微睡みの中、トントントンと規則正しく、小気味の良い音がうっすらと聞こえてくる。次いで、食欲を刺激する温かいにおいが漂ってきて、鼻先をくすぐった。
ぼんやりと、小さく目蓋を開く。
そこには知らない天井が――なんてことはなく、いつも通りのボロっちい板張りの天井が目に入った。何気なしに窓の外を見やれば、薄明が空を赤色に照らし出している。
ずばり、早朝、夜明け時だ。なるほど、この重くのしかかる殺人的な眠気は、そのためか。
このまま睡魔に身を任せて、
ぴょこぴょこと、不規則に揺れる濡れ羽色の――というか、本物の鴉の羽。山伏風の小さな赤い帽子は、まるで茶筒でも頭に乗っけているかのように見えた。永沢くんの帽子みたい。
本日は軽装なのか、いつも付けている白いポンポンは見当たらない。
「いやなんでいるんすか、文さん」
「あやや?」
自分の名前をもじったものだろうか、おや? に似た可愛らしいフレーズを零して、彼女はこちらに振り向く。ひらりと黄緑色のエプロンが翻った。
「おおっ、やっと起きましたか」
そう言って笑みを湛える不法侵入者の名前は、射命丸文。妖怪の山に住む鴉天狗にして、ゴシップ好きの新聞記者でもある。
俺も少し前までは、妖怪の山にある師匠の屋敷に住み込みだったために、彼女とは浅からぬ縁があった。俺の入れ知恵は大抵、文さんから教わったものというくらいだ。
「ふふん、私はブン屋ですよ? 用事といえば、インタビューしかないでしょう。禍くんがあの異変解決に一役買ったと、風のたよりに聞きまして」
「さすがは風を操る天狗様……と言いたいところだけど、それにしては遅くないか?」
窓の外には、燃えるような朱色に染まった美しい森が広がっている。今や秋もたけなわ、森はすっかり秋めいていた。
紅霧異変があったのが真夏であるから、情報通の文さんにしては遅すぎる動きといえる。
「いやぁ、宴会のときにはもう耳にしていたんですけどね?」
そこで文さんが目を細めて、意味ありげにニヤニヤと笑みを浮かべる。なんだか、嫌な予感がした。
「あの日の禍くんは、博麗の巫女とお楽しみのようでしたから」
「おぉん……」
虚を衝かれ、思わず情けない声が洩れた。
ストレートで来るかと思えば、蓋を開けてみると、手元でぐいっと曲がる変化球であったのだ。あれを聞かれていたとは、予想だにしていなかった。
しかも相手が昔馴染みの文さんとなると、精神的に来るものがある。いやぁ、キツイなあ。
「でも良かったですよ、禍くんが元気になってくれて」
母親のように穏やかな口調で言う文さんに、俺は少し照れくさい気持ちになる。誰かに心配されるというのは、まったく、いつになっても慣れないものだ。
「俺はもともと元気だったと思うけど」
「いやいや、妖怪の山にやってきたばかりの君は、茫然自失といった感じでしたよ」
「あーもう、その話はいいって!」
強引に話を切り上げる。これだから、昔を知っている人とはやりづらい。
もしや俺は庇護欲を掻き立てる容姿をしているのか? と思わず疑ってしまうほどに、彼女らは口を開くたびにこちらを心配をしてくる。
ちゃんと食事は摂っているのかだとか、私が作ってあげましょうかだとか、親しい異性はできましたかだとか、そういった下世話な話を伏し目がちに訊いてくるのだ。うんざりしちゃうよね。
「でも、それにしたって来るのが遅くないか? 秋まで待たなくったって、機会はいくらでもあっただろうに……あれ? ってか家の場所って教えてたっけ?」
「ああ、ここの場所は宴会のときに後を付けたので……実は私も、知り合いのことを新聞のネタにするのは如何なものかと思ったんですよ」
知り合いの後をつけるのも如何なものだと思いますよ、とは言えなかった。なんか文さん、さらっとストーカーじみたことやってないか?
「けどもう他にネタがないんです! 世が平和すぎて!」
深刻な顔をして世の平和を嘆く知り合いの姿に、俺は何とも言えない気持ちになった。では戦乱の世を望むというかっ!
「そっか、文さんも大変だな。でもインタビューとか、そういうのは事務所を通してもらわなくっちゃ」
「そこをなんとか! このままじゃ、記事を捏造することになっちゃいます!」
後生だからと懇願する文さんに、仮にも新聞記者が捏造はやっちゃダメだろ、と冷静にツッコみたくなるが、いややりかねないな、と思いとどまる。
「冗談だってば。取材くらい、他ならない文さんの頼みならいくらでも受けるよ」
「はあ、ありがとうございますっ! 禍くんは私の恩人です」
文さんは大袈裟に喜んで、俺の手を両手で掴み、痛いくらいにぶんぶんと振ってくる。薄っすらと涙ぐんでいるところから、相当に切羽詰まっていたことが窺えた。
ノルマとかあったりするのだろうか。天狗社会も大変そうだなぁ、と他人事に思った。
「お礼といっては何ですが、朝餉を用意したんです」
そう言って、文さんはお椀に汁物を装い始める。
どうやら、うつらうつらとしている時に聞いた、『トントントントン、ヒノノニトン』という音は、文さんの調理音だったらしい。
まな板の上に、細かく刻まれた青ネギが乗っている。
うーむ……人の家に勝手に忍び込んで、勝手にエプロンを引っ張り出して、勝手に厨房を借りるのは如何なものか。
「はい、どうぞ食べながら、楽に質問に答えてください」
「ああ、どうもありがとう」
文さんからお椀を受け取り、中を覗く。
それは、豚汁だった。
大根やごぼうに、人参。色とりどりの具がひしめき合っていて、その隙間から、きらきらと豚の脂が光った味噌汁が顔をのぞかせている。
白い湯気とともに、ずっしりと味わい深い香りが鼻の中を抜けた。
ふーっと息を吹きかけてから、一口すする。
まろやかな味わいが口いっぱいに広がり、次いで、さっぱりと落ち着いた後味が遅れてやってきた。
「これは……柚子か?」
「あっ、気づきました?」
なるほどなぁ、と思わず舌鼓を打つ。
いつの間にか、今年も柚子の季節がやってきていたらしい。
「ご明察、隠し味に柚子を入れてみたんです。後味がさっぱりしているでしょ?」
「……文さんって、料理できたんだな」
「失敬ですね。私だってそれくらいできますよ」
がさつとまではいかないが、俺が文さんに抱くイメージは、気づけば忽然と消えている、落ち着きがない人、といった感じだった。
料理だとか、そういった繊細なこととは縁遠いタイプだと思っていたので、見直してしまう。
料理ができる人はマジで尊敬する。
その辺で見つけた草花を揚げて食べることを料理と呼んでいいのなら俺にもできるが、こんな芸術品といっても差し支えない豚汁、千年専念したって作れる気がしなかった。
「いや、本当に美味しいよ。毎日飲みたいくらいだ」
「えっ、ま、毎日ですか?」
「ああ、これなら朝昼晩いけるよ」
素直に感想を述べると、返ってきたのはふぅーん、そうですか、といった生返事だった。不思議に思い、顏を上げる。
やや火照った顔に、伏し目がちになった赤い瞳。
いつものつかみどころのない飄々とした態度と打って変わった、焦った表情。珍しすぎて、新鮮味さえ覚える。
それらを
どうやら、文さんは料理の腕前を褒められて照れているらしい。存外に可愛い一面もあるじゃないかと、口元が緩んだ。
さっきと立場が逆になったかのようだった。
「おほんっ……では、本題に入りましょうか」
文さんは咳払いをして、話を戻す。
そうだ、インタビューだったなと思い出す。頬を強めにたたき、ニチャアと気色悪い笑みを浮かべているだろう顔を引き締め直した。
「それでは、まずは異変解決に乗り出した経緯などお聞かせください」
仕事モードに入り、手帳と羽ペンを取り出した文さんが尋ねてくる。よし来た、と俺は胸を張ってその質問に答えた。
「――実はかくかくしかじかで!」
「は?」
「おぉん……」
それから紅霧異変のことを思い起こしながら、俺は文さんの質問に答えていった。もちろん、新聞に載るかもわからないので、フランの前で土下座する羽目になりましただとか、恥ずかしい話は包み隠してだ。
「今日はどうもありがとうございました。禍くんのおかげで、良い記事が書けそうです」
「ああ、どうせなら滅茶苦茶カッコよく書いてくれ」
「はいっ、お任せください!」
自信満々といったふうに、文さんは胸を叩いてみせる。なんだか逆に不安になってきた。
「いやぁ、でもよかったですよ。禍くんが、私が教えた出鱈目な自己暗示とか使ってなくて」
さりげなしに文さんが放った言葉が、ふいに俺の記憶を刺激した。頭の中の天袋から、忘れかけていた過去が落っこちて広がる。そうだ、そうだった。
俺に自己暗示を教えたのは――、
「お前ぇええッ!」
「あっ、使ったんですね」
激情に身を任せ、猪が如く突進をして胸ぐらに掴みかかる。しかし、流石は『幻想郷最速』を謳う鴉天狗といったところか、ひらりと躱された。
ガルルルルゥ……! と自分でも笑いそうになる獣の真似をして、文さんを半笑いで睨みつける。
「まあまあ、いつか本物を教えてあげますから」
「ならいいや」
「いいんだ……」
実を言うと、フランの前で恥をかいただとかいうのは時間が経ち過ぎていて、なんだかもうどうでもよかった。今のはほんのじゃれ合い。
ただ胸ぐらを掴んで、背負い投げしてやろうくらいにしか思っていなかった。
「あ、そういえば」
玄関先、どこから持ってきたんだと思うほどに年季の入ったボロっちい引き戸の前で、文さんが振り返った。今度はなんだろう、と俺は首を傾げる。
「たまには、あの仙人のところにも顔を出してあげなさい。寂しがっていましたよ」
「あの師匠が寂しがる……?」
それを聞いた文さんは深いため息をついて、やれやれと言わんばかりの露骨な表情をした。
「まったく、弟子も師匠も素直じゃないんだから。とにかく、伝えましたからね」
「……まあ、折を見て行こうかな」
かれこれ一年くらい会っていないことを考えると、確かに、そろそろ顔を見せるべきかもしれない。でもなあ。
たるんでいるだとか、鈍いだとか、やっぱり私がいないとダメねだとか、長々と説教を垂れる師の姿が、容易く脳裏に浮かび上がる。正直、気が進まなかった。
結局――、師と再び相見えるのは、たった一人の百鬼夜行の後となるのだった。
女の子の手料理を食べたいだけの人生だった……。