『邪魔ヲ、スルナ』
影が実体となったかのような、二足の黒い生物。赤色の長いタテガミを結った人間らしい見た目とは相反する、紅に染まった目元と手足の爪。
神秘の加護を纏いし湖の隅。そこで展開されていたのは、目の前の黒き幻獣から放たれる漆黒と鮮紅のオーラ。
……なに、なんなの、これ!? ポケモンなのかどうかすらも怪しい眼前の存在を前にして、アタシはバッグから取り出したモンスターボールからサイホーンを繰り出していく。同時に”ソレ”が禍々しい雄叫びをあげていくと、『ソレ』はアタシらへと襲い掛かってきたのだ。
「ちょ、っと――なに、なんなの! てか、あの人は、何処に!?」
ただでさえ理解が追い付かなかったのに、そこへ畳みかけるように突如と姿を現した幻獣。『ソレ』は両手からドス黒い波動を溜め込むと、大きく振りかぶった両腕で地面を叩き付けるようにこちらへ攻撃を仕掛けてくる。
地鳴りで足元が揺らぐ衝撃。アタシがよろけながらもサイホーンにドリルライナーを指示して側へ回避させるのだが、サイホーンが行動を終えた時にはすでに、『ソレ』は次なるわざを放ってきていたのだ。
『ソレ』の身体は、振り子のように左右へ揺れ始める。力を抜いて動き出したかと思えば、それは残像をつくり出すと共に地面を沿いながらサイホーンへ接近し、瞬きよりも素早いこの高速移動によって、距離を詰められてしまう。
アタシが指示を出す暇さえも与えない。刹那を描いたその軌道から繰り出された『ソレ』の突きがサイホーンに直撃し、それを受けたサイホーンが後方へと吹き飛ばされる。
さらに追撃として高速の移動を果たした『ソレ』。再び両手からドス黒い波動を生み出していくと、空間を蝕むかの如く波動が一気に凝縮され、大気をも揺るがす強力な衝撃をサイホーンへと浴びせてきたのだ。
「サイホーンッッ!!!!」
――ヤバい。一目で分かる。このままでは、サイホーンが殺される。
まず、わざの当たり方が尋常ではなかった。頭上から叩き込まれたわざが大気を破り、この衝撃を脳天から食らったサイホーンは成す術もなく地面に埋め込まれる。
さらに、トドメと言わんばかりの突きを繰り出そうとしていた。アタシはこれを本格的にまずいと察し、ラルトスをその場から逃がしながらアタシ自身が『ソレ』へと飛び掛かる。
だが、敢え無く振り払われた。素の力が有り余っているのだろう。アタシが引っ付くという寸前で払ってきたその腕の、そこから生じた空気でアタシはいとも容易く吹き飛ばされてしまったのだ。
崖ギリギリを転がるアタシ。一歩でも下がれば湖に落ちるというこの窮地で、サイホーンを急いで見遣る。
「サイホーンッ!! すてみタックル!!」
アタシへと向いていた、『ソレ』の意識。これを隙と見たサイホーンが力を振り絞って全力の突進を繰り出した。
だが、すでに『ソレ』は姿を消していた。気付けばサイホーンの全身を覆う影。さらにスピードを増している『ソレ』の動きに目が追い付かず、アタシもサイホーンも、目の当たりにした圧倒的なる力の差に、ただただ無力となるばかり――
サイホーンの身体が歪み出す。それは瞬時にして張り裂けるほどの歪みへと変化して、サイホーンの身体が、捻じれるように左右へと伸び始めたのだ。
千切れる……――!! サイホーンの姿にアタシは泣きながら「やめてェッッ!!!!」と叫ぶのだが、その歪みによって伸びた空間が、伸ばされた輪ゴムの要領で縮まると、その衝撃を受けてなのかサイホーンが上空へ打ち上げられるように吹き飛び始めたのだ。
……なに? なにが起きているの……!?
無力な自身に、ただただ泣きながら眺めることしかできない目の前の現象。今も上空から降りかかるように両腕を上げた『ソレ』の姿。手にはドス黒い波動を妖しく光らせており、打ち上げられたサイホーンが、力強く叩きつけた衝撃波による真っ黒な歪みと共に地面へ落ちていく――
――ピクリとも動かない。白目を剥き、立ち上がる様子も見られないサイホーン。
そして、サイホーンの変わり果てた姿の目の前に降り立つ漆黒の『ソレ』。鮮紅の髪と紅の模様、鮮血のような手足の爪をギラりとアタシへと向けてから、こちらへ飛び掛かってくる……!!
「……!!!!」
アタシに覆い被さる『ソレ』の影。雲を貫く陽の光さえも見えなくなったこの視界の中央からは、迫る『ソレ』の悪魔の如き形相と、アタシを守るべく飛び込んできた、ラルトスの姿。
「ラルトス……ッ! ダメ、あなたまで……。あなたまでいなくなったら――」
お願い、やめて。
心から願った、この言葉。
目を瞑り、泣きじゃくりながら。アタシは、前に出したこの両手が、誰に触れることもなく、感覚で空を切ったことを理解する。
掴むことができなかった。アタシが望んだことが、ことごとくと空振りしていった。
……イヤだ。イヤだよ……こんなこと……。
受け入れ難い現実に嘆いたあの日。もはやとうに忘れたつもりだった悲しみの感情が、アタシの中を走馬灯のように駆け抜ける。
逃走。迷走。敗走。どれも、生きている中でずっと走り続けてきたこの道のり。アタシは、これらの道のりを辿ることに慣れていた。
しかし、そんなアタシが今まで避け続け、生きる上で一番恐れてきた、いずれ自身が行き着く終着点。
――無。何も無い、何も残っていない、空っぽを抱えて眠る現実。
言葉にならない声でそれを嘆き、同時にアタシは自分の終わりを、予感した。
目を覚ますと、照明が眩しい天井を見上げていた。
いや、アタシは仰向けになって、寝ていたのだ。
……ここはどこだろう。目にした光景に理解が追い付かない今でも、この身体はベッドの温もりで暖を覚え、着用している衣類は、ゆったりとした水色の寝間着。伸ばした足や腕には、治療が施された後の包帯やらがぐるぐると巻かれている事実に気が付いて、アタシは自身が置かれている状況を何となく察することができたものだ。
――いや、違う!!
「サイホーン!! ラルトス!!」
慌てて立ち上がったアタシは、急いでここから出ようと駆け出そうとした。
しかし、思うように動かなかった身体がベッドの上で転倒し、頭から落ちていった。この音で周囲は気が付いたのだろう。慌てる足音がこちらに駆け寄ってくると、「大丈夫ですか! 落ち着いてください!」と数名の医者になだめられ、アタシは混乱した思考のまま、彼らの話をしばらく聞いていた。
結論から言ってしまえば、今アタシはオオチョウ山の宿泊施設にいる。それでいて、アタシのラルトスとサイホーンは無事だ。どちらもひんしを負った状態で運ばれてきたものだが、この施設にあるポケモンセンターで治療を受けたことで、今は元気を取り戻しているということだ。
それから、アタシはいつもの服に着替えてラルトスとサイホーンの迎えにいった。そこでは元気になった二人がアタシへと駆け付けてくれて、アタシもこの子達の無事を知ってからというものの、安心感のあまりに倒れ込んでしまった。
またしても迷惑をかけながら、個室に運ばれてこの日は身を休めたアタシ。それから次の日になって詳しい事情を聞いた時、アタシはとても信じられなかったというか、本当にその話を信用してもいいのか、と思いながらその一部始終を知らされた。
……ラルトスを抱きながら、施設に預けていた自転車を引っ張り出してそれを押していく。
乗らずに徒歩で移動するのは、周囲にも観光客やらがいっぱいで運転するのが危なかったからというのもあったが、それとは別に、アタシには他の用事ができており、その用事が、別に自転車に乗るまでもない距離で済ませることができたものであったからだ。
オオチョウ山のレストラン。この山で採れた新鮮な山菜を楽しめるという、家族で賑わいを見せていくこの場所で自転車を停め、アタシは中へ入って席を探していく。
席を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。これを見つけるにあたっての目印を、アタシはすでに知っていたからだ。
白色のポニーテールを揺らし、ストローでメロンソーダを飲んでいるクールな女性。彼女もこちらの視線か気配に気付いたのか、ふと振り向いてきて、おいでおいで、と手招きしてくる。
……。警戒心マックスな顔で彼女を見ながら、アタシは抱えたラルトスをいつでも逃がせるようにしながら彼女と相席した。
「……アタシ、まだ疑ってるから」
「えぇ、だから人目につくこの場所を選んだの。そうすれば、万が一私が本性を露わにしても、貴女は他の人に助けを求めることができるから。また同じような目に遭ったとしても、少なくとも昨日のような絶望までは感じないと思うわ」
そう言って、メロンソーダをチューっと吸っていく彼女。その顔こそはクールビューティで美しい造形を象ってはいるものの、彼女の本性を知ってからは、これがただの化けの皮にしか見えない。
すごい訝しげな視線を向けていく。アタシの表情も、それがモロに出ていたのかもしれない。彼女は反省の色とも見て取れる申し訳なさを見せながら、メロンソーダを脇に退けてそれを喋り始めたのだ。
「まず、昨日はごめんなさい。あそこまで派手にやってしまった理由は色々あるのだけれども、私は決して、あの場で貴女達を殺そうというつもりはなかった。貴女達を殺すつもりであったのなら、みんなを気絶させたあとにわざわざ、ラルトスとサイホーンを貴女のモンスターボールに戻してあげてから、貴女を施設に無事に送り届けたりなんかしないわ」
「……で、そうやってイイ人ぶってから、後ろからガブッとするんでしょ」
「そう思われても仕方ないよね。だから、そう思ってもらっていいわ。これは、私が貴女にそう思われてしまうことをしてしまった、私のせいでもあるから。――ただ、私には本当にこれ以上、貴女達に害をなすつもりなんてない。これだけは伝えておくわ」
両腕をテーブルにつけて、アタシと真正面から向き合う彼女。
……クールビューティであると同時に、なんだかミステリアスな雰囲気もまとっているから、なんかそんな害をなす気持ちが無かったとしても、こう、どこか身構えてしまうようなものがあるというか。
と、彼女はアタシが今も向けてくる不審な目に、信用を得ようとそれを口にしてくる。
「私の名前は、『ユノ・エクレール』。ちょっと長いからユノでいいわ。よろしく」
そう言うと、ユノ・エクレールと名乗った彼女は手を差し出してきて、可憐に笑んでみせたのだ。
…………。疑わしい。疑わしい。けど、なんか……嘘を言っているような顔には見えないんだよね――
「……ヒイロ。アタシは、ヒイロ。よろしく……」
ムスッとしながら、アタシも手を伸ばして握手を交わしていく。これにユノさんは安堵のような表情を見せながらしっかり握手をしてくると、この場は奢るから、あとで歩きながらでもアタシに襲い掛かった詳しい理由を話したいと思っている、と彼女は言ってきたのだ。
……いや、怖い。けど……やっぱりなんか、その表情は嘘を言っているように見えない。そのことから、まあ人がいっぱいいて、周りがいつでも助けてくれるっていう状況の中であれば、話を聞かなくもないけど……。なんて答えた。
すると、ユノさんは「ありがとう」と、可憐を越えた純粋無垢な笑顔を見せてきたのだ。
――なんか、調子が狂う。ムスッとしたアタシは何とも言い難い気持ちに苛まれながらも、せめてもの仕返しとして、この店で一番高いメニューを頼んでユノさんに奢らせてやったのだった。