001
夜に逃げている。
息はからがら、喉もカラカラ。公園で給水して、ようやく落ち着いた。顔を洗えば頭も冴えてきて、そうしたら何だかムカついてきた。何が『逃げる』だ。これは回避だ、『避けている』だけだ。悪いのはあたしじゃなくて、周り。叫びだしたくなる衝動を抑えて、家と反対の方向を見遣る。
「さて、これからどうしようか?」
009
夜に揺られている。
そんな錯覚とともに、私は車窓を見つめた。丑三つ時の町を歩く人なんているはずもなく、街灯だけが手招きするかの如く幽かに道を照らし、追い越し、また現れ出でる。一寸先は闇とはよくいったもので、明かりから目を逸らせば、漆黒だけがぽっかりと浮かんでいる。夜が、私を見つめている。そんな気がしたから、車内に向き直る。
バスの中は空っぽで、乗客はおろか運転手の姿すらない。見上げた天井は小さなプラネタリウムと化している。月が煌めき、雲が流れ、星が瞬いている。幻想的な光景に、しかし私の心は動かない。体だけでなく心までもが死んでしまったのか、とぼんやり思った。視界の端で、行き先を示すネオンの光が輝いている。記されているのは二文字、“回想”。それだけが、私の心をつかんで離さなかった。
002
夜を歩いている。
そんな実感とともに、あたしはアスファルトを踏みしめる。あてもなく飛び出したものの、田舎町は意外と広くて何処に行けばいい物か、てんで見当がつかない。一つだけ言えるのは、あたしは今最高に自由ってこと。公園の遊具をベッドに見立てて眠ろうが、道端を我が物顔で闊歩しようが、誰に怒られる謂れもない。言われようが構わない、関係ない。女の一人歩きが危ないなんて声もあるらしいけど、それならそれで面白い、かかってこいやと街灯に中指を立ててみる。返答代わりにパチパチとノッキングするような音が響いた。
「何かするなら駅の方なんだけど、んー……」
時刻はまだ十時。行こうと思えば少しくらい遠出して、知らない町で一夜を明かすことだってできる。でもそれは、何となく気が乗らなかった。少し逡巡して、そうだ、と手を叩く。
「山、登ろう」
007
夜を駆けている。
疾走する列車から、ぼうっと町を眺めていた。
知らない光景、知らない街並み、知らない世界。すべてを置き去りにして、私は進んでいく。いや、戻っている。
空っぽなくらいに騒がしい都会から逃げて、思い出の詰まったつまらない地元へ。帰りたくて帰っている筈なのに、一駅近づくたびに気は重くなっていく。本当は逃げ出せてなんていなくて、進んだレールを遡っているだけだと──そのことから、目を背けた。
003
夜を登っている。
そんな実感があった。ていうか、事実としてそうなってしまった。
山を登ると言っても、子どものころから散々通った近所の裏山である。休日にもなれば遠くから登山客が来るほどの物とはいえ、子どもの足で踏破できる代物だ。薄明かりに照らされる順路を見て、「あ、これつまんないやつだ」と気づいてしまった。それなら行く道は一つ、獣道である。順路なんてとっくにわからないし、虫刺されやら擦り傷切り傷で体は最悪だ。状況だけ見れば遭難といって差し支えないだろう。でもあたしは何だか、楽しかった。探しているものはきっと近づいてきている。そんな確信があったからだ。
008
夜を泳いでいる。
何処かで読んだ小説みたいにそんなお洒落な表現がしたかったけれど、それは誇張が過ぎるという物だった。
海に溺れている。水に喘いでいる。入水自殺なんてするつもりじゃなかった──そのはずだ。本当にそうか? 心の中の誰かが淡々と、冷たくそう問いかけている。体には生温い水が纏わりつき、沈み込むように足を引っ張る。もがくのが馬鹿馬鹿しくなって仰向けになる。曇り空の中に、満月だけがぽっかりと浮かんでいた。
004
夜に立っている。
あたしが感じているのは達成感だけだった。全身変だし疲れまくってるけど、それすら愛おしく感じる。山頂の展望台から見えるのは夜の街。
010
朝を待っている。
線の向こう、遠くの空が赤い薄明かりに染まる。早朝の風に冷やされた体を震わせて、
瞼を擦る。霞んだ視界の中に、一段と強い閃光が映った。朝の光は不思議なくらい目に優しくて、何だか狐につままれたような気持になる。
「──そろそろ行かないと」
揺られるような心地よさを押し退けて、泳ぐような気持ちよさを振り払って。立ち上がり、歩き出し、朝焼けの街へと駆け出す。もう大丈夫、と、そんな声が聞こえた気がした。