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羽田空港から八王子方面に一時間ほど。雲ひとつない青空で、まさにこんな空こそ無限の蒼穹と呼ぶべき快晴である。気温は高くなく、風もそよぐ程度でたいへん過ごしやすい。
「寒くないか、箒」
「ふん、気遣いは無用だ」
隣を歩く箒を見れば、顔はあまり動いていないものの、視線はきょろきょろと巡っていた。
「道、覚えてるか?」
「何度も歩いた場所だ。忘れるはずがないであろう」
駅から実家までの道は、途中で通学路と合流する。
なぜだか、一夏自身も懐かしく感じる。中学に通う道で、つい最近まで使っていたはずなのに。昼前の、陽が差し込んだ住宅街は少しだけほこりっぽくて、まるで色あせた写真を眺めているかのようだった。
それを箒に話すと「ひどく年を取ったような言い分だな」とにべもない。
「俺にとっては怒濤の数ヶ月だったよ」
「一年後も同じ事を言うのだろう?」
「かもな」
駅を降りてから二十分ほど、バス停はあるが広くない二車線道路に沿って歩いてきた。もう少し先の信号の無い狭い交差点を曲がり、更にしばらく歩くと実家だ。織斑家、千冬と束の幼馴染みであった海江田栄榎の家があり、そして篠ノ之家があった。
交差点で、箒の歩みが遅くなる。
通路に入る頃には、足が止まってしまった。
箒の顔は、路地の先、背の高くない一軒家やマンションが並ぶ先に、少し背が高めの真新しい建物に向いていた。ちょうど、篠ノ之道場――箒の父親が営んでいた剣道場、箒と束が育った立派な屋敷があったはずの場所。
路地に入れば、篠ノ之家の瓦屋根や納屋が頭をのぞかせた。いまよりもずっと背の低い頃でも見えたのだから、それは立派な建物であった。だが一家が出て行ってしまい、保持する人がいなくなると取り壊されてしまったのだった。
千冬姉も通った、姉を誰もが憧れる剣士に育ててくれた道場はもう無い。
箒は立ちすくむ。
「連絡する術がなかったから、結局言えなくてさ。箒に……直接見てもらおうと思って」
「私が……」
ぼおっと、新しく建てられたマンションを眺めながら箒が口を開く。
「私がIS学園中等部に入ることが決定し、父と母の元から離れる前だ」
「小学校卒業する頃か」
「ああ。国からあてがわれた家は狭くてな、父と母のけんかは、布団をかぶっていたってよく聞こえた。あの女の行いにも腹を立てなかった二人が、始めて恐ろしく見えるほどのけんかだった。あれは、あの土地を手放すか否かの問答であったのだな……」
取り壊しが決まったと知ったのは、中学入ってすぐ。隣家の海江田家から知らされた。しかし、実際に取り壊しが開始されるまでには一年近く掛かっていた。政府の人間らしき作業員が何度も出入りしているのを見た記憶がある。まるで土足で踏み込まれている気がして、気が悪かった。
あれはきっと、篠ノ之束の手がかりを探っていたのだろう。
「取り壊しの防音シートが張られていった時にさ、石でも投げてやろうかと、何度も葛藤したんだぜ」
「仕様がなかろう。誰も住んでいないのだ」
箒は再び歩き出し、実家のあった手前まで進む。住宅街の真っ只中にありながら、駐車場を完備したきれいなマンションだ。ベランダには洗濯物が干されており、時折子どもの声が聞こえる。
「だけど、道場の看板は町内会で保管してくれているんだ。剣道具は確か、剣道連盟から海外に寄付されたんだっけな。そうだ、瓦が何枚かと、庭にあった梅の木も保管されたんだった。みんな、なんとかして残したかったんだよな」
箒が手のひらで目元を拭う。
「看板だけどさ、
「保護プログラムのせいですこし複雑ではあるが……話してみよう」
「頼む」
「あら! 一夏くん!」
唐突に聞こえた背後からの声は、海江田栄榎の母親である梓であった。千冬と束の友人であり、一夏と箒にとっても姉のような存在であった栄榎。彼女の母親であり、三つの家族の中で最も母親らしい雰囲気と恰幅がある。細身だった一夏の母と箒の母に、真っ昼間からご馳走を振る舞う人だった。
梓は、一夏の隣に経つ箒を見て、固まる。
「もしかして……箒、ちゃん?」
「はい。お久しぶりです」
口をぽっかり開け、たちまちに驚きの表情に変えていく。
「箒ちゃん! あなた、箒ちゃんよ! あなた!? 箒ちゃん!」
取り乱して竹ぼうきを放り投げた梓が、門扉をはじけ飛ばす勢いで駆け寄ってきては、箒を思いっきり抱き締めた。
突然の抱擁に箒は目を白黒させて、そっと梓の肩に手を載せた。身長は箒の方が大きいはずなのに、文字通り抱え込まれている。
「もう、会えないのかと思っていたの」
「ん……里帰りできず、申し訳ございません」
「謝ることなんてないのよ! 謝らなきゃいけないのは私の方。みんなで協力したけれど、お家、守れなかったの。ごめんなさい」
たっぷりと抱擁を交わしている間に、家から更に長身の男性も慌てて飛び出してくる。夫の努だった。
通行人の目も気にせず、四人で再会を祝った。
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「今日はどうしたの?」
梓が箒の腕を抱きながら、一夏に尋ねる。箒はすこし恥ずかしそうだ。
「ついちょっと前まで雪子ちゃん来ていたのよ。先に言ってくれれば、もう少しいてもらったのに」
雪子とは箒の叔母にあたる方。広い道場の掃除やら庭の管理やらでよく来ており、一夏と千冬にとっても馴染み深い女性だ。一夏が中学生の間は、千冬がISの仕事で海外に出てしまい一人暮らしだったため、梓と合わせて面倒を見てくれた。
「連休中に一度家に寄りたくってさ。その、千冬姉の私服を取りにね」
「え!」
案の定、ISの仕事で海外を飛び回っているという認識のままだ。一夏でさえそうだったのだから、驚くのも無理はない。
「IS学園に、千冬姉がいたんだよ」
「えー!! 日本に戻ってたの! それならそうと早く言いなさいよ! あっ、言いなさいよ、って言っといてね! もー、戻ってるならどうして言わないの。しかもIS学園だなんて……二時間か三時間もかけずに来られるでしょ? まったく、そんなに忙しいのかしら」
「他の教師からも頼られているんだ。大声は相変わらずだけどな」
「道場でよく、栄榎と束ちゃん相手に大立ち回りをしていたものね、懐かしいわね」
今回の帰省にはいくつか目的がある。そのひとつが、
「あとは俺の両親に、箒を会わせてあげたいんだ」
お墓参りである。
「それはいいわね! きっと喜ぶと思うの。お墓参りなら午前中がいいわ。お昼ご飯用意しておくし、支度できたら行ってらっしゃいな」
「そうするよ」
「あ、箒ちゃん! いろいろと渡したいものがあるの。あとで楽しみにしててね!」
「は、はい……」
勇んで買い物の支度を進める海江田夫妻にカバンを預け、同じ道をさらに行った先の小山に向かう。あそこには篠ノ之神社がある。篠ノ之家ゆかりの地であり、ご神体として刀を祀る神社だ。神社本庁には加盟しておらず、篠ノ之家の資産と町内会費で維持されてきた。
毎年祭を催していて、ご神体である刀の模造刀を使い――その昔はご神体そのものを授かり――神楽舞が行われた。箒の母親が巫女装束で刀を振るう姿は、子どもながら美しさと気迫に見入ったものだ。この舞をいつか箒が継承するのかと思うと、普段の竹刀を振るう姿に、どこか母親の気迫を重ねたのだった。祭の直後限定で。
重要人物保護プログラムなんてもので移住を余儀なくされてからは、祭は開催されなくなった。
「神社は宮司さんが掛け持ちになったんだ。お祭りはできなくなってしまったけれど、よく管理してくれていると思う」
「それは、ありがたいな」
標高五〇メートル程度の山沿い、境内へ続く階段を昇る。等間隔で灯籠が並び、石段で整えられた周囲を並木の影が落ちる。涼しいおかけで苦に感じない。如月とする早朝ランニングで体力もついてきているだろう。
昇りきって大鳥居を前に、ふと振り返ると、箒がようやく昇ってきたところだった。足取りが重そうである。
「来たくなかったか?」
「そんなことはない! 知れてよかったと思っている。三年も離れていた上、理由も理由なのだ、致し方ない。父も母も手放した後の家がどうなっていたか気になっているだろうから、これで連絡ができる。ただ、なんと言ったらいいか」
声音が少しずつ震えていく。山の上まで昇ってきて、箒は弱々しく立っていた。
境内からは絶景とは言えないが住宅街を見渡せる。ここからはっきり見えた篠ノ之道場が消え去ってしまっている景色は、胸にぽっかりと穴が開いたようだ。
幼少を過ごした家が無くなった感傷は一夏にはわからない。織斑の家は鍵を海江田夫妻に預けて管理してもらっており、支払いは千冬が負担している。慰めの言葉は選べない。
「わからんのだ、ただ……」
彼女は、恐ろしい呪文を唱えるかのように漏らす。
「ISが無ければ、あの女がいなけ――」
「箒!」
「あ……」
「それはだめだ」
ガントレットを握る。
「だめだ。前も言っただろ。確かにISで何もかも変わってしまったかもしれない」
篠ノ之家を強制的に転居させた重要人物保護プログラムが発せられた背景は、当時のIS関係者を取り巻く情勢にあった。イタリアでの事件を皮切りに世界中へ波及した、IS反対派のテロ行為から守るためである。ましてや、開発者篠ノ之束が行方不明になった当時、親族を脅して束を呼びつけようとする卑劣な人間が現れないとも限らなかった。それを思えば、要人保護が実施されたおかげで、箒の命が守られたとも言える。
そもそもISが無ければ、そんな事態すら引き起こさず、世界を激動の坩堝に放り込むこともなく、それまでの百年と同じように次の百年を進歩していったことだろう。ISが無ければ、と考えてしまうこともあるはずだ。ISの適性がある人間も、そうでない人間もきっと、同じように一度は考えてしまうのだ。
「それでも、束さんがいなければ、なんて言わないでくれ」
家族を否定しないでくれ。
「家族が作り上げたものを、憎まないでくれ」
箒は少しずつ、視線を山からの景色に移していく。その先には、あの新しいマンションがある。子どもが、母親と父親に連れられて出かけていくのが見えた。細長い何かを握りしめて駆けていき、父親は一抱えもあるカバンを持つ。あれはきっと、そう、子ども用の剣道具だ。
空気は澄んでいる。箒が一呼吸して、息を長く吐いた。
「ああ、同じ高みまで来るのだったな」
「やる気はばっちりだって言ったろ?」
二人で鳥居をくぐる。軽い拝礼、神社を見つめ、先に踏み出したのは箒であった。
「そうは言うが、私の講義をまともに聞かないではないか」
「あれはなぁ」
「なんだ、男ならはっきり言え。文句は聞くとも」
どうせ理解力想像力経験が足らんと言われる。
拝殿までの参道を歩いていると、社務所にブロンドヘアの女性がいるのが見えた。外国人だ。観光で来るような神社ではないと思うが、珍しいものである。
しかも、観光というには少々派手な格好。高いヒールに、まるでドレスに近しいワンピース。胸元を大きく露出して――
「いて」
小突かれた。
「何を見ている。あまり女性をジロジロ見るものではない、不埒者」
「いや、珍しいなと」
「お参りするぞ」
軽い拝礼、お賽銭、鐘を鳴らして、二礼二拍手。
千冬姉に追い付けるぐらい、ISを操れるようになりますように。
一礼。
「よし」という声は重なった。
「な、何を願ったかは言わんぞ」
そういう箒の頬が赤い。
「そうか、じゃあ俺も言わないでおこう」
何故かむくれる箒。当然だろ、そっちが教えないのにこっちが言うわけがない。
そのまま参道を引き返していると、大鳥居の手前で先ほどの女性がこちらに声をかけてきた。
まるで女優のような目鼻立ち、金のイヤリング、大きな胸にほっそりとくびれた腰から艶やかなヒップライン、身長も一夏と同じほどとなれば容姿だけで圧迫感がある。英語力の劣る一夏は太刀打ちできん!
「ハァイ、お二人さん」
「俺英語が……ん? 日本語大丈夫なんですか」
「もちろん。いまの時代、日本語は必須言語だもの。あなた、織斑一夏さんじゃないかしら」
素直に答えて良い物かと逡巡すると、豊満なバストが視界に入ってしまい、思わず視線をそらす。
「あら、その腕輪、もしかしてISかしら! やっぱり織斑一夏さんね、何度も雑誌を見ていたもの」
「はぁ、そうですか。あの、俺」
こういう風に話しかけられるのは、立場的にどうなのだろう。学生としての節度が云々と、他の学校でも当たり前に言われる程度の内容しか連休前には注意されなかった。
「男の子なのに本当にISを持っているのね、尊敬するわ。私は試験に落ちてしまったから、羨ましいの、ISを動かせる人たちが。ある意味、天才集団よね。ISに乗れるってだけでもう才能を認められているようなものだもの。あ、でも彼らの努力を否定するつもりはないのよ、ええ」
「えーと」
ゆったり話しているようでいて、間断が無い。
「あら、ごめんなさい。私、ISの発表から日本に興味を持って、それからずっとこの国が好きなの。特に関東平野は面白いわ。無くしてしまったり塗り固めてしまったり、置き換えてしまったりしたものがたくさんあるけれど、世代を超えて残されているものもある。一握りの天才が新しく生み出したものも、時代とともに風化していくでしょう? でもきっと、誰かが風化させずに残していくのでしょうし、その中でまた新しい何かが生み出されるの。そうして発展してきたのがこの平野。とっても魅力的だわ」
日本を好きになってくれるのは嬉しいが、まくし立てられて飲み込めない。
「これからはISで変わるもの、変わらないものが混在する時代になっていくわね。朝を迎える度に、新しい姿を見せる関東平野、素敵だと思わないかしら」
言葉に思わずどきりとさせられる。
「この境内からは、良い夜明けが見えそうね」
ひとしきり語って満足したのかきびすを返す。流し目で、一夏の瞳と見つめ合ってから。
「デートのお邪魔しちゃって、ごめんなさい。ぜひまた、お会いしましょう? 織斑一夏さん」
そう残して去って行った。高いヒールにも関わらず、危なげなくスムーズに降りていく。
あの靴で石階段を行き来できるなら、多少ラフな格好もありなのか……。
「随分となれなれしい外国人だったな」
箒がじっとこちらを見てくる。
「中国人の友達はいたんだが、そっちは押しが強い、って感じだな。あの人はアメリカ人かなぁ、気さくな人が多いんだろう。観光の割には、妙に身なりが良くなかったか?」
「そうじゃない」
と箒はじとりと睨んでくる。なんだ?
階段を降りて、寺に向かう。さぁ、お墓参りだ。
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九年前のちょうど今頃、二〇二七年の春。母が倒れ、喀血し、病院に運ばれたがその日の内に亡くなった。
身長は一五〇センチにも満たず、細く、まるで少女のような母親だった。そんな彼女が千冬や一夏のような、筋肉質で体の大きい子どもを産めたのは奇跡だろうか。
体の大きさは父親ゆずりだが、顔は母に似ていると言われる。とくに千冬は、母を大きくしたようだと言われるほど、似ていたらしい。
母との思い出はあまり多くない。もちろん炊事洗濯掃除、小学校に上がる前にみっちり見て、やって母の所作を覚えた。だが母の昔話は、父から聞いた。
二人の出会いは劇的だった。
元々海外に住んでいたという母は、体が弱かったこともあり日本の夏の蒸し暑さに耐えきれず、道端で倒れてしまった。そこに丁度居合わせたのが父であった。車でひきかけた寸でのところでブレーキが間に合い、夏バテかと慌てて応急処置を行った。しかし、母の求めに父は仰天する。
『注射を打ってくれ』
何を馬鹿なと、救急へ緊急通報しようとした。しかし、その電話は母に遮られてしまう。先に注射を打ってくれと懇願される父は、狼狽しながらも、そばに転がっていた注射器を母の腕に刺した。当然ながら針を刺す経験など無い父にとっては大仕事であったが、息も絶え絶えな母の指示を信じ注入を完了した。
すると立ち所に、母は復調したという。
まるでおとぎ話かのようだった。
すっくと立ち上がった母が次に口にした言葉に、父は三度驚かされる。
『これを見られては、お前を生かしておけん』
助けたはずの人間から命を狙われるなど考えようもなかった父は、しかし体格が良かったために、病み上がりの人間に掴みかかられたとて少しは耐えられた。何が起こっているのか理解できないままもがいていると、祖父が駆けつけ、母をなだめたのだ。
祖父が母をこっぴどく叱っている間に、騒ぎを聞きつけた見物人が増える。大事になっていく様子にすっかり父は母を責める気を失い、顔を真っ赤にする祖父とふてくされる母を車に押し込んで、その場を後にしたのだった。
父は祖父に注射器について問い詰めたことがあるそうだ。返ってきた答えは、試験薬、だと。この薬は度々使われる。女性特有の周期、疾病、先述のような日照や低温等様々な環境、あらゆる理由が契機となって母は体調を崩す。その度に……。
注射器の真実について、母はついぞ明かさなかった。注射器の収められた大きなジュラルミンケースは、母のみが知る暗証番号と生体認証で厳重に施錠されており、いまも織斑家の押し入れで眠っている。
祖父についてはまったく素性がわからない。千冬が産まれる前に亡くなっている上、会話を重ねたはずの父も語ろうとはしなかったし、何か情報を掴めるような写真もない。ただ、祖父が蓄えていた非常に大きな貯蓄――それも日本とドイツ二カ国に! ――があり、父の婿入りを条件に貯蓄の大半が夫婦に譲られた。この婿入りのために父方の祖父母には頼れないほど関係が良くないが、おかげで生活に苦労はなかった。
ともあれその出会いから、母の秘密を共有することになった父は、時折命の危険を感じる視線を受けながらも、母を気に掛け続ける。奇妙な秘密の共有は二人の時間を積み上げていき、婿入りという形で夫婦の縁を結んだ。
第一子を産むまでは、千冬以上に荒々しい強気な女性で、背が低くとも威圧感を漂わせていた。産後は、剛毅さを全部千冬に持っていかれたかのように心を変え、家事育児に専念したのだそう。祖父の逝去と出産、この環境の変化に大きな心変わりがあったのだと父は語った。
母は特に生死に関して敏感で、例えばペットを飼うことには異様な拒絶を見せた。一夏も猫を飼いたいと口にしたことがあったが、まるで命を取るかのような末恐ろしい形相で怒られた記憶がある。祖父の命日には、遺影の前から一日離れないこともあった。
遺影をぼおっと眺める母に、大丈夫? と初めて尋ねたのは、小学校に入る前だったか。
一夏の頭を撫でながら『ああ……お前たちが希望だったのだな』そうひとりごちた。我が子を信じる優しい手つきだったと、いまでも思い返す。
『私は私だ。いつまでも、失敗作のままではいられない』
ひとしきり撫で回してから、遺影を見据えて母はそう言った。脆弱な体で産まれた自身を『失敗作』と称したのかどうか、尋ねる機会は失われた。
そんなことはないと慰められる、母の特異な体質を忘れてはならない。
傷をすぐさま治してしまう回復力だ。そしてそれは、一夏が受け継いだものでもある。
風邪を引いても一晩経たず回復し、怪我もみるみる内に閉じていく。それは、祖父の言った試験薬とやらで得たものなのかもしれないが、母とは違い薬を必要としない一夏にとっては、最高の体質だ。
そんな薬でも、死に至らしめた心臓の腫瘍だけは治せなかった。
いま思えば、母はその腫瘍で長生きできないことは、早くから悟っていたのではないか。
幼い一夏に家事を教え込んだり、千冬に一流の剣士であれと剣道場で体を鍛えさせたり。
自分が長生きできないことを知っていながら、それでも母であろうと努めたのではないだろうか。
だとしたらそれは、母の最後の剛直だったのかもしれない。
けれど、死を間近に見据えた人生は、どんなものだったのだろう。
母は……織斑マドカは、幸せだったのだろうか。
確かめる術は無い。
少なくとも一夏たち家族は、彼女を愛していた。
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