だが、その鈴仙の欲求も、満たされることは叶わなかった。
また人影が、霧中に奔った。気づいたときにはもうすぐ傍まで来ていた。
この館についたときに会った門番であった。この悪天候のなか、特に臆することなく歩いてきたようであった。
門番はふたりの姿を確認して、安堵の表情を見せた。フランドールを探して、霧の中を歩いて来たらしい。
「お医者様、フラン様を捕まえてくれたんですね。よかったあ。――フラン様、勝手にふらふら出歩いちゃ駄目だって、言ったでしょう」
彼女はふたりが何をしていたのかには関心を持っていないようである。とにかく心底ほっとしているふうだった。
「美鈴てばおねえさまに怒られるの、そんなに怖い?」
「そりゃあもう――フラン様に何かあったら、取って食われたっておかしくないんですからね」
「あっ、そんなこといって――おねえさまに告げ口しちゃおうかな」
彼女――“美鈴”というらしい――はフランドールと実に何でもないように話していた。そもそもこの館にいるのだから別段変なことではないが、鈴仙には美鈴の平然としているのが、なんとなく不思議に思えた。
「お医者様もそろそろお上がりください。そろそろ晩餐ができる頃合いですよ」
美鈴がフランドールとの戯れを切り上げ、鈴仙に声をかけた。もう、それほどの時間がたっていたのか。霧のせいか、はたまた話相手のせいか、時間の感覚が曖昧になっていたのだ。
「ええ、分かりました。ありがとう」
「じゃあフラン様も、行きましょうね」
「待って」
フランドールが鈴仙に向き直った。その表情には不思議な清々しさがあった。
「あなたは、あなたの居場所を求めることが許される存在よ――あなたが望むのなら――」
その晩、鈴仙は空を見ようと部屋の窓を開けた。霧はまだ晴れていない。ただ、ぼんやりと月光が差すくらいには薄まっていた。
鈴仙と晩餐を共にしたのは早苗一人のみであった。食前に、咲夜が主人の同席ができないことへの断りを述べた。そして、他の同居人も姿を現さなかった。結局、やたら長い机の端にふたりのみが向かい合って座る形となった。傍から見ればかなり寂しいように映ったことだろう。鈴仙もなんだか落ち着かなかった。
早苗はやはり、終始楽しそうにしていた。食事が運ばれてくる前は、自分が館へ先に上がった後鈴仙はどうしていたのだとか、鈴仙の普段の食事風景などを色々聞いてきたのだった。そして鈴仙はそれらを極力隠すことなく話した。
ただフランドールへ感じた印象や、フランドールと語った内容は話さず、彼女と会ったことのみを述べた。
運ばれてきた料理は洋食で、鈴仙にはあまり馴染のないものだった。食べてみても美味いのだか、そうでないのかすらもよく分からなかった。早苗はさも美味そうに食べていたが、食後に軽く話してみたら、鈴仙と大して変わらぬ感想を持っていることが分かり、鈴仙は何となく拍子抜けしたものだった。
部屋に戻った鈴仙は、一気に気が抜けたようになってベッドに座り込んだ。脳裏に煩雑な感情の波が綯い交ぜになって駆け巡っていた。
なにより、フランドールのことである。短いやり取りであったが、確かな衝撃を鈴仙に与えたのだった。
――私にとっての、『自由』って、なんなのだろう。
鈴仙が見て、フランドールは『自由』ではなかった。“かつて”の鈴仙よりも遥かに――
鈴仙はこれまで、夜空を見ることを忌んできた。恐怖していたといってもよい。
だが、かつて自分が『自由』を求め、状況から逃げ出したことがふと思い出され、自分の過去についてふと鑑みる気になった。
そして彼女の意識は空に飛んで、大気の遥か向こうの月へと昇った。
鈴仙は元々“月”に生まれ、そして止んごと無い人物に愛玩されていた。それでも一見すると人並に扱われていたように思える。少なくとも奴隷のような非道ひどい仕打ちを受けたことはなかったし、ある程度の自由は与えられていた。
それでも鈴仙は、誰かに『所有されている』ことに耐えられなくなっていった。ある時鈴仙の自我は悲痛に叫んだのだった。
鈴仙の人間という存在への憧憬はここからきていることはまず間違いなかった。
鈴仙と同じ境遇の者はほかに大勢いたが、皆その隷属に対し疑問や不満を持っているふうには見えなかった。それは生きる上で変わることのない大前提であったのだ。
『人間』への隷属は当然である。鈴仙たちは“兎”――『畜生』なのだから。
だが、鈴仙には確固たる『自己』があった。やがて己のすべてが、自らを下等とせしめる境遇から逃れようと動き始めた。
そうしてある日、鈴仙は逃亡を図った。脱出の際の記憶はかなり断片的なものとなって、今となってはほとんど思い返すことができない。そのときの鈴仙は理性から解き放たれ、まさしく獣の如く遮二無二逃げていたのだった。地上に降り立って、空に月を仰いだとき、気づけば所所衣服は破れ、全身に生傷ができていた。
鈴仙はしばらく動けなかった。驚くほどの疲労感が全身に襲いかかってきた。
地に体を横たえ、しばらく夜空を見つめた。青草が一面に生い茂っていた。鳥が、どこかで鳴いている。風が木々を揺らし、鈴仙にも吹きつけてきた。万物が、あふれかえっている、そう思った。
不思議な感慨が鈴仙の心中に生まれる。逃げ切ったことによる昂揚感か、地上の見慣れぬ光景への戸惑いか、明確にはわからなかった。根拠のわからぬ興奮が四肢に駆け巡った。
天上の月は変わらず、いつまでも白く輝いていた。それを日が昇るまで、鈴仙はずっと眺めていた。その間、全くの無心であったが、日が昇って起き上ったとき、涙が一粒、双眸から流れていることに気が付いた。それも、何故の涙かはわからなかった。
日が昇ってからは方々を彷徨って数日が過ぎた。放浪の中、ある晩に竹林に迷い込みひとりの、自分と同じ“兎”に発見された。その竹林中の屋敷に連れられ、そのままそこに居座るようになった。
何かの導きであろうか、そこにはふたりの『月人』がいた。輝夜と――今では記憶が消失しているが――永琳である。月では汚らわしいとされていた地上へ、わざわざ降りてきた人物として鈴仙は初め親しみを覚えたが、輝夜がどうやらある種の“興味”によって来たらしいことが分かり、ひどく嫌悪感を催したのだった。
結局、自分を飼っていた連中と同じだと思えた。それでも、外に自分の居場所があるようには考えられなかった。
輝夜は、“人”としては底知れぬ度量と、優しさを持っていた。だが生来の、月人の性分は消えていないように鈴仙には見えていた。その輝夜にずっと随従していたという永琳もまた、そういう気質を持っていたようだった。わざわざ医師としての稼業を行っていたことも、それを示しているといえた。
それでも、どこか気に入らないという考えが、鈴仙の心中には消えずに残っている。
だがそれも、些細ともいえるありきたりな心情である。他人と生きていく上で生じる、必然的な確執であるといえた。
現在、鈴仙自身には大きな不自由は無かった。永琳が蒸発して、いささか多忙になりはした。しかし鈴仙自身も、周囲の記憶を消すことはできないにしても、どこかへ逃亡することもできなくないのである。
今の鈴仙はこの以上望むべくもない環境で日々を過ごしているはずなのだ。完全な自由など、あるはずもない。だから鈴仙には『居場所』があり、尚且つ『自由』であった。
それでも――
――私は、悩み続けなければ、ならないのか。
確かに、永琳に起きたこと同じように鈴仙へ降りかからないとは全く、言えないのであった。永琳の失踪が、鈴仙の存在自体が本来かなり曖昧なものであったことを、露呈させたのである。
だが、自分という存在がすべて消え去ったって、構わないだろうという考えも、鈴仙の中に存在していたのだった。鈴仙が束縛のない、新たな居場所を求めたのもある種の苦痛から逃れるためであり、もし自分が消え去ってしまえるのならば、そういう煩わしい心情からも逃れることができるだろうと思うのだった。
もっとも死んでしまえば、という考えは毛頭ない。死ぬのは何故か、怖ろしい。自ら命を絶とうとはとても思えないのだ。
――私はこれ以上、望むべきではない。望むべきことも、ない。
このままずっと、鈴仙の境遇は変わらないように思えた。今後悩ましい事柄が表出するとしても、現在思い及ぶことではない。
いくら考えても仕方がないと、鈴仙は再び内省するのみであった。過去の自分が間違っていたとは思えなかった。それでいい、と思った。
月華は相変わらず夜霧に煙って判然としない。鈴仙は窓を閉め、床に就いた。圧迫感はもう感じなかったが、妙に気は浮ついているようだった。