鬼殺語   作:風船

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赫灼のソウ 〜下〜

 潜入、数日後──

 

 炭治郎が潜入した“ときと屋”からは鬼に関する有力な情報は得られなかった。

 須磨の関しても鯉夏から聞いたこと以上のことは、全く分かっていない。

 

「だーかーらー!俺んとこに鬼がいんだよ」

 

 ところが伊之助はそうでもないらしい。それは何度目かの定期連絡の事。伊之助が自分の潜入する見世に鬼がいると主張したのだ。

 

「こういう奴がいるんだって、こういうのが‼︎」

 

 伊之助は鬼の特徴を身振り手振りを交えて一生懸命説明してくれる。

 

「いや……うん。それはあの……ちょっと待ってくれ」

 

 炭治郎も理解できるように努めたい。しかし説明が感覚的過ぎて全く伝わってこない。どうしたものか。

 

「こうか⁉︎これならわかるか⁉︎」

 

 先ほどから手足をぐにゃぐにゃと動かしている伊之助。その様子から察すると細長くてミミズのような鬼なのかもしれない。

 

「そろそろ宇髄さんと善逸、定期連絡に来ると思うから……」

 

 今この場にいるのは炭治郎と伊之助の二人だけだ。鬼の特徴を話すのならば宇随もいたほうがいい。

 

「こうなんだよ。俺にはわかってんだよ」

 

 それでも説明を続けようとする伊之助。

 

「うんうん……」

 

 一応、相槌だけは返しておく。善逸も宇随さんも早く来てほしい。そうすれば伊之助の話も深く突っ込んで聞くことができる。

 

「お前ら、こんなところにいたのか」

 

 そんな時、ふと二人の前に現れたのは数日前に離脱した獪岳だった。

 

「獪岳さん!鑢さんからの許可が取れたんですか?」

 

「……ああ。だから来たんだよ」

 

「……?」

 

 炭治郎には獪岳が少し疲れているように見えた。それもその筈。彼は一仕事終えてきたばかりなのだ。

 だから獪岳の言い方では語弊がある。王葉の許可が取れたから合流したのではなく、王葉の指示を受けて、ソレを全うするための準備をしてきたから合流したのだ。本当ならもっと早くに合流したかったのだが、思ったよりも時間がかかってしまった。

 

「お前ら二人だけってことは……音柱様、何かあったんですか?」

 

 獪岳は善逸が来ていないことに気が付くと、その理由を音柱に問う。炭治郎と伊之助は気付かなかったが、宇随天元は数分前にはその場にいたのだ。

 

「善逸は来ない」

 

 炭治郎たちの方を向かずに言う天元。彼の声音は固く纏う空気も張りつめている。

 

(コイツ……やる奴だぜ。音がしねぇ……風が揺らぎすらしなかった。太眉野郎はコイツに気が付いてたのかよ)

 

「善逸が来ないって、とういうことですか?」

 

「お前たちには悪いことをしたと思ってる。俺は嫁を助けたいが為にいくつもの判断を間違えた。善逸は今、行方知れずだ。昨夜から連絡が途絶えてる」

 

 質問に静かに答える天元。無表情を貫いているが、炭治郎は彼から漂う深い後悔の匂いを感じ取っていた。

 

「お前らはもう“花街”から出ろ。階級が低すぎる。ここにいる鬼が“上弦”だった場合、対処できない。それに鑢の部下をみすみす危険に晒すわけにはいかない。消息を絶った者は死んだと見做す。後は俺一人で動く」

 

(成程。こりゃ頭領も“至急の用件”については話すなと言うわけだ)

 

 獪岳は王葉が話すなと言った理由を、天元の言葉で察した。たかが平隊士が一人、行方不明になった位でこの有様だ。宇随天元という男は、身内に対してとことん甘いのだろう。

 後は一人で動くなんて言っているが、相手の鬼は、音柱の奥方三人と善逸を明確な手がかりを残さず行方不明にさせる術を持っている。しかも“上弦”の可能性すらある。そんな鬼を一人で相手にするなんて、いくら柱とはいえ、どう考えても無理がある。

 

(犠牲者を増やしたくないからだろうが、下手すりゃ音柱だけ死ぬぞ)

 

 そんな状況で王葉の“至急の用件”について話してしまったら、どうなるかは大体想像がつく。合流する前に仕込みをしておいて良かったと獪岳は安堵のため息をついた。

 

「いいえ宇髄さん。俺たちは……‼︎」

 

「恥じるな。生きてる奴が勝ちなんだ。機会を見誤るんじゃない」

 

「待てよオッサン‼︎」

 

 炭治郎と伊之助は尚も言いつのろうとしたが、天元は話を聞く素振りすら見せずに消えた。

 

「俺と伊之助が一番下の階級だから、信用してもらえなかったのかな……」

 

(安心しろ。関係ねえよ……)

 

 直接声に出して教えてあげればいいのに、獪岳は絶対にそういうことをしない。そんなことをしても獪岳に利点はないし、教えてあげるほど炭治郎たちのことを好いてもいないからだ。

 

 獪岳の考えの通り、炭治郎たちの階級は関係ない。そんなものはただの口実に過ぎない。上から二番目の階級である獪岳ですらも、帰れと言われたのが良い証拠だ。しかも獪岳を返そうとした理由も結構お粗末だ。

 獪岳は王葉から、音柱の任務へと同行する許可を得ている。彼は大抵のことは想定した上で許可を出した。そんなこと音柱も分かっている筈で、それでも吉原を出ろと言ったのだ。

 

「俺たちの階級“庚”だぞ。もう上がってる。下から四番目」

 

 だが自分の階級すらもよく分かっていない炭治郎には、そういった部分を理解するのはまだ難しい。

 

「えっ?」

 

「階級を示せ」

 

 驚く炭治郎をよそに伊之助の手のひらには“庚”の文字が浮かび上がった。

 

「藤の山で手ェこちょこちょされただろ?」

 

 鬼殺隊の特殊技術『藤花彫り』については最終選別後、階級制度と一緒に説明される。

 

「こちょこちょされた覚えはあるけど疲れてたし……こういうことって知らなかった……」

 

 しかし、その頃の炭治郎の記憶は朧気だ。一番最初に何か説明は疲労でよく聞いていなかった。しかも那田蜘蛛山での任務以降、階級を口にする機会も確かめる必要も無かった。最近、給金が上がっていることには気が付いていたが、まさか自分が昇進しているとは夢にも思わなかった。

 

「元気出せよ!」

 

 炭治郎の表情は皺くちゃの老人みたいで見ていて可哀想になってくる。珍しく伊之助が肩を叩いて慰める程。

 

「そうだ。こんな場合じゃないんだゴメン。夜になったらすぐに伊之助のいる“荻元屋”へ行く。それまで待っててくれ、一人で動くのは危ない。今日で俺のいる店も調べ終わるから」

 

 伊之助の励ましもあり、炭治郎は速攻意識を切り替える。落ち込んでいる暇があったら、一刻も早く行方不明者を救出し、鬼の正体を突き止めるべきだ。まずは“ときと屋”の中を隅々まで調べなくては──

 

「何でだよ!俺のトコに鬼がいるって言ってんだから、今から来いっつーの‼︎頭悪ィな、テメーはホントに!」

 

 しかしそんな炭治郎の考えは、せっかちな伊之助には炭治郎の考えは伝わっていない。軽い癇癪を起した伊之助は炭治郎の頬を引っ張って、早くついて来いと主張した。

 

「ひがうよ」

 

「あーん!?」

 

 引っ張られる頬の痛みに耐えながら、炭治郎は主張する。

 

「夜の間、店の外は宇髄さんが見張っていただろ?イタタタタ!でも善逸は消えたし、伊之助の店の鬼も今は姿を隠してる。イタタ、ちょっ……ペムペムするのやめてくれ。建物の中に通路があるんじゃないかと思うんだよ」

 

 炭治郎がそこまで言って、ようやく伊之助の勢いが和らいだ。ちょっとでいいから、冷静に人の話を聞く癖を身に着けて欲しい。

 

「通路?」

 

「そうだ。しかも店に出入りしてないということは、鬼は中で働いてる者の可能性が高い。鬼が店で働いていたり、巧妙に人間のふりをしていればいるほど、人を殺すのには慎重になる。バレないように」

 

「そうか……殺人の後始末には手間が掛かる。血痕は簡単に消せねえしな」

 

「ここは夜の街だ。鬼に都合がいいことも多いが、都合の悪いことも多い。夜は仕事をしなきゃならない。いないと不審に思われる。俺は、善逸も宇髄さんの奥さんたちも皆生きてると思う。そのつもりで行動する。必ず助け出す。伊之助にもそのつもりで行動して欲しい。そして絶対に死なないで欲しい。それでいいか?」

 

「お前が言ったことは全部な、今俺が言おうとしてたことだぜ‼︎」

 

 笑顔で答えた伊之助に炭治郎も頷く。これからやるべきことは決まった。

 あとは動き出すだけだ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よくねえよ阿呆。そこまで推理できるのに、なんで“荻本屋”に乗り込むって選択をするんだ」

 

 そう決意を新たにした直後、頭に衝撃。そしてスパーンっと小気味よい音が辺りに響いた。獪岳が炭治郎と伊之助の頭を叩いたのだ。

 

「イタッ!獪岳さん……?」

 

「太眉野郎!何しやがる!」

 

 二人が獪岳の方を振り向けば、呆れたような視線を向けられ、盛大にため息を吐かれる。酷い。

 

「お前らが独断専行しようとしてるからだよ。今は鬼の手がかりが見つかってのぼせ上っているんだろうが、頭冷やせ」

 

 獪岳は腕を腰に当てて、炭治郎と伊之助を窘める。その姿はなんだか王葉と重なって見えた。

 

「え、あの、はい」

 

 獪岳の言うことにも一理ある。まずは冷静になって彼の話を聞こう。

 

「…………っち」

 

 伊之助も同じ考えなのか明確な反論はせずに黙り込む。

 

「いいか。建物の中に通路があるって考えには俺も同意する。だがいつも“荻本屋”にいるとは考えにくい」

 

「……なんでだよ?」

 

「アイツが消えて、お前が無事だからだよ。嘴平、お前じっとしてたり隠密行動したりするの苦手だろ?」

 

「ああ⁉それがどうしたっていうんだよ?」

 

「それに加えて、この状況でも俺の言動にいちいち突っかかってくる。そんな奴が鬼の手がかり見つけて大人しくしているとは思えねえ。見世の中で騒ぎ起したんじゃねえか?」

 

 凄い。獪岳と伊之助が出会ったのは数日前。しかも直接顔を合わせていた時間は数時間程度だ。それなのに獪岳はもう伊之助の性格を把握し始めている。

 

「したけどよ。それがどうしたっていうんだ!」

 

 鼻息を荒くして、あっけらかんと答える伊之助。

 

(ええっ……)

 

 騒ぎを起こしたのにその言い草は良くない。しかしそれを口に出せば、またペムペムされそうなので黙る。

 

「自分が根城にしている場所で騒ぎなんて起されてみろ、お前ならどうする?」

 

「そんなもん。すぐにでもとっ捕まえて何考えてるか吐かせるに決まって……って!?」

 

「そうか!伊之助が無事ということは“荻本屋”の中で暴れられても気にしない。即ち鬼は普段、別の場所にいる可能性が高い!」

 

「正解。情報収集のために嘴平を泳がせてるって手も考えられるが、それだとアイツだけ消えたことに対する説明がつきにくい」

 

「じゃあ、本当に鬼が根城にしているのは善逸が潜入していた“京極屋”の方ってことですか?」

 

「ああ。そして多分音柱も同じ考えに行きついた。だから後は一人で動くって言って、そのまま“京極屋”に向かったんだろうよ」

 

「ええ!だとしたら戦闘が始まるのも時間の問題じゃないですか!」

 

「だから、とっとと行方不明者の居場所探し出して、住民の避難もさせなきゃなんねーんだよ。竈門、お前さっき皆を必ず助け出すって言ったばっかりだろうが。いくら危険とはいえ、鬼の根城じゃない“荻本屋”に全員で乗り込んでる余裕があると思ってんのか?」

 

 そこまで言われて、ようやく自分たちのやるべきことを理解した。そうだ。もうすぐここは戦場になる。行方不明者の捜索も必要だが、可能なら住民も避難させたほうがいい。

 

「無いと思います。すみません……」

 

「…………」

 

 炭治郎は自分の浅はかさを反省した。伊之助もバツが悪そうに獪岳から視線を反らしている。

 

「別に怒ってねえよ。動き出す前だったから、謝る必要もない。ただな、今のお前らには意見を仰げる相手がいるんだ。自分で考えて動くことも大事だが、合同任務の時に自分より上の人間がいたら頼れよ?」

 

 匂いで分かる。獪岳は本当に怒っていない。

 

「はい。ありがとうございます」

 

「わかったよ」

 

 そうだ。今の自分たちには獪岳もいる。何度か任務を一緒にしたことで知ったが彼は意外と面倒見が良いし、頼もしい。

 

「……それと、人質のいる場所は恐らく地下だ。吉原とその周辺を調べたが、地上には人間を隠しておけるような場所は見つからなかったからな」

 

 前言撤回。“意外と”ではなく、普通に頼もしい人だった。

 

「はあ⁉」

 

「獪岳さん、いつの間にそんなことを?」

 

「お前らに合流するまでの間にだ。言っておくが俺一人で調べたわけじゃねえぞ。“隠”連中に応援を頼んだんだよ」

 

 そうだとしても、この短期間で調べ上げたのだから凄い。それにこの方法は“隠頭領”の直属の部下だからこそ成せた方法だ。そこまでの地位に上り詰めたのは紛れもなく獪岳の実力だろう。

 

「吉原は狭いが、地下まで探るとなると時間がたりない。だからお前ら二人にも協力してほしい。いいか?」

 

「勿論です」

 

「おう!何すりゃいいんだ!」

 

「俺は住民の避難準備をする。その間に竈門と嘴平は各々の見世で鬼の通路の場所を探ってくれ。その通路から行方不明者の居場所を突き止める。それで全員を救出したら、後のことと住民の避難は“隠”に任せる。それらが終わったら音柱の応援に向かうぞ!」

 

 獪岳の案に炭治郎も伊之助も異論はない。一刻も早く行方不明者を見つける。必ず全員無事に救出してみせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、伊之助が鬼の通路を見つけた。けれどもその通路は身体の関節を外すことのできる伊之助が何とか通れる位の大きさしかなかった。

 

 ひとりで調べるのは危険だが、物理的に通れないのであれば仕方がない。行方不明者の捜索は伊之助ひとりに任せ、炭治郎は、獪岳と合流して住民避難を手伝うこととなった。

 

 

 そして夕暮れ時──

 ときと屋では遊女たちが夜見世の支度の真っ最中。

 

「もう支度はいいから、ご飯を食べておいで」

 

 後はの支度は自分で出来ると、鯉夏は禿たちに食事をしてくるように促した。

 

「はーい」

 

「はーい。今夜のお客さまは大切な方だからお腹が鳴らないように気をつけなくちゃ!」

 

 きゃいきゃいと笑い声を笑い声を上げながら、禿たちは鯉夏の部屋を出る。

 鯉夏だけが部屋に残った隙を見計らい、炭治郎は姿を現す。

 

「鯉夏さん。不躾に申し訳ありません。俺は“ときと屋”を出ます。お世話になった間の食事代などを、旦那さんたちに渡していただけませんか?」

 

 そう言って懐から封筒を出し、床に置く。数日間とはいえ、お世話になった相手に何も返さずに出ていくことは気が引ける。せめてもの礼儀だ。

 

「炭ちゃん……その格好は……」

 

 戸惑った様子の鯉夏。仕事のためとはいえ、騙していたのだ。そんな表情をされると罪悪感が沸いてしまう。

 

「訳あって女性の姿でしたが、俺は男なんです」

 

「あ、それは知ってるわ。見ればわかるし……声も……」

 

「……えっ?」

 

「男の子だっていうのは、最初からわかってたの。鬼狩りの子がどうして女装してるのかなって、思ってはいたんだけど……」

 

 鯉夏が戸惑った表情をしていたので、女装していたことすら気付いていなかったのかと思っていたのに。

 

(まさかバレていたとは……って鬼狩り?)

 

 何故その言葉が彼女の口から発せられるのだ。

 

「えっ、鬼狩りってどうして知って……まさか王葉さんが⁉︎」

 

「いいえ、王葉は何も言わないわ。でも私が鬼狩り様のことを知っていることは、彼もきっと気付いてる」

 

 鬼殺隊のことを話したのか。そう口走る前に鯉夏に笑顔で否定された。悪戯っ子みたいな笑みを浮かべているところを見ると、どうやらカマをかけられたらしい。 

 

「ええと……鯉夏さんはどうして鬼狩りのことをご存じなんですか?」

 

「吉原にはね、昔から色々な噂があるの……それに吉原には偉い人とか、いろいろな人がいらっしゃるし、こういうところにくると大抵の殿方は、気が大きくなって口も軽くなってしまうから自然と、ね」

 

 くすくすと笑う鯉夏に思わずかあっと顔が熱くなる。心臓の鼓動もいつもより早い。

 真面目な性格とはいえ、炭治郎も年頃の男児だ。“色”を纏った花魁を目にすればそれなりの反応は見せる。まあ、本人は気付いていないが。

 

「それと炭ちゃん。少し気になることを言われたからって、そんな簡単に話しては駄目よ」

 

 そう笑いながら炭治郎の頬を突く鯉夏。

 

「鯉夏さん、今日は何だか意地悪です……」

 

「ふふっ、今の貴方が男の子だからよ。禿や見世の女の子にこんなことしないわ」

 

(ずるい……)

 

 彼女の様子を見てそう思った。何がずるいのかと尋ねられたら返答に困るが、今の鯉夏はとても愛らしくて可愛らしい。そんな彼女に対する気持ちを言葉に表すとしたら、それしか出てこなかったのだ。

 

「須磨ちゃんも貴方のお姉さんじゃなくて、鬼狩り様の関係者なのでしょう?でも炭ちゃんが心配していたのは本当よね?」

 

「はい!それは勿論です!いなくなった人たちは必ず助け出します」

 

「……ありがとう。少し安心できたわ……私ね、もうすぐ街を出ていくかもしれないの」

 

「そうなんですか?それは嬉しい……?」

 

 ちょっと待て。通常であれば遊女が吉原を出て行く事は喜ばしい。しかし鯉夏は王葉と“イイ関係”を築いていたはずだ。

 

「……故郷の両親の病がようやく治って、まとまったお金ができるから迎えに来てくれるって手紙をもらったの。そうしたら、一緒に暮らすことができる。今、本当に幸せなの……」

 

 少しの沈黙の後、彼女の身の上話とともに漂ってきた匂いは──

 

「…………嘘、ですよね?」

 

「えっ?」

 

 気が付けば鯉夏の言葉を途中で遮っていた。

 

「いや……嘘では、ない?嬉しいって気持ちは確かにあります……けれど“辛い”って匂いの方が強いです」

 

 よくよく嗅いでみれば、鯉夏の言ったことは“嘘”ではない。けれども本当とも言い切れない。彼女からは“嬉しさ”、“寂しさ”、“辛さ”など、そのほかにも様々な感情が織り混ざった匂いがする。複雑な感情の匂いは生まれて初めてだ。

 

「……何か気がかりなことでもあるんですか?」

 

「……………」

 

 鯉夏は炭治郎の質問には答えず、哀しそうに目を伏せる。

 

「もしかして、王葉さんとのことですか?」

 

 王葉のことを話していたとき、彼女はとても幸せそうに見えた。気がかりなことがあるとしたら、それしか考えられない。だって吉原を出てしまったら、鯉夏と王葉とはもう……

 

「……炭ちゃん」

 

「はい……って痛い!」

 

 神妙な表情で名前を呼ばれたと思ったら、返事と同時にデコピンされた。

 

 額がヒリヒリする。急に何をするんですか。そう抗議の声を上げようと鯉夏の顔を見る、と声を上げることができなかった。

 

 炭治郎の目に映る鯉夏が、あまりにも凛とした姿をしていたからだ。

 

「そういうことは、簡単に聞いてはいけないものよ。それに今の貴方にはやるべきことがあるのでしょう?」

 

 口調はあくまで優しい。それでも背筋がピンっと張ってしまう。どうやら自分は、踏み込んではいけないところまで踏み込んでしまったようだ。

 

「すみません。鯉夏さんのおっしゃる通りです。俺、もう行きます」

 

 冷静になってみれば当然だ。これは鯉夏と王葉の問題だ。第三者が介入すべきではない。

 

「…………私は貴方にもいなくなってほしくないのよ。炭ちゃん、どうかくれぐれも気をつけて」

 

 炭治郎の謝罪に対しては触れず、ただ武運を祈る言葉だけを口にする鯉夏。やはり、この話題には触れるべきではなかったと、炭治郎は己の軽率さを悔やんだ。

 

 そして優しく微笑む鯉夏に、炭治郎は黙って一礼だけ返したのだった。

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