その人は生まれて初めて出会った匂いのしない人だった。
いや、柱合裁判のときは少し距離が離れていたから感じなかっただけで、もしかしたら近くに行けば変わるのかもしれないが、そうだとしてもとても匂いの薄い人だ。
顔が傷だらけの柱……不死川さんから襧豆子を守ってくれたから多分悪い人じゃない。でも厳しい、そして優しい人なのだと思う。
それが件の問題隊士、竈門炭治郎が鑢王葉に抱いた第一印象であった。
そして柱合裁判の後──
「お前ふざけんなよ‼︎頭領の手ぇ煩わせてんじゃねえ!あの人すっげぇ忙しいんだぞ!叱られる前に大人しくしろよ!しかもこの短時間で二回も叱られてたじゃねえか!」
炭治郎は、お館様の屋敷から蝶屋敷までの道のりで隠に盛大に怒られていた。
「謝れ!俺たちじゃなくて頭領に!もう一度しっかり謝っとけよ!」
怒り心頭で炭治郎の頬を人差し指でぐりぐりと突く隠の男性。
結構痛いので正直やめて欲しいが迷惑をかけたのは自分なので炭治郎は甘んじて受け入れる。
「は、はい。謝っておきます。あ、あの鑢さんって人はいったい……?」
頬を突かれながらもなんとか炭治郎が質問すると、隠の男性は怒りの興奮冷めやらずといった様子ではあったが答えてくれた。
「話聞いてたなら分かってるだろうけど、あの人の名前は鑢王葉、俺たち“隠”をまとめる頭領だよ」
「あ、それは話の流れから何となく理解できました。俺が聞きたいのはそこじゃなくて……あの人、匂いがしないのに只者じゃない気がするというか──」
柱合裁判で王葉と並んでいた柱たちからは強者の匂いがしたが、彼にはそれが無かった。
そして、とても背が高くて綺麗な青い目であるところ以外は特に変わった容姿ではない。
(あ、でもお館様ほどではないけれど王葉さんの声を聞くとなんだか落ち着いたな……)
低くて聴き心地の良い声だった──とまあ、そんな細かいところを思い出したくなるほど、炭治郎は鑢王葉という男のことが妙に気になるのだ。
ちなみに王葉の声については、ただ良い声というだけで産屋敷耀哉のような特殊能力はない。精々、閨で相手をその気にさせる程度にしか使い道はないだろう。
「お前の言う匂い云々についてはよく分からねえが、あの人が只者じゃないのは事実だ。その辺の隊士……いや、恐らく柱の方々にも引けを取らない実力者だからな」
「え、でも鑢さんって“隠”なんですよね?その……隠の人たちって後援部隊なんじゃ?」
「別に隠だからって戦えないわけじゃねえぞ?俺とこいつは無理だけど一般人なら簡単に組み伏せられる程度、すげえ弱い鬼なら倒せる奴もいる。まあ、頭領はその中でも別格だけどな」
隠にも戦闘能力を持つものがいるというのは初耳だったので少し驚いたが、よくよく考えてみれば不思議なことではない。鬼の存在がなかったとしても世の中はまだまだ物騒だ。田舎には未だに野党が出るし山奥には熊や猪などの獣だっている。鬼殺隊に所属している以上は必然的に夜間の行動が多くなるのだから身を守るためにも隠が戦う術を持つ必要もあるだろうと炭治郎はそう予想付けた──実はこの予想、当たらずとも遠からずである。
「でもそんなに強いのにどうして隠を……ってすみません」
炭治郎は最後まで言い切ることはせず、謝罪した。その言葉は隠に対する侮辱だと気づいたからだ。一方、隠の男性は淡々と口を開いた。
「その疑問を持つことは普通だし、お前は入隊して日も浅いから別にいい。ただ鬼殺隊には色々な事情を持っている奴らがいる。だからその発言は他でするんじゃねえぞ?」
「はい。気をつけます」
彼は全く気にしなかったが、皆が皆気にしないわけではないので念のため忠告すると炭治郎も素直に頷いた。
「おう気をつけろ。んで、どうして頭領が隠やってるかについてだが……」
その時、隣からカタカタという音が聞こえた。炭治郎が音のした方を見てみれば、襧豆子の入った箱が微かに揺れている。
そして箱を背負っていた女性の隠も気づいたのか首をかしげながら口を開いた。
「あら、お腹でも空いたのかしら?そういえば、この子は何を食べるの?」
「え、ええと……襧豆子は鬼になってから何かを食べたことが無いんです」
言いにくいことを聞かれたが下手に誤魔化すと余計な疑念を生みかねない。そう判断した炭治郎が正直に答えると隠の女性は目を見開いて驚嘆の声をあげた。
「えっ?二年以上何も食べていないの⁉︎この子、どうやって生きてるの?」
「それがよく分からなくて、眠ることで体力を回復してはいるようなんですが……」
「……そうなの、お兄さんとしては心配ね」
炭治郎の困惑した表情を見た隠の女性はそれ以上の追求はせず労いの言葉をかけてくれた。
「はい、ありがとうございます」
こんな風に誰かから労りの言葉を貰ったのは久しぶりで炭治郎は心が暖かくなる。裁判で初めて顔を合わせた柱もほとんどが襧豆子の存在を否定し、排除しようとしたし、比較的好意的な態度を取ってくれた善逸も最初はびくびくと怯えていたのに、この人たちにはそれがない。
「あなたたちは襧豆子を怖がったりしないんですね」
「頭領が危険がないって判断した鬼だからな、お前の妹は特別だよ」
何事でもないかのように言われたが、炭治郎にとっては一種の救いのようなものである。
信用されているのは炭治郎と襧豆子じゃなく、鑢王葉の判断だとしても──
「それでも、受け入れてくれる人たちがいるというのは嬉しいです」
「別に礼をいわれるほどのことはしていない。確かに鬼は憎いし怖いが、それはあくまで人間を襲うからだ。そうじゃないなら必要以上に怖がらねえよ……俺たち鬼殺隊の目的は、あくまで鬼舞辻無惨の打倒だ」
「冷静、なんですね」
「当たり前だろ。じゃないと死ぬからな」
「それも大勢ね」
そう言った二人の声音は、今までと全く同じなのにとても冷たく感じて、炭治郎は思わず鳥肌がたった──そうだ、当たり前のことだが皆、命懸けなのだ。
隠は後援部隊という立場上、それをより強く認識し自身の行動がどれほどの影響を与えるのかを考えている。個としての力ではなく、集団としての団結力が求められるから──
(すごい、隠の人たちも鑢さんも……)
柱や一般隊士とは異なる覚悟と強さを持つ存在に炭治郎は感嘆した。自身も隊士として強くならなくては、襧豆子を人間に戻すためだけじゃない。自身に協力してくれて人たちに報いるためにも──
そう新たに決意を胸にした炭治郎だが、何故王葉が隠をしているかの疑問はすっかり抜け落ち、後日別の人間に尋ねることとなる。
■ ■
“炎柱”煉獄杏寿郎から見た鑢王葉は正に質実剛健という言葉が似合う男だ。
普段の鑢は物静かで温厚であり隠の頭領として常に俯瞰して物事を見定め、的確に隊士たちの補助に回っている。
そして彼は鬼狩りとしての実力も申し分ない。
杏寿郎が王葉の戦う様を見たのは数えるほどしかない──いや、“戦う”というよりは“技を奮う”と表現する方が正しいのかもしれない。何故なら杏寿郎が見た王葉の技は全て一撃必殺であり、王葉と対峙した鬼は尽くなす術なく消え去ったのだ。実に鮮やかに鬼を屠る鑢王葉の姿を見て、彼もまた弛まぬ研鑽を積み己を磨きあげてきたのであろうことは察するに容易かった。
彼の扱う流派は刀を使わない一子相伝の剣術『虚刀流』
刀を扱わずして剣士、剣術とは此れ如何に──と普通は思うだろう。だが己を一本の日本刀として鍛え上げ、戦いにおいても手刀、足刀を主として戦うのであれば、なるほど剣術と称するにふさわしいと杏寿郎は納得したものだ。
「へ〜、只者じゃないと思っていたけど、やっぱり鑢さんって凄い人なんだ!」
「てか鬼を一撃で斃すって何⁉︎何でそんな人が隠なんてやってんの⁉︎俺と代わってよ‼︎」
「そんなに強え奴なのか!今度勝負してやる!」
杏寿郎の話に関心、嘆き、興奮の声を上げたのは任務地でもある列車の中で先程出くわした竈門、我妻、嘴平の三名だ。
炭治郎が戦いに応用したというヒノカミ神楽について杏寿郎に尋ね、その話題が一段落したところで王葉についても尋ねたのだ。
「ところで急に鑢のことを聞きたいとは、何か気になることでもあるのか?」
「ええと、上手く表現できないんですけど妙に気になるんです」
炭治郎は煮え切らない様子で言葉を噤む。妙な縁でも感じたのかもしれないと杏寿郎は適当に当たりをつけ、それ以上の追求はしないことにした。
「ふむ、まあ鑢の存在は鬼殺隊でも異彩を放っているからな!気になる隊士は多いだろう!だが鑢は隠だからといって鬼を狩らない訳ではないぞ黄色い少年!」
それよりも今は王葉を羨むかのような発言をした善逸を諫めるべく、杏寿郎は言葉を発する。
「俺の名前は我妻です、ってまさかその鑢って人……」
「うむ、鬼狩りと隠の仕事を兼任している!最近は我々隊士の補助に回ることが多くなってきてはいるがな!」
勘の良い善逸は王葉の仕事内容について検討がつき、まさかと顔を青ざめれば杏寿郎も肯定の意を示した。
そう、鑢王葉は隠の頭領を務めながら時には鬼殺の任に駆り出されることもあるのだ。
いまは柱の定員が全て埋まっている上に補佐役の隊士が付いたため、王葉の多忙さも以前よりはマシになったが柱に穴が空いている状態での王葉の多忙振りを見ていたものたちは皆一様に彼を心配していたものだ。
「ひいいい!ホント何なの!人間なのその人⁉︎」
善逸は鬼へのものとは全く別の種類の恐怖を
感じていた。一般隊士も命がけだが、王葉の場合はそれに加えて隠としての仕事もこなしているというのだ。
死に場所が机の上というのもあり得る話だと、善逸の背筋に冷たいものが走る。
「やっぱり代わってくれなくていいわ!」
「あ、あの鑢さんはどうして隠の頭領をされているんですか?」
「うむ!理由は単純だ。そもそも“個”よりも“集”としての能力が必要とされる隠には統べるものの存在が必要不可欠だ。そして頭領としての理想的な条件に当てはまっているのが鑢なんだ」
世の中には鬼の仕業のように見えて、実は人間が起こした事件というのも多々存在する。事件の犯人が鬼か人か判別がつきにくいものに隊士の人員を割くことは万年人手不足の鬼殺隊としては避けたい。だが事件を放置する訳にもいかず、かと言って戦闘能力のないものを調査に当たらせれば高確率で犠牲者が出る──
そのような事情がある場合、白羽の矢が立つのが戦闘能力を持つ隠であり、さすれば必然的に隠の頭領には優れた統率能力と戦闘能力が求められる。
そして鑢王葉の戦闘様式は手刀、足刀を主としているため、武器がなくとも戦える。
「そうか、人間相手に武器を振るうことは極力避けなきゃいけないから、武器がなくとも戦える鑢さんは……」
「ああ、まさに隠の頭領としては理想的だ」
また、鑢王葉の扱う流派は隊士が扱う呼吸とは全く異なるものであり、その特性から柱のような『継子』を持つことが困難な点も鑢王葉が隠頭領の座につくことを後押しした。
呼吸の剣術は様々な種類があれど、元を辿れば祖は同じだが『虚刀流』は何から何までが別の流派だ。また平均一年の修業で最終選別を受ける呼吸の剣士とは異なり、習得するまでには最低でも数年の修業を必要とする。
そのため、剣士を鍛えることはできても虚刀流の継承者を育て上げることは鬼殺隊に所属している以上は難しい。
「そういった事情があったんですね。納得しました!ありがとうございます」
「うむ。また何か気になることがあったらいつでも聞くといい!」
元気よくお礼を言った炭治郎に杏寿郎も朗らかに返す。
実のところ、王葉が隠に所属している一番の理由は彼が探し物をする上で都合が良いからなのだが、王葉の探し物については柱と王葉の補佐である隊士、そして一部の隠しか知らない極秘事項なので一般隊士の炭治郎、善逸、伊之助には説明されなかった。まあ、前述の理由だけでも大抵の隊士は納得するので問題はない。
(そういえば鑢も任務でこの辺りを訪れていたな……そろそろ件の探し物が見つかってくれれば鑢の負担も減るのだが)
だが産屋敷が総力を上げて四季崎の刀を探してから百年近くが経過しても見つからないとなると最早──
「切符…拝見…致します……」
そう杏寿郎が物思いに耽りそうになったとき、頬のこけた車掌が切符の確認に現れた。
列車に乗ればごく当たり前のことだ。
だから、それが敵の罠だとは夢にも思わなかった──
■ ■
「やっぱりまたハズレかよ……」
王葉は手に持った短刀を見てガックリと肩を落とした。いったい何度このやりとりをすれば終わりはくるのだ――彼が刀を手にして思うことはここ数年同じである。
「打ち直された普通の変体刀ではあるので情報自体が間違っていなかっただけマシじゃないですか」
なけなしの慰めを言ったのは王葉の補佐として同行した獪岳だ。しかし彼の声音からもうんざりとした様子が伺えるあたり、心境は大して王葉と変わらないのだろう。
「まあな、けど目的はあくまで絶刀『鉋』だ」
その他の変体刀は刀鍛冶見習いですらの研究材料にしない。所謂普通の名刀である変体刀が鬼殺隊の手に渡った場合、全て競売に掛けられ、資金源にされるだけだ。
さて、この刀も早めに売り捌く手筈を部下に──ん?
そこまで考えて王葉は獪岳がじっと刀を見つめていることに気がついた。
「おい、あまり刀身を見つめるなよ。“毒”にやられるぞ」
四季崎記紀の打った刀には総じて人を狂わせる力がある。
所有すれば人を斬ってみたくなる──
どんな手段を用いても己がものとしたい──
そんな風に人を変えてしまう力は“毒”以外のなにものでもない。
「折れたことで一度刀としての生を終えているから大丈夫だって言ってませんでしたっけ?」
「念には念を、だ。四季崎の刀欲しさに小さな町ひとつ壊滅させた奴もいるからな」
「どんな妖刀ですか……」
王葉の話を聞いた獪岳は嫌そうに顔を歪めて呟いた。どうやら刀を見つめていたのは何となくで、そこに大した意味はなかったようだ。
「全く、いつになったら見つかるのやら」
「あの、鬼殺隊が何年探し続けても見つからないってことは国外に外に持ち出されてる可能性もあるんじゃ……?」
「その可能性も無くは無いが、低いだろうな」
何故なら変体刀は幕府が一度全て集めており、それは大政奉還が成されるまで徹底的に管理されていた。
大政奉還の折に政府の資金繰り目的で一斉に売られたが、四季崎の刀の危険性と価値を考慮して、売り先は徹底的に調べ上げられ、売られた後の所在も厳重に管理されていた。
その中でも完成形変体刀は特に厳しく取り扱われた。そして『鉋』は政府の管理が最も厳しい時期に所在が分からなくなった。
当然、政府は躍起になって捜索を行った。国外に持ち出される可能性も考慮し、外国籍の船が出入りする港での検閲も徹底的に行われた。
「──とまあ、こういう事情があるわけだ。流石に現在は『鉋』の捜索は打ち切られているが、廃刀令の影響で刀そのものの所持や国外への持ち出しが制限されているから鬼殺隊の情報網に引っかからないことはまず無い」
一般の人間からすると、行き過ぎた管理体制である。だがそこまで徹底されていたからこそ、鬼殺隊が『鉋』以外の現存する完成形変体刀を集めることが出来たという事情もある。鬼殺隊当主の産屋敷は平安の頃より続く由緒正しき家系なので政府が刀を売り渡す先としては申し分ない──明け透けに言ってしまうと産屋敷家は金とコネの力で完成形変体刀を手に入れてきたのだ。
「それなら確かに国外に持ち出されている可能性は低いですね。ちなみに『鉋』が最後に確認されたのは何処なんですか?」
「打ち直された『鉋』を運ぶ上での通り道だった町だ。地元の漁船しか出入りしないような小さな港町だよ」
「なんでそんな小さな町で所在が分からなく……ってまさか?」
獪岳はそこまで言って先ほど王葉から聞いた“刀欲しさに小さな町ひとつ壊滅させた奴”の話を思い出して青ざめた。
「“喰う”という謂わば生きるためじゃなく、ただ“欲しい”それだけの人殺すんだから本当に怖いのは鬼よりも人間だよな」
王葉のその言葉が答えだった。
絶刀『鉋』は盗まれたのだ。
町ひとつを犠牲にしてでも手に入れたいと、そこまでの執着を抱くほど刀の毒に侵された人間の手によって──
獪岳がそう確信している間に王葉は己の部下に事後対応の指示を行っていた。切り替えの早い男である。
そして、部下への引き継ぎを終えた頃、その場に一羽の鎹烏が現れた。
「伝令!無限列車ニテ炎柱及ビ三名ノ隊士ガ下弦ノ壱ト交戦中!乗客ノ数ハ約二百名!」
伝令内容を聞いた獪岳と隠に緊張が走る──が、王葉はいたって冷静だ。
「下弦の壱──流石の煉獄でも負傷者は出るか。今から向かうぞ、俺に着いて来られない奴は後から追いつけ」
「はい!」
王葉の言葉に、その場にいた者たちは威勢よく返事をし、一斉に走り出した。
■ ■
炭治郎たちの前に突如として現れた“上弦の参”猗窩座──
相対した“炎柱”煉獄杏寿郎は片目は潰れ、肋骨が折れ、臓腑も傷つき満身創痍となっていた。
その場にいる炭治郎、伊之助は上官により待機命令が出ている上に割って入っても足手まといにしかならないと分かっていた。
故に両者の戦いをただ見ていることしかできない──
「生身を削る思いで戦ったとしても全て無駄なんだよ杏寿郎、お前が俺に食らわせた素晴らしい斬撃も既に完治してしまった」
杏寿郎をこの姿にした犯人、猗窩座は先程から杏寿郎を鬼の道へと誘っていた。
「だがお前はどうだ。潰れた左目、砕けた肋骨、傷ついたないぞ。もう取り返しがつかない。鬼であれば瞬きする間に治る。そんなもの鬼ならばかすり傷だ。どうあがいても人間では鬼に勝てない」
実に嘆かわしいとでも言いたげに人間の脆さ、鬼の素晴らしさを説くが猗窩座の言葉は杏寿郎の心には全く響かない。
「俺は俺の責務を全うする!!ここにいる者は誰も死なせない!!」
柱としての責務、信念に燃える杏寿郎は重傷を負いながらも再び刀を構える。
「素晴らしい闘気だ…それほどの傷を負いながら、その気迫、その精神力、一部の隙もない構え──やはりお前は鬼になれ杏寿郎、俺と永遠に戦い続けよう‼︎」
そして猗窩座と杏寿郎の技がぶつかり合う──かに思われた。
「……させるかよ」
「な、なんだ貴様は!!」
「ぐあっ‼︎」
技の衝撃により舞い上がった土埃の中から聞こえてきたのは三者三様の声だった。
視界が遮られていてよく見えないが、炭治郎と伊之助の耳には猗窩座の戸惑う声と杏寿郎のものと思わしき悲鳴、そして二人のものとは明らかに異なる男性の声が聞こえた。
直後、炭治郎の背後で激しい衝撃音が耳を劈く──
音のした方を見てみれば、横転した列車に背を預けるようにして杏寿郎が横たわっている。そして彼の背後にある車体は所々にヒビが入り、崩れ落ちている。
状況から察するに杏寿郎は車体に叩き付けられたのだろう。杏寿郎はわずかに身体を震わせるだけで起き上がる気配がない。
そして土煙の中からは連続した打撃音──いや、もはや衝撃音と称するべきものが響き渡っていた。
「貴様、何者だ……それほどの威力を持った技を放てる手練れなのに、いったい何故!」
土煙の中では猗窩座と誰かが争っているというのは分かるが、視界がはっきりしないせいで誰が戦っているのかが全く分からない。
(いったい何が起こっているんだ⁉︎どうして猗窩座はあんなにも狼狽えたと様子なんだ?)
戸惑う炭治郎をよそに技の応酬は続き、やがて土煙が完全に晴れると、そこにいたのは──
「や、鑢さん……?」
そこには頸周りを真っ赤に染めた猗窩座と面をつけた、無手の大柄な男が立っていた。
面を被っていても炭治郎には分かった。あの体躯と服装は間違いなく──“隠頭領”鑢王葉だ。
「何故だっ‼︎何故貴様には闘気が無い⁉︎」
戸惑い、完全に冷静さを失った猗窩座が王葉に向かって吠える。
一方の王葉は、猗窩座から充分に距離を取ったところで懐から手甲を取り出し、身に着ける。
そして構えたところで猗窩座に向けて、こう言い放ったのだ──
「さあな、探ってみろよ上弦の参…… ただしその頃には、あんたは八つ裂きになっているかもしれないがな」