カワラナイモノ   作:紅卵 由己

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 寒い。

 目が覚めた時、青年が最初に感じた感覚はそれだった。

 明滅する意識の中、両手は後ろに回され手首を何かで縛り付けられていて、いつの間にか上着を脱がされているという事実に気付く。

 体は、いつの間にか人間のそれに戻っていた。

 立ち上がり、動こうとすると、首に圧迫を感じ、苦しくなる。

 両手だけではなく、首もまた何かに縛られているらしい。

 視界が霞む中、状況を確認しようと眼を凝らして見るが、見えたものは木製の扉と白い壁ぐらいで、正面の方向には今の青年に場所を特定出来るようなものは無く。

 何かの臭いが充満していて、あまり心地良くは無いと思った。

 ここは何処だ。

 そう思い、今度は周りを見回してみるが、見つかったものは何かに使われていたのであろう白い色のボールが入った鉄の籠や、山のような形に積み上げられた木製の器具などぐらいで、最低限理解出来たのはこの場所が『倉庫』であるという事実ぐらいだった。

 相変わらずといった調子で頭の中で雑音が響き、脳が何かの記憶を呼び起こそうとしたが、やはり明確なものとして思い出す事は出来ない。

 

「…………」

 

 どうやら、この『倉庫』の中には現在青年以外に誰もいないらしい。

 薄暗く、狭く、寒く、臭く。

 とにかく孤独で、とにかく不快で、とにかく辛さを感じさせてくる空間に一人、閉じ込められている。

 どうやら、自分は捕まってしまったらしい――と不思議なほど冷静に状況を認識する。

 頭の中に、黒いサングラスをかけた金属質の猿人間の姿が呼び起こされる。

 

 思えば、あの男は自分を捕らえて何をするつもりなのだろうか。

 実の所、青年はあくまでも『人間』であろうとした自分に対してサングラスの男が何をするつもりのか、まったく予想出来ずにいた。

 ただ、捕まれば何か好ましくない事を強制されると思い、危機感を覚えた。

 未明で不明のそれから逃れようとして、失敗した。

 だから今、自分はこの『倉庫』に閉じ込められている。

 解っているのは、それだけだった。

 頭の中に、この状況を生み出した張本人の言葉が呼び起こされる。

 

 ――いいや放ってはおけないな。人間を超えた存在として義務を果たそうともせず、意味も無く人間の暮らしに戻ろうと足掻いてるだけだなんて。

 

(……くそっ)

 

 心の中を抉ってくるような言葉だった。

 今までの自分の生き方を否定するような言葉だった。

 あんな言葉に一言も反論出来なかった自分に腹が立ってくる。

 

「……くそっ……!!」

 

 認めるしか無かった。

 あのサングラスの男は、自分よりも遥かに強い。

 戦う前から、青年には勝ち目があると思うことすら出来なかった。

 怪物としての自分を受け入れている者と、怪物としての自分を拒み続ける者――その強弱を、ハッキリと示されてしまった。

 つい先日に鬼人と出会うまで、ずっと一人で生き延びてきた自分の努力が否定される気分だった。

 

 実際問題、青年自身あの男に言われるまでも無く疑問を抱いた事はあった。

 人間であり続けようと、人間として足掻いていこうと、怪物としての自分を否定し続ける今の生き方に果たして意味はあるのだろうか、と。

 その疑問が浮かぶ度に、きっとそれは大切な物を守っているのだと、失ってはいけないものを失わないようにしているのだと、何か意味がある行為なのだと自分自身に信じ込ませてきた。

 その柱を、折られた。

 人間としての自分は無意味なものだと、否定された。

 それが、どうしようも無く悔しかった。

 だけど、どれだけ憤ってみても、今の状況を打破する力には繋がらない。

 後ろに回された両手は何かに縛られていて、何より首を輪の形の縄か何かに縛られているおかげで身動きは取れない。

 怪物の姿に変わる事が出来れば話は早いのかもしれないが、その行為自体がサングラスの男の言葉を肯定してしまうようで、変わる事そのものに対して心が受け入れられなくなっている。

 

 そうこうしている内に、腹が減った。

 何かを食べたいという衝動が胸の内に生まれる。

 思えば、気を失ったままどれだけの時間が経ったのだろう。

 倉庫内には正面の扉や上の方に窓が付いているようだが、そこから差し込む光の量は乏しく、今が昼間なのか夕方なのかあるいは夜中なのか――確かな認識が得られない。

 いつまでこの状態が続くのだろうか。

 一緒に来ていた鬼人は無事なのだろうか。

 不安が不安を呼び、焦燥に駈られていると、突然正面の扉から異音が聞こえた。

 扉が開き、向こう側から誰かが倉庫内に入って来る。

 片方は図書室で顔を見た覚えのある男だったが、もう片方は全く見覚えが無い幼き女の子だった。

 男は青年の姿を見るや女の子の手を引き、まるで物を捨てるような調子で青年の前に放り出す。

 そして、素っ気無く言った。

 

「食事だ」

「……ッ!!?」

 

 ゾッとする意味を含んだ言葉だった。

 驚愕に言葉に詰まり、反論を口にする前に男は扉を閉めてしまう。

 ガチャリ、と鍵が閉まる音が遅れて聞こえる。

 後には少女と青年だけが残され、その場には冷たき静寂が訪れる。

 

「…………」

 

 青年は、しばらくの間喋る事を忘れてしまっていた。

 それほどまでに、扉を開けた男の行動と言葉は青年の心に衝撃を与えていた。

 食にありつける何処かへ案内するのでもなく、何らかの食料を置いていくのでもなく、ただ一人の女の子――恐らく『怪物』としての側面を持たない普通の人間――を『倉庫』の中に置き去りにした『だけ』である以上、男が告げた言葉――恐らくはあのサングラスの男の命令――の意味は明白だ。

 

 ――その()()を、食べろ。

 ――お前は人間ではなく怪物なのだから、それで腹は満たせるだろう?

 

 ……どこまでの化け物になれば、こんな事を思いつくのだろうかと青年はただ思う。

 この場に食料は無く、そもそも手が後ろで縛られている時点で、傍に食料があったとしても食料を手に取って食べるという当たり前の工程をなぞる事は出来ない。 

 精々可能な事があるとすれば、首に伝わる圧迫に耐えて床に落ちた何かを舐め取れるかどうかといった所だ。

 

 ――そう、人間の姿のままであれば。

 

 怪物の姿になれば、首や後ろに回された手を縛るものを引き千切る事が出来るだろう。

 怪物の力を使えば、目の前で閉ざされた扉をその力で破り脱出を試みる事も出来るだろう。

 怪物の体であれば、人間の姿では到底食べられない食物も噛み砕き飲み込む事が出来るだろう。

 

 ……それがサングラスの男の狙いなのだろう、と青年は推理した。

 これは、生き物が当たり前に持つ欲求を利用したチキンレースのようなものだと。

 空腹になれば、誰だって食べ物を求めるだろう。

 到底食べられない物、食べれば体を壊す物であっても、口に入れて胃袋を満たそうとするだろう。

 人間としての記憶を失い、怪物だらけの世界で一人目覚めてから――他ならぬ青年がそうして生きてきたのだから。

 もしも、空腹を意思で我慢し切れなくなり、怪物の姿に成ってしまったら――その時、正気を保ち続けていられる自信が無い。

 仮に、そうして目の前に見える少女の五体を食欲と狂気によって食い散らかしてしまったら――きっと、もう『人間』であろうと足掻き続けていた青年の心は二度と修復出来なくなってしまうほどに壊れてしまう。

 後には口元を赤い血で染め、人間の心を限り無く失い、救いようの無い狂気に浸った怪物だけが残るのだろう。

 生きるためだと言い訳をしたとしても、この一線だけは決定的だ。

 あのサングラスの男は、青年に怪物としての『自覚』を持たせるため――たったそれ一つだけのために、一人の少女を生け贄に捧げたのだ。

 

(……どうすれば……)

 

 怒りよりも先に、恐れが心に染み入る。

 いっそ餓死してしまえるのなら、そうしてしまいたい。

 怪物ならまだしも、明らかに普通の人間にしか見えない女の子を食らう事など、死んでも許容出来ない。

 目の前の、食料として捨てられた少女が力なく起き上がる。

 本当に怪物として食べさせる事を前提としているためか、下着以外に着ているものは見当たらなかった。

 過去に誰か――恐らくはサングラスの男本人かその仲間――に虐待されていたのか、体には点々と青痣が浮かんでいる。

 拘束された青年を見るその瞳に、光は無かった。

 どんな言葉を掛けてやればいいのか、そもそも少女がこの場に放り捨てられた原因とも呼べる自分にそんな資格があるのか――青年は迷った。

 互いに発する言葉も無いまま、ただただ時間が経過する。

 食に飢え、満たされない感覚に心を灼いて、どれだけ時計の針は進んだか。

 やがて、自らの中に芽生えつつある衝動から逃れるように、青年は少女に口を開いた。

 

「……ごめん……」

「…………」

 

 少女は口を開かない。

 だから、青年の言葉だけが続く。

 

「……俺の所為で、こんな事になって。君は何も悪くないのに、こんな狭い場所で化け物と一緒にされるなんて」

 

 言葉を吐き出す度に、目から雫が零れた。

 そんな資格は無いと解っていても、止められなかった。

 

「……俺は、きっといつか我慢出来ずに君の事を食べてしまう。そうならないためには、もう俺が死ぬしか方法は無いと思う。だけど、俺にはもう自分で自分の舌を噛み切れるだけの力も残ってない。度胸も無い。そもそも噛み切ったとしても生き続けてしまうかもしれない。だから……」

 

 もう、心が折れかけていた。

 だから、こんな事を口走ってしまった。

 

「……俺を、君が殺すしか無い。俺が君を食い殺す前に。どんな方法を使ってもいい。身勝手な願いだってのは解っている。だけど、それでもお願いだ。俺に、俺に……人殺しをさせないでくれ」

 

 我ながら、最低な願い事だと思った。

 加害者でありながら、被害者に自分の願いを押し付けている事が。

 小さく幼い女の子に、殺しの業を背負わせようとしている自分自身の身勝手さが。

 自分の言葉を、少女がどれだけ理解出来たのか青年には解らない。

 届かなかったとしても、仕方が無いとさえ思える。

 だが、濁った瞳で青年の顔を見つける幼き少女は、青年に向かってこう言った。

 

「……やだ」

 

 否定の言葉を。

 仕方が無い事だと思いながらも、青年は疑問の声を漏らした。

 

「……何で?」

「……だって、お兄ちゃん悲しそう」

「……ああ」

「……そんなお兄ちゃんを、傷つけたくない」

「……でも、そうしないと君が死ぬ」

「……それでも、やだ」

 

 少女の言葉は、殆ど駄々を捏ねるような声だった。

 きっと、この少女は青年がどんなに自分を殺すよう訴えても同じ言葉で断り続けるだろう、と思った。

 お兄ちゃん、という呼び方が胸の内に覚えの無い暖かさを抱かせるようで、とても厳しい言葉で強制させようなどとは考えられなかった。

 だが、それでも、少女の命を守るためにはこうするしか無い――そう思い、青年は心を鬼にして卑怯な言葉を吐き出してしまう。

 

「……君には、お父さんやお母さん……家族がいるんじゃないのか。君が死んだら、きっと悲しむぞ」

 

 知らない顔の誰かの笑顔を、人質にした。

 自分がその温もりの温度を覚えていない事をいい事に。

 会ったばかりでも、この少女が優しい性格をしている事は理解出来た。

 だがそれでも、こう訴えかければ、たった今顔を知った誰かの生より、ずっと前から顔を知る育ての親の笑顔を優先するはずだ。

 そう思っての言葉だった。

 そして、少女の返事はこうだった。

 

「……いないの」

「……え」

「……お母さんもお父さんも、いないの。何処にいるのか、わからないの」

 

 青年は絶句した。

 その回答を、全く想像していなかった。

 今のこの世界が弱肉強食の理論に支配されている事を、知りながら。

 こんな場所に、奴隷以下の扱いを受けて放り出された少女の境遇を、察する事が出来なかった。

 

「……お兄ちゃんじゃないお兄ちゃんも、いないの。みんな、わたしのことを置いて何処かへ行っちゃったの」

 

 少女の言葉は涙声だった。

 きっと、少女の中ではもう会えないものだと認識されているのだろう。

 最初は希望を持っていたのかもしれないが、そんな心もきっと何処かで折れてしまった。

 本当は何処かで生き延びているかもしれなくとも、かもしれないとしか言えない曖昧な可能性を信じられなくなった。

 

「もう、やだよ」

 

 故に。

 直後の言葉に、名前も知らない少女の願いが詰まっているように思えた。

 

「……もう、痛くなるようなのは、やだよ……」

 

 それは、所々に青痣が出来るほどに痛め付けられた体の事か。

 それとも、家族と離れ離れになってしまい孤独に苛まれた心の事か。

 あるいは、その両方か。

 

(……くっ……)

 

 ここに来て、青年は少女の命だけではなく心までも救いたいと思ってしまった。

 そう思ってしまうほどの言葉を、胸の奥に叩き付けられてしまった。

 だが、この状況を打開するには難しい問題が確かに存在する。

 

 第一に、まず青年が自由に動けるようにならねばならない事。

 第二に、逃げ切る前に脱出がバレてしまった場合、最悪あのサングラスの男と戦う事になってしまう事。

 第三に 仮に脱出が成功したとして、その後少女と共に何処へ逃げれば確かな『安心』を得られるのか、全くと言ってもいいレベルで解らない事。

 第一の問題からして、青年が怪物化した際に自らの衝動を抑え切れるかどうかという賭けの話が混じっている。

 第二の問題にしても、目の前の扉の向こうにサングラスの男の仲間が見張り役として立っていた場合、不穏な動きはすぐにでも感付かれてしまう。

 そして第三の問題――これが一番の問題とも言えた。

 この『縄張り』における普通の人間の扱いがどんなものであるか詳しくは知らないが、案内をしてくれた女性の言い分からしても目の前の少女の非道な待遇からしても、怪物の脅威からは『安全』であっても人としての自由や尊厳は守られていない事は想像に難くない。

 であれば、人の集いに戻っただけでは意味が無い。

 何処か遠く、最低でも『縄張り』の外にまでは行かなければならない。

 だが、その場合も危険は付きまとう。

 

 

 サングラスの男の『縄張り』の外では、道中確実に野生の怪物の襲撃に遇う。

 危険に晒されるのが青年一人ならまだしも、無力な少女一人を庇いながら戦えるのかどうか、自信が無い。

 食料だって、自分だけではなく少女の分も必要になる。

 鬼人ほど大食らいではないだろうが、何より少女は普通の人間――青年ほど体が頑丈ではなく、下手に大きく消費期限切れを起こした食料を食べたりしたら体調を崩してしまうだろう。

 今でさえ衰弱しているように見える状態で、それは致命的と言っていい。

 これまで集めてきた食料を入れたリュックサックは間違い無く接収されているだろうし、何処に持って行かれたのかも解らない状態でのうのうと探索していては確実に脱走に失敗する。

 それでは本末転倒だ。

 

 もっと善良な性格の『同類』が管理している『縄張り』に辿り着ければそれが最善かもしれないが、そんなものが都合良く見つかる可能性を青年には信じられない。

 この『縄張り』に辿り着くまでが、そもそも長く険しい旅だった。

 それと同じ工程を、今度は誰かを守りながら歩む――途方も無い話だ。

 仮に新たな『縄張り』に辿り着いたとして、此処のように普通の人間が虐げられるような場所ではないという保障は無い。

 希望が見えない。

 いっそ屈服して願い媚びてしまった方が確実かもしれないが、あのサングラスの男が青年の嘆願によって大人しく少女の死が前提となった方針を取り下げてくれるような心性を持ち合わせているとは思えない。

 それ以外にも頭の中で必死に少女の体も心も死なずに済む方法を模索してみたが、やはり確実性のある答えは想像すら出来なかった。

 そうして、無駄な時間だけが刻々と過ぎていく。

 

 ふと、同行していた鬼人の事が頭を過ぎった。

 青年はこうして捕らえられたが、それはサングラスの男の意思に反する人間としての思想を持っていたからだった。

 だが、鬼人は確か自信が怪物と化した事について青年とは異なり幸運だったと口にしていたはずだ。

 サングラスの男ほど苛烈ではなかったが、怪物の体に特に不快感を抱いているようには見えなかった。

 青年が気を失った後、どのように扱われたのか――そして、扱いに対して鬼人自身はどう立ち回ったのか……気懸かりではあった。

 どうにか無事でいてほしい――そう思う程度には、情が寄っていた。

 

 正直な所、あの鬼人の思想はよくわからない。

 聞いた言動の大半は適当で、深く物事を考えてるようにはとても見えなかった。

 その態度に腹が立った覚えもある。

 だが今となっては、あの能天気さが逆に羨ましかった。

 怪物としての力を忌避したりせず、さながらただの武器か道具として受け入れているように見えた、あの在り方が。

 

(……何で、あいつは怪物の力を受け入れられたんだろうな……)

 

 浮かんだ疑問にも答えは出ない。

 そもそも、答えが出たとして今の状況がどうにかなるものとは思えない。

 救いなど無い。助けなど来ない。そんな希望など存在しない。

 これ以上思考したとしても、最早蛇足以外の何物にもならない。

 それが現実だった。

 心をすり減らしながら、いつしかそう達観しようとしていた。

 つもりだった。

 なのに。

 

 ゴシャァアアアアッ!! と。

 突如、目の前の扉が外側からの力に圧される形で折れて倒れてきた。

 その音に、青年と少女が同時に扉のあった方を向く。

 暗がりで姿を視認しづらいが、その輪郭を青年は覚えていた。

 鬼人だ。

 

「よーっす、助けに来たぞー」

「……お前、何で……?」

 

 相変わらずの適当な調子の言葉に、思わずといった調子で疑問の声が漏れた。

 だって、今の青年を助けるという事は、あのサングラスの男の意向に明確に逆らうという事だ。

 青年と同じく、険しい道なりを歩き続け、ようやく辿り着いた人間と『同類』の集う『縄張り』から、自ら離反するという事だ。

 目に見えた危険を冒してまで、鬼人には青年を助けなければならない理由など無いはずなのに……。

 鬼人はこう答えた。

 

「何でって、俺はお前に一度助けられてるんだぞ? 結果的にだが。食料だって分けてもらったし、貸し借りの話になればどう考えても俺の方がお前に借りを作っちまってる。むしろ、ここまで助けに来るのが遅れちまって悪かったってぐらいだ」

「……たった、それだけの理由でか……?」

「ついでに、あいつ等の事が気に入らなかった。あんなのと一緒になんていられねぇよ……」

 

 声色が、初めて苛立ちの篭ったものに変わっていた。

 今この時に至るまでの間に、何かがあったのかもしれない。

 鬼人は青年の後ろに回り、両手を縛る何か――縄のようなものを解きながら、

 

「そんな事より、さっさと行くぞ。ちょいと派手に音を出しちまったからな。その内連中は俺達を捕まえに来るはずだ」

「……逃げて、何処に行くんだ? 行く宛があるのか?」

「無い」

「なっ」

 

 キッパリと言われて、元々『逃走後』に希望を想像出来ていなかった青年でさえ思わず声を詰まらせる。

 しかも、鬼人は直後にこう告げた。

 

「そもそも、逃げ切れないと思うしな。監視の目だってあるし、見逃してでもくれない限りは。単純に走って逃げるだけじゃいつか追い着かれる。お前も俺も、速さに特別長けているわけじゃねぇし……その女の子を抱えながらってなると、尚更な」

「おい待て。逃げられる見込みが無いのなら何で助けた!? これじゃ、ただ状況が悪化しただけじゃ……!!」

 

 これでは今この場で助けられたとしても、すぐに捕まってしまう。

 それでは全くと言っていいほどに意味が無い。

 ただ鬼人の立場を悪くするだけだ。

 しかし、直後に鬼人は呆れたような調子でこう言った。

 

「だから、逃げずに勝つ方針にすればいいだけの話だろうが」

「……おい、まさか」

 

 嫌な予感がした。

 そして、予想通りの答えがやってくる。

 

「戦って勝つ。誰より優先してあのグラサン猿男をぶちのめす。それ以外に活路は無いって、お前も解ってたんじゃないか?」

「…………」

 

 それは、青年自身考えもしていなかった解決方法だった。

 この状況に至るまでの過程から、不可能だと決め付け思考すらしなかった話。

 その解に対して、青年は苛立ちを込めてこう返した。

 

「……それが出来るのなら、そもそもここで捕らわれていない」

「かもな」

「勝てる気がしなかった。俺があいつの怪物としての姿を見た時、その時点で俺には打ち勝てると信じる事すら出来なかったんだ。きっと、奴はまったく本気なんて出していない。手加減した状態でさえ、歯が立たないんだぞ。そんな相手にどうすれば勝てるっていうんだ」

「知らん」

 

 無責任な言葉に、青年の頭に血が昇りそうになる。

 だが、鬼人は更に言葉を紡いだ。

 

「そもそも、お前は勝ち目があると思ったから戦うのか? 俺が骨の竜と戦っていたあの時も、勝ち目があると思ったから首を突っ込んで来たのか?」

「……それは」

「逃げるって選択だってあっただろ。実際逃げてたら『ミサイル』で狙われてお陀仏って可能性もあったが、そうとも知らずにお前は自分から言っていたぞ。死なれたら困るから勝手に助力させてもらうってな。……なぁ、そもそも何で死なれたら困ると思ったんだ? 俺が持ってる情報とやらは命と等価値だったのか?」

「…………」

 

 その問いに、青年は答えられなかった。

 思えば、あの時の自分の行動は自分自身不思議に思った所もある。

 単純な利益だけでは説明出来ない、何かの衝動に従う形で行動していたような気がする。

 その答えを、鬼人はあっさりと口にする。

 

「多分だが、お前は単純にアレじゃないのか? 危険な目に遭ってる奴を見かけたら、身の危険を承知の上でも助ける事を優先するタイプ。お前、度を越えたお人好しタイプなんだろうよ」

「……俺が、そんなやつに見えたのか」

「そう見えた。っつーか、結局骨の竜と戦う流れに乗っかって、途中で俺がヤツに捕まった時だってトドメを刺す事より助ける事を優先してたじゃねぇか。自覚が無いのならもう病気のレベルだとしか思えねぇ」

「…………」

 

 さも当然のように語られて、青年はふと反論する事さえ忘れていた。

 その間に鬼人は青年の首元を縛る『何か』を解き、拘束状態から開放する。

 そして、改めて質問を放ってきた。

 

「一つだけ答えろ。お前はその子を助けたいのか。それとも見捨てるのか」

「…………」

「可能か不可能かは聞かねぇ。ただお前がどうしたいのかをハッキリ言ってみろ」

 

 シンプルな問いだった。

 とてもシンプルな問いだった。

 こんな事は深く考える必要も無いと言わんばかりの調子で放たれた言葉は、だからこそ柔らかいオブラートなどには包まれておらず、剥き出しの鋭さでもって青年の心に突き刺さった。

 青年は、少しの間黙っていた。

 救助を感付かれ追っ手を差し向けられるまでの時間が迫る中、鬼人は返答をただ待った。

 そして、やがて青年はこう返した。

 

「その子を助けたい。どんな手を使ってでもだ」

「いい返事だ」

 

 その回答に満足したのか、鬼人はあからさまに笑みの表情を浮かべた。

 青年自身、もう状況がこう動いてしまっては流れに乗るしか無い――そう諦める思考も確かにあった。

 だが、助けたいと思う心情は紛れも無く本物だ。

 そのためなら、忌避する怪物の力を使ってでも戦う事を選択する。

 サングラスの男は自分に宿った怪物の力を支配のために使い、それ自体を当然の義務だとさえ言っていたが、元々勝手に押し付けられたも当然の力――自分に宿った力の使い方は、自分で勝手に決める。

 今までは、あくまでも生き延びるための手段として扱ってきた。

 だが、少なくとも今この状況においては一人の少女を助けるためにこの力を使うと、そう決めた。

 最低限少女の体が冷えぬよう、雑に捨て置かれている自らの(元々破損はしていた)制服で少女の体を包むと、青年は鬼人に向けてこう告げる。

 

「……今から『変わる』が、もし狂ってしまったらお前が止めてくれ」

「任せろ。壊れたテレビみたいに殴り付けてすぐ戻してやる」

 

 青年の体が、鬼人と少女の前で変わっていく。

 夜の闇を纏うような暗い色の獅子の獣人が、人の殻を脱ぎ捨てて現れる。

 幸いにも、自我は繋ぎ止めることが出来たらしい――獅子の獣人と化した青年は、鬼人に向けて問う。

 

「で、流石に何の策も無いってわけじゃないだろうな」

「策って言い張れるようなものでも無いけどな」

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