空の境界・未来福音のSSです。
こちらは本編で言及されない設定について、かなり自己解釈を含めて書いています。
寛容な心で読んでください。

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空の境界のSS

「ミツルさんは巫上ビルってご存じかしら?」

 夏の暑さも翳りをみせてきたある日のことだ。

私が本業で頭を悩ませていると、副業(どちらが副業でどちらが本業であるかは、収入面で見れば明白ではあるが)の雇い主の一人娘が声を掛けてきた。その一言で急速に意識が現実に引き戻されるのを感じる。

「…執筆中だったのだが」

 その執筆が行き詰っている自分のことは棚に上げ、私は八つ当たりで未那に嫌味ったらしく愚痴ってみる。

「あら、執筆が捗っていたのなら失礼いたしましたわ。ミツル先生?」

 彼女はいやらしい笑みを浮かべて、からかうように言葉を返した。私がスランプ気味なのを見定めてから声を掛けてきたようだ。

 まあ、そうでなければ、私の作品のファンを自称する彼女が、執筆作業を邪魔したりもしないだろう。

 私はスケッチブックに書きなぐられた、イラストとも呼べないような落書きを手で握りつぶすと、椅子の背もたれに身体をあずけた。

安物のチェアがギシリと音をたてる。それはまるで、私のスランプを代わりに嘆いていくれているようでもあった。

 黒と紺ばかりを基調に描かれた落書きは、見るものすべてに暗い印象をあたえてしまう。何も別に、ほのぼのとした明るいお話を書きたいわけでもないが、今スケッチブックに描かれているこれは、私が抽出しようとしているものとはどこかずれているように思えた。

 何かが足りないのだ。あとひとつ、何かが。

「…それで、巫上ビルだったか。先日取り壊しが決まった飛び降りマンションだろう?」

「そう、その巫上ビル」

 個人的な悩みはさておいて、彼女の話に付き合うことにする。

 巫上ビル。この街に住むものなら誰でも知っているいわくつきの廃ビルだ。

 オフィス街に建てられた高級マンションは、本来であればこの人口過密の時代の中でそれなりにひと入りの期待ができるはずの良物件であった。ところが、成長期に乗り上げたはずのコンクリート製の雑木林のうちの一本は、立て続けの事故の中で零落の一途をたどることになる。

 飛び降りがあったのだ。

それも一人や二人ではない。短期間の間に8人の女子高生が、遺書も残さないままに屋上からのダイブを敢行し、仕舞いには巫上ビルのオーナーの一人娘が重い病の体を押してまでビルの屋上から飛び降りたというのだから驚愕である。

そのような事態がおきたものだから「巫上ビルは飛び降り自殺の名所である」「あそこは人が死にたくなる魔窟である」などという噂が立ち並び、あっという間に高級マンションは入居者のいない廃ビルへと変貌した。

「けれどね、いま取り壊しは中止しているの」

「中止しているというと、土地の利権関係で?それとも近隣の騒音トラブルか?」

 私が話を合わせると、彼女はううんとかわいらしく首を振る。

「それが、また飛び降りが出たんですって」

「は?」

 だが、出てきた言葉はかわいらしさとは程遠いものであった。

「解体工事をしていた土建屋さんのうち二人がね、巫上ビルの屋上から飛び降り自殺をしたんですって。それでみんな怖がっちゃって仕事にならなくて」

「待て待て。そんな話、ニュースで報道された覚えはないぞ」

 念のためパソコンを立ち上げて調べてみるが、10年前の事故に関するオカルト記事ばかりが立ち並んでいる。ここ最近にそう言った記事が更新された形跡はない。

「それはそうよ。あの土地はうちの管轄だもの、問題になる前に情報を堰き止めているの」

「……」

 こういったことを平然とやってのけるのが、私の首根っこをつかんでいる雇い主である。その気になれば、売れない絵本作家などという世間的立場が低い人間を抹消することなど、造作もないことだろう。

 まあ、私自身の大きすぎる懸念事項や、雇い主の無法ぶりはさておいて、ここまでくれば未那が私にこの話を振ってきた真意も見えてくる。

「つまり、私にその飛び降りマンションを調べてこい、と」

「そういうこと」

「とはいうもののな…」

 私は未那の得意げな顔を他所目に、自分の心が沈むのを感じていた。

 やれと言われればやるしかないのだが、はっきり言ってそういったオカルト話は全く手に余るのだ。

 世の中には未来予知だのその未来予知の能力だけを殺す和装少女だの、頭のおかしいものが数多く存在していることを知っているから今更幽霊の一つや二つで驚くつもりはないが、別に私は幽霊退治の専門家というわけでもない。

 先日の元同業者のことならともかく、今回は私が関わったところでどうこうなるものでもないだろう。

そもそも、普段から無茶難題の多い私の雇い主とはいえ、さすがにどうしようもない事までをこちらに回してくるとは思えない。

とういか、それこそオカルト事はあれの領分だろう。

つまり…

「お嬢様の勝手な持ち込み案件ということか」

「ふふっ、勘のいいミツルさんも好きよ。ねえ、廃ビルに住まう幽霊だなんて、とっても素敵だとおもわないかしら」

「……」

 つまり、そういうことである。

 彼女は、私の雇い主の一人娘という立場を利用して宙ぶらりんになっている問題を取ってきては、こちらに投げてくることがあるのだ。おそらくは仕事を与えようなどという親切心ではなく、自分が事の顛末に関わりたいがゆえに。

「断る。今回は調査に行くにしても、私に未那が守れるとは限らない。

興味本位で連れて行くわけには行かないぞ」

「ケチなミツルさんは嫌いね。もう少しユーモアのある断り方はできないのかしら」

「詩人になったつもりはなくてね」

 彼女が私のことをうまく使えると宣ったのはいつのことだったか。まあ、今回の一件は、私がいつも両儀未那の思い通りにはならないと理解してもらうきっかけとしては丁度よいだろう。

「絵本作家のくせに」

 未那は椅子に座ったまま、つまらなそうにバタバタと足を振る。私は動きに視線がつられて、その時初めて長机に目がいった。

 未那の座っている椅子に対応する長机の上には、宿題と思しきプリントと筆記用具が広げられていた。それも、広げているプリントの数や書き込み、教科内容から察するに、2,30分ほどでできる量ではないように思えた。

「マナ。君、いつからここにいるんだ」

「ええと、お昼ご飯をいただいてすぐ来たから、13時頃かしら」

 時計を見ると16時を回ろうかとしていた。

 確か昼をすませて作業に没頭してきた辺りで、未那が部屋に入ってきて挨拶をしたものだから、私もあーだとかうーだとか曖昧な返事をしていたことは記憶の片隅にあるのだが、それからすでに5時間ほどの時が経っていたのか。

 その間未那は私の作業の邪魔をしないようにと、ずっと勉強をしながらタイミングを窺っていたという事になる。

「要件があるなら、なんでもっと早く声を掛けなかったんだ」

「え?だって、ミツルさんが絵本を描かれているんだもの。邪魔はできないでしょう」

 私の疑問に、何を当然のことを、という顔で返答する未那に私は思わずひるんでしまう。

 いっそのこと、これでミツルさんに貸しを作ることができるからなどと言われたほうが、まだ気が楽だったかもしれない。未那の言葉は、普段の彼女からは考えられないほどにまっすぐで、年相応に無邪気で、そして私への確かな期待と信頼があった。

 まったく、勘弁してほしいものだ。

 その気持ちがあまりに重たくて、当てられてしまって。私は、彼女のわがままを聞いてしまってもいいような気にされてしまっていたのだ。

 はぁと、あきらめのため息を一つ吐く。

 …ああ、確かに認めるしかないだろう。

 彼女はきっと、私のようなひねくれ者の人間を使うのがとても上手いのだ。

 

 

 巫上ビルに到着したのは日が傾く逢魔ヶ時だった。手入れのされていないコンクリート壁を赫く染め上げる夕日はまるで血染めした塗り壁のようで、廃墟に対する漠然とした恐怖を顕していた。

 夏の終わり際とはいえ、まだまだ日差しの強い日々が続いている。コンクリートに囲まれた空間は、日の照り返りにより虫籠の中にいるような暑さがあるはずだが、巫上ビルの敷地内は不思議なことに爽やかな風が吹き抜けて過ごしやすい程の気温であった。

 ビルの隙間でここら辺が風の通り道になっているのかもしれないが、その風は気持ち良さよりもこの空間の不気味さを引き立てていた。

 何もこんな時間に来なくてもと思わなくも無かったが、隣のお嬢様はすっかりウキウキスイッチが入ってしまっている。ここでやっぱり辞めようなどと言ったものなら、お母様にどういった告げ口をされるかわかったものじゃない。

「マナ、さっき言ったことは覚えているか」

「ええ、もちろん。常にミツルさんの後ろついていく、何かあったらすぐ報告、危険を感じたらミツルさんを置いてでもすぐ退散。ですよね」

「よし」

 未那は慌てる様子もなく、淡々と答えていく。気持ちは上がっていても浮足立っているわけではないらしい。

 それさえわかればいいと私は気合を入れなおし、巫上ビルの敷地へと足を踏み入れた。

 当たり前だが、巫上ビルの玄関口は黄色と黒のテープで入れないように封鎖されていた。だが、あくまで形式上の封鎖だけだ。別に入ろうと思って入れないわけではない。

 私は手でテープを上に引き上げて未那を先に入らせると、続いて中に入った。長い間行き交いのない空間は、テープの上下運動や少女が足を地につける衝撃だけで埃を巻き上げる。

 未那が思わず小さく咳を上げる。

 私は未那にマスクをするように言って、玄関口から建物の中へと入っていく。巫上ビルの屋内は窓から差し込む夕日と照明のついていない屋内の影とで、赤と黒のコントラストを生み出していた。

 二人で慎重に歩いていると、カツンカツンと足音が反響する。

「建物って、人の手が入らないと直ぐ寂びれてしまうのね」

 未那が建物のぼろぼろになった壁を見やり、感慨深げに言う。

「ここが廃墟になって何年くらいだったか」

「わからないわ。その時は私、物心がついていないころだもの。でも、なんだか勝手な話よね」

 連続飛び降りが起きてから、そう時間がかからずに人の出入りは無くなってしまったはずだ。

 人の手によって作られたはずの入居施設は、人の勝手な印象によって簡単に空っぽの箱へと変貌してしまった。これを残酷だというのはあまりに感傷が過ぎるかもしれないが、私と未那の言葉にいたわりの気持ちが多分に含まれているのもまた確かだった。

 とかく、今の世は大量生産大量消費の時代だ。

 世界の隙間に浪漫を見出す暇がないほどに物が次々と作られて、それらは一瞬で消費されていってしまう。

 巫上ビルという建物は、そうした時代の被害者のひとつなのかもしれない。

 足音や衣擦れ以外の音が無い赤と黒の世界を未那と二人で渡り歩いていると、ついそんな無駄なことを考えてしまうのだった。

 

 

1階2階と順繰りに部屋を見ていったが、不気味な廃墟であるという以外は取り立てて問題があるようには見えなかった。

 警戒のしすぎだったか。この分ではお嬢様の時期外れの肝試しにつきあったまま、自分が見る限りは何もありませんでしたと報告をあげて終わることになりそうだ。

 肩透かしの感は否めないが、何かあるよりはずっと良いのは確かだ。

 少しだけ張りつめていた緊張を緩めて、さて今度は3階を見るかと、階段へと向かった時だった、

 

曲がり角の端に、

 セーラー服の、

 血濡れた少女が、

 

 強烈なイメージに視界がつぶれる。

思考を埋め尽くすほどの一つの願望が、脳を支配する。

頭の中に浮かぶのは、たった一つの思いだけだ。

飛び降りたい。

飛び降りたい、飛び降りたい、飛び降りたい、飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい飛び降りたい——

飛翔とは開放だ。人生は苦痛だ。苦しみから逃れる術はたった一つだ。

あの少女達を見ろ。なんと羨ましい、なんと素晴らしい。

 死こそが生のゴールであるならば、彼女達は最短のゴールをこそ手にしたのだ。

 ならば私も後に続くしかあるまい。さあ、あと一歩踏み出せば——

 

 

「ミツルさん!!」

 耳朶にとどいた声に、ハッと我に返る。

 ふと後ろに引かれる力を感じ後ろを振り返ると、未那が切羽詰まった顔で私のシャツの裾を引っ張っていた。

「マナ。君、どうして—」

「どうして、じゃありませんよバカ!目の前をみてみなさい!」

 彼女の言葉に言われるがまま私は前を向くと、そこには恐ろしいほどの空が広がっていた。

 あまりに遠い視点に慄き、一歩下がってそのまま尻もちをつく。

 私がいた場所は、巫上ビルの屋上の、その端も端。

 あと一歩前へ出ればそのまま飛翔という名の落下を達成できる場所であったのである。

 遅れて、恐怖とともにいやな汗がどっと噴き出てくる。

 鼓動がバクバクと音を鳴らす中、ようやく私は、未那が私の自殺を食い止めてくれたらしい、という事を理解した。

「…まったく。私に何かあっても一目散に逃げろといったろうに」

 未那に命を救われたらしいという事を理解しても、私の口から出てきたのはそんな言葉だった。我ながら、ひねくれているにも程がある。

「…ええ、そうね。せっかくなら外でミツルさんが落ちる瞬間を眺めていればよかった」

 すると未那は、そんな私の言葉で安心できたのかほっと一つ息を吐いて悪態をついた。

 私は私で、そんな未那の様子を見てやっと「ありがとう、助かった」と言葉にすることができたのだから、まったく困った二人である。

「間一髪だったわね」

 その時、私と未那の間に差し込むようにして入り込んでくる声があった。明るく溌剌とした女性の声で、聴くものに朗らかな印象をあたえる声色だ。

 声がした方を向くと、そこにはすらっとした細身で高身長の女性が立っていた。

 夕日の赤を全身で受けるその女性は、だれが見てもわかるほどの美人であった。髪は真っ赤な夕日で赤色に染められ、フレームの細い眼鏡をかけている。

 顔つきからは年を窺うことが難しく、20代のような若々しさを感じるようにも思えば、40代ほどの老獪さも身に付けているようだった。

「あ、ありがとうございました、お姉さん。おかげで、ミツルさんを助けることができました」

 未那は特有の人懐っこい笑みを浮かべて、彼女に駆け寄っていく。

「よかったわね、貴女の保護者を助けられて」

「いえ、保護者ではなく、どちらかといえば小間使いです」

「あら、小間使いのために懸命に動くなんて、ずいぶんと優しいご主人様なのね。感心だわ」

 元気はつらつと交わされている末恐ろしい会話はいったん置くとして、とにかく女性の素性である。

「失礼、貴女は…」

 私が二人の間に入り込むと、未那は危機から解放された喜びからか、にぱっと花のような笑顔でこちらに振り向いた。

「あ、ミツルさん、紹介しますね。こちらのお姉さんに助けていただいたのよ。すごいのよ彼女、魔法使いさんなんですって」

「魔法使い…?」

 そう宣う大人はたいてい詐欺師か狂人と相場が決まっているが、私が怪訝な顔で女性を眺めていると、女性はこちらに柔和な笑みを浮かべてひらひらと軽く手を振ってきた。

 そして、ゆっくりと眼鏡をはずしながら、こちらにつかつかとこちらへ歩いてくる。

「悪いものに引っ掛けられたわね。肝試しで入るには、ここは少し危なっかしいところだ」

 私が立ち上がり影が伸びると、必然彼女は私の影に入る形になる。

「まったく君、ご主人様が助けてくれなければ死んでいたところだぞ」

 眼鏡をはずすと、女性の雰囲気と口調ががらりと変わる。

その時になって初めて気が付いた。

 夕日を浴びて赤く染まっていた彼女の毛髪は、黒髪が赤く照らされていたのではなく、もとより燻る火のような朱色であることに。

 

 

 赤髪の女性は、名乗らなかった。彼女に関して分かった事は、どうやら彼女はこの手の事に関するプロフェッショナルであるらしい事と、私を止めた未那の行動は彼女の助言によるものだということだ。

 赤髪女史(名前が分からないので、仮にそう呼称する事にするが)は、私たちとは全くの別口で巫上ビルの調査に乗り出したらしい。

敷地内に入り人の気配を感じて近づいてみれば、そこには胡乱な顔つきで屋上に進む私と、途方に暮れた様子の未那がいたというわけだ。

 眼鏡をカッターシャツのポケットに入れた赤髪女史は、最初に抱いた柔和な印象とは程遠い鋭利な眼差しをしていた。

「いわゆる、インフォデミックというやつだよ」

女史は見たことのない銘柄の煙草を不味そうに呑みながらそう語った。

「インフォ…」

「ああ、知らないのも無理はない、最近出来た言葉だからな。簡単に言ってしまうと、ネット上の噂話が社会に影響を及ぼしてしまう現象さ。

震災の影響でトイレットペーパーがなくなるらしい。

あの政治家は汚職に手を染めているらしい。

そういった本来であれば事実無根の噂であったとしても、ネットという広大な世界で噂がさも真実のように共有されてしまうと、それが真実となって世の中を塗り替えてしまうのさ」

 女史のいう事は理解できる。この10年の間にネット文化というものは世に大きく普及されてきた。

 その中で情報メディアをテレビと新聞にのみ頼る時代は終わり、多くの人間が自分の情報を他者と共有出来るようになった。だがそれは、決して情報としての精度が上がったことを意味しない。

 ある局面に於いて人は、自分の信じたいことだけを信じるようになってしまったのである。それがどれ程馬鹿馬鹿しく、どれ程陰惨であろうと、いや寧ろ、ショッキングであればある程に、情報というものは誤報であっても世界に大きく拡散される様になってしまった。

 人はいつしか、ロマンを夢見る代わりに自分にとって都合の良い真実だけを求めるようになった。

「だが、それが今回の幽霊騒ぎと何の関係が…」

 あるのかわからない、と私が続けようとすると、赤髪女史はおかしそうに煙草の煙を吐き出した。

「だから、インフォデミックだよ。君は巫上ビルについてネットで調べた事は?」

「あ、ああ…ここに来る前に。確か、オカルト掲示板ばかりが並んでいたと思うが…」

「それさ、今回の一件の腫瘍は。女子高生の連続飛び降り自殺と言うのは、いかにもその手の好事家にとってみれば魅力的に見えたのさ。

『きっとあのマンションは人が死にたくなるような何かがあるに違いない』とね。

そして、そういった考えをもつ好事家たちが、インターネットという媒体を介して話しているうちに、次第に自分たちが己の妄想を語っているのか、それともこの世の真実を語っているのかわからなくなってしまう」

「は?」

 思わず間抜けな声が出てしまう。あり得ないだろう、いくらなんでもそれは。

「それがあり得るのさ。なにせ皆が自分にとって都合のいい話ばかりを持ち寄る場だ。そうした吹き溜まりに集まっているうちに、人はどのような奇天烈な妄想であってもそれを世の真実だととらえるようになる。

なんたって、反対意見を述べるものがいないのだからね。『みんなが正しいと言っているのだ。間違っているのは真実を見抜けない世の中で、私たちこそが正しい』そうした快楽に溺れていくのさ」

「…まるで宗教ですね」

 未那の言葉に女史は何の感情も見せずにうなずく。

「本質的には同じようなものだ。だが今回の場合、インターネットという媒体を介して多くの人間を巻き込んだことと、場所が世間に実際に存在する空間だというのがよくなかった。

『あそこは人が死にたくなる場所だ』『あのビルは自殺をそそのかす魔窟だ』そんなありもしない妄言を不特定多数の人間が信じた結果、このビルは本当に人を殺すビルになってしまった」

「人を殺すビルになってしまった?」

「そう。端的な事実を述べるなら、ここに訪れた者のうち幾人かは、少女にそそのかされて飛び降り自殺をしたくなってしまう一種の呪術的な空間になっているのさ。不特定多数の『ここは人を殺す空間に違いない』という信仰を受けてね。

まったく。飛び降りはあくまで行動ではなく、飛翔を試みた結果だというのに、また随分と陳腐化したものだ」

 吐き捨てるように言う女史の顔には、観光地に捨てられたごみを見るような侮蔑するような笑みが浮かんでいた。

 女史のいう事はよく理解できない。人の想念だけで実際に建造物が人の意識に介入するようになるなどと、あまりにも常識の慮外に及んでいる。

 だが、そうなのであればそうなのだろうと、納得せざるを得ないのもまた事実だった。

 女史は吸い終わった煙草を地面に捨て、靴底でぐりぐりと火をもみ消す。

「ここが他者からの影響を受けて呪いの土地と化しているなら、対処は簡単だ。今、君たちのあとを追いすがらビルの各所に人除けの結界を張ってきた。

何か特別な用事がなければここに関心を向けられることができずに、2週間ほどでこのビルはただの廃墟に戻っているだろう」

 自分のやったことを、女史はまるで関心のないような口調で語る。つまり彼女は、この怪奇現象はすでに解決したというのである。

 あまりにあっけない物言いであるが、伝奇小説よろしく屋上で幽霊と戦うような展開を迎えるよりはよっぽどいい。

「…そうか。ありがとう、助かる」

 若干展開に置いてきぼりになりつつも私が女史に礼を言うと、未那もつられてぺこりとお辞儀をする。

 女史はそんな私たちを見てくくっと笑った。

「例には及ばないさ。このくらいならさほど手間もかからないし、何より君たちのためにやったことでもない。

ただ、ずいぶんと昔に取った杵柄がまた汚れていると聞いたから尋ねてみれば、たまたま君たちが居合わせただけだ」

 宙に舞う煙草の煙をかき消すように手を振った女史だったが、その時、チラリと視線を未那の方にやった。

「だが、そうだな。お礼と言うのであれば、君たちには少し私の暇つぶしに付き合ってもらおうか」

「暇つぶし?」

 視線をまっすぐ向けられた未那は、女史の言葉に首をかしげる。

「何、ちょっとした問答さ。

かつてこのビルから飛び降りた女生徒たちはね、みんな自殺しようと思って飛び降りたんじゃないんだよ。空を飛べないことを思い出してしまっただけなんだ。

彼女たちは別に世の中に絶望したわけでも、何かに追い詰められたわけでもない。ただ、いつも通り空を飛んでいる最中に、夢から起こされてしまっただけだ」

 女史はよくわからないことを言う。それは一種の謎掛けのようでもあり、禅問答のようでもあった。

 何をおかしなことをと口を挟みたくもなったが、私は女史の表情を見て口をつぐんでしまった。

 女史の顔は愉しそうな笑みを浮かべているものの、視線は何かを試すような真剣な顔つきであったからだ。なにより、その眼差しは私ではなく未那に向けられているのだから、私がでしゃばる場面ではないと感じたのである。

「だが、外様の人間にしてみれば墜落も浮遊も変わらない。結果的にはただの飛び降り自殺でしかないんだ。

そして、センセーショナルな事故に好奇心だけで飛びついた連中が、今回のようなことを意図しないまま引き起こした。

どちらも同じことなのさ、他人から見れば。同じ墜落にせよ、それぞれ全く別の意図・意味合いを持つ事柄だったはずのものが、他人からすれば同じこととして処理されてしまう」

 空を飛ぶ云々はよくわからないが、女史のいわんやとしていることは理解できないでもなかった。

 とかく、外様の人間とは常に身勝手な生き物である。

 外堀の情報だけで勝手に相手の心を押し量り、勝手にわかっているような気でいる。そしてそれは、自分から遠ければ遠いほど、無責任で自分勝手なものとなっていく。

「学校の授業で先生がこんなことを言ったことは無かったかな?

人を思いやれるようになりなさい、人の心を理解してあげなさいと。

だがね、理解しよう、思いやろうとしても、それは結局自分の思う理解や思いやりでしかないんだよ。

自殺はすべて自殺でしかなく、それもインターネットを通したたくさんの人間にとっては好機の対象にしかならない。そんな彼女たちの死にざまは、あまりにも独りぼっちだとは思わないか?」

 …その通りだ。人はどこまで行っても他人を理解したような気になることしかできない。そうやってわかったふりをしてばかりで生きている。

 女史のいう事は、小学生の子供に聞かせるには随分と厳しい内容であるように思う。

 だが女史は、私ではなく未那に視線を向けたまま語る。それはあたかも、初めて会ったはずの未那を、お前ならどう答えると試しているようであった。

「君は、どう思う?」

 果たして視線を向けられた少女は、その眼差しをとくに重く受け止めるでもなく、少し考えこむような顔をすると、

「それは…わからなくちゃダメなのかしら?」

 と、そう答えたのだった。

「ほう?」

「お姉さんのいう事は難しくて…全部はわからなかったのですけれど、それでも相手を思おうとすることはできるのですよね?それじゃダメかしら?

例えば私は、お父様を愛しています。お父様も私を愛しているわ」

 未那の言葉に女史は苦笑いを零した。

「理解できなくても、独りぼっちでも、身勝手でも、私はお父様を愛しています。多分そうやって人はつながるんじゃないのかしら。

飛び降りしてしまった人も多分そうよ。彼女たちの行いを理解できる人は少なくても、彼女たちの死を悲しみ、悼んだ人は、きっとたくさんいたはずよ。

きっとそうにちがいないわ。だから、理解できなくても独りぼっちでも、相手を想い合うことができれば大丈夫なのよ」

「それはなぜ、そこまではっきり言いきることができる?」

 いつのまにか笑みを消して、未那を凝視していた女史が尋ねる。すると未那は、待ってましたとばかりに胸を張って、誇らしげな笑みでこう言ったのだった。

「だって私、お父様とお母様からこんなにも愛されているもの」

 私はそのまっすぐな言葉に、思わず息を呑んだ。あまりにも純粋な言葉を、幼いが故のたわごとだと切り捨てることは簡単だろう。

 だが、私はその言葉を、たとえ戯言であったとしても信じたいと思ってしまったのだ。

「は、ははははははははは!」

 女史が噴き出して声をあげて笑う。未那の答えが面白くてしょうがないというように。

 呆気に取られる私と未那を気にする素振りもせずに、純粋な喜びと愉快さを含んだ笑い声をあげる。

 そうしてしばらく笑い続けてようやく落ち着いた時、女史は

「空っぽの体に、ずいぶん良いものを詰め込んだじゃないか」

 と、よくわからないことをつぶやいたのだった。

 

 

 巫上ビルを立ち去り女史と別れるころには、すっかり日は落ちてしまっていた。

 女史は最後まで名乗らなかった。彼女が言うには、私たちはお互いの名前をしらないほうが都合が良いとのことだ。

 ふたりで帰路に着くと、私の鼻の頭にぽつりと当たるものがあった。

 事務所を出る前に天気予報をチェックしていたので、私は慌てず折り畳み傘を取りだす。このように、未来視などなくても社会という機構は未来を見通してくれるものだ。

 ぽつぽつと小雨の雨が降り出す。それほど強い雨にはならないらしい。

 私が傘を傾けて未那を傘の中に入れようとすると、未那は何をおもったのか、するりと傘から抜け出してステップを刻むようにして私の前を歩きだしてしまう。

「濡れるぞ」

「あら、平気よこのくらい」

 私が言っても、おてんば娘は知らん顔で後ろに手を組みながら上機嫌に歩く。

「風邪をひくぞ」

「心配しなくても大丈夫よ。私が風邪をひいたらミツルさんが看病してくれるもの」

「心配しているのは君の体じゃない。私の体だ」

 お嬢様に風邪をひかせてしまっては、お付きのものに半殺しにされてしまう。

「じゃあ、半殺しにされたミツルさんを、今度は私が看病してあげる」

「…お嬢様に看病をさせたからと、本殺しにされてしまうだろうな」

 私の軽口に未那は振り返ってクスリと笑い、再び前に向き直って歩いてしまう。

 どうやら、傘の中に入るつもりはないらしい。仕方ないので私も肩をすくめて彼女の後をついていく。

 周りは人の気配もなく、雨の傘にぶつかる音がはっきりと聞こえる。

 そうして二人きりで歩いていると、未那が体を左右にゆらゆらと揺らしながら気持ちよさそうに歌を口ずさみ始めた。

「I`m singing in the rain~♪Just singing in the rain~♪」

「雨に歌えば、か」

「知っているの?」

 彼女は意外な同胞を見つけたとばかりに破顔する。

「聞いたことがあるだけだ」

「ミツルさんは世代じゃないですよね?」

「世代じゃなくても耳にしたことくらいはあるだろう。君こそ、どこで聞く機会があったんだ」

「お父様が機嫌の良いときによく歌っているの。お母様も時々」

「なるほど」

 父親に偏執的な愛を持っている未那のことだ、きっと一生懸命歌詞を覚えたのだろう。英語の歌詞はつたないながらもキチンとした形になっていた。

いじましいことだ。

「What a glorious feeling. I`m happy again~♪」

 私は未那の歌を聴きながら、先の問答を思い出す。女史の屈折した問いと、対する未那のばかばかしいまでにまっすぐな返答を。

愛と平和を旨とする絵本のような幼さない答えだ。第一、人は孤独だという本質的な問題は何一つ解決していない。

 だが、あの瞬間私たち二人の大人は、その幼い答えに確かに納得させられてしまったのだ。

「I`m laughing at clouds. So dark up above~♪」

 河川を歩く私たちを、街灯が明々と照らす。

 最近は夜でもすっかり明るくなった。

 だがそれは、決して闇が薄くなったわけではない。

 光が強くなればその分だけ、隅に追いやられた闇は深くなっていく。

 未那もいずれ、その闇にのまれる時が来るだろう。今は知らぬ孤独を思い知らされることもあるかもしれない。

「The sun`s in my heart. And I`m ready for love~♪」

 だが、その闇でさえ、光できらきらと輝く雨粒に照らされながら踊る未那を前にしては、彼女を引き立てるための影法師に過ぎないようだった。

 

 



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