第一話
▼▼▼
聞きたくない声は聞こえてしまう。咄嗟に耳をふさいだのに。
「はろー! はろー!」
声は聞こえ続ける。
「はろー! はろー!」
美しい朝焼けが、遠くの空から砂浜を照らしていた。小さな、小さな砂浜は、いまにもすっかり波に飲み込まれてしまいそうで、わずかに残った緑と一本の木を守っている。砂浜に襲いかかる白波は、まるで飛び跳ねるように水面から湧き上がり、砂浜の表面を蹴り飛ばしながら消えていく。
砂浜を囲んで、そこかしこで、突然現れて、不意に消えて、ただ繰り返して。
「はろー! はろー!」
昔から聞いていた声は、その白波から響いていた。
耳をふさぐのは諦めて、水平線の向こう、遠く朝焼けに想いを馳せる。世界を照らし始める暁光は、白波の正体を暴いた。
「はろー! はろー!」
綿毛のような白い体毛が全身を覆い、長い耳と、植物をかじるための門歯と、よく飛び跳ねる動物が蠢いている。
数え切れない朝日はこちらを凝視する。
押し寄せる白波に思わず後ずされば、踵が蹴ったのは壁。はっとして振り向いた先には、いつか見た小学校の壁が立ちはだかっていた。その真新しい壁は、卒業まで見る筈だった小学校とは違った、思い出も何もないのっぺらぼう。
「はろー! はろー!」
壁の内側に、自分を知る者は誰一人としておらず。一年にも満たない間、押し込められたおもちゃ箱に混ざっていただけ。
自分を守って立ち上がる背中は、ここにいない。
「はろー! はろー!」
足元が白波にさらわれ、ふらりと体勢を崩す。いや、このまま倒れてしまってもいいのかもしれない。綿毛に溺れ、かじられ、蹴り倒されても、いいのかもしれない。
「はろー! はろー!」
背後にはまたもや壁。
小学校を卒業して、連れて来られた校舎。
――ISに乗れ。乗らないならば、その身に存在意義はない。
初めて会う大人たちの言葉は、みな同じように聞こえた。
――お前の姉はなぜこんなものを作った。責任をとって、ISに乗り続けろ。
同じ校舎に通う者たちの目は、みな同じだった。
「はろー! はろー!」
強者が放つ突きの如く、視線と言葉が襲ってくる。
ここにも、自分を守って立ち上がる背中は、いない。
「はろー! はろー!」
朝日に照らされ、砂浜を切り裂く自分の影の只中に、誰かが弱々しく佇んでいる。
涙を流している。
彼女は耳をふさぎ続けていた。すべてを拒絶して、しかし飛び跳ねる白波に両足を濡らしながら。
無力な自分に嘆いているのか、あるいは目まぐるしく変化する世界を恐れているのか。
気を抜けばきっと、彼女はずぶずぶと溺れ、やがて死んでしまうだろう。
「はろー! はろー!」
助けなければならない。
私が。
「はろー! はろー!」
私が……代わってあげるから。
「はろー! はろー!」
耳はふさいだままでいい。私の声さえ届けば。
影の中の少女は強く、強く耳に手を当てて、震えていた。
「はろー! はろー!」
私が……きっと代わってあげられるから。だってあなたは――。
あなたはよわいもの。
▼▼▼
「生徒へは公表しないんですか?」
セキュリティルームの入り口の時計は二つ。片側は朝七時と時刻を示す時計、一方は残り時間を数えるタイマーであった。
IS担当科目職員室に併設されるセキュリティルームには、業務を支えるサーバー以外にも、生徒の個人情報や学園に関わる情報等が紙面で保管されていた。紙を傷めないよう設計されたエアコンが、サーバー温度を常時管理していて室内は涼しい。
この場所は通常科目の教師は入室できず、しばしばIS担当教員の井戸端会議の場となっていた。飲食物は持ち込めない上に、監視カメラが一挙手一投足を正確に記録し、長期滞在も認められないので長話にはならないが、音の反響が抑えられたこの場所は閑談に最適であった。
だが、織斑千冬と山田真耶の今朝の話題は深刻で、とても閑談とは呼べない。
「
山田からの問いは、先日の篠ノ之束IS学園出没事件について。千冬は作業を進めつつ答える。
「目的は『平穏な学園生活の維持』。特定の学園に篠ノ之束が現れたことを生徒が知れば、生徒同士、学園同士のいさかいに発展しかねない、だと。そんなことでいがみ合うような生徒がいるとは思いたくないが……去年までとは状況が異なる」
千冬自身のタブレットと、棚から引き出した冊子を交互に照らし合わせる。背後から山田が唸る声が聞こえる。その間、静謐な空間に響いていた打鍵音が途切れた。
「箒さん、ですね」
「そうだ」
間髪入れず返答する。
「事実、四月には生徒会や教師が対応せねばならないほどに流言飛語が飛び交った。篠ノ之束の妹であるというだけで、この学園でさえそんな事態になった。では『篠ノ之束が現れた』という事実のみが生徒に告げられた場合、どうなる?」
背後の打鍵音が再び止まる。
「篠ノ之博士の目的は我々も把握仕切れていません。ですが『不明』という状態を生徒たちはまだ受け入れられませんよね。そうなれば必ず、理由を明確にしようとするはずです。本来であれば、不明の状態を解明することで理解につなげますが、それができない子たちは、既に存在する事柄を理由として補おうとします。つまり、篠ノ之博士は箒さんに会いに来たんだ、と。同じ名字で、実際に血縁関係があるから。でも、問題はそこから先なんですね」
今度は千冬が手を止める番になった。
入学式直後、箒に対する風評被害は留まらなかった。あと一歩、対処が遅れていればどうなっていたか。いち早く気付いたのは現生徒会長の三影玲夜だ。無論、教師陣も箒の立場を考え常に目を光らせていたのだが、子どもの情報網というのはどうしてか大人の想定を上回る。三影が一部の過激な生徒を的確に見つけ出し対処したおかげで、噂の暴走を抑えられたのは否めない。何かしらの形で感謝の気持ちを示したかったが、三影には断られた。
しかし、再び流言飛語が熱を帯びれば、生徒会はおろか教師でさえ制止できない可能性は考えられる。
「もし篠ノ之が学園内でひどく追い詰められる状況になると、退学を望むかもしれない」
「ですが、箒さんは……」
山田が言葉を濁す。篠ノ之束の妹が、IS業界から離れられるわけがないとわかっているからだ。絡むのは本人の意志だけではなく、あの未知の存在を理解したいと願う多くの意志が介在するであろう。大げさにではなく、箒の退学はISの研究に影響を与えると言える。
「状況が箒さんの逃げ道を断つことになります。私たち教師も箒さんから見れば、追い詰める側です」
「では、逃げ場や自己の拠り所を失ったと理解した人間は、何を求めるか」
山田が吐息を震わせる。最悪の想定を浮かべたからだ。この学園は東京湾のど真ん中にある。
「心は、とりわけ子どもの心は強くない。大人でさえ求めることもあるのだ」
いや。心の強さは関係ないか。状況が求めさせるのだ。
「それを防ぐための『平穏な学園生活の維持』が目的だ」
「ま、まってください」
鼻をすすった山田が声を上げる。
「目的はそうなのかもしれませんが、変です。国連が生徒一人の生活をこんな形で気遣うとは思えません。例え、さ、最悪の状況になりかけたとしても、もちろん私たちがまずそんな事態を阻止しますが……ですが、国連や国であればどうとでもできるはずなんです。なんらかの施設に箒さんを匿うことだってできます」
千冬は心の中で唸る。山田は知ってか知らずか、事実を言い当てた。
箒が小学校六年生に上がる頃、保護の名目で篠ノ之一家が転居を余儀なくされている。日本政府と国連の監視の下に置いたのだ。箒は転校先で最後の一年間をとりあえず過ごすよう命じられた。
それは篠ノ之束が消息不明になった二〇二九年から、三年後の出来事であった。失踪直後ではない理由として次が挙げられる。
二〇三一年のイタリアにて、IS粒子研究に勤しむ夫婦が反IS派からの襲撃を受け、死亡している。あの年、世界中でIS関係者に対するテロ行為が頻発、一〇名以上の関係者、数名の近縁者が亡くなった。
日本では対策の一環としていくつもの計画が実行された。その内のひとつに、重要人物保護プログラムと題し、二〇三二年初頭に一度だけ実行されたものがある。国の指示により、多くのIS関連従事者が転居を強要されたと聞いている。運悪く一度の実行に名を連ねたがために、今も定期的に居を変えているという話もある。そしてこの計画には、篠ノ之一家が含まれていた。
千冬がプログラムを知ったのはもう少し時間が経ってからであった。同年開催されたモンド・グロッソⅡのために様々な機体研究、戦術研究に明け暮れていた。また大会の後には、複雑な状況に置かれてしまっていた。箒が転校させられ且つ強制的にIS学園中等部へ送り込まれたと知った日の夜に感じた、子どもの自由を奪った自国に対する怒りと、強く思い知った己の無力さは、今でも忘れられない。
過去やってしまった事実がある以上、山田が言うように、政府や国連は箒をもう一度『保護』できる筈である。
「私もそう思う。つまりは、篠ノ之が学園から離れることで困る者がいる」
「篠ノ之博士が目的ですね」
「あいつの動向は、全世界が知りたがっているからな。言うまでも無く、この国も」
「彼女の動向を知るための、囮……ですか。悔しいですね、こんなこと」
沈黙。心なしか、打鍵音が強くなっている。
セキュリティルームの連続滞在可能時間が刻々と過ぎていく。前年度卒業生のための資料をまとめる千冬は、沈黙の中で集中力が戻るのを感じていた。ISに身を包んでいる時と違って、生の目では処理能力にぶれがある。常にISの機能を使える時代が来れば、人類は大きな変革を迎えるのだろう。生まれつきの差に左右されない、高度な平等を土台とした自由が。突飛な話だろうか。
「あれ?」
滞在時間が残り少なくなり、それぞれが資料を元に戻し始めた時、唐突に山田が疑問の声を上げる。
「おり……一夏くんは?」
「何?」
「『平穏な学園生活の維持』目的の情報統制。箒さんが対象と見られるんですよね。でも、一夏くんは?」
千冬はタブレット内の資料を整理し、山田に向き直る。
「その通りだ」
「はい?」
言葉の足らない返答に怪訝な顔。
「まだ国連は、篠ノ之束と一夏、白式との関係は把握していない。彼らも『篠ノ之』の名に踊らされているようだ」
「そうなりますよね。やっぱり、そうですよね」
答え合わせがうまくいったような顔。
国連が――日本向けの業務に携わるごく一部の日本人を除き――把握しているのは、篠ノ之束がIS学園に侵入、なんらかの接触を図った事態のみ。その手段や目的は
実証機計画の中心人物として篠ノ之束が偽装していた、と国連が知っていたならば、今頃目の色を変えて一夏へのアポイントメントを取る筈。更には、偽装を見抜けなかった日本への糾弾があってしかるべきだ。それが無いということが、国連の持つ情報量の証左となる。
日本を代表してUNISO理事会に立つ轡木十蔵理事が、恐らく学園からの報告を彼自身までで留めているのだろう。『ごく一部の日本人』筆頭である。彼がその気であるなら、我々が無駄に慌てふためく理由はない。万が一に他学園や他国から問われたとしても「国連本部へ報告済みである」とだけ返せば、後は『ごく一部の日本人』がうまく処理する。
篠ノ之束と白式の関係性は、日本だけが持つ情報となった。これで日本が有する囮は二人。実際には千冬自身も含まれて、三人。いつ何時、あいつが我々の前に現れるかを自衛隊は今か今かと待ち望んでいるだろう。
ちらりと監視カメラを見やる。
「だが油断はできない。白式を操っているのが男、というだけであの機体もパイロットも十分注目を集めているのだからな」
気を付けた方がいいね――冷え切った声音が思い出される。
出入口のライトが赤く明滅する。滞在限界だ。持ち出せない資料をしまい込み、自身のものは鞄にまとめ、セキュリティルームを後にする。施錠と入退室記録のために、扉に備え付けられた土台に手を載せ、カメラに顔を見せつつふっと息を吹く。顔・虹彩・呼気・掌紋の複合認証だ。
前室から職員室に戻れば、数学教師が生徒に関する相談のために担任を訪ねていた。こういう状況が多々あるので、セキュリティルームでの作業はなかなか重宝する。通常科目の教師は一般から採用されているので、重要事項に対する感覚――耳に入った話題を胸の内でどのように処理すべきか、自身が持つ情報や立場から考量できること――が、自衛隊出身のIS科目教師と比べれば、当然ながら疎い。
同じ学園の教師といえど、明確に線引きは存在するのだ。
SHRの前にコーヒーを飲もうと考えた。そこに、山田が不安げに漏らす。
「また来ると、思いますか?」
「あの一度きりかもしれないし、あるいは、毎日来ているかもしれない。あの女はわからん」
理解できるのであれば、歴史上の偉人たちをこの時代でも研究する理由はない。
「これから三年間、篠ノ之博士来襲という恐怖に対処しなければならないんですね。明日からは連休も始まりますし。――そういえば、一夏くんたちは外出申請するんでしょうか。まだシステムから通達ありませんが」
「もし外出するとなれば、自衛隊だけが頼りになる」
学園外に出る際は、本人から見えない位置で自衛隊による護衛が付く。外出となるとだいたいは生徒が息抜きのためにしているので、なるべく息苦しくないよう配慮がある。これまで外出先で学園生が襲われたなどという話は聞かないが、何分相手は子どもだ。自分から悪意ある大人に身分を明かしてしまうこともあるだろう。そんなことをすれば誘拐、命に危険が及ぶなんてことにも発展しかねない。
ましてや一夏は……。
「もしかして、ずっと一緒にいられれば、なんて考えています?」
「ふん。自衛隊は頼りになる」
モンド・グロッソⅡのあの夜も、自衛隊はそうであった。心配するだけ無駄なのだ。
「織斑先生?」
「学園創設以来、外出時に学園生が問題に遭ったことはない。彼らの技能がうまく働いている証拠だ」
ヒールを鳴らして棚の前に立ち、インスタントコーヒーを選ぶ。
「ええ、そうですね。ふふ。お姉さんですね」
「うるさいぞ」
脇に挟むバインダーで小突いた。
▼▼▼
「おーい! ホームルームに間に合わなくなるよー!」
というクラスメイトの掛け声も虚しく、銀灰の機体と、白磁の機体は空中で衝突していた。
「ええい、何度言えばわかる! こう、ぐっと構えて、ばっと行くんだ。そうすれば目指した地点を外さない! おい、なんで私に向かってくるんだ! 減速タイミングはもっと早い。この辺りで減速しろ。もう一度!」
「わかった。こうだな!」
叱責に、白の機体は挫けない。一〇〇メートルを瞬時加速で一気に詰めた機体は、片翼を打鉄にこすりながら脇をすり抜ける。すり抜けて、そのまま背後が疎かになり、瞬時加速終盤の減速時に打鉄から一太刀を入れられる。
「ぜんぜんだめだ! もっと、どんっと早くだ! こうぐぐっとする感じで回るんだ!」
「こうか!」
「違う!」
「こうだな!」
「まったくダメだ!」
訓練と呼べるか怪しいその様子は、用務員に止められるまで続けられた。
▼▼▼