国王陛下付従者の一日の始まりは早い……はずなのだが、どうにもウチの陛下、朝が苦手なので従者である俺もそれほど早起きの必要はない。ちなみに従者は俺だけでなく、数名存在するが俺が一番出仕年数が短いので陛下の毎朝の身支度は俺の役回りになっている……押し付けられているわけではない、と思いたい……従者長から「若いんだ、体力あるだろ」とは言われたが。
実は以前、陛下に直接「専属侍女を雇ったらいかがですか?」と進言してみたところ、なぜか「うえぇ」という意味不明の声だけでなかったことにされた。
ウチの陛下はまだ二十代で独身だから身近に女性を置くとなると色々大変なんだろうな、とその時は勝手に解釈したが今ならその真意を理解している。
王城の中でも最奥にある陛下の私室へ向かいながら今日もベッドから起こすまでかなりの時間と体力を消耗させられそうだな、とここ連日の攻防戦を思い出して遠い目になりかけた時、陛下の部屋の前にスッと立っている黒い騎士装の女性を認めて俺は小躍りしそうになった。嬉しさのあまり今まで重かった足取りさえ羽が生えたかと思うほどの軽やかさに変わって、自然と目頭が熱くなる。
「おはようございます、アスナ様。今日の当番はアスナ様なんですね」
「おはようございます………えっ…と、なぜ涙?」
騎士面(マスク)を付けているので表情はわからないが、こてっ、と戸惑いにかしげた細い首からも可憐さが滲み出ていて、俺はうっかり釘付けになりそうな視線を慌てて外した。
なぜ涙なのか……それはここ最近、ウチの陛下の機嫌が悪くて、悪くて、もともと寝起きも悪いから朝は最悪の状態で、しかも今日の午後には正式な調印式を控えているから、そりゃあもう超絶機嫌が悪いのがわかっているところにきてアスナ様のご登場だからです、とは国王付従者のプライドにかけて漏らすわけにはいかない。
「ともかく助かりました。ここ数日本当に苦労していて……」
陛下の部屋の扉を開きながら隣のアスナ様が軽く苦笑いを零しているのが気配でわかる。
アスナ様が所属している近衛騎士団は常に陛下の一番近くで仕える為、その身を極力表に明かさぬよう眉から下、唇が見え隠れする位置までの黒い金属製仮面(マスク)を装着する事が義務づけられているのだ。とは言え背格好や髪色、声、立ち居振る舞い、扱う得物で国王とその側近には見分けがつくのでなりすましの恐れはない。現に城に来て一番経験の浅い俺でも一目でアスナ様とわかったし……まぁ、アスナ様の場合は騎士面くらいでは隠しきれない気品を纏っていらっしゃるのもある。
俺はスキップしそうな自分の足を諫めつつ広いがあまり物のない居室を通り抜け、その先にある寝室の扉の前へと二人で並び立った。
ああ、隣に並ぶ事が許されるなんて今日で最後かもなぁ、と一瞬物寂しさを覚えるが、その気持ちを打ち砕く勢いで「ドンッ、ドンッ」と扉を叩く。入室の許可などクソ食らえだ、とばかりに勝手に扉を押し開き、勝手に中へと足を踏み入れた。
予想通り、と言うか、いつも通り…俺の入室などうっかり窓の隙間から入ってきた羽虫程度の扱いで、ベッドの中、うつ伏せで寝ている陛下は身じろぎすらしない。けれど続くコツっ、と響いた軽い足音にわかりやすく肩が動いた。
俺はサッ、と身を引いて道を譲り恭しくも頭を下げてアスナ様に全てを委ねる。
騎士面(マスク)の下から小さく、ふぅっ、と息を吐いたアスナ様は俺の前を通り過ぎてベッドの傍らまで歩み寄り背筋を伸ばした。
「陛下、起床のお時間です」
少し固めの澄んだ声に陛下の黒髪がもぞっ、と揺れる。
「…やりなおし」
枕のせいでくぐもった声の要求にアスナ様が仕方なさそうに更に一歩ベッドへと近づいた。いちを言っておくけどたった一回起床を促したくらいで陛下が反応を見せるのはアスナ様に対してくらいだ。
「陛下、起きて下さい」
枕の上で気怠げに頭が動いて長めの前髪から真っ黒い片目だけがようやく姿を現す。
「アスナ…もしかして、わざとオレをじらしてる?」
「でも、あの……」
ちらり、とこっちに視線が流れて来たような気がして、俺は素早くベッドから五歩後退した。
「公の場以外で陛下呼びは禁止って言ったよな?。あ、これ勅令だから」
ベッドの中でうつ伏せたまま、たった一人に対して発する勅令ってなに?、なんて初心さは俺にはもうない。なにしろこの陛下は毎日交代で仕えてくれる近衛騎士団員の割り当てについて、騎士団長にこっそりアスナ様の当番を多くしてくれ、と真顔で頼んでいたくらいだ。それを聞いた騎士団長は滅多に感情が顔に出ない事で有名なのに、刹那、可哀想な物を見る目になって『これまでご自身の身分を振りかざしたご経験がないせいで権力の使い方を完全に間違っておられる』と、しみじみおっしゃっていた。
要するにそれくらい陛下はアスナ様にお側にいて欲しいと思ってるって事で……それも、今日が過ぎればガラリとお二人の関係は変わってしまうわけだが。
そうこうしているうちに、根負けしたアスナ様が、そっ、と陛下のベッドの端に小さく腰掛けた。
「キリトくん、起きて」
「騎士面(マスク)、はずしてよ、アスナ」
ここで意地を張ってみても無駄だと知っているアスナ様は素直に留め具を外して騎士面を近くのサイドテーブルに置く。ようやく目に出来たアスナ様の素顔に満足げな表情をしているであろう陛下は、あろうことか彼女の細腕を掴んで自分の懐へと引っ張り込んだ。
「きゃっ」
「ア、アスナ様!?」
「下がっていろ……もう少し、大丈夫だろ?」
多少不安定なベッドの上でいきなり腕を引かれ、咄嗟に陛下の御身に手をつくわけにはいかないと判断されたアスナ様は結果、陛下の思惑通りにその両腕に抱き込まれていて、状況が見えなかった俺が何事かと声を上げた途端、今までとは全く違う為政者の声、と言うよりは一人の女性を独占欲で包み込んでいる男の声で動きを制される。
それでもすぐに柔らかな口調に戻って……この人、俺が連日の奮闘を踏まえて今朝は早めに来たのがわかってて、結局ギリギリまでアスナ様を構い倒すおつもりなんだろう。
流石に国王と騎士、しかも未婚の男女を寝室に二人きりにするわけにはいかないけれど、これはもう「俺は羽虫だ」と自分に言い聞かせるしかない。
更にもう三歩後退すれば、悲しいかな本当に羽虫のように壁にくっつく位置になった。
「はぁっ、アスナの匂い、久しぶりだな。こうすると、もっと……」
「あーっ…、もうっ。折角まとめたのに」
既に臣下としての言葉遣いを諦めたアスナ様の声がまろやかにベッドから漂ってくる。陛下を起こすお役目を代わっていただけたのは助かったが、これはこれで違う意味での忍耐力を使うことになってしまった。
「うん、やっぱりアスナの髪は気持ち良いな。オレを起こしに来る時は騎士面(マスク)も付けなくていいし、髪だってそのままでいいのに」
「そうはいきません」
ごねる陛下に対してもけじめをもって接し、幼い頃からの旧知の間柄であってもきっぱりと断るべき場面は断るその崇高なお姿は従者達の間でも評判が良く、城内で働く者達からはこっそり「騎士姫さま」と呼ばれているほど人気の高いアスナ様は誰がどう見ても陛下の一番の人である。その認識と城内で「陛下、がんばれ」と生ぬるい心の声援を送っている城仕えの者達の協力とご本人が「閃光」と異名をとる程の剣の腕を持っていることから不埒な行為に及ぶ者はいないだろうが、そこは権謀術数が渦巻く王城内だと気付き陛下が言葉を重ねた。
「やっぱりオレの私室にいる時だけでいい。ここ以外は城内でも特に騎士面はしっかり付けとけよ」
「はい、陛下」
「…アスナ」
「あっ、うん、キリトくん。でも近衛騎士団のお仕事に国王陛下を起こす役目は……」
「アスナだけだよ。他の騎士に起こしてもらったりはしてないし、いつもはそこの従者がオレが起きるまでその辺を飛び回っている」
まさかの陛下からの羽虫認定っ。
確かに寝ている時に枕元で羽虫が飛ぶ音ってイライラしますよね、寝ていられませんよね、起きちゃいますよね、なら、俺、間違ってませんね、と自己肯定で自分を慰める。
「こんなふうにするのもアスナだけだし……あれだけ剣を振っているのに細くてしなやかで柔らかいな」
「ちょっ、へんなとこ触らないでっ」
どうやらアスナ様に騎士装の上からペタペタと触れているらしい陛下の手がカチャッ、と音を立てた。
「ランベントライトの調子はどうだ?、そろそろ鍛冶師にみてもらう?」
「まだ平気かな。それに私も最近色々と忙しいし」
「そう言えば俺の側付き警護に付くのも久しぶりだけど…………公爵家か」
曖昧に笑うアスナ様を見た陛下がこれみよがしに溜め息をつく。
「本当に公爵家の令嬢とオレを婚約させるつもりなのか?」
「調印式、今日の午後だよ……そんなに嫌?、家格的にも相応しいし、宰相の令嬢なんだからキリトくんだって国王として助かると思うんだけど」
「そういう事を言ってるんじゃない。だいたい公爵家には子息しかいないと思ってたから会った覚えもないんだぞ……オレは顔も声も知らない相手より……アスナがいい」
アスナ様を囲う手に力が籠もり、悲鳴を上げるように腰にある細剣がキンッと鳴る。突技では騎士団一と言われるアスナ様の細剣「ランベントライト」は彼女が近衛騎士団所属に決まった時、陛下の得意技「こっそり城下にお忍び」でご自身が鍛冶師の元まで出向いて鍛えさせた業物だ。実は一見わからない場所に王家の紋章まで刻み込まれている。万が一、アスナ様の身に何かが起こった場合、彼女は王家の庇護下にあると知らしめるためらしい。アスナ様の事になると実に頭の切れるお方だ。
「だいたいアスナは公爵家の出ってだけで令嬢とは関係ないだろ。なのになんでアスナまで忙しくなるんだよ」
「関係……なくはない、かな」
そうなのだ、アスナ様はもともと今回の陛下との婚約にわざわざ調印式を申し込んできた相手側の公爵家の人間で、それが幼い頃に陛下と出会った事をきっかけに騎士を志すようになったのである。
「オレ、一年ほど前に聞いたんだ。宰相に令嬢がいるって知らなかったから、アスナを養女にしてオレに嫁がせるのはどうか?、って」
今思い返してみても怒髪天を衝くとはああいう事かと怒り狂った宰相の顔は瞼の裏に焼き付いて離れない。執務室を震源に王城全体が揺れたような錯覚すらした。
「うん、知ってる。私も執務室に控えていたから」
「ああ、そうだったな。そう言えば宰相はアスナがオレの側付き警護の時にはよく執務室に来るよな。騎士になったとは言え今でも公爵家の人間として気にしてるんだろうな。オレは宰相のそういう情の深いところはすごく尊敬できると思ってる」
「あ、ありがとう」
「でもさ、あれからだぜ。妙に自分の娘とオレを婚約させようとしだしたのは……ちょっと大人げなくないか?」
はい、確かにアレで宰相様の何かのスイッチが入ったのですよね、全ては陛下、あなたのせいです。これは自業自得以外の何物でもありません、と言いたい衝動を堪えるため俺はグッと唇を引き締めた。
「それにその令嬢……仮にもこの国で一二を争う最上級貴族の令嬢が夜会や茶会で一度もオレと会う機会がなかったってどういう事だよ……よく考えたら名前も教えてもらってないな」
さすがに呆れたのかアスナ様の小さな唇から「はぁっ」と苦悩の混じった吐息が落ちる。
調印式は今日なのだ、この日まで名前すら尋ねようとしなかった陛下がいかに乗り気でないのかがうかがい知れるが、もう待ったはかけられない状況で、だからこそわざわざアスナ様ご自身が陛下のご様子を確認に来られたのだろう。
「それよりも面白くないのは夜会だとオレよりもアスナの方にダンスの申し込みをする令嬢が多いって事だ」
夜会に出席する度にアスナ様をパートナーとして連れて行くからですよっ、という従者達と騎士団員達と独身貴族達の怨言を誰かウチの陛下にぶつけてやって下さいっ、と他力本願な願望を抱きつつ俺は痛み出したこめかみをぐりぐりと指の関節でほぐした。
アスナ様一筋の陛下は彼女が近衛騎士団所属になってから避けられない夜会には必ず彼女を伴っている。ただし表向きは護衛として。だから装いも動きやすい短めの丈のスカートにロングブーツ、ただしジャケットの裾は長めにして近衛の騎士盛装をアレンジしたような型になっている。色も近衛の色である黒を基調としているから一見、パートナーである陛下の色を纏っているように見えて会場に入場する時はその場に居る参加者全員がいつも息を飲むほど見惚れているそうだ。
加えて夜会では複雑に結い上げられた栗色の髪や真っ白な胸元、細い手首を陛下から贈られたアクセサリーで装い、騎士面(マスク)にさえ小粒のクリスタルが散りばめられていているから、ダンスが始まると陛下に連れられてアスナ様がステップを踏めばそれらが光を反射させてそれはもう幻想的な情景になる。
そうやって一曲終われば、じゃあ次は私と、などと恥をかきにいくような申し出を陛下にする令嬢はおらず、逆にアスナ様の方は陛下から「オレの護衛なんだから他の男とのダンスは禁止」と言い渡されているのを逆手に取られ、積極的なご令嬢方からダンスの申し込みが後を絶たない。
アスナ様が無駄にポテンシャルが高いのは知ってましたが、男性パートまで踊れるなんて、もしかして俺よりずっと男前ですかっ、と詰め寄りたい気分だ。
仮面の盛装騎士に手を取られ優しいリードで踊る令嬢は本当に夢見心地の気分を味わえるのだろう、お陰で陛下が出席する夜会の一番人気はアスナ様になってしまい、令嬢とお近づきになりたい城仕えの若者や騎士達、貴族の子弟達は羨ましさと恨めしさの両方を味わうことになってしまう。
ちなみに茶会でも大差はない。
それどころか、うっかり茶会に供される茶菓の一つがアスナ様の手作りだと自慢げに陛下が暴露してしまった為に、令嬢達は陛下よりも茶菓にばかり気を取られる始末で、婚約話が持ち上がる以前は皿にばかり注目している令嬢達を置いてさっさとアスナ様を伴い茶会から退出しても気付かれなかったほどだ。
要するにアスナ様は貴族のご令嬢方からも絶大な人気をお持ちなのである。
「だいたい国王の婚約者だぞ。なんでこんなにすんなり話がまとまる?、宰相の政治的手腕か?、令嬢なら大勢いるんだし、もっと宰相の邪魔をするとか、他の候補者が現れるとかないのか?」
アスナ様以外受け入れないくせになにを勝手な……都合の良いお言葉にさすがのアスナ様も眉根を寄せ悲しそうなお顔をなさると、それに気付いた陛下がすぐに勢いを落とし、「ごめん」と謝罪して、お気に入りのぬいぐるみを取り上げられまいとするかのように彼女にしがみついた。
「アスナ…今日はずっと側付きでいてくれるのか?」
今日の行動予定を問われてアスナ様の口調が騎士のものとなる。
「いえ、申し訳ありませんが昼前に下城する予定です」
「公爵家か……」
「はい」
「午後の調印式前にその公爵家の令嬢と話をする時間を設けようと思う。その時、一緒にいて欲しい」
「承知致しました」
そこでどんな会話が成されるのか、俺には事の成り行きを見守ることしか出来そうにない。
お読みいただき、有り難うございました。
前後編で一日を描く予定がまだ「起床時」です……。
ねぼすけ陛下がなかなか起きないせいですっ。