、館そのものの大きさから、鈴仙は言いようのない圧力を感じたものだった。
そしてこの霧が、この館の様相を更におどろおどろしく演出していた。
間もなく館の塀や門が見えてくる。鉄格子の門扉の前に、前回の訪問でも見かけたチャイナドレス姿の門番が控えていた。
「お帰りなさい、咲夜さん。あ、お医者さん、いらっしゃい――お嬢様をどうかよろしくお願いしますね」
にこやかだが、縋るような眼を鈴仙に向け、門番は言った。はあ、と鈴仙は生返事するほかなかった。少なくともこの実直そうな門番は、鈴仙にある程度の期待をもって迎えているようだ。
やめてくれ、と鈴仙は思う。彼女の純粋な忠義が、鈴仙の良心をいわれもなく責め立てた。鈴仙が彼女の期待の期待に副う活躍ができようもないことは、ほぼ間違いないことなのだ。
この門番の純真な言葉に対し、前を行くメイドは心なしか険しい表情をしたようだった。彼女の心境も鈴仙のそれとさほど変わらぬものだっただろう。
ただし、彼女は鈴仙よりも遥かに強く、そして幾度もこの気持ちを噛み締めていることだろう。鈴仙はやはり居た堪れなかった。
門番の視線を背に受け、鈴仙は咲夜の先導で玄関に向かった。その間通る、よく手入れされ小奇麗だったはずの庭は、霧にぼかされ今は観覧することが叶わなかった。
玄関の前に到る。咲夜がドアノブに手をかけ、いかにも重そうな扉を引いた。
「どうぞ、お入りください。」
促され、鈴仙は屋敷の中へと足を踏み入れる。
人の気配は感じられない。明かりはわずかに灯っているが薄暗く、内部の様相をつぶさに窺うことはできなかった。
「こちらへ」
呟くような咲夜の声が屋敷の中に響く。鈴仙がうなずくと咲夜はまた歩き始めた。
なんとなく、この館自体に拒まれているような、そんな感覚を鈴仙は覚えた。