ピアノの線がピンと張ったような空気。
色鮮やかで騒がしい秋を通りすぎて、冬が訪れるたびに一文が脳裏を過る。秋を置いてきぼりにした朝が来ると、カイリは何度だってこの一文に"あぁなるほど"と思ってしまう。
また、ピアノと聞くと、尊敬に溢れた前世の兄の姿が思い浮かぶから、カイリはこのフレーズが好きだった。
前の時は、兄の真似をして私もピアノに挑戦したんだったな。結局、上手くできなくてやめたんだけど。
ドスッ。
そんなことをつらつらと考えながら、冷えた山の外れの原っぱでカイリは立っていた。
朝だった。日が上る前に降った雪はサラサラで、地面を撫でるように浅く積もっている。丸くくり貫かれた木の的には複数の矢が刺さっていて、今また一本が追加された。
木の正面、直線上にカイリは腕に取り付けた弓矢───ボーガンのようだ───を構えている。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。
3本。細く長い矢が刺さる。的に刺さる矢が10本を超えたところで、カイリは深呼吸をしてボーガンが取り付けられた右腕を下げた。冷えきった酸素が喉に刺さり、吐く息が白い。
「精が出るなあ!!!!」
そこへ、空間が揺れるような大声が掛かった。野太く、力強い声だ。
カイリは気心が知れたように振り返り、両手でしっかり耳を塞いで言った。
「冬なんで。あんまり大声出さない方が良いですよ、ゴードンさん。」
「おお!?すまない!!!次は気を付けよう!!」
カイリの背後に立っていたのは、大柄な男だった。短い黒髪をソフトモヒカンにしている、サッパリとした人物だ。そして、カイリが理解し難いことに、この男はこの寒い中、半袖の白いTシャツにデニムの半ズボンを履いている。袖から見える腕が丸太のようだ。カイリはジャンパーを着込んでマフラーを巻いているというのに。
「結構当たるようになったな!! 気に入ったか!? そのボーガン!!」
「まぁ……。投石とか、パチンコの方が簡単なんですけどね。」
カイリが気の無い返事を返すも、この男はガハハと笑ってカイリの背中をバンバン叩いた。手加減はされている。
「それは
「声落としてくださいね。」
###
ゴードン・ウッドという男は元軍医だ。そして、カイリが指導をお願いしている人物でもある。
晴れて友人となったジャックと、ハンターのアルフレッドは既に街を
唯一後悔があるとすれば、アルフレッドの連れである女の子と打ち解けることが出来なかったという点だろう。2つ年下の、色素の薄い茶髪をした子だった。初めて会った時にお茶を入れてくれた人物だったが、名前すら教えてはくれなかった。
そして、いざ見送ることになった時に、アルフレッドがある人物を紹介したのである。
その人物がゴードン・ウッドだった。彼はアルフレッドに恩があるのか、子どもの面倒を見ろという無茶振りに笑顔で快諾していた。観光地の子ども相手によく面倒を見るものだなぁとカイリは不思議に思ったが、アルフレッドは訳を説明しなかった。
そんな幸運があって、カイリはこの男に修行をつけて貰うことになったのだった。
###
「それにしても、飛び道具が多いのだな!!投石にパチンコにボーガン!!何か理由があるのか!?」
カイリが水を飲んで休憩を取っていると、ゴードンが問い掛けた。
「私が近接戦闘をしたくないのと……、アルフレッドさんに言われたんですよ。"1つのことを極めるのは強い。だが、お前には向かないぞ"って。複数の武器を持って、いろんな状況に対応するべきだって言われました。それに、武器が壊された時に狼狽えずに行動できるからって。」
アルフレッドが滞在していた時に言われた言葉を、カイリは言った。この言葉を聞いて、カイリは扱える武器を増やすことにしたのだ。
投石は安価で扱いやすい。しかし、子どもの腕力では飛距離を稼げず威力にも不安がある。もちろん、当たり所が悪ければ致命傷だが。これを補うための武器を、カイリは勧められたのだった。
カイリが投石の他に扱い始めた武器は3つある。2つは遠距離用で、1つは近距離用だ。カイリが扱う遠距離用の武器は小型のパチンコと腕に取り付けるボーガンだった。
パチンコ───スリングショットとも言う───はY字型の道具にゴム紐を張って、弾とゴムを人力で引っ張って弾を飛ばす武器だ。弾は基本的にある程度の大きさがあれば何でもよく、その威力はゴムの弾性エネルギーが相乗されて驚異的なものとなる。金属球を弾丸とした場合の威力は、強化ガラスを粉々にし、コンクリートにも傷をつける程だ。また、狙いを付けやすく、命中率が良い。
ボーガンは弓矢の一種だ。放たれる矢は時速400kmを超え、種類によっては飛距離が300mにも及ぶ強力な武器である。カイリが買った小型のボーガンは、連写は不可能だが片手で矢を装備できるため、練習次第で連写のように射ることができる。
また、これらの道具は全て軽量であり、匂いもなく音も立たない、カイリにとって完全な奇襲目的の道具である。これでカイリの戦闘スタイルは決まったも同然だった。
3つ目の武器は、ゴードンから直接の指導を受けている。言うなれば近接戦闘の修行であり、カイリはアルフレッドがゴードンを寄越したのはこの為だろう、と当たりを付けている。
カイリが新しく持つようになったのは
剣鉈とは、刃の先端が尖っているのが特徴の鉈である。鉈というのは林業や狩猟に使われる道具であり、種類は様々で、長方形の腰鉈、両刃、先端に出っ張りがあるカギ鉈などがある。基本的な用途としては、木の伐採や枝打ち、雑草を切り払うことなどに使われる。また、護身用にも便利で、獲物の解体にも重宝される万能の武器だとカイリは思っている。刀身が厚く丈夫であり、中々折れないのも魅力的に映った。
こうしてハンター試験に向けて万全の対策を講じることができる日々をカイリは大変貴重に思った。指導者がいるとサボろうと思わないこともありがたい。
そうして、カイリにとって10年目の誕生日だったこの日も日常のように過ぎていった。
###
カイリは全速力で走っていた。暗闇の中を照らす、ポツポツと間隔がある街灯に従って大通りを駆ける。
先ほどまで流していた汗が急速に体を冷やす。修行自体は午前中で終わらせたものの、午後から配達の手伝い、もといバイトを行っていたカイリは、辺りが真っ暗になってからやっと解放され、自宅への道を突っ走っていた。
手袋をしていない指先は既にかじかんでいる。マフラーは走る前に外しているため、首元も凍えるようだった。耳がずっと痛みを訴えている。
───配達なんてすぐ終わったんだから、さっさと帰してくれればいいのに。
配達自体、日々街を走り回って地形を完璧に覚えているカイリにとって朝飯前のことだった。しかし、バイトを終わらせたところで、とある饒舌な配達職員に捕まって長話を聞く羽目になったのだ。
話の内容自体、今度友達が結婚するとか、けど絶対離婚するに決まっているとか、動物を飼ってみたはいいが芸の1つも覚えないとか、全く興味をそそられない内容だった。まったくもって時間の無駄だったと思いながら、カイリは雪に新しく足跡を着けて自宅に急いでいた。
───お母さん、心配してるかなあ。してるよな、一晩帰ってこなかった時あったし。
吸い込む息が肺を痛め付ける。全力で走っているから、心臓が早鐘を打っていて頭が痛い。
街をようやく抜けて、郊外に入ってすぐそこの角を右に曲がり、山に近づいて行って街灯一本を通り過ぎたら家はすぐそこにある。
やっと見えてきた家、母親が待つはずの家を見て───カイリは首を捻った。
───あれ?電気付いてない………。
今、何時だ? まだ、午後の7時にもなっていないぞ。
カイリは遠目から見て、家に明かりがないことに気がついた。冬になってから、暗くなる時間が早くなる。午後5時から一気に冷えて暗くなるのだ。この位の時間には既に明かりを付けているはずだった。
───出掛けてる、はずないよな………。
背筋に冷や汗が流れた。ガンガンと頭に痛みが走る。露出している顔と両手がジリジリと焼けているような感覚を覚えている。
カイリはゆっくりと、家の扉に手を掛けた。
「ただいまぁ……。」
小さく、声を掛けた。玄関に人の気配はない。手探りで、玄関のスイッチを探し、カイリは電気を付けた。別に、散らかっている訳でもない、いつも通りの玄関がある。
ひとまず、そのことに安堵したカイリは居間に入った。
───お母さん、寝ちゃったのかなぁ。体力的に仕事はさせてないけど、それでもやっぱり疲れるもんね。お粥でも作ろうかな。
そしてカイリは、まっ暗闇の居間の扉を開けて、横にあるスイッチを押して電気を付ける。パッと明るくなった部屋に目を細めた。テーブルの位置はそのまま、イスも倒れている様子はなく、飾り物もそう。カイリは、おそらく寝室に居るであろう母親のためにお粥でも作ろうと思って、キッチンに足を向けた。
その時、カイリの目に
人の足だった。台からはみ出して、足が見えている。その足がスリッパを履いていて、そのスリッパが母親の物であることをカイリは見た。
「お母さん!!!!」
その足が母親の物であることをカイリは確信して、カイリはすぐさま駆け寄った。母親はうつ伏せに倒れていて、肌が青白く、浅く呼吸を繰り返している。意識が朦朧としているのか、カイリに気付いている様子はない。
「お母さん、お母さん!聞こえてる?大丈夫?ねえどうしたの!!!」
頭に血が上っている。恐ろしい自体に手が震えている。
「そ、うだ。救急車!!!」
母親を仰向けにして、カイリはすぐに電話を取った。カイリの背後で、母親が歪な呼吸を繰り返している。突然のことにカイリの頭は働かなくて、ただただ救急車を待って母親の手を握っていた。
外で、雪が降り始めている。空を冷え込ませて冷たい風を送っている。
警報のように独特で甲高い音が、遠くから聞こえてきた。
第8話 完
じわじわ死に慣れさせていくスタイル。空を飛ぶまでが長くてごめん。