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夜風はそれほど感じなかった。
海側からの風は寮が壁となってくれている。テラスはこぶのように張り出した校舎側出入り口の、屋上にある。数台のベンチがあるのみの簡素な場所で、水平に見れば転落防止のフェンスで景色は良いとは言えない。
だが真上を眺めれば、UFOのように中央塔の円盤が高くあり、そして星空を視界に入れられる。
今日は月明かりが煌々と照る。風はまだ冷たさがあった。
「なんだか、ようやく喋れるな」
一夏の言葉に、箒の返答は沈黙。
一人分の座席毎にテーブルが備わったベンチに、二人分の空白を挟んで両端に座る。顔を見られまいと、ブランケットを頭から羽織って近寄らせない。
「朝は、ごめんな」
言いそびれた謝罪がするりと漏れる。
「あまりよくない場所に部屋ができちゃったからには、これからは対策しないとな」
表情は読み取れないが、話は聞いてくれているようだ。小さく、ほんの微動で頷く。
「ともかく俺は、箒と一緒の学園に通うことになって良かったと思ってるよ。女の子ばっかりだし、正直不安だったんだ。知ってる間柄の人間がいるだけで心強いな」
頷き。
「ほっとしたんだ」
言葉に、箒はブランケットの影から一夏の足下に視線を移した。
「千冬姉も、箒も、小さい頃一緒だったみんながさ、まったく行方知れずだったんだ。束姉はもちろん、栄榎姉もいない。栄榎姉の母さん父さんが、三年間手助けしてくれたおかげで、なんとかやってこれたけど……」
悩むように踵を上下させて、
「やっぱ不安、だったかもな。今日、久しぶりに千冬姉の顔を見られて、胸の支えが取れた気がした」
リラックスしたように、ベンチを軋ませながらゆったりと座り直す。
「箒は、ちょっと前に新聞で名前見たからな。元気にやってんのかな、って考えてた」
二人が思い返すのは過去。
「もう、会えないのかな、とか」
細い指が、そっとブランケットを身に寄せた。
「それが嫌だったってのもあってさ、千冬姉や箒に少しでも近づけられるならと思ってIS学園に入ろうとしたんだ。まさか、横須賀の防衛科学校じゃなくて学園に通うことになるとは考えもしなかったけど」
「お前は……」
しわがれた声が漏れる。不意の音に一夏は驚くが、箒も意外に出せなかった喉に苛立たつ。
「お前は、ISが憎くないか」
粘った喉を開き、更に音を絞り出す。
「父は……ISに殺されたようなもの、だろう」
腑に落ちる。箒の涙の訳はこれか、と。
男尊女卑、女尊男卑。男女平等のために多くの人間が苦心惨憺しているというのに、その理想というものがどんな形なのか描くこともできていなければ、まして実現など夢である。そして、ISは女尊男卑を加速させた。
ISによる女性の地位向上、と言えば、まるで男との差を埋められたように聞こえるが、実態は異なる。ISは依然として未知の多い技術ではあるが、既知の部分でさえそれまでの技術を凌駕する能力を持つ。社会の変貌は避けられない。
男女の、互いへの誹謗はこの一〇年で苛烈さを増した。無論、過度な羨望、蔑みが引き出した根拠のない言葉もあった。
変化を見せた社会で父子家庭というのは、つまり未来のない家庭だ。男はより良い仕事を受けられる機会に恵まれなくなる、という勝手なイメージによってそう言われた。そんな織斑家に千冬がいたのは、幸でもあり不幸でもあった。
早期にIS適性を見出された千冬の存在で安定した補助を受けられた反面、無関係な人間からの妬みは激しいものだった。父は社内での陰湿な虐げに遭っていた。
ただし一夏や千冬には、そんな片鱗はまったく見せなかった。
結果、積み重ねたストレスで事故に遭い、息を引き取ることとなった。
少なくとも箒は、苦境に立たされる父子家庭がこの世に存在していることを知っていた。その理由は全てISにあると考えているのだろう。
「憎んだ方が、いいのかな」
ぼぉ、と空を見上げる。微かに波の音が聞こえる。時折吹き込む風も心地よい。
朝、二人はあの空を飛翔した。それは紛れもなくISのおかげであった。
「憎んでいい」
それは、
「あの女のせいなんだ……」
箒を包むブランケットの皺が深まる。
「なら尚更、ISを憎めないな!」
答えは単純だ。
「俺、家族が大好きなんだ。束姉や栄榎姉もそうだし、もちろん箒も。だから、大好きな人を、大好きな人が作り上げたものを憎みたくはない」
一夏は、いつまでも夜空を見つめながら語る。自分が箒にどう答えればよいか、正と負の感情が夜明けの空のように曖昧な境界を描きながら、言葉を選んでいく。
「そりゃ悲しかったさ。父さんがいた会社が倒れたのを聞いて、ざまぁみろって考えたこともあった。考えない、なんてそりゃ無理だろ? 俺は聖人でも、ヒーローでもないんだ。俺は……ただ」
深呼吸。
「家族だと思える、俺の大好きな人たちが作ったものを、見捨てたくない」
箒は前髪とブランケットのカーテンから、一夏の顔を覗く。少し白い肌が、青銀の月光に照らされている。
昼間のIS戦のやり取りを思い出す。彼に対面した時、その瞳は強い意志に輝いていた。白式の輝きが霧散し、全力の突撃を敢行した一夏を目の前にしたあの瞬間、箒はその瞳だけに心奪われていた。
剣道において大事なのは目線。一点でなく全体をみる。そう鍛えられ、ISによって更に強化された筈なのに。
心を奪う目とは、どのような目なのだろう。親を失った悲しみから立ち上がった目? 否、それだけではない。ただ、それ以外がわからない。
いつしか、空を見上げたままの一夏に習い、箒も空に視線をやっていた。ブランケットが肩に落ちる。
「俺は守りたい」
「ぇ?」
脈絡なく一夏が独りごちる。
「父さんと母さんは俺たち二人を残して逝っちまった。母さんのじいちゃんばあちゃんはいないし、父さんの方は当てにならない。千冬姉はISの世界に入って遠くに行ってしまってた。唯一手助けしてくれた栄榎姉の両親も、自分の娘が行方不明になったってのに我慢してくれてた。柳韻さんの連絡先も知らないし、箒にさえ……」
拳に力が篭もる。
「なんていうか、世の中って結構色々戦わないといけないんだな、って気付いた。俺がまだ知らない何かで戦わなくちゃいけない」
夜空を視線が彷徨い、果てに真っ白な月に止まる。
左腕の白を握りしめた。
「そんな時にISを起動できた。ほら、不条理なことってあるだろ。道理のない暴力って多いぜ。そういうのからISなら、これからは、一緒に戦ってやれるんじゃないかって、守れるんじゃないかって思う」
千冬姉が空の向こうで俺を守ってくれていたように、と一夏は姉の背を思い返す。今度は俺が千冬姉を――いや、俺が守りたいと思うみんなを守りたい。
束姉が作ったISでそれを叶えたい。
違う。
あの天才篠ノ之束が作った物だ。叶えられる筈だ。
「ふっ」
吐息。
「ふっ、ふふ」
微笑は箒からだ。
「今日初めてISを動かした人間の台詞らしい」
「大ボラって言いたいのか。そういうならまずは箒が引っ張り上げてくれよ、俺よりも先輩なんだしさ」
二人は見つめ合う。
遠くなんてない。その手の届く距離に、互いの体は存在している。かつて一緒だった頃のように再び切磋琢磨できると、そう確信していた。二人の間は今数人分隔たれている。離れていた時間は、もっと開いている。
心はそれでも繋がっていたと、そう思える。
「見てやる」
「ん?」
小声に聞き返す。
「見てやると言った。私を超えるつもりなら、まずは私と同じ高みまで着いてこい」
「ああ! やる気はばっちりだぜ」
満足気に鼻を鳴らした箒は、そっと目元を拭いながら立ち上がる。元の凜と涼んだ表情に立ち返っていた。長い黒髪も、紅白のリボンも、その肌も、夜空がよく似合う。
「お墓参りに、行かなくてはな」
「父さんも母さんもきっと喜んでくれるよ。さ、部屋に戻ろう」
二人揃ってテラスを出ようとして気付く。ガラス張りの扉の向こうに影がいくつかあった。こちらを見ていた一人と目が合う。
おずおずと姿を現した同級生たちの手には掃除用具。
見られていたことに気付いた箒は、大きな足音と共に足早に去ってしまう。
「ご、ごめんなさい! 覗くつもりは……」
気弱そうな同級生が道を空け、謝罪も重ねる。その言葉が終わる前に箒はそのまま通過。
一夏との訓練に力を入れるのは良いが、一夏からも別の訓練が必要かと、「心配しないで」とフォローを入れながら想う。
「恥ずかしがってるだけだから」
「行くぞ一夏!」
怒声に引っ張られた。
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「もっと交通の便を良くして欲しいんです!」
クレッシェンドで強まる語気に、長くグラスを傾けていた千冬は思わずむせそうになる。
それぞれ数杯目に至る三人の中で、饒舌を振るうのは山田であった。話題は、学園と都市部への交通手段の悪さについてである。
「ジンの割合間違えてないか」と小声で須藤に耳打ちするも、積まれた空のトニックウォーター瓶を無言で見せられる。普段隠しているストレスが口数に表れたらしい。
「そんなことよりもです。いいんですか織斑先生」
なにが、と口を開く前に山田が続ける。
「こんなところに弟さんが来ちゃったら、大変じゃないですか」
「またそのことか。他人の女難を憂う前に、自分の男ひでりを嘆いたらどうだ」
「むぅ。目の前の人より男前な人が現れないので」
「私よりか」
「あたしより?」
二揃いの双眸が睨み合った。
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ガラスの向こう、怒り肩の女生徒とこの土地で唯一の男の影が、その輪郭がぼやけ離れていったと把握できるまで、眼鏡の奥から冷え切った目で見送った生徒がいる。
「はー、きんちょうしたー」
別の生徒が胸をなで下ろす。
「奇跡の男と篠ノ之のペアなんて、どう頑張っても関われないよねー」
また別の生徒が、水の溜まったバケツを置きながらそう言った。
「何? あれデキてるわけ?」
「さぁ。聞いてみれば?」
「奇跡の男が一人の時に聞いてみるわ」
「なにそれー。篠ノ之が怖いの?」
「関わりたくない。開発者の妹でしょ、厄介」
眼鏡の生徒は会話には加わらず、無言でクロスを水に濡らし、ベンチを拭いていった。
しばらく掃除が進んで、
「ええと、ね、ねぇ」
気の弱そうな女生徒が、黙々と拭き掃除を続ける彼女に声を掛ける。
「……なに」
思い出したような返事。
「そのベンチだけ、拭きすぎ、じゃない?」
眼鏡の奥の目が、じろっとベンチを睨む。ややあってから彼女はクロスを洗いに戻った。
ベンチにはもう、ふたつあった温もりは消えていた。
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