鈴仙は永琳の向かいに腰を下ろす。そして、ようやく出会えたかつての師の、姿を注視した。そうだ、このひと――私の、師匠は――
言葉が出てこない。何から問えばよいか、わからなかった。
「優曇華、私は――」
永琳が、話し始めた。
「私は、皆に謝らなくてはならない。黙って、去ってしまったことを」
「それは、仕方のなかったのでしょう。誰も、恨んだりはしていません」
「苦労、かけたでしょう?」
「大した事じゃありません。師匠の覚悟に比べたら、そのくらい」
「気づいた時には、もう時間が無かった」
「そうだったのでしょう。師匠はいつも、私たちを見ていてくださっていたのに――」
「でもね、優曇華。私は、姫様だけには残していったのよ――私の、勝手な我儘」
「姫様は、確かにその事で申し訳なさそうにしておいででした。でもそれくらいのこと、師匠には赦されるはずです――」
「それでも、それだけは済まないことだと、思っているわ」
「本当に、師匠がああしていなくならなければいけなかったのですか?」
「私の周囲が揺らぎ始めるのを感じた時、あなたたちの存在が心底守りたいと、思ったわ。そう思ったら、こちらの側へ来ていた――でも、これでよかったはずよ」
「そんな――それが、師匠でなくても」
「運命なのよ――優曇華。初めに気付いたのが私だった。それだけで、十分なことだったのよ」
「私に出来ること――私の為すべきことをお教えください」
「私があなたに教えられることは、もう何もない――あなたが、そうあるべきだと思ったことが正しいこと――為すがまま、優曇華のしたいようになさい」
「でも一人だと、あの時の様に――何処かわからない場所へ、迷い込んでしまいそうです」
「それでもあなたは、帰ってこれたじゃない」
「あの時だって、師匠が手を引いてくれたから――」
「あなたが帰りたいと、心の底で思っていたからこそ出来たことよ――あなたまでこちらへ来てしまったら、何の意味もないものね――」
「もう、帰って来てはくれないのですか?」
「それは私にもわからない。でもね、少なくとも私は本当にこの結果に満足しているのよ」
「師匠はそう言ってくれるけど――それでも、おかしいじゃないですか。師匠だけが――」
「何より、私が望んだのことよ。――そればかりかこうして優曇華ともまた会えたわ。私、この上なく幸せよ」
「じゃあ、この再会は、いったい何だというのです?」
「優曇華。――あなたを取り巻く世界は、今微妙な均衡の上に辛うじて成っているわ――。あなたは今、その岐路の上に立っているのよ――そしてこれは、その岐路の中の、束の間の邂逅」
「わたしが、ですか?」
「あなただけではないわ。いずれ皆がその上に立たされる――あなたはそれを通り過ぎずに、立ち止まって考えることができた、そのために私は優曇華とこうして話すことができている――」
「自分の――わたし自身の岐路でも、ある」
「そう――あなたがここの大勢と同じく心中する立場にあるのか、それとも、少しでも抗ってここを守ろうとする役回りに立つか――でも、あなたの人生よ。どちらを選んでも、あなたの望むままにありなさい」
「これから、ひとりの友人と会います。時間はかかるかもしれないけれど、それなら何度でも会って、それから私のゆくべき道を見極めたいと思います」
「それもいいわ。私なんか、一人でここまで来てしまった――姫様や、あなたという人たちがいながら」
「とても寂しい。――今では、心の底からそう思えます。そしてもう、逢えないかもしれないことも」
「そう思ってくれる人が、ずっと傍にいてくれていた。それを、やっと知ったわ――悲しい、巡り合わせね」
「わたしもです。このすれ違いが、たまらなく悲しい」
ベルが甲高い声を上げた。永琳が小さく頷く。意を決して立ち上がり、出口へ向かった。
鈴仙は振り返らなかった。振り返ったら、永琳はもういなくなっているのではないか――その事実を受け入れられそうになかったのだ。そしてそのまま、扉を開け、ゆっくりと地面を踏みしめた。
「永琳様、ありがとう!」
気持ちが、溢れかえった。鈴仙は向き直って、叫んだ。
「ありがとう、レイセン!」
永琳はそこにいて、そして鈴仙に応えた。
かくて、列車は行く。鈴仙はそれを眺めながら、静かに微笑んでいた。
見送ってから、また目的の場所を目指す。その胸中には覚悟も、決意も無い。
鈴仙の内にあるものは、一人の人間――東風谷早苗という人物の在り様を見極めようという、ひとつの意思だけがあった。
それは今の鈴仙にとって、友人の元へ訪問する、ただそれだけの事と変わりはないのだった。
足取りはゆったりとしている。到着はちょっと遅くなるかもしれない。悪いな、とは思う。しかし、急ぐ気にはなれなかった。
歩いてゆくと、大きな建築物の群れが近づいてくる。それらは全体的に平面的であり、どこか固い印象を受ける。
次第に周囲の人通りも多くなる。幻想郷にこれほどの人がいたのかと思うほど、人間が密集していた。それらを縫うように、鈴仙は歩き続けた。
やがて高楼の群の中にそびえる、峯の麓にたどり着く。上るには、ちょっと骨が折れそうだった。
「いずれ、山を登る鉄道も敷設したいと考えているのですが、まだ研究中なのです」
「――早苗さん」
「鈴仙さん、良く来て下さいましたね」
振り返ると、早苗の姿があった。煤けたような空気の中でも、変わらず明るい雰囲気を纏っていた。
「やっと、約束を果たしに来れました」
「嬉しいです。いっそ、また私の方から伺おうかと思ってしまいました」
「それは、悪い事をしましたね」
ふたり、肩を並べて山中を進む。しっかりとした参道があり、麓での想像ほど苦ではなかった。
「とはいえね――参拝者を増やそうというのなら、まず真っ先にこれを何とかした方が良いんじゃないかと思うんですね」
「本当に。返す言葉もないです。私たちがここで受け入れられた後、まず何を目指したのかといえば、外から持ち込んだ科学を使って皆の気を引く事でした。――邪道も、非道いところ。実際に参拝しようにもこれではね、滑稽でしょう」
「そういう、本来の精神を捨てても、あなた方は自らの存在のために人々の信仰を集めた。それは、誰にも否定できることではないはずです」
「鈴仙さんは、優しいからそう言ってくれます。でも、誰かが私たちのように遮二無二自分の居場所を周囲に認めさせたとして――その上で私たちの存在が邪魔になった時、衝突は避けられないでしょう?」
「理想としては、共存の道を探りたい――と思います。でも、それでもどちらかが立ち行かない時は――」
「立ち行かない方が、消え去るしかない。殊に幻想郷は大きくなった存在達を幾つも受け入れられるほど、広くはない――狭すぎるのです」
「だが、あなた方はここへ来てしまった」
「それが我々の、罪なのではないでしょうか」
「それが罪になるのならば、また誰かの裁きが下りましょう」
「悔い改めるには、もう遅すぎますね――引き返せないところまで来てしまった」
「やあ、鳥居が見えますよ。もうすぐ境内ですか?」
「そうです。お疲れ様でした――」
麓で考えていたほど、登頂に時間はかからなかった。さして身体に疲労は感じていない。
振り返ると、地に一面に広がる建築物に圧倒される。木造のものが多いが、一面石のような材質の建物もちらほら見ることができた。
「壮観ですね。驚きましたよ」
「私自身、今目の前に広がる光景が、信じがたい事のように思います――ここまで来るとは、思わなかった」
境内に上がる。そして、あるのは変哲のない、なんとなく馴染みのある神社の風景だった。
「ここは、なかなか静かじゃないですか」
「でももう、あまりここへ帰らなくなりました――今日は間がよかったですね。私の主たちは出払ってますけど」
「お会いしてみたい気持ちもありますが、今はとにかく早苗さんとこうして話せていることが嬉しいです」
「そうですね。今はただ、それだけで――」
ふたりで、麓を見下ろした。山に吹きすさぶ風が早苗の長い髪を靡かせる。
麓の雑踏の内にいる早苗より、風の中佇む彼女が遥かに凛として見えた。
「下の町がまるで生きているように思えるのです。巨大な脈動の様な、ちからの潮流を感じます。とても大きな、生き物のよう」
「それが、恐ろしい?」
「これを生んだのは私たちです。私たちが、外の
「しかし、いよいよとなればこの怪物を討つものが出てきましょうよ――幻想郷とはそういうところです」
「そして私たちは、裁かれる」
「誰かが、この世界に成り代わってね――贖罪はその時まで取っておけばいいでしょう。せめて、怪物の手綱をもう一度取りたいものですが」
「それには、私の手が負えないほど大きくなりすぎた。すでに主も、それに呑まれてしまった――そう思えるのです」
「そいつが全部をのみ込んでしまったのならそれは、それまででしょう。あなたのためにでもなく、あなたの主のためにでもない。そういうものだったということです」
「そのなかでも――生きている限り、最大限手を尽す、ですか。それしかないのですね」
「そう思います。そこに、道はあるはず――」
それからは、他愛のない話が続く。先の問答も忘れたように、笑いあった。
鈴仙の往くべき道も、早苗の求めた道も、とうにふたり、わかっていた事なのである。
それでも――それを解っていても早苗は鈴仙に問うた。そして鈴仙も、早苗の問いを受けた。そうしてわかり合うことで救われる心が、ひとの内にはある。そして鈴仙はそのために、早苗の元へ訪れたのだった。
「上がりましょうか。風も冷たくなった来ましたし」
「では、いよいよ厄介になりますよ」
「鈴仙さんのところのように、うちも賑やかだったらいいんですけど」
「あれはあれで気苦労は多いですよ。どうであれ、寂しいこともあるものです」
「それも、仕方のないことですね」
「そうです。しかたないのです」
境内にある屋舎のうちの一つに、二人は入った。ここが居住に使う屋敷らしい。
屋敷に上がってすぐ、早苗は夕餉の支度を始めようとした。鈴仙は、客人とは言え一人で何もせず待つのも、ちょっと嫌に思ったので手伝うことを進言したが、早苗が
「確かに、こうしていていいと言ってくれているんだから、ゆっくりしていればいいんじゃないかと思うんですけど――結局これではいけないんじゃないかと考え始めてしまうんですよ」
「かなしい性ですね――それで?」
「だから、私にも手伝わせてくださいよ」
「駄目です。私はわたしなりに、もてなす側の意地というものがあるのです」
「意地ですか――それなら私は引っ込むしかないですね」
「そうですよ。鈴仙さんはそうやってわたしにお話してくれれば、とても助かるのです」
「何にせよ、私は楽なものです」
早苗が、仕上がった夕餉を運んでくる。鈴仙も心なしか身を整えて卓につく。こういうこともえらく久しぶりだと鈴仙はふと思った。
箸を進めながら二人はゆったりと話し合った。
「鈴仙さんはいつも、気張りすぎているんじゃないですか?何に対しても」
「それは自覚しているつもりなんです。でも――やっぱり私の性というか――他人に対してはよく尽くさなくてはいけないという考えが、気付いた時からありました」
「月での境遇が、そうさせた?」
「どうでしょうね。そういう気持ちの方が先にあった気がします。昔の主人たちに拾われる前からです」
「それなら本当に、鈴仙さんの性というものかもしれませんね」
「そうですね。――それでも、一方でその性に反発する自分もいるのです」
「なるほど――その反発が、鈴仙さんをここ、幻想郷まで連れてきたんですね」
「確かに、その結果ここにいるとも言えますね。――まあ、その自分の中の葛藤が心の何処かに終始あって――そのせいじゃないかと思います。私がいつも気張って、固くなってしまうのは」
「でも鈴仙さんのその気骨が無ければわたし、こうして鈴仙さんと会うことなんて、できなかったんですね」
「そうとも、言えますか?」
「それじゃあもしかして、そのままの鈴仙さんでいてくれた方がいいのかしら」
「いや、気楽に生きてみますよ――そのほうが幸せに違いないんです」
「それはそれで、難しいことでしょうけどね」
「背負うものが、できてしまった――わたしも、あなたも。前をゆく人が、ずいぶん遠くへ行ってしまった。心安くはいられませんね」
「わたしなんて、あなたほど大きなものを背負っていませんがね」
「それが多かろうが少なかろうが、先立って、ひとを導く立場になってしまった――悩みの深さは同じことです」
「そして、私たちはどこへゆくのでしょうね?」
「あなたの、望むところへ――道は、沢山あるでしょう」
食事を終えると、早苗が大きな瓶を両腕に抱えてきた。酒瓶らしい。
「ありがたいですが――早苗さんあなた、下戸だったでしょう。私だけいただくのも、なんだか」
「何言ってるんです。わたしも呑みますよ――折角鈴仙さんがいらしたんですから、頑張ってみます」
「頑張って、のむものでもないですよ」
「まあ、いいから、いいから――」
そう言って胸を張った早苗であったが、盃にひとつ、口をつけただけで顔をしかめた。
「どうです?」
「これ、辛いですよ――なんでみなさん、あんな美味しそうにぐいぐいといけるんですか?ふしぎです」
「初めて会った時から思ってたんですけどね、早苗さん、子供っぽいんですよ。色々とね」
「ええっ?そんなふうに思っていたんですか。鈴仙さん、ひどいですよ――もう酔っぱらってるんですか?」
「浮かれていてね。酒のまわりが、早いようです」
子供扱いされて向きになったのか、早苗は次々杯に酒をそそぎ、口に流し込んだ。
ちょっと自分も調子に乗ってしまったと、鈴仙は思った。
「体に悪いから、やめなさいよ。からかったことは謝りますから」
「もしわたしが体壊したら、そのときは鈴仙さん、診てくださいね?」
「困ったひとだな――」
咎めた鈴仙の、杯を運ぶことも常時より早かった。ふたりの間の浮ついた空気に、鈴仙は微笑んだ。
しばらく、二人は黙って杯を進めた。そこに気まずさはない。鈴仙も早苗も、この沈黙をどこか楽しんでいるふうだった。
「そりゃあわたし、子供っぽいですよ」
「悪かったですって、それは」
「いいんです、いいんです。これはね、反動なんですよ」
「反動?」
「そうです――わたし、外では本当に馴染めなくて。びっくりするほど、人とずれていて」
「ずれ、ねぇ」
「だからね、人に甘えることなんて、できなかった。けど神奈子さまや諏訪子さまの前だと、それもできた」
「そりゃあ付いてきちゃうわけですね、ふたりに」
「そうそう。こっちだと――まあ、多少感じることはあるけれど――みんながみんな、ずれているようなものだし」
「違いないですね」
「鈴仙さんみたいなお友達も、はじめてできました」
「照れますね――ともだちかあ。早苗さんと会うまで、考えたこともなかった」
「永遠亭には、いっぱいいらっしゃるじゃないですか」
「どうかな――友達として、接してこなかった気がします」
「なんでですか?こっちに来てずっと一緒なんでしょ?」
「そうだけど、ここに来てから今日まで、わたしも本当には馴染んでいないんだと思います。――でもわたしが、あのひと達を心の底ではとっても大事に思っていたということに、最近やっと気づきました」
「それなら友達じゃあないかもしれませんけど、それと同じくらいの相手なんでしょう。鈴仙さんにとっては――」
「幸いなことです。でも、友達というともだちは、わたしも早苗さんが初めてかもしれない」
「鈴仙さん――」
早苗が、鈴仙へ身を寄せて、倒れこんだ。そういえば鈴仙ほどではないにしろ、早苗の酒量も大分多くなっていた。
早苗の行動に驚くより、下戸である早苗のよく飲んだ事実に鈴仙はふと感嘆した。
「えへへ、うれしいです――ほんとにわたし、鈴仙さんのこと好きですよ」
「――ありがとう」
思えば、瓶の中の酒もほとんど空けてしまっていた。鈴仙もいつの間にかしたたかに酔っていた。
身体を動かすことに、ひどく倦怠を感じた。早苗を払いのけることはせず、鈴仙はその場
上体を横たえた。そのまま、早苗の上体も付いてくる。彼女もいよいよ酔いつぶれたらしい。
ふたりして、呑みすぎたと思う。そのふたりが胸中にひとつ、それぞれ一念を持ち合っていた。そして、それを吐き出すために、今宵ふたりは杯を酌み交わしたのかもしれない。
まだ、完全に打ち明け合ってはいないとも鈴仙は感じる。だが、それは急ぐことではなかった。
今はこうして酔いつぶれて、寄り添って寝てしまうことも悪くないはずだ。
そうして、ぼんやりと思考を巡らせながら、鈴仙の意識も眠りに就いていった。
「――そう。ずっと、このままでいられたなら――」
鈴仙の身体が微かな気配を感じて、目覚めた。隣で寝ていた早苗が身を起してどこかへ歩いて行ったらしい。
鈴仙は頭がはっきりしないうちから、早苗を追うことを決めた。
暗い廊下を、早苗の足音を追って鈴仙は歩いた。やがて、月明かりが照らす縁側へたどり着く。
境内に、早苗の姿を見とめる。何をするでもなく、月を見上げたまま佇立していた。
鈴仙はそれを見ても、不思議なほどに無感動だった。自分は、まだほとんど寝惚けているのだろうと、鈴仙は漠然と思った。
早苗も鈴仙の存在に気付き、振り返った。その顔からは、あらゆる印象が感じられない程に表情がなかった。
「起こして、しまいましたか」
言葉を発した早苗が、どこか申し訳なさそうに笑みが浮かべた。だが矢張り、そこには感情が希薄であるように思えた。
「まあ――でも構わないですよ。こちらこそ勝手に黙って追いかけて、失礼でした」
「いいえ――実のところ、鈴仙さんもここに来てはくれないかと、ちょっと思っていたのです」
「そうなんですか――?」
「酔い覚ましにはいい風情でしょう。今、ここは」
「確かにそうですね」
「月が、あんなに大きいですよ」
「――そうですね、今夜は」
「お嫌いですか。月を、眺めるのは」
「嫌いというか――複雑な気持ちです。いい印象は、あまりないかな」
「そう、でしたか。ご免なさい――」
「いや、謝らないでください。綺麗なものだとは、思うのですが」
「無理もないことです」
「――あそこが故郷だとは、今ではちょっと思えないんです」
「永遠亭が、鈴仙さんの故郷?」
「実は、そうとも思えない。わたし自身、どこから生まれ出てきたのか、曖昧でよく解らない。――そして、どこかから出でた自分の存在が本当に確かなものなのか、それもまたわからない」
「でも鈴仙さんは、私と今ここでこうして私と話しています」
「そうです――でもそれすらも朧げで、夢のようです。殊に、今の早苗さんも」
「では、あなたの周りの――あなたと共にゆくひとびとはどうです?そんな、曖昧なものに思えますか?」
「――それは確かに、いる。私の実存より、確かだ。そう思えます」
「そのひとたちの中には、鈴仙さんは確かにいるはずですね」
「そうあってほしい。そのために、生きたいです」
「鈴仙さん、わたしたちはこれまでお互い、自分の存在のための道を歩んできました。そしてこれからも――」
「そうです。その中でわたしは、自分という存在を絶えず探してきたようです。自分というものが確かにここにあると、感じていたかった」
「わたしは、あのふたりのため――そのために自分はあるのだと、そう思ってここまで来ました。二人ための存在理由――それが私の存在そのものでした。でも、鈴仙さん。わたしはあなたにあったおかげで、二人以外の存在を意識したんです。それは、私の、私自身のための存在の発見でもあった」
「あなたが、あなたのために生きる――私はつい最近まで、そういう考えすらなかった」
「鈴仙さんも、気が付きましたか」
「そのようです。いろんな人が、わたしにそれをに教えてくれていた」
「早苗さん、あなたがたは、いろんな人々の存在と、衝突しようとしています」
「鈴仙さんとも、ですね?」
「おそらくは。でも私はそれでも構わないと思っています。それは別に、皆で心中しようとか、そういう悲しい観念とは違うものです。そうなるべくしてなった、そういう存在だったと、そう思うだけです」
「でも、あなたには守りたいと思う存在ができてしまったのですね」
「だからあなたと会って、わたしのあり方を考えたかった」
「行先は、決まりましたか?」
「いいえ、まだわからない。――答えなど、もしかしたら出ないのかもしれない」
「――鈴仙さん。私の答えは、もうわたしの中にあるのです。わたしは――」
――あなたの、望むものに奉げたい。それがわたしにの贖罪であり、希望です――
早苗が、ふわりと宙に浮かび、鈴仙のもとへやってくる。そうして、鈴仙の両の頬をそっと撫でた。
ふたりの、まなざしが絡み合う。早苗が切に優しく、微笑んだ。鈴仙の瞳から、涙があふれ出す。早苗の痛々しいほどの真心が、鈴仙の胸を締めつけた。
「でも、あなたが――」
「いいの――あなたのためなら、わたしの、一切がなくなってもかまわない」
「それは――わたしも悲しいわ、早苗――」
「わたしは、わたしの存在はあなたにとっては、夢みたいなもの。あなたが守らなければいけないうつつの人々が、あなたを待っているはずよ」
「早苗――やっと、あなたと出逢えたのに――」
「――ありがとう、鈴仙。わたしもあなたに逢えて、ほんとうによかった」
鈴仙の眼が、大きくひらく。彼女の瞳の赤色が虚ろに満たされて、早苗の意識を深淵へと誘った。
早苗が、ゆっくりとうしろに仰け反る様を、鈴仙はいつまでも見続けた。その間早苗は微笑み続けていた、ようだ。
それから早苗が地面に倒れこむまで、様々な思いに鈴仙の心は苛なまれた。
それらはどれもはっきりとはせず、鈴仙の体まで呑み込んで離さなかった。
早苗が、地面に打ちつけられた。鈴仙は混乱したまま駆け出した。
山の斜面を滑るように駆け下りる。何も、目に入らなかった。時折躓いても、止まることはしなかった。地面に両手をつけて、ほとんど這うように走り続けた。
木々の間を縫うように駆ける。鈴仙はそのうち無心になった。衣服がどんなに裂けようと、いくら体に傷を負おうともただ、鈴仙は四肢で地面を蹴った。それだけが鈴仙となった。
麓に近づくうちに木々も途切れて、大きく開けた場所に鈴仙は転がるように這い出た。
ふと、夜空が目に入る。鈴仙は驚き、そこでようやく立ち止まった。
月が、紅い。
月華が血涙の如くに溢れ出し、滲んでいた。その月は鈴仙の瞳より深く、あかいのだった。
鈴仙はたまらなくなり、目を剥いて、何事かを叫んだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
鈴仙が意識を取り戻したのは、真昼の永遠亭だった。枕元では輝夜が静かに鈴仙を見守っていた。
鈴仙が彼女に目を向けると、輝夜は微笑んで、そっと鈴仙の額に手を置いた。輝夜は鈴仙に何も聞こうとはしなかった。鈴仙も、特に言葉にすることはしなかった。
その日鈴仙はぼんやりと、床で横になったままでいた。時々涙が零れたが、それを輝夜は黙って拭ってくれた。だから輝夜に対して申し訳ないな、とは思った。
翌日には何事もなかったかのように鈴仙は起き上がった。ずっと見守ってくれた輝夜には何遍も感謝を伝えつつ、謝った。そんな鈴仙を、輝夜はやはり黙って抱きしめた。
仲間の兎たちにも鈴仙は謝罪をした。大概のものは疑問に思いつつも、それを静かに受け入れたようだった。
ただ、てゐには一度頬を殴られた。そのあとてゐは、はっとして鈴仙は逆に謝り返された。それで、てゐの素直な心が伝わって、単純に鈴仙は嬉しかった。
それから数日は、これまで通りの生活を送った。これまでと変わらずに方々へ赴き、日が暮れれば竹林の中へ帰った。町も――少なくとも端から見る限りでは――あの日から変わった様子はなかった。そのような中でも、鈴仙にとって特異なことはあった。
あの、鈴仙の訪れた洋館の主が蒸発したらしいことを風の噂で耳にした。その人物に関する鈴仙の記憶も無くなっていたから、それは実感としてもあった。
一応は、妹のフランドールが主人ということになるのだろうか。鈴仙には分かり得ないことであった。
あの従僕――咲夜はどうしているだろう。パチュリーや美鈴たち――あの中にかつての主人の事を少しでも覚えているものはいるだろうか。
藍が、あの館を訪れるかもしれない。もしくはもう行動を起こしたであろうか。守矢とのしがらみが生まれたあの洋館でも、藍は同志を求めて現れる。その結果もまた、鈴仙の預かり知らぬことであるが、何と無く想像してしまうのだった。
そしてもう一つ――依姫が意識を取り戻したのだ。
ただ、依姫は言葉を話さなかった。目も虚ろで何を考えているか分からず、ただ日中床から庭を眺めて過ごしていた。
食事を差し出せば口にするし、身を起こして歩くこともできたが、すすんで何かを行うことはなかった。この状態から持ち直すことができるかも本人の問題であり、今の鈴仙にはどうすることもできなかった。
ただ、目覚めてから間もないうち、鈴仙が彼女の姉である豊姫のことについて依姫に尋ねたとき、明らかに悲しい表情を依姫はつくったのだ。
それが何を意味するのであれ、鈴仙になす術がない事に変わりはないのだった。
それでも、感情があるらしいことが分かったので、輝夜は時々依姫に声をかけた。今の依姫に対して、輝夜は暗い印象を持っていないようだった。
前よりよくなったのだから、これからもっと良くなることはあるだろう、と輝夜は考えているらしい。
だから鈴仙も、輝夜に習って依姫に声をかけるようにした。やはり元に戻って欲しいという考えが、あらゆる複雑な感情を押しのけたのだ。
庭へ、大きく開け放たれた依姫の寝室から、鈴仙は空を仰いだ。
朝方の空に、白々とした月が残されていた。
珍しく思った鈴仙は、何気無く依姫へ話しかけた。
「依姫様。こんな時分なのに、月がはっきり見えますよ」
――そして、その言葉に応えるように依姫が立ち上がった。
鈴仙は当然、驚いた。依姫はそんな鈴仙の側まで歩み寄り、腰を下ろした。
「――レイセン」
依姫が、話し始める。その、月を見つめる彼女の目には涙が浮かんでいる。
「私も、ここまで落ち延びてしまった。姉様も、救い出せずに」
鈴仙も、もう驚いてはいなかった。そして今なら、以前より気楽にかつての主人と話ができそうであった。
「きっと、全てが還ってくる時が来るはずです」
「とんだ、気休めね」
「違いますよ――そのために、私たちは望み続けていればいいんです。それで、心に従うままにいればいい――そう思います」
依姫は、涙を拭って鈴仙へと向き直った。彼女の目には、かつてあった精気が戻っていた。
「――レイセン、あなたはどこへ行こうとしているの?」
依姫が問いかける。鈴仙は空に消えゆく残月をふたたび見定めた。
「どこにも行きはしませんよ。わたしはずっと、ここにいるつもりです」
依姫は軽く頷いて、息をひとつ吐いてから部屋を出ていった。
鈴仙は結局、月が見えなくなるまで、そこで空を仰いでいた。