鈴仙の師匠が蒸発したのは、三月程前の事である。何の前触れもなく、忽然と、それこそ消えるように姿を消したのだった。
この失踪の特異な事は、人々の記憶から、彼女に関する記憶がぼかされて、或いは穴が開いたように消失したのだった。
鈴仙の記憶からも彼女は消えた。姿や名前すらも、靄がかかったように思い出すことができなかった。
彼女から学び、彼女を尊んだという、それらが記号となってのみ残っていた。
ただ一人、彼女や鈴仙の主であった、蓬莱山輝夜のみが、記憶の中に彼女の名を留めていた。
――八意永琳。それが消えた彼女の名であった。
それを聞いたとき、一片の実感も湧かなかったことに鈴仙は恐怖した。あまりに不可解だった。記憶の中に、巨大な空虚が生まれたことを、まざまざと知覚させられたのだった。
それが発覚してから、鈴仙以下永琳の下にいた者は皆、方々に手を尽くしているのだが、彼女の足跡は杳として掴むことはできなかった。
永琳の『存在』そのものが世界から、僅か断片のみを残し消失してしまったようだった。
「それでもね」
事件の概要を大方早苗に語ったところで、一息置いて鈴仙はふと呟くようにまた語り始めた。
「あの人が消えて、悲しいだとか、辛いだとか、そういう感慨は何一つ浮かばなかったんです」
「お師匠様との付き合いは、長かったのですか?」
「ええ。
「そのひとのことは、その―――好きでしたか?」
また少し、間が空く。鈴仙は困った様な顔をした。
「それすらも、もう。――尊敬はしていた、はずですが」
「そうですね。悲しいとも思えないのですよね。――立ち入った事を聞いてしまいました、本当に」
「構わないですよ。人に話せて、少しですが気が晴れました」
早苗は驚くほど真摯に、鈴仙の身の上話を聞いてくれたのだった。素直に、鈴仙は有難く思った。
「それより済みません、私ばかり話し倒してしまって」
「いや、寧ろ嬉しかったです。だって鈴仙さん、会った時からずっと浮かない顔をしてらしたもので――もしやと思い続けていたんです」
「そうでしたか。私、そんな顔を――」
鈴仙は丁度、咲夜と会ってからの自分を思い浮かべた。そんな顔をしていたのかもしれない、確かに、そう思えた。
「お気遣い、かけてしまったようですね」
「とんでもありません。私も相当に、厚かましかったと――」
ここで、早苗がふふっ、と笑ったのだった。どうしたのだろう。思い、鈴仙は尋ねる。
「どうしたというんです?」
「なんだか二人して遜ってばかりなので、可笑しくなりました」
「はあ、成る程」
鈴仙も釣られ、笑い出す。ここのところ可笑しくて笑ったことなど、久しく無かったものだと、鈴仙は思った。
「“お山”の方は、最近凄いですね。あんなに建物が沢山――」
気が軽くなった鈴仙は、話を早苗の近況へと移した。世間話をしようと思えるくらいに、鈴仙の心情は明るいものに変わっていた。
鈴仙が振った話題は、昨今著しい『近代化』が進む、『妖怪の山』と、その周辺の事であった。それは妖怪の山山頂にある、『守矢神社』の神体自らが主導となって、開発を進めているらしい。
その開発の先鋒に、彼の社の巫女がいる事は、鈴仙も耳にしていたのだった。
「初めの頃は、単に参拝者を増やすための試みに過ぎなかったんです」
守矢神社は元々“外の世界”にあったこと、人間たちの、科学技術の急速な進歩拡散によって、そこで思うような信仰が得られなくなったこと、そこで別天地で新たに信仰を集めるように考えたことを、早苗は話した。
守矢神社の祭神二柱は、最たる信望者であった早苗を伴って幻想郷を訪れた。
「私、あの人たちの言葉が幼いころから聞くことができたんです。それで“外”では鼻つまみ者で――別の世界に連れて行くと聞いた時はどんなに嬉しかったか――」
「信頼してたんですね、お互いに」
「少なくとも私は、二人が全てでした」
真に信頼のおける人物。鈴仙にはこれまで。そういった人物は存在しなかった。
永琳や輝夜に対しても、鈴仙は主従の関係以上とは、感じていなかった。永琳のことは矢張り思い出せないが、輝夜には憎たらしく思ったこともある。
輝夜も永琳も、『同じ人種』だ――そして永琳にも同じ感情を持っていたはずだと、鈴仙は思っている。
「というと、自分達を追いやった科学を使って、今では繁栄の一途をたどっているわけですね」
「あれ、皮肉ですか?」
「まさか。本当に感心しきりですよ」
彼女らが来てから、幻想郷の様子は劇的に変わった。道は整備され、何でできているか分からない、高層の建物が幾つもできた。
ただ、これで良いのか、このまま何もかも変わっていって良いものかという考えが鈴仙の頭に確かにあった。
そしてこの考えは、鈴仙だけのものでは無いであろうことも、また確かだった。
「そろそろ中に入りませんか」
暫く話し合った後、早苗が言った。日も傾いてきたようで、心なしか辺りも暗くなったようだった。
「私はまだ、もう少し」
「あっ――」
鈴仙が矢張り、先程傷心したものと思ったのか、早苗は言葉を詰まらせた。
「ここの空気が余りに気持ちよかったもので――気になさらないで下さい」
「なら、良いのですが――いずれ、あなたのところにもお邪魔したいものです」
「ええ、是非。歓迎しますよ」
「じゃあ、私は先に上がりますね」
鈴仙がうなづき、歩き始めた早苗がすぐ霧の中へ消える。はじめは胡散臭がっていたのにもかかわらず、もう鈴仙は彼女に馴染んでいた。鈴仙自身は、どちらかといえば自分は偏屈な性格だと思っていたのにも拘わらず、である。不思議なひとだったと思う。
大きく、息を吸う。
鬱血した気持ちは、もう心の隅に追いやられていた。
壁にもたれかかって、暫し取り留めのない思考を重ねた。半分ほど寝ているのかもしれないというくらい、薄く、雑多に鈴仙の思惟は流れていった。
ぼうっとしていた鈴仙の目が、霧の中に動くものの影を捉えた。人の様である。それは、鈴仙に気づき、近づいてきたようだった。
気づいてから間もなく、鈴仙の眼前に一人の少女が姿を現した。
羽、であろうか。色とりどりの結晶が少女の背に並んでいた。そしてこの館の主人と同じ、赤い瞳には無邪気な危うさがあった。
「お姉さまは、なおりそう?」
少女はそういって微笑んだ。鈴仙は言いようもない不気味さを、少女の姿から見出した。