陽も暮れて、桜の花びらが落ちきる音すら聞こえてきそうな静寂が、昂然とした日本庭園を包み込んでいた。
その静寂の幕を切り裂くようにして駆ける、三つの少女の影。
「おおっと、コイツら走行妨害してきやがった! 降着だ、降着!」
「鬱陶しいですね、まったく」
「……ああもう! 死霊ばっかでうんざりよ!」
思わずボヤいてしまう。
やはり冥界とあってか、そこら中にうようよと死霊が蔓延っていた。
それが暇を持て余しているのか、いちいち通せんぼをしてくるので気に障る。雑に御札を投げつけてやった。
「あら、勝手に人の庭に乗り込んできて文句ばかり言ってるなんて、どうかしてるわ」
突然の声に、目を見開く。
桜の巨木を背景に、少女が佇んでいた。
撫子色の髪に、抜けるような白い肌。服装は水色の着物を着ていて、なんの冗談なのか頭に付けている髪隠しは亡霊を想起させる。
「まあ、どうせうちは死霊ばっかりですけど」
口を尖らせて、少女は言う。
いや、少女と呼ぶのは適切ではないかもしれない。確かに彼女は十代にも取れる容姿をしているが、その纏う気配は妖怪に似ている。
きっと私には想像もつかないほどの時を過ごしてきたはずだ。
「あんたが幻想郷から春を奪った黒幕?」
「ええ、いかにも私が黒幕、西行寺幽々子よ。あと少しなのよ。あともう少しで、西行妖が満開になるの」
「なんなんだ? その西行妖って」
腕を組んだ魔理沙が口を挟む。幽々子という春泥棒は、後ろの巨木を振り返った。
それは、ひと際大きな桜だった。
しかし、ただの桜ではない。不思議と目が引かれる妙な雰囲気もそうだが、何より、その枝が付ける花の色は、ブラックだったのだ。
千紫万紅、花の色は様々あるが、流石に黒く咲く桜を私は知らない。
「うちの妖怪桜。この程度の春じゃ、まだ封印が解けないのよ」
「わざわざ封印してあるんだから、それは解かない方がいいんじゃないの? なんの封印だかわからないし」
「あらあら、結界を乗り越えてきた貴方が言うことかしら~?」
幽々子の鋭い指摘に、私は視線を逸らす。
「……まあいいけど。封印を解くとどうなるっていうの?」
「すごく満開になるわ~」
とんでもなくくだらなすぎる理由に、一同絶句した。ヒュ~っ、と冷たい風が吹く。
「と同時に、何者かが復活するらしいの」
「興味本位で復活させちゃダメじゃない? 何者が出てくるのかわからないし」
「私は興味本位で人も妖怪も死に誘えるわよ?」
「反魂と死を同じに考えちゃいけないでしょ。面倒なものが復活したらどうするのよ」
「試して見ないとわからないわ~」
そこで、それまで朗らかな笑みを湛えていた幽々子が、扇を広げて顔を隠した。
瞳の奥に爛々とした、刺すような光を輝かす。
「さあ、誰から来るのかしら? 三人まとめてでも構わないわよ~」
「ずいぶんと自信満々じゃない」
「ここは冥界。ここにいる時点で、貴方たちは死んだも同然よ。さあ、花の下で眠るがいいわ!」
ざあっ、と風が吹いた。
桜の花びらが舞いあがり、それに着物をなびかせながら、幽々子は両手を広げる。
この世ならざる光景だった。
光の蝶の洪水は、さながら天の川のように冥界の夜空を埋め尽くしていく。ひらひらと、桜の花びらとともに、蝶の群れが降りしきる。
ナイフが蝶を切り裂き、星屑が蝶を薙ぎ払い、御札が蝶を掻き消しても、蝶は途切れることなく舞い続ける。
それは、息を呑むほど美しい光景で――。
嫌な予感がした。
幽々子の背で薄ぼんやりと輝く西行妖を、何故か不穏に感じる。風に揺れるその枝が、私に手を
幽々子を守る壁となるように、蝶たちが扇状に広がる。
そこへ、咲夜のナイフが次々と突き刺さった。蝶たちが一部、崩れるように落ちていく。
「行くぜ! マスタァァァ、スパァァァクっ!」
魔理沙のミニ八卦炉が火を噴く。相変わらずの火力で、光の筒が扇を撃ち抜いた。
私は魔理沙が派手にぶち開けたその穴から、内側に入り込む。
幽々子に、御払い棒を突き付けた。
「――終わりよ。春を返してもらうわ」
幽々子は目を見開く。けれど、すぐに表情を戻して、答えた。
「春はもう――十分に集まったわ」
「あれは――」
果てしない階段を妖夢と大急ぎで登りきり、俺たちは、あまねく光の奔流を目にした。
それは、ひどく禍々しい。
数多の災いを――いや、死を束ねた墨染の桜は漆黒の風を受けて、その枝をざわめかせる。世界が揺らぐ。その桜を中心に、無数の蝶が渦を巻いていた。
「霊夢! どういう状況だコレ!?」
「私にも分かんないわよっ! いきなり西行妖っていう、あの妖怪桜が光りだして――」
霊夢にしては珍しく、困惑した様子だった。
見ると、咲夜さんも額に汗を浮かべており、魔理沙ちゃんなんて箒からずり落ちそうになって、女の子らしい声を上げた。
どうやら、まったく突然にあの桜の封印が解けたらしいが……まずアレはなんなんだ?
流石に名月よりはマシだが、感じる黒々とした妖気はどこまでも禍々しく、おぞましい。もしや俺と同じ禍なのでは? と疑うが、あきらかに親戚とかいう雰囲気ではない。
そこで妖夢が、何かに気づいたような顔をした。
「幽々子様は!?」
ハッとして、視線を巡らせる。そういえば、妖夢が主人と敬っていた、幽々子という少女の姿が見当たらない。
霊夢も怪訝そうに眉を寄せた。
「おかしいわね。ついさっきまで、そこにいたはずなのに――」
まさか、と八木に電流走る。
桜の下には死体が埋まっていると、誰かが言った。桜の木は春になると死者の魂を咲かせ、はらはらと散っていく。だからこそ、あんなにも美しいのだ、と。
何者かが封印されているという妖怪桜に、突如消えた儚い少女。
果たして、その桜の樹の下には、いったい誰の屍体が埋まっていたのか。想像に難くはなかった。
「まさか幽々子様が!」
初めに動き出したのは妖夢だった。
居ても立っても居られないと言わんばかりに、素早く刀を抜き放つ。
しかし、それを拒むかのように。
西行妖から、渦を巻いていた蝶が解き放たれた。無数の花びらとともに、夥しい量の蝶たちが四方に飛び交う。
妖夢の足が止まった。漆黒の津波が如く、蝶の束が雪崩れ込んできたからだ。
「ッ、これヤバイわよっ!」
霊夢の叫び声が耳を打つ。
蝶は確か、死者の魂に例えられるのだったか。
夜を覆う模様が、近づいてくる。隠しようがない死の香りに、それが危険だということは本能で理解できた。
前に立っているだけで、足が震える。紗がかかったように、目の前が暗くなっていく。
アレに呑まれたのなら最後、死に引き込まれてしまうのだから。
だから俺は、トンっと押した。
押し寄せる蝶を前に、茫然と立ち竦んでいる妖夢の背を、霊夢たちの方へ。
いや、それをトンと表現するのは生ぬるい。ドンっと思いっきり押し出してやった。妖夢も目を丸くして驚いている。
「咲夜さん、妖夢を頼んだ」
「……かしこまりました」
時間が止まる。中途半端に体勢を崩していた妖夢の姿が消えて、霊夢のすぐ近くに瞬間移動した。
あの蝶から身を守るには、霊夢の結界しかないだろう。しかし、強固な結界を張るには相当の時間が掛かるのだと、俺は先の異変で知っている。
霊夢はせかせかと御札を飛ばしているが、あれでは間に合わない。
だからこそ、俺が時間を稼ぐ。
「起きろ、名月」
躊躇わず、剣を抜く。
その瞬間、不意に暗雲が立ちこんできて、月が隠れた。可視化するまでに濃い厄だろうか、暗色の霞のようなものが周囲を漂う。
『Zzzzz……』
「……起きろ、名月」
いびきのような音が聞こえてきたが、気を取り直して再び呼びかける。
刀が睡眠を摂るとは思えないし、あんなに妖夢と剣を交えたってのに、寝てるってことはまずないでしょうよ。
『むにゃむにゃ……あのピンク野郎、主に色目使いやがって……殺す…』
いや寝てたわ。しかも、とんでもなく物騒な寝言をこぼしている。俺もいつしか寝首を掻かれそうでガクブルである。
「ん?」
声が洩れた。どうしたものかと途方に暮れていたその時、何か、変なものが目に留まったからだ。
刀身のちょうど真ん中あたりで、風船みたいに膨れ上がった半透明の固まり。
それはさながらトルコアイスのようにわがままに伸びて、それから、夢のように萎む。
なんだこれは、と唖然としてしまう。
まさかと思うが、鼻提灯ではないだろう。さすがに鼻提灯をこさえる刀など聞いたことないぞ。
試しに、ツンと突いてみた。それは鼻提灯であるかのように柔らかく、パンッと勢いよく弾けた。
『んあっ! あれここ何処――って、主!? あ、寝てませんよ!』
いや鼻提灯だったわ。お手本のような反応をしてみせた名月に、俺はなんとも言えない気持ちになる。
「説明してる時間はないんだ、名月! とにかく災纏いくぞ!」
『名月……凛とした響きで、とても気に入っています。ですが主、私の名前は大――』
呑気に茶番なんてしていたから、蝶の群れはもうすぐそこに迫ってきている。
話し込んでいる暇はなかった。俺は素早く刃を立て、左手首を自傷する。
『うおおおおっ! 寝起き一発目に味わうのが主の血だとっ!?』
「やっぱ寝てたんじゃねーか!」
地面に向かって、赤色のすじが曳かれる。
腐ってもこちとら妖怪、痛みはあまり感じない。代わりに、アッツアツの鉄を押し当てられたかのような熱が傷口を覆う。
それは、名月から流れ込んでくる災いが伴っているものだ。
災纏――俺は、災いを纏った。
黒い霧が周囲に巻く。
四方に散らばった蝶の進路が、グインッと強引に捻じ曲がる。幾つもの蝶が、漆黒の花びらが交錯して、空中に幾何学模様を描いた。
被弾したら死ぬってのがなければ、綺麗だと思えたのにな。
「気合い入れろよ、名月」
『……死なせはしませんよ。絶対に』
名月を正眼に置く。そして、雪崩れ込む蝶の群れを見据えて、ため息をこぼした。まったく、何度考えても斬れるイメージが湧かない、と。
闘う前からすっかり気圧されてしまっている。これじゃあ、師匠に叱られちまうな。
――早く。霊夢が口を動かす。早く、アンタもこっちに。
俺はそれに、もう少しだけ聞こえないフリをする。
柄を握る手に力を籠めて、一歩、地面に深く踏み込んだ。
「……臨める兵、闘う者、皆陣をはり列をつくって、前に在り!」
名月を振りかぶり、蝶を裂く。
間髪入れずに掌底を峰に叩き込み、返し刀でさらに蝶を斬った。
勢いそのまま回転し、また薙ぎ払う。振って振って、振りまくった。
時に剣技を織り交ぜ、砲禍で焼き払う。だが、まだ足りない。
何が足りないかというと、情熱、思想、理念、頭脳、気品、優雅さ、勤勉さ。そして何よりも――速さが足りない。
「あっ」
自分でも驚くほどに、間抜けな声だった。
捌ききれないと脳が諦めたのか、ぷつんと糸が切れた。途端に動きが悪くなる。
ひらひらと蝶が一羽、名月の合間をすり抜けて俺の肩に止まった。
それだけで、体が地面に釘付けになる。金縛りにあったように、ピクリとも動かない。
堰を切ったように蝶が溢れ出してくる。
重力がキツイと感じたのはコレが初めてだ。思わず膝をついてしまう。力が抜けて、名月が石畳に転がる。
カランカランと、やけに大きい音が響いた。
とうとう目眩がし始めた。呼吸がままならず、意識が遠のいていく。働かせ過ぎたか、心臓がストライキを起こしていた。
歯を食い縛って何とか現世に留まろうと試みるが、もはや意味をなさない。視界はどんどん霧がかっていく。
「くッ、そ……」
真昼の月のように、ぼんやりと輪郭が見えなくなってゆく意識。それは、あまい甘い眠りの誘惑とよく似ていた。
抗えず、地面が近づいてくる。力なく目蓋が降りる。
霊夢の悲痛な叫び声が、最後に聞こえた気がした。
最終回じゃないぞよ、もうちっとだけ続くんじゃ。