目が覚めると、1人だった。
父も、母もおらず、突然、世界に投げ出されたのだ。
ヒトの身であれば、5つ、6つといった外見であった。
幸いにも、その世界は太陽の降り注がない寒々しさとは逆に、
明らかな弱者である、少年にとても優しかった。
右も左もわからぬ少年に声を最初に声をかけた男性、その行動は全くの善意から。
ああ、可愛そうに、孤児なのか、記憶もないのか。
ではまず、お母様に面通しをしないとね。
そう言って、少年の手を引くと、お母様、マリアの元に連れて行き、
アーコロジーの住民登録、住居の選定、買い物の仕方など
生きていく上で必要なことを教えてくれた。
別段、その男性だけが善良だったわけではない。
その都市は永遠に溢れていた。
全ては時間の問題。
ゆえに弱者を搾取する必要などなく、
気ままに、怠惰に、あるがままに過ごせば良かった。
それが、ヴァンピーアにとって最も美観に沿う生き方だったのだ。
そして、少年はその後数年、ありきたりなヴァンピーアとして成長していった。
少年の外見が十を超える頃になると、それまでこまめに様子を見に来てくれた男性は、
もう大丈夫だね、これまでありがとう、そんな2人のやりとりを最後に、来なくなった。
ヴァンピーアの美観に反して、熱狂、流行と呼べたものがあるとすれば、
アーコロジーへの移住初期から続く、”魔女狩り”であろう。
そもそもの発端が何だったのかはよくわからない。
ただ、中心にいるのはそれなりに年長の男で、
魔女が知恵を独占している、だから、マギという特権階級が生まれる、
そんなことを声高に叫び、それに周囲が同調して、拡大していったそうだ。
加えて、それをお母様はお止めにならなかった。
結局、それが最後の一押しとなり、一度、正義を得た運動は、目的を果たすまで決して止まらない。
1人、2人、3人、4人、魔女の首が増えていき、
運動の開始から数百年、ついに、最後の魔女が捕まった。
それまで秘されていた処刑が公開される、そう告知されると、都市中のヴァンピーアが集まった。
広場の中央、断頭台に最後の魔女は縛り付けられていた。
永遠の命を得た、争いはなくなった、だというのに、
その所行は遙か中世まで逆行しているというのだから、愚かしい。
処刑刀を支える縄、それを切断するための斧を持った処刑人が歌い上げる。
血、血、血、血が欲しい。
それに呼応して、断頭台を中心に、歌声が伝搬していく。
血、血、血、血が欲しい。
中心の1人を皮切りに、その場に集まった億に上るヴァンピーアが、唱和する。
全ては時間の問題。
いや、しかし、唯一例外が存在する。
それは、マギの叡智。
これだけは、どれだけ時間を、金を、積もうが手に入らない。
脳を入れ替えたとて、どうにかなるものではない。
ならば、永遠が血で得られるなら、叡智もまた血で得られるに違いない。
科学が未発達であった頃の人魚の肉と原理は同じだ。
科学が魔術化したことで、魔女の血は、禁断の果実になった。
その場には件の少年も参列していた。
少年自身は、魔女の血に興味があったわけではない。
ただ、”家族”が行くなら、とその程度の認識でしかなかった。
そして、ついに処刑人が斧を振り上げた瞬間、世界が凍りついた。
それがいったい如何なる術理によって実現されたかは定かではない。
しかしその時、少年と最後の魔女を隔てていた数千に及ぶ人の列、
いや、そもそも。その2人以外の全てが消え去っていた。
「久しぶりだねぇ、坊や」
「……ひっ」
皺が寄って落ちくぼんだ目と、自分の目が合い、
2人しかいないというのに、左右を確認して、自分に声がかけられたと実感すると、
引きつるように悲鳴を上げる。
久しぶり?、知らない、知らない、怖い、怖い、怖いっ!!
「ひひっ。
そんなに怯えられたらぁ、傷つくじゃないかぁ」
「可愛い、可愛い甥っ子だってのにさぁ」
「そうさね、少し昔話をしてやろう」
性根の腐った笑い声を漏らしながら、最後の魔女は語り出した。
昔々、あるところに、将来を誓い合った一組の男女がおりました。
男は取り立ててすごいところもないホワイトカラー。
女は、見目が特別良い訳ではないけれど、笑ったときの笑窪が可愛い専業主婦。
挙式の予定も決まり、一足先に庭付きの一戸建ても用意していました。
愛しの我が家、その壁は、彼女の好きな淡いライムグリーンで塗られ、
犬好きな男性のため、庭には犬小屋まであつらえてあります。
ありきたりと言えばありきたり、しかし紛う事なき幸せの絶頂。
結婚まであと少し、恋人気分のデートと洒落込もう、
繁華街を歩いていた2人は、些細な不運にも、車に当たられてしまいました。
男性は軽い打ち身、しかし、女性はちょっと打ち所が悪かった、額が割れて出血多量。
とはいえ、それも些細なこと、頭の怪我で少し血が足りなくなっただけ。
輸血で事足りる話で、頭の傷も、挙式までに完治とは行かないが、髪で隠せる程度でした
お見舞いに来たプランナーは言いました。
これは不運の前払い。ここから先は、”薔薇色未来が待っている”。
2人は、ありがとう、きっとそう、感謝と同意を並べます。
それからはこともなく、退院の日は、2人の門出を祝うような満点の快晴。
太陽降り注ぐ中を、仲良く手を繋いで、愛しの我が家に帰りました。
ああ、残念、全年齢なら、めでたしめでたしで終わりさね。
一週間くらいかね、お預け食らった2人は、寝る間も忘れて、貪り合うのは当然だろう。
そうして、愛してる、なんて睦言交わして、お休み、また明日、そう言って床につく。
次の日、昼過ぎまで寝こけてた男の目覚ましは、他でもない女の悲鳴。
何事かと寝ぼけた目を擦りながら、声のした化粧室に向かう。
ノブを回そうとした瞬間、中から鍵が掛けられたではないか。
開けないでっ!! 動転した様子で、女はまた悲鳴を上げる。
扉一枚隔てて、開けて、開けないの押し問答。
大丈夫、大丈夫、あの日、不幸の前払いは済ませてある。
だから、どうかこの戸を開けて。
そう言う男に説得され、震える指で女は鍵を外す。
泣きそうな顔、それでも精一杯の笑顔で”笑いながら”、男を見つめる女。
彼女の笑顔を彩る、男が大好きな彼女の”笑窪は赤黒い腫瘍で膨らんでいた”。
何が起きても、彼女が急に老いていようが、髪が諸共抜け落ちていようが、
大丈夫、愛している、そう答えらる準備があった。
しかし、その"腐った薔薇色”に男は心臓を掴まれ、二の句を告げなかった。
平凡な男、失敗はいくらでもあった、でも、生涯最も取り返しのつかないそれはまさしくこの瞬間だ。
男の反応を見た女は、一瞬、表情が抜け落ちると、
一転、男に縋り付いて悲鳴を上げながら泣きはじめた。
女に縋り付かれた衝撃で我に返るが、それから数分、数時間、
男は力なく、壊れた機械みたいに、大丈夫、大丈夫と繰り返すことしかできなかった。
不運の前払い? 一度躓いたら最後、転げ落ちるに決まっているだろうに。
そこからは坂道を転がり落ちるよう。
事故で入院した病院へ車で向かうと、受付で用件を伺う看護師は彼女の頬見るやいなや、
そこを動かないでっ! そう絶叫すると、奥に消えていく。
人でごった返す大病院、その人混みをかき分けて、駆け足で現れる十人前後の医者と看護師。
そして、彼女は隔離された。
話は単純、一週間ほど前、不死血清が1つ、行方不明になっていた。
受付の看護師は、彼女の頬、その赤黒い腫瘍を見て、事態に感づいた、そういうことだ。
隔離された彼女は別室に、その大病院の院長、当時施術を行った医師を始めとして、
数え切れない人間が、男に頭を下げてくる。
土下座とか、いいから。
金がいるならいくらでも払うから。
挙式もキャンセルする、家も売りに出す。
一生、死ぬまで、働く。腎臓でも何でも持って行ってくれてかまわない。
だから、彼女を、助けて。
助けてくれよっ!!!
助けて、申し訳ない、そんな意味の通らない押し問答、ついに男は過呼吸を起こして倒れる。
そして、意識を取り戻した男が望んだのは、隔離を要する彼女と、愛しの我が家に戻ることだった。
周囲を病院関係者に厳戒態勢で囲まれる、愛しの我が家。
和気を感じるはずの淡いライムグリーンもどこか寒々しい。
永久腫瘍は伝染する。
それにもかまわず、男は女との生活を再開した。
しかし、一度鎌首をもたげた死神は決して立ち去らない。
まずは目に転移し、失明した。
次に耳が、口が、と触覚を残して、感覚がなくなる。
手足に転移してからは、男の役割は旦那ではなく介護になる。
ああ、でも、それでもまだまし。本当の地獄はこれからだ。
腫瘍は次第に表皮全体へ転移していき、もはや外見は赤黒い肉塊。
辛うじて続けていた、筆談からは、彼女の意識が退化していることさえ窺える始末。
それでも、男は愛した女を一寸の迷いもなく抱きしめる。
誰がなんと言おうが、これは逢瀬だ。
例え彼女が、人語を介さぬ肉塊に成り下がろうとも、そう男は信じていた、殉ずる意思があった。
最後の日はあっけなく訪れた。
男がほんの少し目を離した隙に、彼女は、自分の心臓を脳を果物ナイフで滅多刺しにして、自殺した。
それでも腫瘍が蠢いているのは、未だ彼女の意識が残っているという他ならぬ証拠だ。
そして、血塗られた睦言。
ありがとう
あいしている
さ わ ら な い で
最後の1つを見た瞬間、男の絶叫が響き渡る。
言葉にならない嗚咽を漏らしながら、彼女の最後の意思に反して、
強く、強く、抱きしめた。
日が落ちる頃になると、ライムグリーンに塗られたその家から、煙が立ち上り始めた。
鳴り響くサイレンを背に、幽鬼のごとく歩く男、その男の手は赤黒く腫れ爛れていた。
さあ、もうお分かりだろう?
彼こそ、腐った紅薔薇(クルースニク)!!
復讐鬼、ヴァンパイアハンター、大戦の引き金を引いた悪魔。
恨んでいるんだよ、永遠を!!
憎んでいるんだよ、永遠を!!
そして――、まあこれはおいおい、再開の日に答え合わせといこうかね。
これは、古い古ーい、数百年前の昔話、教訓なんてないよ。
ただの、ありのままの事実だ。
「さて時間もない、本題に戻ろうかね」
魔女は昔話で少年を一頻り怯えさせると満足したように続けてくる。
「今日この場を用意したのは、
他でもないあんたに祝福を授けるためさね」
「最後の魔女なんて恐れ多い、あたしはただの前座さぁ。
とはいえ、役目は果たさないと、先に進まない」
「一つ、預かり物を返そうか。
あんたの名前はストライフ、”生き急ぎ”のストライフだ」
「二つ、あんたは変わり種だ。
そのままじゃきっと後悔する、だから、時計を一つ」
「最後に、禁断の果実を」
そう言って、最後の魔女は、三日月みたいな笑いを浮かべて
「人間は、」
凍結した世界が、再び動き出す。
死ぬ。
跳ねる魔女の首。飛び散る血しぶき。狂ったように乾杯を告げる”ヴラト”。
そして、世界は暗転した。