06 ダンジョンに育児費用を稼ぎに妊婦が向かうのは間違っているだろうか
世界の中心たる『迷宮都市オラリオ』の地下には広大無比な『ダンジョン』が広がっていた。
未だ踏破されたことは無く、内部に蠢くモンスターとの戦いは一〇〇〇年を超えようとしていた。
神々が地上に降臨してから多くの冒険者達が幾度も挑戦するものの結果は芳しくない。時には力の使いどころを謝り、冒険者同士の殺し合いに発展する事もしばしば――
都市そのものが危機に瀕する事態が起こると、その度に英雄が立ち上がる。
混沌とした時代にあって人々は生きる事を諦めなかった。神々がそれを許さなかった。
深層域の攻略にいよいよ大詰めの頃、最後の『隻眼の黒竜』によって最強派閥であったゼウスとヘラの両【ファミリア】は大打撃を受けてしまった。
眷属の殆どが死亡。恐怖のあまり逃亡する者も居るとか。
無敵を誇っていた冒険者がモンスターに屈した。
それはオラリオに甚大な恐怖を与え、人々の希望を完膚なきまで粉砕する事態となった。
この世の終わりのような雰囲気の中、今までゼウス達の下で
――そして、現在。かつての最強派閥はなりを潜め、新時代が到来した。
ゼウス達が居なくなったとしても世界が平和になったわけではない。頭が変わっただけだ。
数年後にはオラリオの内情も落ち着き、冒険者達は再度地下に広がるダンジョンに挑戦していく。
この物語はそれよりほんの少しばかり時を遡ったところから始まる。まだ最強派閥が現役で黒竜に挑む少し前の出来事――
大きなお腹を守りながら武器を振るう一人の女性が居た。
名をメーテリア・ストラディという。
病的なまでに細い身体。真っ白な髪の毛は腰の辺りまで長い。碧玉の瞳は今、苦しみを湛えていた。
頼りにしていた夫に先立たれ、それでも食べていかなければならない。その一心で彼女はダンジョンに潜り続けていた。
現在の階層は七。出産予定日は数か月先だと思って、体力をつける意味で潜っていた。
(……おう、下に降りる度にお腹に響くわ。……これ、不味い奴ね)
【キアン・ファミリア】の眷族であり、無理をしないと主神に約束までしたのに急に体調が悪化した。そんな状態でも出てくるモンスターに全く怯まないのは元々の【ステイタス】が高いお陰だ。
一見すると危険な状態だ。上層域に居る冒険者の多くが心配する。
(姉さんに叱られる流れよね。……でも、これから生まれる子供の為には少しでも稼がないと……。産後は殆ど潜れなくなるって言うし……)
子育ての期間が長引くと予想し、現在頑張っている最中だった。それだけ貧窮に喘いでいるともいえるし、それ以外にも理由があるとも。
彼女がこうまで無理をするのは全て子供の為。
自分に何があってもいいように。何不自由なく過ごしてもらう為ならば――母は命を惜しみません、と強く思ってダンジョンに臨んでいた。
(……母とは強い者。……この私がよ。信じられないわ。うっかり身体を許したのが運の尽きと言われてしまったけれど……。あのロクデナシはあっさり死ぬし……、甲斐性なしだったけど……)
姉に頼るのは気が引ける。頼めば助けてくれるのは確信をもって言えるけれど――
いつまでも子ども扱いされるのは我慢できない。これから自分は母になるのだから。
お母さんは凄いな、と子供に言われたい。そんな妄想を思い浮かべている彼女は苦境にありながらだらしない顔を晒していた。
しかし、やはり無理があるかなと少しずつ後悔し始める。そもそも――
ダンジョンに育児費用を稼ぎに妊婦が向かうのは間違っている。
それもタダの妊婦ではない。
神々から【静聴】という『二つ名』を
一歩一歩お腹の様子を窺いながらモンスターを探す。あと少し経ったら帰ろうと決めて。
どうしてそうまでしてダンジョンに居るのか、と言えば効率が良いからだ。
【ステイタス】の数値を増やす為には命の危機を感じるようなギリギリの状況が望ましい。それは
(……一歩が辛い。ヤバイわよね。生まれるかもしれない。……こんな事で負けちゃ駄目よ、メーテリア。貴女は母になる、予定の女……。こんな難題くらい深層域に比べればヘーキヘーキ)
自分に叱咤激励しながら前に進む。
脂汗を拭いながら進んでいくと壁に亀裂が走り、モンスターが生まれ落ちる。
自分から行かなくてもモンスターが来るのでメーテリアは武器を振りながら対処した。――実際にはそんなに簡単に出来る事ではない。彼女だからこそ出来る芸当である。
具合の事も考えて地上に戻ろうと思った時、
「ヴォオオオ!」
この階層では聞かない鳴き声。いや、咆哮だ。
多くの冒険者がそれを聞いただけで戦慄するに違いない。特にレベル
通常、
討伐推奨レベルも
だが――
ここにそんなことに動じない冒険者が居た。というより動くのが辛くて足腰が震えていた。
第三者目線から見ればモンスターに恐れをなした、と取られるところ。しかし、彼女の事情は特殊だ。
思わず異常事態だと気づく、その時の緊張で破水してしまった。今は股から小便のように体液が流れ、赤く染まりつつある。
(こ、こんな時に……。もう、なんでミノの鳴き声が聞こえるの。思わず驚いちゃったじゃない)
恐怖に
歩くごとに不快感と痛みが強まる。それと視界が歪んで身体全体が痛い。
度重なる
(……うぉ。吐きそう。かっこ悪い。恥ずかしい。……後何か……産まれそう……。後、七層も戻らないといけないのに)
どうしてこんな所に妊婦が居るのかしら、と他人事のように文句を呟く。
これから生まれる子供を育てるには金が必要だ。前に居た【ファミリア】の稼ぎの殆どを没収されてしまい貧窮に喘いでいた。
ちなみに貯金は
お金を稼ぐことも妊娠が発覚してから始めた。その前は多くの人員がやってくれた。
一歩ずつ進むごとにメーテリアの顔色が悪くなっていく。それと並行かるかのようにモンスターの唸り声が近づいてくる。
そして、とうとう追いつかれた。約一〇歩ほど進んだ時に。――彼女にとってはそれだけでも重労働となっていた。
硬い石の棍棒を持つ
「ヴォオオ!」
「……ああ、もう。そんなに近くで叫ばないで」
振りかぶられる棍棒で殴られれば大抵の冒険者の頭は砕け散る。
メーテリアは産気づいた為に顔色が真っ青になったひ弱そうな女性冒険者だ。モンスターにとって格好の獲物である。
今まさに襲われそうになっているのに当のメーテリアは意外と冷静だった。いや、苦しくてモンスターどころではなかった。
打ち据えられようとする棍棒をメーテリアは弱々しい動きで手持ちの武器である細身の剣で受け止める。その衝撃により、お腹に力が入り、一層の苦悶を味わう。
目を瞑って口を丸く開け、喘ぐ妊婦。あまりの苦しさから何度も深呼吸を繰り返した。
(……ヤバイわ。今のはヤバイ。でも、どうしましょう。逃げる事も動くことも難しそう……。誰かに助けてほしいけれど……。近くに人の気配が無いのよねー)
状況とは裏腹に呑気な思考に囚われる。
自身の身長よりも大きなモンスターを相手にしているのに目の前の事より身体の方を心配している。
――つまり、目の前に居るミノタウロスを全く脅威と捉えていない。
今、最も大事な事はモンスターの攻撃を受けたことで身体全体が力み、今にも産まれそうなことである。
彼女の『
運が悪ければグチャグチャになった状態で漏れ出てしまう可能性がある。それを思うとより一層顔色が悪くなる。
既に股下からお漏らしのように濡らしている状態だ。とっても恥ずかしくて誰にも見られたくない。けれども、そんなことを言っている場合ではない、という事も自覚している。
(……姉さん、私とってもヤバイ状況ですぅ……。具合が悪いし、お腹は痛いし、吐きそうな気持ち悪さが襲ってくるし、で……。本当に……、誰か助けてくれないかしら? 出来れば女性冒険者がいいわね)
苦しむ彼女にモンスターが手心を加える筈も無く、油断を見せていると思って更なる攻勢に出る。だが、弱々しい筈の彼女の防御が思うように突破できない。
押し込めている筈なのに。
「ヴゥム……」
鼻息を荒くし、力を込めて冒険者を押しつぶそうとしているのに。
もし、ミノタウロスにもう少し理性があれば気が付いただろう。
モンスターの攻撃を防いでいるのは細い女の腕一本であることに。枯れ枝よりも脆そうな腕に対して両腕で力を込めているミノタウロスの攻撃が負けている。
そんなモンスターの懊悩をよそに女冒険者の内面は悲鳴の連続で埋め尽くされていた。
(くぅ。ううー。はぁー)
尋常ではない下腹部の痛み。身体全体を覆う不快感。股から流れる体液。足腰の震え。
様々な要素がいっぺんに襲い掛かり、判断力が刻一刻と削られていく。
上気した顔。熱い吐息。他の冒険者が見れば異常事態にしか見えない。
見ようによればミノタウロスに欲情した娼婦と言われても――それくらい熱に浮かされた顔を表していた。
思うように力が入らず。また、別方向から強引な力を押し込められる。そんな状況もいつまでも続かない。
下半身が割れるような尋常ではない痛みが走り、メーテリアは悲鳴を上げる。
自分でも理解した。もう我慢することが出来ない事を。
焦る気持ちが判断力を鈍らせる。それでも彼女は戦士だ。目の前のモンスターから意識を逸らすわけにはいかないと強く思った。
(こんな時に……、こんなモンスターと邂逅するとは……。私も運が無いのね、きっと)
小さく聞こえてくるのはミチミチと何かが割れる音。聞きようによっては大便が漏れ出るものに似ていて、辛い状況の最中だが羞恥を覚えた。
既にびしょ濡れの下着は邪魔だと判断し、強引に――空いている手で――剥ぎ取った。
周りに人が居なくて良かった。――モンスターが居ても構わない。どうせ倒してしまうから。
さっさと倒さないのは身体が思うように動かせないからだ。そうでなければ邪魔なミノタウロスにはとっとと退散してもらう。
あまり身体全体を動かすのは
それも時間の問題だ。何となく彼女は理解した。
子供が出てくる。
名前を考えていなかった、とミノタウロスの攻撃を受けながら物思いに耽る。少し意識が飛びかけていた。
牛から連想して酪農。乳牛。カウベル。
(お乳……。駄目だわ。牛乳みたいな事しか出てこない。神々のような発想力が私には足りないのね……)
呑気にしている間もまたが避けるような痛みが襲っている。
こんな苦境も姉にとっては些事にすぎないと言われる筈だ。それくらい彼女は厳しい冒険を繰り広げている。
あまり様子を言いたがらないが風の噂で活躍は嫌でも耳に入る。だから――心配させまいとする姉の存在に頭が上がらない。
(雑音を嫌う姉さん。でも、それは……。そんなことは無い。音楽を誰よりも愛しているのは彼女だもの)
冒険者が発現する『スキル』や『魔法』は本人の資質に関係するものが多い。
能力を見れば冒険者の人生が垣間見える。メーテリアもその言葉に疑いを持っていない。
思考が混濁し、考えがまとまらない。
次第に長閑な牧場が映し出され、乳牛の群れを思い浮かべる。痛みが強くなるにつれて現実がぼやけ、空想が強くなる。
ミノタウロスは急に大人しくなった冒険者に畳みかけようとするもののある地点で進まなくなった事に疑問を抱く。
完全に勝機が見えているのに攻め込めない。それは何故なのか。拳を使えばいい。足を使えばいい。なのに――次の瞬間には負けてしまう気がした。
動くに動けない。
「ヴゥ……」
そんな攻防も長く続くわけがなく。
産気づいてから五分ほどしか経っていないのに一時間もの経過した様な雰囲気があった。
メーテリアが呻きだしてから時間の流れが緩やかになったような――
彼女の荒い呼吸がモンスターを怖気づかせる。
(あ、ああ……。うぁああ)
股関節が軋み、我慢の限界に達した。そして、激しい痛みと共に体内から大きな物体が真下に流れ落ちる感覚が伝わる。
痛くて涙が出た。
身体が避けるかのような尋常ではない産みの苦しみ。
ダンジョンで絶叫を上げ、ついてに赤子を出産する。――目の前に居たミノタウロスも思わずたじろぐ。
一気に重さが無くなり、ついで聞こえてくるのは小さな生物の息遣い。
地面に落下した鈍い音の後、堰を切ったような鳴き声が
意識が想像以上に体力を失い、意識も曖昧になってきたがモンスターと対峙している事を忘れてはいない。
早く対処しなければ子供が危ない。そう朧げな感覚で敵を見据える。
股間からまだへその緒をぶら下げながら。メーテリアは
一歩進んだ時、体内に入っていた胎盤がニュルリと零れ出た。思わず、小さな悲鳴を上げるものの赤子の安全に比べればなんという事は無い。
「………」
一気に障害が無くなった為に思考が鮮明になった。いや、無駄な事を考えずに済み、目の前の事だけに集中できた。
産まれてしまったものは仕方が無い。今更体内に戻す事は出来ない。
赤子が生まれ、自分は母になった。次はその子を守るだけ。
一つ息を整え、無造作に振るわれる武器。それをミノタウロスが対処できる筈もなく――
メーテリアの【ステイタス】は深層域でも通用する程に高い。ゆえにミノタウロスは呆気なく灰と化し、魔石を落とした。たった一刀で。
戦闘が終わってもまだダンジョンの中である。次のモンスターが現れるまでそう時間も無い。
震える足腰のまま赤子の下に向かい、小さな身体を拾い上げる。
(……思っていたよりも元気そうね。健康第一……。それより早く地上に行かないと……。それから名前を考えましょう。……やっぱり音に関連したものがいいかしら……)
動きたくても動けない。
緊張が解けた事といい、体力が思いのほか奪われてしまった。
頭痛や下半身の痛みに加え、おそらく貧血か脱水症状を起こしている。そんな気がした。
他の冒険者が来るまで大人しくしていた方が無難だ。ここは上層階だし、多くの往来がある。出てくるモンスターも大したことは無い。――ミノタウロスはさすがに今の一匹だけだと思うけれど。
「……お母さんが側に居るから……。ちゃんと守ってあげるから安心しなさいよ……」
産まれたばかりの赤子は周りの様子に気付くことなく小さく呻く。頼りない手足を動かして懸命に生きようとしていた。
そして――メーテリアは赤子をしっかりと抱きしめたまま意識を失った。
次に気が付いた時は暗い洞窟の中ではなかった。ぼんやりとした感覚ではあるがこれでも歴戦の冒険者だと自称している。
多少の修羅場は経験済みだ。
人々の喧騒が耳に聞こえて、どこかの診療所だと理解した。
(……ちゃんと見つけてもらえたのね)
追い剥ぎも多少は覚悟したが問題はそこではない。
産まれた赤子がどうなったのか、だ。だが、それを尋ねようにも麻酔を使われているらしく、身動きが取れないし、喋れない。
意識は多少ある程度。ひどく眠い。
「……ふん、起きてたのか」
不機嫌な声が聞こえた。それはとても聞き覚えのあった。
彼女が所属している【キアン・ファミリア】と浅からぬ付き合いがある【ディアンケヒト・ファミリア】の主神ディアンケヒトのもの。
普段は側に居たくないと思わせる神様だが冒険に必要な医療器具の制作に関して他の追随を許さないほど優秀であり、それに見合った高額商品ばかりなので貧乏人には手が出ない。
「キアンの奴が土下座してきたから仕方なく、助けてやるのだ。ありがたく思えよ、貧乏人」
「………」
「……全く、どこの世界にダンジョンで出産など……。お前は正真正銘のバカだな。大馬鹿だ」
答えられない代わりに軽く頷く。
ディアンケヒトは普段から機嫌が悪いが、貧乏人が嫌いなわけではない。それは何となく分かった。
命を粗末にする下界の住人に対して文句があるだけだ。
「ふん。……赤子は健康だ。お前たち姉妹の様な厄介な病状は確認されなかった。……健康な奴は金にならん。全く……」
(……健康? ほ、本当の本当に? ……ああ、神様……ありがとうございます)
健康という言葉を神から聞かされただけで涙が溢れ出て来た。
病気の自分から生まれる子供はきっと不幸な人生を歩むかもしれない、という思いが少なからずあったからだ。
それでも命ある限り愛そうと妊娠を知った時から夫婦で決めていた。だからこそ、報われたと思えた。
「儂は何もしとらんぞ。退院して儂の商品を買えるくらい金を稼げ。お前ら貧乏人は恩の返し方も満足に出来んから嫌いだ」
(……はい、いずれ)
「ディアンケヒト様。病室で大声を出さないでください」
「これが大声なら儂はなんも喋れんではないか」
不満を募らせたディアンケヒトはそのまま病室から出ていったようだ。この部屋には他にも人が居て、彼に注意したのは診療所の職員と思われる。
あまりにも体力を失っていたために声が出せなかったけれど、感謝の念は忘れなかった。
元々身体が弱かったメーテリアは自分が思っているよりも長く入院する事になってしまった。
その間、赤子は別室で面倒を見られており、授乳の時間が今は楽しみになっていた。
主神キアンも時間のある時に訪れて色々と面倒を見てくれる。
彼もまた医療を司る神なのだが大手に客を取られており、貧乏な暮らしを余儀なくされている。かといって多額の借金があるわけではない。
「お前の姉が遠征に行っている間でよかった。噂を聞きつけられたら大騒動になっているぞ」
「………」
まだ少し声が出せないが主神はちゃんと聞きとってくれた。
身体の栄養の殆どがまだ戻っていない。回復には時間がかかり、授乳の為の食事も少しずつ増やしている最中だ。
元より他人より虚弱な身体である。一日でも長く生きるのが本来の目的だ。
今回の出産で寿命を大幅に縮めたかもしれない。
「名前は決めたのか?」
いいえ、と首を横に振りながら答える。
候補をいくつか決めているものの決断には至っていない。
死地に向かう冒険者を母に持つのだから苦労が絶えない筈だ。であればもう少し暮らしやすい人生を用意しなければならない。
それを思うと素直に喜べなかった。
(……一番の問題は私の寿命が短いこと。……長く面倒を見てくれる人を探さないと……)
既に余命宣告を下されている。長くて二年だ。それはあまりにも短くて残酷な現実である。――今回の事で更に短くなった気がするけれど。
産まれた時から患っている病気があり、今日まで生きてきたことが奇跡である、とキアンに言われたことがある。――これは双子の姉にも言える。
生きている限り色々な事に足掻き続ける。だから、こんなところで死んでいる暇はない。
「退院したら【ガネーシャ・ファミリア】にお礼を言っておくように。全身血まみれのお前達を見つけてくれたのだから」
はい、と声の代わりに頷きで応えた。
その後、大きな変化も無く数日には言葉を発する事が出来るようになり、歩けるようになったのは更に三日後。
子供が生まれた以上はしばらく
危険なモンスターの巣窟に赤子を連れていくのは躊躇われた。
半月ほどの入院生活を終えて、無事に退院した後、貯金を切り崩しつつ赤子の名前を考えていると【キアン・ファミリア】の
いつもであればメーテリアと名前で呼んでくれる。
「こちらです、姉さん」
ベッドに腰かけていたメーテリアは姉を手招きする。
外出自体は出来るがダンジョンに潜るのは今しばらく禁止だと主神からも言われたので大人しく生活していた。
早速勝手知ったる
妹は常日頃から疑問に思っていた。どうして目蓋を閉じていて平然と歩き回れるのかを。
これには糸目の住人と同様に特に問題なく過ごせる、とのこと。
彼女にとっては視界を妨げるものではなく、ちゃんと周りが見えている。もちろん、目蓋を開ける事も出来る。
「……随分とやつれたな」
「これでも幾分か良くなった方ですよ」
灰色の長い髪を乱していた様子から、ダンジョンから直通で来た事が窺えた。
よく見ればあちこちに擦過傷がある。更には武骨な
アルフィアは【ヘラ・ファミリア】の眷族であり【静寂】の『二つ名』を持つレベル
彼女にとってメーテリアは何にも代え難い存在で、場合によれば主神ヘラすら天界に送還させる事も
「深層から駆け足でも三日はかかる。お前の一大事は本当に心臓に悪い」
(……つまり不眠不休でいらしたのですか? そういえば顔色が悪いですね)
一般的に深層域から地上まで早くて半月ほどかかる。それを三日で済ませる姉に妹はただ微笑を向ける。
もし、それを他の眷族に話せば驚愕される。
帰り道にもモンスターが現れるし、それらを無視する事は出来ない。蹴散らすだけでも結構な時間がかかる。
なによりアルフィアも病弱な
「とにかく、ご苦労様です。こちらが私の子供ですよ。名前はまだ決めていないのですが……」
「そ、そうか……。小さくて弱そうだ」
視界には入っていたがまずは妹を労うところから、と決めていた。
ダンジョンから戻ってきたばかりなので身体や手が汚く、大急ぎで洗面所に駆け込み、改めて赤子と向き合う。
そんな姉の姿はメーテリアの前だからこそ。これがアルフィアの
既に幹部として活躍している彼女は下級冒険者に弱みなど見せない苛烈な女性として通っているし、本人もその自覚を持っている。
レベル7へと至ってから性格もより傲慢というか威厳が深まった。
「……可愛いな」
まだ元気に動き回れるほどではないけれど、赤子は手足を懸命に動かしていた。
髪の毛は白く、目は目蓋が閉じていたので確認できないが妹の
アルフィアは『
メーテリアは虚弱ゆえに【ファミリア】に入る事が難しいとされた。それでも姉が働いているのに自分だけ寝ているわけにはいかない。
妊娠発覚後に懇意にしている【キアン・ファミリア】の主神に無理を言って冒険者の登録をした。これに姉は猛烈な不満を滲ませたが可愛い妹が決めたことに異を唱える事は出来なかった。
見た目はひ弱でアルフィアも気が気ではないような存在なのだが――
才能溢れる姉と違い、何の才能も無いけれど努力だけで前に進んできた。その結果、姉をも驚かせる成績を叩き出す。
「……お前にはいつも驚かされる。知っているか? 私は世間から『才禍の怪物』と呼ばれているんだぞ」
「はい」
「その私をお前が驚かせるのだ。いつもいつも。時々、その御大層な『二つ名』が張りぼてのようで笑えてしまう。……本当に凄いのはお前の様な努力をして結果を出す者だと私は思っている」
姉はいつも妹を引き立てる。最初こそは言葉だけだったものが、今は本心から妹は凄いと認めるようになってきた。
才能に溢れた姉が、だ。
「母子共に生きていてくれた。正直に言えば……無理だと思っていた。体力の面からも出産は自殺行為に等しい」
「……今回は予想外に早まってしまいましたが……、結果を残せましたよ」
そう言うと姉は妹の頭を軽く叩く。
本当に手加減しないと鼻血を吹くほどの打撃になるのでアルフィアは人知れず特訓していた。壊れやすい卵などを使って。
魔法職なのにどうやったら耳を疑う殴打音を響かせられるんだ、と仲間から良く言われていた。
妹の為ならばどんな努力も惜しまないのが【静寂】のアルフィアである。
(……本当にこの子は……。この私をここまで焦らせるのはお前くらいだ)
(……あー、やっぱり姉さんを怒らせてしまいましたか。……【ランクアップ】する度に雲上人のような雰囲気を強くするから心配していたけれど……。姉さんは姉さんでした)
「……この子を育てていくわけだが……。どうするつもりだ? 私に預けてもろくなことにならないぞ」
お互い厄介な病に侵されている。共に長生きできるとは思っていない。その上で二人に何かあった時、誰がこの子を育てるのか。当てはあるのか、と姉は尋ねた。しかし、それを聞く前に結論が分かっていたので即座に何も言うなと言った。
迷宮都市オラリオから少し離れた場所にある小さな村に預ける事になる。これは随分前に聞いたが――今もそれは変わらないようだ。
「折角健康体で生まれたのですから。こんな修羅の国のような場所で生きなくても……」
「……そうだな。我々は英雄を欲しているが……、何でも子供に次代を委ねようとは思っていない。……いずれそうなるとしても、だ」
もし、可能性があればアルフィア手ずから教育しても良いと言うと妹は苦笑した。
そこまで長生きできれば頼みます、と。
遠征から帰ってきたばかりの姉を――半ば追い出すように――帰らせ、子育てに悩むメーテリア。
資金もそうだが一番は自身の健康だ。残り少ない命をどう使うかがダンジョン攻略より難しくしている。
主神に預けるのも心許ない。彼は神ではあるが子育てに精通しているわけではない。まして、店を切り盛りしなければならない仕事がある。
零細【ファミリア】だが客が全く居ないわけではないので。
「こういうのは
由来が乳牛というのは秘密にしようと心に決めて。
あまり気取った名前も呼び難くなるし、なにより自分が恥ずかしい思いをする。
彼が後に成長した時、他人から呼ばれる名前として恥ずかしくない程度には良い名前になったと思う。そうでなければ――お母さんを恨みなさい。君にはその権利があると言いおいて。
(ベル・ヴァルトシュテイン。ベル・アーカディア。ベル・ネヴァンリンナ。ベル・クラウディウス。ベル・アウグストゥス。ベル・ウェルキンゲトリクス)
歴史に名を遺す偉人や英雄の名前と合わせると仰々しいな、と思った。
文字数が少なく、普通っぽいのが一番呼びやすくて親しみがありそう。
苗字のない住民も多く居る。里子に出した後の彼の人生がどうなるか、自分はそれを知ることなくこの世を去ると思うと涙が出てくる。
生きている間は与えられるだけの祝福を授け、苦しい人生にならないように祈る。
「あ、そうだそうだ。いい事、ベル。英雄、色を好むと言われているけれど程度があるからね。お母さん、かの大神以上の不届き者になったら許しません。……でも、これだ、と決めた女の子なら全力で愛し、全力で守りなさい。その時にはうるさい親の顔を気にしなくて済むんでしょうけれど、今はまだここにお母さんが居ますからね」
「……あぁい」
「かのアルゴノゥトは牛頭のモンスターと死闘を繰り広げました。守るべき金髪碧眼の姫や女の子たちの為に……。でも、戦いが終わったらあっさり死ぬのが英雄の困ったところ。ベルは間違っても早死にするような事の無いように。生きて帰り、一日でも長く生きろ。それが胸を張れる英雄の真の姿だ、ぞ。……あっさり死ぬ奴はただの莫迦だ。そんな弱虫、お母さん嫌いだから」
自分の
ろくでなしで財産も残さない。ベルに自慢できるような話しはろくでもない大神から譲ってもらった
(稼ぎの殆どは私の貯蓄……。男としてどうなの? 甲斐性なしのろくでなしが。……後で色んな
物心がつない幼いベルは母親の百面相に一喜一憂した。その中でも笑顔以外はお気に示さず、すぐにぐずった。
子育てで一番大変なのは夜泣きだと聞いているがメーテリアはただでさえ虚弱体質だ。ここは神キアンに頭を下げて協力を要請しようと決めた。
使えるコネは最大限利用しろ、と姉からも言われている。だから、遠慮はしない。母が強いところを見せなければ沽券にかかわる。
余命二年程と言われたがメーテリアは一年と少しでこの世を去る。
曇り空のある日、子供の離乳食の材料を集めている最中に糸が切れた人形のように――力尽き――倒れ、そのまま二度と起きる事は無かった。
沈着冷静で何事にも動じない不動の存在だった姉のアルフィアは妹の死にひどく嘆き、懇意にしている【ゼウス・ファミリア】に当たり散らすように襲撃を掛けたとか。
屈強な冒険者で揃えられたはずのかの【ファミリア】の団員達が
【ヘラ・ファミリア】団長にしてレベル
アルフィアは妹の死から【ファミリア】を脱退し、隠居を決め込む。元々身体にガタが来ていたので丁度いい理由付けが出来た、と。
残された赤子は【ゼウス・ファミリア】預かりとなった。アルフィアが引き取るものと思われていたがいつ死ぬか分からない者より健康な人材らすべてを託すことにした。これはメーテリアの遺言でもあり、姉も口出すことを控えた。
間もなく最強派閥が『黒竜』の討伐に失敗し、全滅の憂き目に遭う――
それから更に時が過ぎ――本来の時間に戻る。
「……ゼウスとヘラが去って五……、六年は経ったか……。地下に籠る生活も飽きて来たな、妹よ」
「地下と夜を司る神ですもの。神はやはり……神らしく振舞わないと……」
地下と幽冥を司る男神『エレボス』と夜を司る女神『ニュクス』が不敵に笑う。
日陰者として潜んでいる下界の子供達を率いて賑やかな催しを企んでいたのだが、用意を整えるだけで少し飽きを感じていた。
神とは違い子供達は短命だ。それらを使いつぶすことに少なからず心を痛める。
全も悪も関係なく神は全てを愛する。それは善神悪神問わず。
「世間の見聞には
「……元英雄にして化け物の象徴だ。あれら全てが大神『オーディン』の権能を宿している。……下界の子供達が相手にするには厄介すぎるだろう。……というかどうやって倒すんだアレ。あと、倒せるのか?」
一部の神は知っていたらしいが、エレボスを含めた多くの神々は知らなかった。
神を取り込んだ竜が混じっていた事を。
だからこそ神がダンジョンに入る事を禁じようと今まさに『
攻略不能に近い敵がダンジョンから飛び立った。放っておけばいずれ人類社会が滅びる。それを防ぐために神々が下界に降り立ち、子供達に『
――その全ての努力を無にする敵が『
神と同等の恩恵を持つ最凶最悪の邪竜。眷属に従えていた他の黒竜達ならばいざ知らず、本命は邪神と言われるエレボス達にも攻略の糸口が見えない。
神を殺せるのは神だけ。そういう規則がある。それを覆せる冒険者に心当たりはない。
「まさに『
「ああ。俺達には神殺しの
優男風の男神に言われては
天界からの付き合いもあるし、二人だけの時は『妹』と呼んでくれる神だ。
(……なんだかんだと言って下界を気にする神々はきっと……、とんでもないお人好しなのでしょうね。他の邪神達もやる気に満ちていますし。あいつら普段は引きこもりのクズのくせに)
神の説得に問題は無い。あるとすれば付き合ってくれる眷族の方だ。こちらが非常に
『
古き神々が去り、時代が動いた。
これから先に起きるのは大きな騒乱ではあるけれど、全ての決定権は下界に住まう子供達が握っている。二人の邪神も裏方に徹する心積もりであった。
これは