ほとんど日の出と共に鈴仙は目覚めた。窓の向こうに目を向けると、霧はだいぶ薄くなっているようで、歩くには不自由無いくらいに天候は好転している。
外がある程度明るくなるまで、ぼんやり天井を眺めていた。存外寝つきは悪くなかったらしい。意識がはっきりしていくにつれ、体中に清々とした気が満ちていくようだった。
そうして明るくなって、窓を開けた。吹き込んできた冷たい風が、寝起きの火照った体に滲みた。今日はどんな日になるだろうか。出窓に肘をつき、頭がある程度冴えるまで暫し外気に当たり、漠然と思考を巡らせた。
元々只の往診だったはずだ。しかしこの館での体験だけ、自分の日常から切り取られたかのような、特異なもののように思えた。これから今まで通りの日々に戻ることが、かえって不思議だった。
やがて、扉が叩かれた。メイドの一人が、朝食の用意ができたことを知らせに来たのだった。身支度を整えてから、メイドに連れられて食堂へ向かった。
食堂に着くまでの間、早苗が早々に館を出たことを聞いた。そういえば晩餐の時にそのようなことを聞いたような気がする。それをちょっと残念がる自分を鈴仙は発見し、内心ひとりで照れくさい気持ちになった。一方で、悪い気はしない、とも思った。
朝餉も洋食で、昨晩と同じくその良し悪しは分かりかねた。そもそもあまり食事を摂っている感じがしなかった。食事中にも、ここを出る前にレミリアに挨拶せねばなどとまた漠然と考えていたのだった。
食事を済ませて、傍にいたメイドに尋ねる。
「ご当主の体調がよろしいのであれば、お目通りしてからお暇しようと思うのですが」
あらかじめ示し合わせてあったのか、そのメイドは特に迷うことなく鈴仙を件の部屋へ誘った。
扉の前に立っても、もうそれ程恐縮することはなかった。メイドが室内へ声を掛けた。返ってきた声は、レミリア本人のものだった。
室内にいたのは、意外にもレミリア一人のみであった。鈴仙を連れてきたメイドも、間もなく退出した。
そして、そのレミリアは相変わらず床に伏したままである。
「やあ、もう帰っちゃうの?」
「少し、ご厄介になりすぎたくらいです。他の仕事も同僚達にまかせっきりになりますし。――力及ばないまま去ることを、申し訳なく思います」
「いいえ、仕方がないことよ。――わざわざ来ていただいて、この言い草もないものだけど」
心なしか、今朝のレミリアには覇気がないように感じられた。どこか、物憂げなように鈴仙には思えた。
反面、それも気のせいと思えた。彼女がまさか、と思うのだ。
「このわたしにも、最期のときが来てしまったのかもしれないわ」
そういうレミリアの容姿は、あまりに幼すぎた。そのうえ、本来死なぬとされている種族の娘である。どう考えても、死などとはおよそ無縁の存在に見えた。そういう意味で今のレミリアの言葉は、鈴仙にとって不可思議なものだった。
「――あなたの先生もね」
ふいにレミリアは言った。今度は、驚かなかった。
「もう、保たなくなったのかもしれないわ」
鈴仙は黙っている。
「わたしたちが、この『世界』に存在を許されなくなった――もしくは、この世界が
「それは――」
鈴仙にも、おぼろげながらに彼女の言うことがわかる。わかった気がした。
途方もないような連中が、何でもないようにそこかしこを闊歩している。そうだ、目の前の彼女なぞ、その良い例ではないか。
それらのひとりが、がちょっとでもその気を起こせばこの世界はあっという間に立ち行かなくなるだろう。現にいままでも、その均衡が崩れかけてたことは、何度かあったはずである。
だから、幻想郷そのものにある種、相当な『負荷』が今尚累積し続けているという考え方もできる。
しかし、幻想郷はそういう道理で通った世界とは、本来真逆の世界であるはずではなかったか。巨細に囚われるような、厳格な枠組みでこの場裏は為ってはいないだろう。
“堪えられなくなった”とか、そういう屑々とした理由でここでの日々が掻き消えるとは、心の底でどうしても納得できかねた。
ただ、この朦朧としつつも、どこか堅らかなこの世界の、その盤石が崩れ去るのではないかというそれこそぼんやりとした実感を鈴仙は持っていた。
「――わかる気もする。明らかに、でも『何が』とは言えないけれど、変わった。――変わりつつある。確かに、そう思う」
鈴仙の言葉に、レミリアはちょっと頷いた。頷いてから、遠くを見定めるかのように、何もない天井の一画を見上げた。
不思議な空気が、部屋に満ちていた。と言って、気圧されるような鋭い空気ではない。妙な感応が、ふたりの間に張り詰めていた。
「少なくとも、わたしはもう駄目ね」
目線を下ろして、レミリアはつぶやいた。鈴仙は、何も言わない。
「あなたは、為すがまま、したいようにしたらいいわ」
今度は、鈴仙に目を向けてきた。そういえば、先ほどまで張り詰めていた空気は、レミリアのつぶやきで失していたのだった。鈴仙はただ、なんとなく頷いてしまった。
館を辞してから、湖の岸をひとりゆく。いざ去ろうという時に、咲夜が見送りを申し出たが、断った。案内がなくても平然と帰ることができるくらいに、霧は薄くなっていた。
空一面を白雲が覆っている。風が、強い。湖面が盛んに波立っていた。
鈴仙の心に、これまでくすぶっていた蟠りは、ここに来てはっきりしたものとなっていた。――岸辺を歩きながら考えたことはそれについてだった。
特異な出会いが、来訪中に幾つかあった。そうして靄がかかっていたような心情が思いがけず、はっきりしたものになったのだった。無論、それらが解決したり、その見通しが立ったわけではないが、それでも鈴仙は心持ち楽な気分で帰路についていた。
もと来た駅に着いた。次の列車はいつだろうか。鈴仙は空を見上げた。太陽は出ているが、霧に遮られてぼんやりと見えた。特に感慨もなく、鈴仙はしばらく頭上を仰いでいた。
列車が到着して乗車した後は、これまでの日常へ急激に引き戻されるように、今後の多忙なことが頭の中を苛んだ。
いずれは押し寄せてくる事柄たちなので、今悩んでも詮ないのだが、こういうところ、鈴仙は神経質なのだった。
鈴仙としては、あの洋館を離れたことで夢から覚めたような心情だった。たったひとつ悩みが晴れようが、日々の中からまた違った悩みが、のべつ去来するのであった。
もっとも、それでも館を訪れる以前よりかは気楽になったように思える。
鈴仙がくよくよ考えているうちに、彼女が降車すべき駅へと到着していた。早い、と思った。どうも帰ってきたという実感がない。もちろん便利ではあるのだが。
そういえば、これも“お山の産業”の恩恵の一つである。早苗のことが思い出された。
彼女は、本当に来るつもりだったのだろうか。約束とは言い難い、曖昧なやり取りだったが、早苗なら誠実にもあの申し合わせ通りに訪ってくるかもしれない。
鈴仙は、少し楽しみにしている。早苗のことが気に入ったのか、誰かが訪ねてくるという日々の中の減り張りとして楽しみなのか、彼女自身判断しかねるのだった。
降車してからもしばらくは歩かねばならなかった。馴れない者が一たび入れば、再び出ることすらままならないような、物騒極まる竹林も立ちはだかっている。
うんざりしつつも立ち入る。ここに住まう限り、この鬱屈も日課みたいなものだった。
だが、何か騒がしい。
いつもは感じない、ざわめきが竹林の中を通り抜けた。鈴仙の歩調は自然と速くなった。
――この感覚、『知って』いる――?
世に言う「永遠亭」。鈴仙の住まいであり、仕事場でもある。彼女が帰ってきた時そこは、外から見ていても分かるくらい騒然としてた。
戸を開けると、同僚の“兎”たちが焦った様子でばたばたと走り回っていた。三和土に入ってきた鈴仙を一人が見かけて寄ってきた。土着の兎のうち、最も古参の因幡てゐであった。
鈴仙を発見した彼女は、苦い顔を作った。
「丁度良かったと――言うべきかな。それとも――」
「一体、何があったのよ」
てゐは、普段能天気そうな彼女らしくなく、悩ましげに鈴仙に告げた。
「あんたの、“元主人”が表で倒れていたのよ」
「――わたしの、元主人?」
愕然とした。どういうことなのだ。あのひとが、なぜ――
呆然と、鈴仙は屋敷の奥を覗いた。まだ明るい時分だったが、暗がりは深かった。