クァンシ様に「女が好きなのかもしれない」と思わせたきっかけの女の話。
※単行本8巻までのネタバレを含みます

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※捏造・自己解釈多め
※誤字報告ありがとうございます。


知らぬが仏

 クァンシには岸辺がわからない。

 

「守ってやるから俺の女になれよ!」

「無理」

「付き合わないか?」

「嫌だ」

「付き合ってくれないか?」

「イヤ」

「慰めてくれよ……」

「甘ったれるな」

 

 あの物好きは何度も繰り返し言い寄ってきて、その度に希望など残らない程度に手ひどくお断りされているというのに、一向に諦める様子がない。最初のデビルハンターと呼ばれるクァンシのバディを八年も務められる男は彼以外にない。岸辺という男は滅法腕は立ったが、どうやらその代わりに頭に問題があるようだった。

 

 クァンシはそもそも「人を愛する」ということを字面以上にうまく理解できない。

 付き合う。つまり、触れ合う、キスをする、セックスをする。彼とのバディ歴も長くなったが、クァンシは岸辺を見てそのような欲求を抱いたことがない。やつは私を見てそういう欲求を抱いているのだろうか? そう考えるとちょっと寒気がしたので、次に顔を合わせたときには頬を殴ってやろうかと暗い考えが頭をよぎった。

 

 つ、と頬に汗が伝う。

 

 季節は夏、熱されたアスファルトの上で焦げてしまいそうな陽気である。抜けるような青い空、沸き立つ入道雲。晴天に恵まれた休暇を無為に過ごすのも悪くないとあてどなくさ迷っていたところ、日中だというのに人気の少ない一画に出た。

 シャッターで閉まった店の多いアーケード街の入り口だ。少し背の低い屋根のかかった全天候型のアーケード内は薄暗く、長く伸びた通りの先もよく見えない。とても活気があるとはいえなかった。確かこの辺りは最近悪魔が出て酷く暴れた地域だっただろうか。食い荒らされたのはなにも人だけではないということである。

 

 暗い通りから視線をそらし、目の前の横断歩道を渡る。アーケードの屋根の影から出た途端、肌に熱が籠る。暑い、と思った瞬間、クァンシは初めて「それ」に気づいた。

 横断歩道の向こう岸、真っ白の何か。

 燦燦と容赦なく降り注ぐ日差しを弾いて発光しているように眩しいそれがレースの日傘だと気づくまで、瞬き一回ほどのラグがあった。初めは捨て猫に傾けられた雨傘のように日傘が置いてあるのかと思った。しかし、違った。クァンシは日傘の下からワンピースの裾がはみ出しているのに気づいて、やっとそれが蹲った人であることを理解した。

 

「お嬢さん」

 

 進行方向に居たそれを見捨てる気にもならず、クァンシは大股で横断歩道を渡り切ると平坦な声で呼びかけた。元より感情の起伏が少ないクァンシである、どう話しても相手の警戒心を無くすような声色は作れなかった。蹲った彼女に合わせて膝をつくと、アスファルトの熱がじんわりとクァンシのジーンズ越しに伝わった。

 日傘の下を覗き込むと、中には「お嬢さん」が居た。長くて豊かな髪がカーテンのように横顔を覆っている。艶やかな髪が身じろぎすると甘いシャンプーの香りがした。

 

「動けるか?」

 

 聞くと、彼女は弱弱しく頷いて、アスファルトにくっつけていた手を重たそうに持ち上げた。支えを探す仕草をしたように見えたので、華奢な手を取る。白くて細くて頼りない。

 とにかく、日陰に移動しなければ。彼女の移動を補助するよりクァンシが歩いたほうが早そうだったので、失礼、と一言掛けてから抱き上げる。が、びっくりするほど軽かった。岸辺を持ち上げるのと同じ要領で力を込めてしまったので、抱き上げるというより宙に放り投げるようになってしまった。驚かせただろうかと様子を窺って、腕の中の彼女と初めて目が合った。

 美しい色の瞳をした、整った顔立ち。頬を真っ赤に染め、苦しげに浅い呼吸を繰り返している。こちらを見上げるうつろな瞳が少し潤んでいて、中に映り込んだクァンシの銀の髪がキラリと輝いた気がした。

 

 

 

 クァンシは彼女を抱き上げて横断歩道を引き返し、薄暗いアーケード街の中のベンチへと腰を下ろさせた。

 

「お手数を、おかけして……」

 

 レースの日傘を折り畳んで側に立てかけてやると、初めて彼女が喋った。こういう声を鈴を転がしたようなと表現するのだなとクァンシは実感した。この声を形にできたなら、澄み切った珠の如き鈴となるに違いない。

 

「ここで待っていなさい。いま水を」

「あの、私の家が……」

「家?」

「家が、近いんです、大丈夫、ですから……」

 

 それだけ言うのが精いっぱい、とばかりに彼女は青ざめた唇をはくはくと動かしていた。意外と強情な娘だ。クァンシは彼女の相手をするのをやめて、近くの動いている自販機で冷たい水を二本買った。三つ並んだ自販機のうち、二つは置物になっていた。

 ひとつで細い首元を冷やし、ひとつで柔らかい唇を湿らせてやる。彼女はもうクァンシを拒まなかった。ごめんなさい、ともう一つだけ謝ってから、目元を綻ばせて微笑んだ。

 

「ありがとう」

「ん……」

 

 クァンシは何も言えなかった。何を言ってもこの微笑みに釣り合うとは思わなかった。

 十分もすると彼女は落ち着いた呼吸ができるようになった。横に腰かけてぬるくなった水の片方を煽るクァンシに何度も頭を下げ、繰り返し礼を述べた。

 

「思った以上に暑くて、途中で疲れてしまったみたいで」

「……最近とくに暑いから……気をつけたほうがいい」

「ええ、そうですね」

 

 彼女はアガサと名乗った。

 家が近いというのは本当らしく、よければお茶の一杯でももてなさせてほしいと持ちかけられ、クァンシはそれを断れなかった。彼女はワンピースの裾をふわふわさせながらゆったりと進む。クァンシはその二歩後ろを歩きながら、よろけやしないか、転びやしないかと彼女をじっと見つめていた。

 

「ここです、どうぞ」

 

 アガサが立ち止まったのはシャッター通りの奥から二番目、銀のドアベルのついた扉の前だった。招かれるままに足を踏み入れると、真っ先に小麦の焼ける香ばしくて甘い匂いに包まれた。

 室内はこじんまりとしていて、壁のあちこちに棚が設えられていた。木製で揃えられたトレーとトング、それから値札。空のディスプレイ。

 

「小さいですがパン屋を営んでいます、よければおひとついかがですか」

「……パン」

「といっても、今はバターロールくらいしかないのですが」

 

 彼女は頼りない顔色のまま、クァンシを店の奥へと誘った。

 

 

 

**

 

 

 

「いらっしゃいませ……あ、クァンシ?」

「ん……」

 

 クァンシがそのパン屋を贔屓にするようになって、ひと月ほどが経った。

 気分を悪くしていたアガサを助けたあの日、お礼だと出された紅茶とバターロール、それにバタークッキーが口に合ったのかもしれない。あるいは、おいしいと素直に伝えたときの彼女のはにかんだ笑顔がよかったか。

 クァンシの世界には悪魔とデビルハンターと刃と血肉しかなかった。悪魔を殺して、殺して、殺して、最初のデビルハンターと畏怖されるようになってからも、クァンシの日々に平穏はなかった。クァンシがクァンシである限り、それは手に入らないものだと思っていた。だからだろうか。彼女の微笑みには諦めたはずの平穏が根付いていて、なんだか無性に心地よく感じてしまったのかもしれなかった。

 

「そろそろ来る頃だと思ってクロワッサンを焼いてたの」

「嬉しい」

「昨日いちごジャムを作ったから、よかったら一緒に持っていってね」

 

 この店は、もともとアガサの父親が営んでいたらしい。彼女は父の手伝いをしながら大学へ通っていたそうだが、事情があって休学中の折に父が突如失踪し、今は縮小営業で店を続けているとのことだった。

「ちょっとだけ、心臓が悪いの」

 何度目かのティータイム、お互いの敬語もすっかり取れた頃にアガサはひっそりと告白してくれた。生まれつき心臓の壁に穴が空いていて、疲れやすかったり息が切れやすかったりするのだと。それが原因で定期的に通院しているのだが、あの日は病院の帰り道でたまたま具合が悪くなって、そこをクァンシが助けてくれたのだとも。

 父親は一か月前に帰ってこなくなったらしい。彼女曰く、ちょっと方向音痴なので迷っているのかも、だそうだ。若い頃に顔からガラスに突っ込んで大きな傷がついているせいで変に怖がられたりして、そんな風に少し抜けている父だから、なんて冗談めかして笑っていたが、クァンシは彼女の瞳の奥が揺らいでいるのがわかった。今まで何人もの瞳の中にも見てきた、不安の色だった。

 

「それにしても、クァンシってよく食べるのね」

 

 アガサはクァンシが差し出した木製トレーの上に並ぶパンの数々を袋詰めしながら、面映ゆげに微笑んだ。焼きたてのクロワッサンがいくつかとバターロール、レーズンパン、ウインナーロール、それにチョココロネ。一人分にしては少々買いすぎだ。

 

「ん、うん……」

 

 クァンシは生返事をしながら財布を開いた。

 レジを打つアガサは艶やかな髪をひとつに束ねていて、日に焼けない純白の首筋が窓から差し込む朝日に輝くように眩しい。クァンシが力を込めて握ったら潰してしまいそうな華奢な指が繊細に小銭を摘まむ様に、たまに新鮮に驚いてしまう。彼女はあまりに小さく、目を離した隙に死んでしまいそうなほど脆弱な生き物だった。

 

 

 

 彼女から紙袋を受け取ってから低く鳴るドアベルを背中で聞いて、クァンシは静謐なシャッター街を進む。低い屋根と狭い通路によって圧迫感のあるアーケードは、かつては鈴なりの客を呼びあう賑やかな通りだっただろう。今となっては左右をシャッターに囲まれ、そんな雰囲気は見る影もない。目立つ店といえば横道の向こう側にアングラな違法風俗店がしぶとく残っているくらいである。人気もなく、活気もない。

 

 そんな通りに背を向けて歩きながら、「ただのクァンシ」は「デビルハンター」へと表情を変えていく。

 

 デビルハンターのクァンシは東京本部へ出勤して、定位置のソファを陣取り、もはや見飽きたバディの顔と相対しながらバターロールを齧った。塗りつけたいちごジャムは市販のものより果肉が大きく残っていて食べがいがあった。黒々としたコーヒーが波打つマグカップは先日岸辺に買わせたものである。少し前までは公安を辞めた後輩がお別れにとプレゼントしてくれたファンシーなカップを気に入って使っていたが、それは二日酔いの岸辺が机に脚をひっかけた拍子に粉々になってしまった。岸辺の顔・鳩尾・股間と不可視の拳を叩き込んでも怒りは収まらなかったが、彼が半泣きになりながら弁償するというので優しくもその場を流してやったのだった。

 

「クァンシ、最近パン派だよな」

 

 ぼさぼさの黒髪を揺らしながら、岸辺はクァンシに断りなく彼女の隣に鎮座する大きな紙袋からくじ引きのように一つを抜き取った。チョココロネ。

 

「うん、まあ……」

 

 クァンシは咎めない。ここひと月の間、出勤する度に持ち込まれ続ける山のようなパンの一部は岸辺の朝食にもなっていた。たまに昼食、まれに夕食にも。

 ソファが沈み込む。クァンシの眼帯に覆われていない側に岸辺が腰かけていた。ビニールをさわさわ鳴らしながら菓子パンを取り出した岸辺が傷口のある口を大きく開いてコロネの頭にかぶりつく。

 

「そんなに気に入ったのか、ここのパン」

「ん……」

「へえ」

 

 岸辺はしばらく隣の麗人の顔を眺めて、軽く俯いたままパンを咀嚼する様を観察する。

 クァンシは基本的に穏やかで物静かな人間だ。伏せた長いまつげを緩やかに揺らし、眠たげに瞬きをする居姿は絵画にも匹敵する。ただ、ひとたび戦いに身を投じれば、彼女はまさに修羅だった。研ぎ澄まされた刃と一体となり、吹き抜ける一陣の風が如く。どちらもクァンシだ。岸辺はどちらのクァンシも見てきた。

 口の中のコロネを飲み込んで、岸辺は顎を摩りながら独り言ちた。

 

「……ここのパン、たまに生地がダマになっててゴムみたいなことあるよな……痛ッ、なんで殴るんだよ」

 

 こちらを見ていなかったはずなのに岸辺の肋骨の境目あたりを寸分違いなく打ったクァンシは、犯人は私ではありませんとばかりにすました顔でコーヒーを啜っている。岸辺は恨めしそうに脇腹を撫で、黙って最後のコロネの欠片を口の中に放り込んだ。

 その瞬間、端末に着信。

 

「朝一番だってのに」

 

 岸辺はのろのろ立ち上がり、ソファの背に放り投げていたジャケットを掴んだ。クァンシはマグカップに残っていたコーヒーを飲み干し、音を立てて机に置いた。飲み口にルージュの痕は残らない。

 

 

 

「戦闘終了、拍子抜けだな」

「ああ」

 

 朝早くに公安のトップエージェントを選んで呼び出すほどの案件が何かといえば、悪魔退治に他ならない。公安に上がってくる案件は民間では処理できないとされる格上の悪魔との戦闘・退治が主であるが、今回も例にもれず民間のデビルハンターが三組、住民の避難のために奔走していた警察官が二人犠牲になったという。『迅速な対応が求められる危機的状況である』ということで呼び出されたのがクァンシと岸辺だった。

 しかし、規格外な二人である。

 現着して十分、様子を窺っていた岸辺が背に括りつけたうちのひと振りをひらめかせ、それに合わせたクァンシが腰に装着したホルダーから白刃を煌めかせた瞬間、数多の血を啜った醜悪な悪魔はバターのように両断されてアスファルトの上に賽の目切りにされていた。もし悪魔に超性能の脳と視力があれば、男と女が同時に振りかざした刃が一度もぶつかり合うことなく自らの肉体を細切れにしていく様子を事細かに知ることができただろう。しかし幸いにも悪魔は下卑た笑いを浮かべながら、何重もの肉の鎧の下に隠した自らの心臓が砕かれていることさえ気付かぬまま、息絶えた。

 

「最悪だ」

 

 岸辺は適当に血糊を払って刃を鞘に収めようとして、白く濁った脂がずずと刀身をすべって鞘のふちに溜まる様を見て心底うんざり呟いた。

 

「べたべた、研ぎに出さねえと」

「面倒だな……」

 

 クァンシは手にした刃を眺めてから同じように鞘に納め、鞘と鍔の間に押し出された脂が滴り落ちてくるのを見て地面に放り投げた。おっとり刀で駆けつけてきた事後処理部隊に武器の後始末も頼んでしまう。クァンシの武器は自身の体と染みついた技術であって、刃などは替えの利く使い捨ての道具でしかない。

 

「ご両人、お疲れさまでした」

「おう、あとよろしくな」

「こんなにバラバラになっちゃあ掃除も大変ですよ、まったく」

 

 公安勤めが長くなれば顔見知りの職員も増える。軽口を叩きながらやってきた別部署の男に現場の指揮権を引き渡し、岸辺とクァンシは朝の運動もとい任務を完了させた。

 陽が徐々に高くなってきた、今日も暑くなるだろう。騒ぎを聞きつけ、危機が去ったことを察した好奇心を押さえきれない人々が現場の周辺に集まってきた。「悪魔は処理しました、血や肉に触らないようお願いします! 触らないで!」恐怖は人を惹きつけるが、知らぬが仏、見ぬが秘事。触れなくてもよいことに触れたくなるのは人間の性なのだろう。

 そうして投げた視線、人混みの向こうに、見慣れた白いレースの傘がちらりと、見えた気がした。

 

「――」

 

 クァンシは一瞬だけ息を詰めて、さっと岸辺の陰に隠れた。急な接近に岸辺は顔色も変えずに固まったが、彼女は気にもしない。ただ人混みの向こうで、もしかしたらこちらを覗き込んでいるかもしれない『彼女』に見られることだけは避けたかった。銀髪を悪魔の血で染め上げ、歩いたあとに真っ赤な靴跡をつける姿だけは。

 ああ、今日は定期通院の日だったのか、なんてぼんやり考えながら、クァンシは前髪から滴る血が地面に落ちるのを眺めていた。

 

 

 

**

 

 

 

 いちごジャムの瓶が空になった頃、カウンター越しのアガサはクァンシの手を見てぽつりと呟いた。

 

「クァンシ、とてもきれいな手をしているのね」

 

 いつものようにパンをたくさん並べたトレーを差し出してから財布を開いたところだったので、クァンシは思わず動きを止めてしまう。手元を見ていた顔を上げると、アガサは少し焦ったように視線を逸らし、それからまた目を合わせて照れ笑いを零した。

 

「……急にごめんなさい、思ったことがそのまま出ちゃった」

 

 クァンシは何と返せばいいかわからず、そっと首を横に振るだけに留めた。差し出したお代をレジへ納める彼女の手こそ白魚のようなと例えるにふさわしい。そう思って視線をやっていると、それに気づいたアガサはさっと後ろに手を隠してしまった。

 

「見ないで、汚いから」

「汚くない」

「今朝もやけどしちゃったから、傷が増えてるの」

「平気」

 

 じっと目を見て繰り返すと、アガサは恐る恐る手を出してクァンシの前で広げた。抜けるように白い肌は遺伝によるもので、未だに帰らない父と一緒に日焼けしては真っ赤になってすぐ戻るを繰り返してきたという。細長くて整った形の短い爪はやすり掛けまでかかさないらしく、指先の固くて滑らかな曲線をなぞってもクァンシの指の腹に引っかかることはなかった。

 彼女の言う通り、古い切り傷から新しいやけどまで、細かな傷は手指のあちこちに散りばめられていた。

 

「あは、きれいじゃない手でごめんね」

「きれい」

 

 傷一つない手が美しいというのであれば、確かにその選考からは外れるだろう。しかしクァンシには、自分の手の中に納まるこの傷のある小さい手こそ、今までの彼女の人生が詰まったかけがえのない美しい手だと思われた。

 大人しくクァンシに手を委ねていたアガサは、ゆるりと掌を翻して、今まで自らの手を観察していた彼女の手を取る。

 

「それはクァンシのほう」

 

 するりと、アガサの指がクァンシの手の甲をなぞった。

 たったそれだけなのに、クァンシは魔法がかけられたように身動きが取れなくなる。

 

「こんなに滑らかで」

 

 クァンシの女性としては少し大きめの手を包むアガサの指先が、手の甲でぷくりと浮いた血管をさすり、それから骨を追うように指の付け根に向けてゆっくりとなぞり上げていく。知らずのうちに力が籠ってしまったせいでゆるく目立った拳の骨ですら、ひとつひとつ確かめるように触れられる。

 

「いいなあ」

 

 アガサは無邪気に笑って、クァンシの手に触れているだけだ。

 だというのに、ぬくい肌が、クァンシの手のすべてを覚えようとしているように思えた。それほどじっくりと検められている気がした。手だけの触れ合いのはずなのに、心臓に触れられているようだった。自分の表情からは伝わらない動揺が脈から伝わってしまいそうだったから、手首を握られているのでなくてよかった。

 

 白い肌。柔らかい肌。甘い香り。ぬくい体温。

 たわいもないふれあい。

 ふれたい。

 

 ぼーん、と大きく鐘がなった。うるさかった心臓が一瞬動きを止めたような錯覚がした。壁掛け時計の長針が真上を向いた合図だった。

 

「あ、ごめんなさい! 引き留めちゃった」

「……ん、別に……」

「今日もお仕事なんでしょう、頑張ってね」

 

 アガサはあっさりと手を放して、いつも通りに紙袋を差し出した。今回も胸に抱えらえるほどのパンを買い込んだクァンシは、次だって同じくらい買ってしまうに違いなかった。

 アーケードは今日も辛気臭く、寂れていた。茫洋とした気持ちでクァンシが歩いていると、紙袋の中に見慣れぬものが入っているのに気付いた。少しシックなデザインの封筒と、小さな包み。

 

『クァンシへ いつもありがとう』

 

 整った字だった。もし読めなかったらとでも思ったのか、それとも母国語への配慮か、同じ意味の中国語が並べて添えられていた。そんな小さな心遣いこそ、あの娘の心根を表していると思った。

 支部に到着してから小さな包みの中身を確認するとバタークッキーが収められていた。彼女と出会った日に出されたものと同じだった。一度だけ、クッキーは店頭に並ばないのかと聞いたことがある。そのときは「あれは趣味だから」と微笑まれたのだが、それを覚えていてくれたのだろう。

 なんだか落ち着かず、クァンシは組んでいた脚を逆にした。丁寧に包みを開いて一枚だけ口に運ぶ。鼻に抜ける甘いバターの香り、香ばしくて軽い歯応え、べたつかない後味。あの日と変わらない味に、コーヒーを啜りながら目を閉じた。

 

「お、今日はクッキーもあるのか」

 

 だから、背後から現れた岸辺がクッキーを摘まんで口に放り込むのを止められなかった。

 クァンシはいつもと変わらない無表情のまま、時間をかけて目を開き、岸辺がもごもごと口を動かしているのを、見た。

 

「……クァンシ?」

 

 しなやかに、クァンシは音もなく立ち上がる。

 賢明な岸辺はバディ歴八年の経験から何かを察して、ゆっくり、ゆっくりと両手を上げた。

 

 

 

**

 

 

 

「クァンシ! いらっしゃい」

 

 今日もドアベルは重い音を立てた。気づけば肌を刺す日差しが和らぎ、頬を撫でる風が冷たくなってきた。灼熱の夏が過ぎ、短い秋が訪れていた。

 

「今日はね、クリームパンがうまく焼けたからおすすめ」

「ん、わかった」

 

 扉を開いて入ってきたのがクァンシだと気づいて、アガサは表情をぱっと華やがせて店の奥から出てきた。相変わらず華奢で小さく、クァンシが全力で抱きしめたら折れてしまいそうだった。

 あの日、アガサの手に触れ、アガサに手を触れられた日から、ことあるごとに彼女のぬくもりが思い出されてしまう。もう一度ふれたいと思ってしまう。肌寒い日など、柔らかくぬくい肌がいま側にあればいいと考えてしまう夜さえあった。『これ』はなんだろう。平穏の象徴としての彼女への憧憬、脆くて弱いものへの庇護欲。それとも。

 ふと小さな店内を見まわして、クァンシは些細な違和感に気付いた。

 

「……今日は先客が?」

「え?」

 

 エプロン姿のアガサは椅子に腰かけていて、クァンシの問いにのんびり首を傾げた。が、クァンシが何を気にしたのか素早く察して穏やかに笑った。

 

「そう、今日はチョココロネ売れてしまったの。ごめんね」

 

 バターロール、クロワッサン、ウィンナーロールとつやつやしたパンが並ぶ中、チョココロネの値札がついた場所だけトレーが空になっていた。日によって品ぞろえが違う店だが、値札が出ているのはパンがあるときだけだった。

 そうか、この店、客が来ているのか。クァンシがそんな失礼なことを考えているのが無表情からでも伝わってしまったのか、アガサは怒ったような顔をした。作り慣れていないのがバレバレの表情だったので、クァンシの口元も僅かに綻んでしまう。

 

「臨時店長とはいえ、ちゃんと商売してるんだからね?」

「……ん、ごめん」

「もう、クァンシ笑ってるでしょ」

「いや」

 

 椅子に腰かけたままのアガサが口元に手を添えて笑って、しばらく肩を揺らしていたかと思えば、徐々に背中が丸くなっていく。せき込むような音。額と膝がくっついた格好になって、クァンシはアガサの様子がおかしいことに気付いた。

 

「アガサ?」

 

 トレーを適当な場所に置き、彼女のもとへ駆け寄る。背中を摩ると、掌にコツコツと背骨の感触。元から痩せているとは思ったものの、初めて抱き上げたあの夏の日からさらに薄くなったような気がした。

 彼女は息を荒らげて、胸元を押さえている。まさか持病が悪化した? 発作か何かか? クァンシは辺りを見渡し、以前彼女が通院に使っていた鞄が店の奥、居住スペースにあることを確認した。いざとなれば彼女を連れて病院へ駆け込むつもりだった。

 しかし、彼女はクァンシの袖をつかみ、ゆるゆると首を横に振った。荒い呼吸の隙間、大丈夫、と精一杯伝えてくる声。

 

「ちょ、とで、おちつ、から……っ」

「本当に?」

 

 こくりと首肯される。彼女はゆっくりとしたテンポで一度吸って二度吐くを繰り返した。合間に大丈夫、大丈夫、と呟くものだから、クァンシも彼女の背を抱きながら反復した。大丈夫、大丈夫。ぼーん、壁時計が鳴る。大丈夫、大丈夫。

 しばらくして、ようやくアガサの呼吸が落ち着いたものになった。彼女が息を整える間に椅子が倒れ、いつの間にか二人で床に座り込んでいた。腕の中に抱いた小さな体が小さくせき込んで、クァンシの胸から顔を上げる。アガサは瞳いっぱいに涙を浮かべ、それでも気丈に微笑んでみせた。

 

「……ありがとう。クァンシには、いつも、助けられてばかり……」

 

 弱弱しい声だった。こんなに頼りなげな声を聞いたのは初めてだった。

 

「……昔からよく息苦しくなって、こうなってたから、どうしたらいいかはわかってるんだけど。一人のときになるのが、久々だったから」

 

 彼女が俯いたので、目の前に白い首筋が現れる。不健康に青白く、皮膚の下に走る血管がよく見える。

 

「いつかこんな風に、一人で死んでしまうのかしらと、思うの……」

 

 ほろりと、クァンシのズボンに水滴が染み込んだ。

 

「……馬鹿!」

 

 腕の中で小さな体が竦んだ。元より感情の起伏の少ないクァンシだったから、アガサの前で声を荒らげるのは初めてだった。彼女は思わずといったように顔を上げて、クァンシの銀髪の奥、隻眼のふしぎな色合いをじっと見つめている。

 

「アガサは今、生きている」

 

 クァンシは、はっきりと断言した。美しい色をした瞳を覗き込み、彼女の奥の奥に届くように、これ以上なくわかりやすい言葉で言い切った。

 彼女は生きている。いつ儚くなるかなど誰にもわからない。その日が十年後なのか五か月後なのか明日なのか、そんなことを考えたって死は平等に訪れる。

 

「……私も居るから……楽なことを考えなさい」

 

 だから今だけは、今だけでも、彼女に笑っていてほしかった。

 この言葉が彼女の中でどう取られたのか、クァンシにはわからない。それでも彼女がほろほろ涙をこぼして微笑んで、もう少し、と囁いて胸に凭れかかってきたのを抱き返すことはできた。柔らかく、あたたかい。

 

「ありがとう、クァンシ。ありがとう」

 

 何度も繰り返すその響きが、じわりと優しかった。

 

 

 

**

 

 

 

 季節は冬を迎え、気が付けば年が明けていた。しかし悪魔に正月ムードなんていうものが伝わるはずもなく、公安では皆がそれぞれささやかな正月を楽しみ、それ以外は悲しいことにまったくの通常運転であった。

 吐息が真っ白に濁る日、クァンシと岸辺は悪魔退治の要請を受けて出動していた。出動先は東京支部から車で二十分。緊急ということもあり、ちょっとした手続きをスキップして岸辺は車のキーを引っ掴んだ。

 

「まったく、冷えるぜ」

「岸辺、気を抜くな」

「わかってるよ」

 

 公安の制服は通常の衣服より耐久性が高く、丈夫な作りになっている。それに伴って保温性も高いので、動きづらいコートを着たまま悪魔と戦闘せずに済むのも利点だ。だとしても寒いものは寒い。岸辺は長身の背を丸め、首を竦めながら公安車両を走らせた。助手席のクァンシはまっすぐ前を見つめ、状況確認に努める。目印となる建物が遠くに見えてきた頃、同様に「異常」も確認することができた。

 

 拓けた広場の中心部に白骨をモチーフにしたグロテスクな塔がそそり立ち、それを核として湧き出したどす黒い泥水が辺り一面を水浸しにしていた。動物や植物のみならず人さえ呑む泥水は、呑み込んだ対象を石化して取り込む。その繰り返しで体積を増やしてきたらしい塔は、今や五メートル越えの悍ましいバベルの塔に成長していた。膨れた腹の中で大量の泥水がぐずぐずと回転しているのが見える。いま外に漏れ出しているのは体液の内のほんの一部なのだろう。

 

「相棒を呑まれた生き残りの報告によると、あいつの泥水に触れると十秒ほどで石化が始まるらしい。気を付けろ、クァンシ」

「誰に言ってる。駆けまわって裾を汚すなよ、狂犬岸辺」

「は、どうも!」

 

 二人が同時に駆け出す。岸辺は泥水からの高低差をキープしながら段差を飛び、クァンシもまた初手で大きく跳躍してから周囲のビルとの間を縫うようにして塔との距離を詰めていく。

 泥水に触れなければよいという考えによる作戦だったが、それは今まで呑まれた何人ものデビルハンターも考えたことであった。泥水に触れぬように接近してきた岸辺に向け、まず最初の矢が放たれる。

 

「――!」

 

 凪いでいた泥水に波紋が生まれ、みるみる膨れ上がる。次の瞬間、跳躍していた岸辺に向けて泥水から何かが吐き出された。無防備なところへの投擲に反射で抜刀した岸辺は、不意打ちを見事に防御した。吐き捨てられたのは石化した野鳥のようだった。感触は完ぺきに鉱物そのもので、生物としては既に死んでいるらしい。岸辺は着地のために握った刀を泥水に突き立て、それを捨てて足場とすることでなんとか脱出に成功した。

 

「取り込んだものを吐き出せるのか」

「岸辺、私がやる」

 

 言うのと飛ぶのと、どちらが早かっただろう。

 クァンシは着地した岸辺の側をすり抜け、常人離れした跳躍力で本体へと肉薄した。岸辺に向けられたように第二・第三の矢、呑み込まれた小動物や植物などが障害物や目くらましとして足元から射出される。しかしそのどれもが目にも留まらぬ剣捌きによって弾かれ、クァンシの勢いを削ぐことは適わなかった。

 クァンシは一瞬で刃こぼれした武器を本体に向けて勢いよく投擲した。ここまでで跳躍してから一秒。悪魔はどこまで理解していただろう。本能的に危機を感じたのか、本体の腹が裂け、どぷりと粘度の高い液体を噴き出した。

 

「クァンシ!」

 

 岸辺は叫び、収めるべき刃を失った鞘を足場代わりにバディに加勢しようとする。しかし、すでに勝敗は決していた。

 悪魔が噴いた粘液はクァンシの右手と右足を濡らした。その瞬間、クァンシは右半身がずんと重くなるのを感じる。岸辺の話では硬化が始まるまで十秒ということだったが、それは下に溜まっている粘度の低い液体に限った話で、本体が保持していた粘度の高い「本命」はそれより即効性が高いらしい。まず服が粘液を吸い、硬化が始まった。間髪を容れずに皮膚が引きつる感覚がして、血液の流れが加速度的に滞っていく。

 

 クァンシは、ためらいなく右半身の手足を捨てた。

 

 切れ味は色んな悪魔で証明済みだ。左腕で振るった刃は骨すら容易に切断し、七割まで硬化の終わった右腕と右脚を置き去りに再びクァンシを自由にした。最初のデビルハンターに同じ手は二度も通用しない。粘液を噴き出したことで内容量が減り、「中身」が丸見えになったことが致命的だった。

 クァンシは自らの手足を切り捨てた刃をそのまま悪魔の裂けた腹の中へ叩き込み、柄の部分へ膝を入れることで脈打つ心臓を寸分違わず打ち貫いた。悪魔は悲鳴じみた轟音を上げ、自重に耐え切れなくなった水生生物のように自壊した。瞬間、全ての泥水がどす黒い血液に変わる。辺り一面を満たしていた体液が硬化させる効力を失い、すべて元の姿へと戻ったようだった。

 

 あの体液は被ったものを硬化させることで獲物の表面をコーティングする効果があったようで、悪魔はそれを利用して中身を生かしたまま養分タンクにしていたらしかった。血の海に浮かび上がる無数の亡骸は呑まれて養分にされた被害者の残骸なのだろう。一部例外として先ほど呑まれたばかりのデビルハンターなどは養分にされずに済み、まだ生きているとのことだ。

 

「――クァンシ、無茶しやがって」

 

 腰に装着した三本目を杖にして一面の血の池を眺めていたクァンシの前に、ばしゃばしゃと音を立てて血だまりを蹴飛ばしながら岸辺がやってきた。手にはクァンシが切り飛ばした右腕と右脚。断面が冗談みたいに綺麗なので、まるでマネキンのパーツを担いでいるように見えた。

 岸辺は刃で自らの腕の半ばあたりを切り付け、鮮血を滴らせた。クァンシの頬に生温かい鮮血を降らせて、腕と腕の切断面をぴたりと擦り付ける。

 

「悪魔の血がそこらじゅうにあるからお前のはいらないだろ」

「お前、地面の血を啜りたいか?」

 

 クァンシは黙って悪魔と岸辺を天秤にかけて、まあもう出てるし、と岸辺の血を選ぶことにした。どす黒い悪魔の血と比べると、岸辺の血はより赤く見えた。

 クァンシは血さえあれば、両手両足を失ったとしても再生できる。たとえ首を落とされても血とトリガーという条件が揃えば、蘇生することさえできた。生死を可逆にした時点で彼女はとうに人ではなくなったのである。

 右腕の感覚が戻り、右脚が自由に動くようになった。切断された箇所がどこだったか、服の損傷以外ではわからなくなってしまった。あっという間だった。

 

 クァンシはそっと右手を見下ろした。

 アガサにきれいだと褒められた手。傷のない滑らかな手だと。当たり前だ。クァンシの傷は血を摂取することで再生してしまう。書類で切った指も刃物で切断した腕も、傷跡ひとつ残りはしないのだから。

 

「それにしてもこいつ、どれだけ呑んでるんだ」

 

 岸辺は顔をしかめ、柄悪く腰を落として悪魔の中身を覗き込んだ。

 大型魚の腹から丸呑みされた小魚が出てくるように、悪魔の中心部からは複数の遺骸が出てきた。中に開襟シャツと短パンを着た男が居たことから、この悪魔が少なくとも夏から活動していたことがわかる。

 

「――」

 

 チリ、と眉間に嫌な感覚が走った。視界に何かが映った気がした。折り重なるようにした遺骸の中、派遣されてきた部隊がひとつひとつを並べてビニールシートに包んでいる中に、何かが。

 クァンシはアシンメトリーな制服姿のまま、市場のように並べられた遺骸を眺め、ひとつの前で立ち止まった。

 血濡れているが、他のものより白い肌。見覚えのある髪色、面影のある顔立ちと、顔に刻まれたひと筋の大きな傷跡。

 

『若い頃に顔からガラスに突っ込んだとかで大きな傷がついているせいで、授業参観なんかで変に怖がられたりしてね――』

 

 クァンシは目を瞑り、拳を強く握った。

 

 

 

**

 

 

 

 クァンシが東京支部にパンを持ち込まなくなって二週間が経った。

 岸辺は最初こそ不思議そうにしていたが、いい加減パンに飽きていたのだろう。嬉々として米や麺類を買っては食べ、クァンシにも薦めた。クァンシはそれを受け取ったり受け取らなかったりして、ぼんやりと彼女のことを考えた。

 

 アガサの父親は失踪したのではなく、悪魔に殺されていた。

 ――呑まれた段階では死んでいなかった。あの夏の暑い日に悪魔を見つけて、あの腹を裂いていたら死なずに済んだかもしれなかった。そんな考えに陥りかけては、あれは不可抗力だと冷静な自分が冷たく言う。

 ――呑まれた時点で死んでいた。あれは人の形をした食べかすだ。お前にできることなど何もなかった。救えなかったなどというのは傲慢だ。

 

「……」

 

 クァンシは目を細め、ソファに深く身を預けた。

 

 次の休日。吐く息を白くしながら向かった先、寂れたアーケードの奥でいつも温かく客を迎え入れていた馴染みのパン屋は、冬の朝にしんと冷え切っていた。

 入り口に立てかけられた看板には「しばらく臨時休業」と丁寧な字で記されていた。まさか行方不明の父親の顛末を知った心痛で、と頭によぎったが、ふと看板の端で何かがはみ出しているのに気づいた。裏に何かが貼り付けられていて、その角がちらりと覗いているらしかった。

 シックな封筒。

 見覚えが、あった。

 

 

 

 とある病院、六階突き当たりの病室。

 看護師に案内されてたどり着いた先で、清潔なシーツに包まれた患者衣姿のアガサはいつも通りに微笑んでいた。

 

「元気になりたくなったの」

 

 手紙は「クァンシへ」から始まっていて、クァンシが目にする二週間前、つまりパン屋へ行かなくなったタイミングで書かれたものだった。内容は、前々から検討していた心臓の手術をする気になったこと。しばらく入院するからパン屋は休業すること。そして、もしその間にクァンシが来ても心配しないようにと、入院先の住所が添えられていた。

 

「クァンシのおかげよ」

 

 手術から一週間が経っているらしい。今は痛み止めが効いてるの、なんて想像したよりけろっとした顔をしている。

 人でないクァンシでさえ心臓が潰されれば死ぬ。だというのに、ただの人間である彼女が皮膚を裂かれ、肉を切り、骨を断ち、生命活動の根幹の臓器をいじられて、それでも生きてここに居る。

 なんとなく信じられなくて、クァンシは彼女の手を握った。あたたかかった。先ほどまで外に居たクァンシの手が冷たかったのだろう、アガサは自分の手から体温をかき集めて渡すようにぎゅうぎゅうと力を込めて握りしめてくれた。

 

「でも、また傷が増えちゃった」

 

 手を固く握りしめたまま彼女の指の傷跡をなぞっていたクァンシに、冗談を言うような口調で彼女が言った。現代の医療でかなり成功率が高くなった手術らしいが、胸を開いたのだ。こんな小さなやけどとは比べ物にならないくらい大きな傷跡だろう。

 

「見たい」

 

 口をついて出たのはそんな一言だった。

 

「傷を?」

「うん……」

 

 目を丸くしていたアガサだったが、そっとクァンシの手の中から小さな手を引き抜いて、脇腹の患者衣の結び目をさっと解いた。流れるようにもう一か所も解かれてしまう。はらりと、患者衣がただの布切れになった。

 彼女がそっと閉ざされた布を開くと、女性特有の柔らかい曲線の肢体が露わになった。平らな腹は白いと思っていた頬よりもっと白く、誰も触れたことのない新雪のような眩しさでクァンシを惑わせた。瑞々しくて張りのあるやわい胸元のラインにめまいがする。

 そして丘の間、人体の真ん中に大きなガーゼが貼られていた。クァンシが言葉を失っている間に、彼女がテープの端を剥がし始める。「大丈夫、すぐ替えるの」なんてことない口ぶりで言うものだから、クァンシはやっぱり何も言えない。

 現れた傷口は固定用テープで留められていた。胸元に二十センチも走る傷跡。患部は未だ真っ赤に腫れあがり、生々しい縫合痕が皮膚の上で凸凹と波打っていた。

 

「こわいでしょう」

「きれいだ」

 

 声が重なった。前を寛げて傷口をさらけ出した美しい女は、クァンシを穏やかな目で見ていた。クァンシはもう一度「きれい」と呟いて、そっと手を伸ばす。

 ふれたい。

 つう、と指を胸元に添え、傷口の周りをなぞった。まだ熱を持っているようだった。生きている。

 触れたい。

 皮膚に触れたままの指を、今度はゆるりと撫でるように動かす。まるで彼女の胸をキャンバスにして、指で絵を描いている気分だった。手に吸い付いてくる柔らかい肌、ぬくもり。衝動に抗えず、掌全体で胸を包むように、右手を左胸に埋める。皮膚ごしに伝わる彼女の鼓動。「クァンシ」甘い声。

 

「――私も、触ってほしい」

 

 考えるより先に零れていた。クァンシは右手を彼女の左胸から動かさぬまま、左手で自分の眼帯を解いた。澄み切った冬の日差しが病室に満ちて、彼女の髪の輪郭を淡くぼかした。

 彼女は静かにクァンシの前髪をかき分け、閉ざされた右目の目じりをそうっと撫でる。大事な宝物に触れているような、子どもの生え際を摩っているような、優しくも恭しい手つきだった。クァンシが左目を瞑ると、彼女の指が右の眼窩にかかる。ぽっかりと空いた穴は二度と戻らない喪失の痕だった。まさかここに指どころか腕が入るとも知らず、彼女は二度ほど撫でて、徐に唇を触れさせた。

 

「これからよいものだけが見えますように」

 

 クァンシは黙ったまま彼女の手を取り、掌に唇をつけた。

 ああ、彼女は何も知らない。父親が悪魔の一部として死んだことも、クァンシが最初のデビルハンターであることも、目の前のこの身がもはや人でないことも。

 入れ込みすぎている自覚はあった。美しい平穏を内包したようなきれいな女、あたたかく柔らかく、守るべき存在。ここが潮時だった。この手ではあのきれいな手をいつか汚してしまうに違いなかった。

 

「愿你幸福」

 

 どうか、彼女が無知で美しいままでありますように。

 

 

 

**

 

 

 

 その日、初めてクァンシはアガサを組み敷く夢を見た。

 傷跡をなぞると、彼女は甘く鳴いた。手に吸い付く肌、指の中で形を変える胸、なだらかな曲線に、誰も知らない甘い声で名前を呼ぶ彼女。

 

「クァンシ」

 

 驚くほど興奮した。

 

 

 

**

 

 

 

 クァンシには岸辺がわからなかった。

 

「……好き」

 

 バディを組んで九年目。二人で飲みに出かけた先で急ピッチで酒を流し込み、気が付けば一人でしたたかに酔った岸辺は、右隣に座るクァンシを見ないまま頼りなく呟いた。初対面の時から俺の女になれだの付き合えだのを繰り返し言われてきたが、これほど端的に愛を告げられたのは今夜が初めてだった。

 

 この物好きは何度も繰り返し言い寄ってきて、その度に希望など残らない程度に手ひどくお断りされているというのに、一向に諦める様子がない。

 クァンシはそもそも「人を愛する」ということを字面以上にうまく理解できなかった。

 付き合う。つまり、触れ合う、キスをする、セックスをする。彼とのバディ歴も長くなったが、クァンシは岸辺を見てそのような欲求を抱いたことがない。

 

 しかし、あの夢を見た夜、クァンシはこれまでの人生で掛け違ってきたボタンに気付いた気がした。

 

「……最近気づいたが私は……」

 

 眼下に広がる夜景の煌めきを眺めながら、クァンシは言葉を探して、岸辺に「告白」をする。

 

「女が好きなのかも……しれない……」

 

 クァンシは初めてそれを口にしたが、その瞬間にすとんと腑に落ちた。

 こんなにも愛を向けられてきてなおクァンシが岸辺を愛せないのは、岸辺が悪いからではない。女が好きだから。岸辺が女ではないからだ。

 「人を愛する」ということの一端を掴んだクァンシは、これまでの靄がかかったような心に清潔な風を入れられたような気がして、なんだか晴れ晴れとした気持ちだった。

 

「……知ってるよ」

 

 テーブルに潰れた岸辺は顔も上げずに、小さく呟いた。

 

 

 

 そう、岸辺はクァンシより早く、彼女が同性愛者であることに気付いていた。

 きっかけは彼女がパン狂いだった頃、珍しくパンではなくクッキーを食べていた日にある。岸辺は風が冷たくなってきたあの秋の日、いつものようにクァンシの爆買いのご相伴に預かるつもりでいて、軽い気持ちでクッキーを一枚食べた。結果は大失敗。彼女はたかがクッキー一枚にびっくりするほど無表情で激怒した。常人より力の強いクァンシが振りぬいた拳で宙に浮いた岸辺はテーブルに激突し、今度は自分のマグカップを割る羽目になった。

 

 なぜそんなに怒ったのか? 買いなおして済む話だろうか?

 腫れた頬に氷嚢を当てながら一人でぼんやり考えて、岸辺はクァンシが持っていた紙袋の店名をこっそり控え、実店舗に訪れることにした。

 

「あら、いらっしゃいませ」

 

 足を踏み入れた先は狭いパン屋だった。ここまでの道のりの寂れ方からわかる通りの侘しい品ぞろえ、どれもこれもこの数か月で食べてきたものばかりだった。

 しかし、店員は思わずぐっとくる美人だった。どうぞ見ていってくださいね、と微笑む姿には好感が湧く。しかしちょっと痩せていて顔色が悪いのが岸辺の好みからは外れていた。

 

「あの」

「はい?」

「ここ、クッキー置いてるか」

 

 彼女はきょとんとして、二度ほど瞬きを挟んで、ああ、と合点がいったように眩しい笑顔を浮かべた。

 

「もしかして、クァンシのお友達ですか?」

「と……うん、まあ、そういうとこ」

「ごめんなさい、あれは商品じゃないんです」

 

 最初のデビルハンターを、日々悪魔を紙を破るように屠る彼女を、ただの友達のように気安く呼ぶ女。人気のないアーケードの奥でひっそりパン屋を営む女。まるで廃墟の崩れた壁の間から差し込む僅かな太陽で育った花のような女。

 こいつか、と察した。クァンシをパン派にして(ついでに岸辺を一過性のパン嫌いにして)、岸辺が八年追いかけてなお触れられないクァンシの心を掴んだ女。

 

「そうか。わかりました、それじゃこれください」

「あ、チョココロネ。少々お待ちくださいね」

 

 岸辺は彼女の白い頬に朝日が当たって、真珠のように輝いたのを見た。

 また、彼女が輝けば輝くほど、周りに重い暗闇が口を開いているようにも見えた。暗闇の中の光は小さくとも目を引く。暗闇に生きるものは些細な光を求めて、じりじりと知らぬ間に寄ってきてしまうから。

 光るな、と念じた。

 彼女は微笑んで、「120円です」、と言った。

 

 

 

**

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世でハッピーに生きるコツは無知で馬鹿のまま生きる事。

 わかっていたはずなのに、なぜ来てしまったのだろう。なにを期待していたのだろう。

 

 写真のノコギリ男を捕獲する。そんな任務を受けて、クァンシはかつてバディを組んだ男と敵対するために、愛した女たちを四人連れて日本に渡ってきた。

 ターゲットは自分たち以外のデビルハンター達にも狙われていて、その中にドイツのサンタクロースが含まれると知ったとき、クァンシはあの小さなパン屋を思い出した。あれからどれだけ時が過ぎただろう。もうあそこには居ないかもしれない、クァンシのことなんて忘れているかもしれない。それでも、無差別な人形の悪魔の毒牙にかかって尊厳を踏みにじられ、辛い目に遭ってほしくはなかった。それほど情のある相手だった。

 だから、日本に渡ってきた初日の隙間で、まだ体が覚えている道順を辿ってあのアーケード街へ足を向けた。

 

 この世界の残酷さなんてわかっていたはずなのに。

 

 そこは廃墟だった。シャッターは錆びて穴が空き、屋根が落ち、折れた柱に苔が生えていた。

 通りがかった人間にコスモが知恵を授け「ハロウィン」携帯端末を差し出してもらう。あの頃に輝いていたアーケード街は滅んでいた。

 

 クァンシが中国に渡ったその年の内に、パン屋の女性が違法風俗帰りのドラッグ中毒者に刺殺された事件がきっかけだと、書いてあった。

 

 見ないふりをしておけばよかった。知らないままでいればよかった。どこかで幸せになって、穴のふさがった心臓で駆けまわって、生きているのだと思っておけばよかった。

 隣でピンツイが背中を摩った。ロンは身をすり寄せてくれた。コスモはいつも通りに笑ってくれて、ツギハギは額をうなじにくっつけてくれる。柔らかいぬくもり。愛おしい「私の女たち」。

 

「ああ……知りたくなかったな」

 

 クァンシはそっと目を伏せて、無意識に眼帯に触れた。

 あの日キスをしてくれた唇の柔らかさを思い出したかった。




無知で馬鹿のまま生きる事に失敗し続ける人たちの話


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