「……ここは?」
「……どこだよ?」
誰かの声が聞こえた。
突如として現れ、瞬く間に教室中を覆った魔法陣。そのあまりの眩さに、目を閉じ腕で顔を庇った。それ故に気付かなかったが、最早光は消え去っていたらしい。
永山重吾は腕をどかして両目を開き――
「……なんだと?」
――入り込んだ光景に、周囲と同じような疑問を抱くしか出来なかった。
まず場所からして違う。断じて元居た教室ではない。根拠として挙げられるのが、あまりにも目立つ巨大な壁画だ。草原や湖、山々を包み込むように両手を広げている、金髪微笑の中性的な人物が描かれている。……こんな物、教室にある筈がない。
美しい壁画だ、と思う反面――重吾は言いようもない嫌悪感を抱いた。
思わず目を逸らして周囲を見る。この不可思議な状況下において、或いは泰然と立つ少数の、或いは右往左往する大半のクラスメイトたち。そして教師が二人。……教師もまた見事に前者と後者に分かれている。落ち着いているのが担任の御門亮先生。慌てているのが社会科教師の畑山愛子先生だ。
自分たちを教え導く教師。少なくともその片割れが冷静さを保っている姿に、重吾は殊の外救われた気分になった。
そして少数派のクラスメイトを注視する。この状況下で頼りとなるのはそちらだ。普段から冷静沈着を心掛けている重吾だが、現在浮足立っているのは否定出来ない。周りに対して、落ち着け、と注意する前に、まずは自分が落ち着かなければ話にならない。
まずは直前まで教室で自分と話していた緋勇龍真。自然体で、しかしさりげなく周囲に氣を配っている。慌てるあまり隣近所でぶつかり合いかねない生徒に対し、手を引っ張るなどして庇っている。……焦りがあるのは間違いないが、それでも思いの外重吾が落ち着いていられるのは、この男が隣にいたことも大きいだろう。
他の男子では遠藤浩介、神夷京弥、九角天誡、清水幸利、南雲ハジメの五名。女子では白崎香織、園部優花、谷口鈴、比良坂恵里、八重樫雫の五名。
落ち着きの度合いはそれぞれに違うが、冷静さを保っているのは間違いない。優花など重吾にとっては一部意外な顔があったが、それに気付けずいたのも自分の未熟だろう。
クラスでも求心力のある天之河は――
「皆、落ち着いてくれッ!」
――と声を上げているが、その効果は薄い。それも当然だろう。落ち着け、と言われて落ち着けるなら苦労はない。何かしら前向きになれるだろう根拠を提示する必要がある。
「緋勇、この状況に心当たりはあるか?」
「何が起こったのかは想像がつく。信じ難いだろうが、おそらくは転移現象。だが、その理由までは分からない」
重吾の問いに龍真は整然と返す。
(やはりか)
その答えに、重吾は心中で同意した。信じがたいことだが、そうとしか考えられないのだ。あの魔法陣の存在が、その思考を後押しする。
しかし、その理由が分からないのだ。尋常ならざる手段を用いてまでそこらの高校生を一方的に連れてきて、一体何がしたいのか? 何をさせたいのか? 何が出来るというのか?
「しかし、その答えは彼らが教えてくれるだろうさ」
出口のない迷宮へ入り込もうとする重吾を止めるかのように、龍真が言う。
「彼ら?」
その視線の行く先は下方。追えば、そこには三十人近い人たちの姿。その様は、まるで敬虔な信者を彷彿とさせる。
それを見て――
(やはり浮足立っていたな)
――重吾は心中で自嘲する。
彼らの存在にまるで気付いていなかった。自分たちの場所が、一段高い台座となっていることにも気付かなかった。……視野狭窄にもほどがある。壁画から視線を逸らした後は、落ち着こうとするあまり、無意識に身近なものしか視界に入れない様にしていたらしい。
やがて信者集団の中から一人の人物が進み出る。年齢は七十代くらいだろうか。その覇氣は強い。顔に刻まれた皺などがなければ五十代でも通じるだろう。
その衣装は特に豪奢で煌びやかな法衣。頭には烏帽子のような物。細かい意匠が凝らされており、三十センチはありそうだ。手には錫杖。扇状に広がった先端には、円盤が数枚吊り下げられている。
「ようこそ、トータスへ。勇者様、そしてご同胞の皆様」
進み出た老人――聖教教会教皇、イシュタル・ランゴバルトは微笑を浮かべて歓迎の挨拶を述べた。
♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢
場所を変え、一行は現在大広間に通されていた。十メートル以上ありそうなテーブルが幾つも並んでいる。
この部屋も煌びやかな造りだ。調度品、絵画に壁紙、あらゆる物が職人芸の粋を集めている。素人目にもそれが分かる。
右往左往していたクラスメイト達も一先ずは落ち着きを取り戻している。天之河が声をかけ続けたから、というよりは騒ぎ続けて情報が手に入らなくなることを恐れたのだろう。あくまで状況に流されているだけだ。イシュタルの語る内容によっては、先ほどの比ではなく慌てふためくことだろう。
そんなことを考えつつ冷めた目で周囲を見渡し――平静を気取っているように見せかけながら――恵里は内心で舌を打つ。
(ああ、ムカつく……)
それでも、恵里は努めてその怒りを表情に出さなかった。
こうも簡単に気付かれる辺り、視線の主は三流だ。しかし視線を寄越したタイミング的にコイツが召喚者であろうことに間違いはない。
恵里の知識にトータスという地名はない。自分の不勉強ならそれでいいが、仮に異世界だとでもするならば……。
如何に龍穴を利用しようと、異世界への道を開いた以上、その力は本物だ。
恵里の中でコイツは外道決定だ。すなわち討滅対象である。――が、如何せん実力に開きがあるのは否定出来ない。現状がそれを示している。
ならば、油断慢心を突くのは必須だ。そしてありがたいことに、コイツは現在進行形で慢心している。視線がそれを物語っている。
(身の丈に合わない力を持ったガキが……)
だからこそ、打てる手は打つ。内心とは裏腹に、周囲に合わせた表情を浮かべる。怒りの表情を浮かべ、万が一にも視線に気づいていることに気付かれたらお終いだ。
「私はこちら、畑山先生はそちらにお願いします」
上座に近い方、まずは御門先生と愛子先生が席に着く。教師という立場上、それは当然のことだ。
「次は……そうですね、九角君と天之河君」
御門先生の差配に従い、続いて天誡と天之河が着席する。求心力、という点において、この二人はクラス内で一線を隔す。……人たらしならば龍真が随一だが、求心力とはまた違う。
(まぁ流されるだけの愚物なら、綺麗事にはさぞ惹かれるだろうさ……)
天之河がクラス内で求心力を持つ理由をそう断じ、恵里もまた席に着く。場所は天誡の近く。鬼道衆で並べば当然だ。
その後も銘々グループ毎に纏まって着席していく。
(おや、これはこれは……)
全員が着席した途端、見計らったかのように――実際、見計らったのだろう――メイドたちが茶器を乗せたカートを押して現れる。しかも全員が全員、揃って見目が良い。選りすぐったのは間違いない。
中でも一人別格がいるが、意図的に作られたのならおかしなことではない。降霊術師たる恵里には分かる。アレは人形だ。その出来栄えは、造形美の極致、と言える。……さりげなく幸利を見やれば、微かに悔しそうな表情を浮かべていた。屈指の人形師である彼の実力を以てしても及ばない出来栄えであることを認めざるを得ないが故だろう。
やがて全員に飲み物が行き渡り、それを確認したイシュタルが口を開く。……その裏で、密かに反撃の準備をする。
人間族、魔人族、亜人族、etc。
キーワードを確実に拾い集め、一先ずは流れを見る。
そして続々と語られる重要事項。恍惚とした表情で語るイシュタルは、よもやそれが神を縛る要因になるとは思うまい。
既に場所は掴んだ。その名も同じく。最早いつでも反撃は出来る。――しかし未だ機ではない。
そうして流れを見届けていると、やがて恐慌状態に陥る生徒たち。気持ちは分からないでもないが、あれだけ大掛かりに呼び出しておいて、そう簡単に帰してくれる筈もないだろうに。どうしてそんな都合の良いことを思い描けるのか。
恵里がより一層の冷めた目を向ける中。
案の定、と言うべきか。天之河が動いた。その口から語られるのは、相変わらずのご都合主義に満ちた綺麗事だ。どうやら香織の最後通牒はムダに終わったらしい。――同時に、天之河へ向ける香織の視線が絶対零度となる。
脳筋らしく、坂上が何も考えずに天之河に続く。美しいまでの友情劇だ。
そして流されるように、挙って賛同する大半のクラスメイト達。
それを目にした恵里は――
「アハハハハハッ、アーハッハッハッ、ハーハッハッハッ……」
――もう耐えきれない、とばかりに笑った。演技なしの抱腹絶倒である。
それを目にしたクラスメイトは奇異の視線を向ける。
「いや~、笑った笑った。こんなに笑ったのは何年ぶりだろうね? 君たち、漫才師になれるよ? いや、グループにしても人数が多すぎるか……」
目尻に浮かんだ涙を拭いつつ恵里が言う。
天之河と坂上を始め、貶されたも同然の生徒たちは揃って呆気に取られた表情を浮かべている。何を言ってるんだ、コイツは? と思っているのが丸わかりだ。
「御礼ってわけじゃないけど、ボクの芸も見せてあげるよ」
幕末の鬼道衆が一員、比良坂。しかしてその正体は、北欧神話にその名を示す死者の国の支配者――女神ヘルに他ならない。
そう、恵里は神の末裔なのだ。そして降霊を介してではあるものの、比良坂当人がそれを認めている。他ならぬ神が保証しているのだ。それは神の後押しを受けているに等しい。
そんな、未だ色濃く神の血を宿す恵里が、ここに全霊をもって氣を行使するのである。それは正に神威そのもの。
(さあ、反撃開始だ。如何に神と言えども、油断慢心に支配された状態では防ぐこと能わぬと知れ!)
「冥界の女王にして女神が一柱・ヘルが末裔比良坂恵里が彼の者の御名においてエヒトに命ず! 拝聴せよ!」
意を込め、言霊を以て一息に言い放つ。
氣の使用のみならず、神の御名を用いてまで放たれたそれは、文字通りの神言だ。
「我らを見るな! 関心を持つな! ただ頭を垂れて裁定の時を待つがいいッ!」
果たして効果はあった。気持ち悪いほどの粘着質な視線が消え失せる。
「おっと。……良くやったな」
全霊の氣を使った反動により倒れそうになる恵里を浩介が支える。
疲労の汗を流しながらも、王子様に頭を撫でられた恵里はご満悦だ。
「サンキュー、エリリン! そしてパチン!」
続くは鈴。視線が消えたことを感じるや否や、扇子を閉じる動作に合わせて大広間全体に結界を張る。……陰ながら御門先生も協力している。そも書物による我流だった鈴に陰陽道を教えたのは、他ならぬ若き日の御門である。息を合わせることなど容易い。
今この場で結界を張った理由は言うまでもない。
神を封じれど、この場には他にも明確な邪魔者が存在する。否が応でも暫くはこの世界で生活をしなければならない以上、その動きは縛っておくに限る。
そしてそれを成す間、更なる邪魔者が入り込まないようにするためだ。
「おっと、動かないでちょうだい」
それを理解する雫は、すかさず邪魔者の一人であるイシュタルの動きを封じる。
飛水流忍術の使い手は止水の心により気配を断つ。その隠形は傍らに立とうとも相手に気付かせぬほど。浩介には及ばずとも、雫もまた氣殺は得意なのである。……むしろ本業の忍者を凌ぐ浩介が異常なのだ。
仲間以外の誰にも気付かれずに接近し、そっと首筋に宛がうは一振りの短刀。名を玄武。自らの宿星にして四神が一柱と同じ名前を有す――霊場籠りで得た――至極の逸品だ。
先までの語り口と様子から、イシュタルが狂信者の類であることは間違いがない。ならば――実際に動けるかは別として――その動きを放置する選択肢などありはしないのだ。
「鬼道・惑衆!」
雫が動くと同時。
天誡もまた鬼道を放っている。混乱をもたらす妖術の標的となったのは、人形たるメイドだ。
仲間の中でも人形師として確たる実力を持つ幸利。その彼ですら及ばない程の人形だ。文字通り神作であっても不思議はない。ならばその動きを阻害するのは当然である。
天誡の判断は正しかった。
恵里の言霊により、エヒトは一同に関心を持てなくなった。必然、人形を通じて情報を得ることも出来ない。自然、人形との経路は閉じられる。
如何に見目麗しかれど、所詮は自らの意識感情を持たぬ人形に過ぎない。自立行動をしているように見えても、その実与えられた命令通りに動いているだけだ。そしてこんな状況に対応出来る命令はない。その結果、起こるは混乱。果ての暴走。
混乱による暴走が起こる寸前、天誡の妖術により人形は更なる混乱に叩き込まれる。
それで生まれるのは僅かな猶予。ほんの先伸ばしに過ぎない。――しかしそれで十分だ。
何故なら傍らには稀代の傀儡師たる幸利が存在する。
「ッし、掴んだ!」
如何に神作と言えど、それが人形であるのなら彼に操れぬ道理はない。命令系統を絶たれ、隙だらけならば尚更だ。
件の人形は、否が応でも主替えに賛同させられる。
♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢
「……一体、何のおつもりですかな?」
「雫! 一体何をしているんだ、君はッ!? そんな、刃物なんか人に向けて……」
状況の推移に大半の理解が追い付いていない中、口を開いたのは首筋に刃を宛がわれているイシュタルだ。
無論、怪しい真似をしたらすかさず雫が刃を引くだろう。それを理解すればこそ、不敬な真似に罵倒したいのを必死に抑えて、イシュタルはただ訊ねる。――しかし、その努力はもう一人の怒声にかき消された。
何とも言えない表情を浮かべるイシュタル。そんな彼に対して僅かに憐憫の眼差しを向ける、現在進行形で脅している当人の雫。
だがそれも一瞬の事。
「申し訳ないわね、イシュタルさん。貴方の相手は後回しにさせていただくわ」
「……仕方ありませんな」
言葉とは裏腹に冷めた眼差しをイシュタルに向け――
「光輝、少し黙っていてくれないかしら?」
――次いで、やはりこうなったか、と言わんばかりに苦々しく雫は言った。
一方でイシュタルは頷くしかない。その理由も十分に理解出来る。
先までの演説ぶった説明からの流れの中で、イシュタルは
自分がエヒト様に絶対の忠誠を誓っているように、彼の人物は己の理想か正義感を絶対のものとしている様に見受けられた。それでいて求心力はある。実際に周りの大半は流されるままに挙って賛同するばかり。少し擽ってやるだけでほぼほぼこちらの思惑通りに大半が動くのだ。……正に絶好の駒である。
イシュタルの思惑は残念ながら外されてしまったが――であればこそ、天之河をこのまま放置する理由もまたあるまい。戦争において、獅子身中の虫ほど厄介なものはない。それも当の本人に自覚がないとなれば尚更だ。
こうも早く神に弓引き、真の神の使徒まで無力化する者たちが、その事を分かっていない筈もない。天之河もまた、自分たちと同じタイミングでその動きを封じられていてもおかしくはなかったのだ。――にも拘らず彼が放置されたのは、一応は味方勢力に分類されるからだろう。
しかし、その慈悲を当の本人が切って捨ててしまった。この状況下で神への反逆者に食って掛かるという事は、それすなわち彼の者らにとっての利敵行為に他ならない。……その事実を天之河が理解しているかは別として。
イシュタルを挟んで舞台は進む。
「な……ッ。そんなこと出来るわけがないだろう!? それに、こんなのは君らしくないじゃないかッ!?」
「私らしくない……ね」
現実を受け入れられずに天之河は叫び、ついには自覚なきままに決定的な一言を発してしまった。
それを受け、雫は打って変わった冷たい視線を天之河に向ける。
「ねえ、光輝? 私らしい……て何かしら?」
それでも、慈悲深き雫は最後の一線で天之河を見限らない。天之河へ向ける視線は冷たくとも、その呼び方までは変わっていないのが証拠となる。
そして、ここに雫は決断した。天之河の自己による変革を期待していたが、どうやらそれは望み薄だ。そも幼き日より高校生となるまで変わっていないのだ。ならば外部から変革を促すより他にあるまい。どうせこのままでは、この先苦労するのは天之河本人だ。彼の両親も四苦八苦している。
八重樫流において、門下生は家族として扱われる。ならば家族として、否が応でも天之河に現実を認識させる。……再起不能になるか、乗り越えて復活するかは当人次第だ。そこまで面倒は見れない。見るつもりもない。
「貴方が私をどう思おうと、それは貴方の勝手よ。けどね、その理想を私に押し付けるのはやめてくれないかしら?」
「ッ……あ……?」
冷たい視線に殺氣が乗る。他ならぬ雫からの殺氣に天之河は呆けるばかり。
「あ~、ダメだよ、雫ちゃん」
そんな天之河を助けるように香織が口を挿み――
「あ……香織……?」
――救いの手に天之河が笑みを浮かべ――
「天之河くんは言葉だけじゃ分からないから。身体でも分からせないと。……いわゆる肉体言語ってやつだね!」
「……え? 天之河くんって。……え? グハッ!?」
――これが現実だ、と香織は天之河の顔を思いっ切り殴り付けた。
その拳には――死ななくもケガをする程度には――多少の氣も込められていた。……雫からの殺氣、香織からの呼び方、理解が追い付かぬままに天之河はその拳をまともに受ける。
「天之河くんはこっちで対処しておくから、そっちは続きをやっていいよ?」
天之河に対してなおも殴る蹴るの暴行を加えながら端の方へ移動しつつ、いい笑顔で言ってのける
(慣れないことをしているなぁ……)
ドン引きされる笑顔と裏腹、香織の内心はこんなものだ。
そも香織とて心優しい少女である。口ではあーだこーだと言ったところで、そして可能な限り態度にそれを表したところで、心の底では長年の幼馴染をそう簡単に見限る事が出来る筈もないのだ。
また、雫にばかり嫌われ役をやらせるわけにもいくまい、という理由もある。何もせずそれを見過ごして、一体どこが親友か。
故にコレは愛の鞭。天之河への呼び方も、この暴行も、須らく親愛ゆえの行為である。言わば、聞かん坊な弟に対する可愛がり、と同じようなものだ。
(やば、結構楽しいかも……)
裏の日常に浸かる中、香織さんはすっかり逞しくなっていた。
♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢
ゴホン、と誰かが咳払い。アレは関与してはいけないことだ。女神が暴行なんてするはずもない。天之河の弱々しい悲鳴も、聞こえないったら聞こえない。
誰もが現実逃避に走る中――
「改めて。……一体、何のおつもりですかな?」
――口火を切ったのはイシュタルだ。
このジイさんすげえ! 生徒たちが感嘆の視線を向ける。
「何のつもり、と訊かれてもね。言った通り、ボクはただ一芸を見せただけだよ?」
乗り遅れてなるものか、と答えるは恵里。未だ消耗激しいその身体は浩介に支えられ、額には珠の汗を浮かべている。しかしてその顔が刻むのは嘲笑だ。
「イシュタルで良かったかな? 他ならぬ君が言ったんじゃないか。この世界の神エヒトが上位世界よりボクたちを呼び出した、てね?」
「……それが何か?」
何か致命的な事実を告げられる。そう思いながらも、イシュタルは訊き返すしか出来ない。
「おいおい、それが何か? じゃないんだよ! 上位世界より? 御用聞きもせず? 一方的に呼び出す? それこそ何様だ。
……ボク自身は人間のつもりだがね。それでもこの身が神の末裔であり、その血を色濃く残しているのは間違いないのさ。現人神と言ってもいい」
「それは……」
「分かるだろう? この世界の神だか知らないが、神格を有する、という点においてはボクも同じなのさ。
そして聞いていれば、そんな常識知らずなことをしでかしたガキは、よりにもよって下位世界の神ときたもんだ! これが同じ人間同士や、上位世界の神からってんならまだ我慢も出来たんだけどね?
……ほら、あまりに不敬不遜じゃないか?」
イシュタルの顔は青白い。もうやめてくれ、これ以上は聞きたくない、と言わんばかり。しかし、耳を塞ぐことも許されない。
「ガキがおイタをしたら叱りつけるのが世の常だが、コレはそんなレベルを超えている。挙句の果てには神ときた。……なら、どんな罰を与えるのがいいかしっかり考えないといけないだろう?
ただ、曲がりなりにも神だけあって力は持ってるようだから、逃げられない様に我が祖の名を借りて縛り付けたのさ」
そして絶望が放たれた。
そう、イシュタルにとってこの世界の神は唯一神たるエヒトのみだ。それは間違いないし、否定する気もさせる気もない。
だが、
もし自分が同じことを下位世界にされたらどうするか。人間がしたことならばエヒト様の慈悲をもって対応するだろう。しかしそれが神によるものならばエヒト様の名を以て断罪するだろう。当然、罰の内容も十分に吟味する。……彼女のしたことはそれと同じなのだ。
「ついでに言えば、ボクたちの世界は多神教でね? 神格位は持っていなくとも、直接に神の加護を受けている人物なら他にもこの場に数人いるよ? いわゆる神降ろしめいたことだって出来なくはない」
そして更なる絶望がイシュタルを襲う。
この肉体に神を降ろす。それはこれ以上ないほど名誉なことだ。そんな名誉なことを行える人物が数人もいる。何なのだ、それは?
知りたくもなかった事実を次々に叩き込まれ――
「おや、壊れちゃうのかい? ダメだよ、現実はちゃんと受け止めないと? 頑張って信仰する神様の失態を雪がなくっちゃね?」
――それでもイシュタルは正気を失うことを許されない。隙だらけとなった魂を恵里に縛られてしまったのである。
「さあ、ボクたちのためにしっかりと働いてくれよ?」
後にはただ――
「……はい。かしこまりました」
――それまでの覇氣を失い、それでも信じる神の失態を拭うため、精魂込めて働くことを自らに課した老人の姿が残された。