忘れじの 行く末までは 難ければ   作:○△□☆

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特殊タグを使いたかったので使いました


3. 運命の夜(Fateful Night)

 目を背け続けていたことがついに現実になってしまった。

 ぎゅっと目を瞑り続けていれば、関わろうとしなければ。儀式なんか通り過ぎてしまうのだと信じていたのに。

 喚き声。遠吠え。ただならぬ魔力を垂れ流す、槍を携えた男。

 それらに囲まれて四面楚歌な現状が、無慈悲にも目の前に広がっていた。

 

(さっきまで何ともなかったのに。同じ世界の連続な時間を生きてるはずなのに。意味わかんない。……どうして?どうしてこうなってるの。わたし悪いこと何一つ(儀式に参加しようなんて)してないじゃない)

 

 絶体絶命。足は動いてくれない。

 膝が笑っちゃって、足が床に張り付いてるみたいに動き出すこともできないでいる。

 恐怖に麻痺した頭の中は、現状に則した行動を何一つ考えてくれない。文字通りの真っ白だった。

 

(こうやって、何にも手立てを打つこともできないまま、呆気なく死んじゃうんだろうな)

 

 あのサーヴァントの抱える槍に貫かれ、血を垂れ流して事切れるわたし。

 群れる獰猛な犬たちの餌として、我先にとばかりに歯を立てられて、一塊(ひとかたまり)の肉片として分解されていくわたし。

 身体を掴まれたまま振り回されて、空洞の中に焚べられて命を落とすわたし。

 荒ぶる肉塊に押し潰されるようにして人の形も残さずにこの世からいなくなるわたし。

 

 様々な死に方をシミュレートしてみれば、その全てがわたしの間近なところで渦巻いているような気がして、慣れた我が家があっという間に別世界に感じられた。

 

『綾香、覚えておきなさい。この家は、悪意や敵意をもって侵入しようという寄手から綾香を守ってくれるような結界がかけられているんだ』

「あっ」

 

 そんな情けないわたしをよそに、わたしの暮らす沙条の家は以前の戦争から8年もの歳月を経ても変わらずに結界を保ち続けてくれていた。

 緑のうねりの乱れ舞いが、邸宅を覆うようにして繰り広げられた。

 

「思い出した。確か、8年前のあの儀式が始まる少し前にお父さんがガーデンで教えてくれた……」

 

 結界に発動の条件は、群れる猟犬。飄々たるサーヴァント、眼下に広がっており明確だった。

 明確なる殺意・悪意を感知した沙条の家は、窓を壁を扉を、家の隅から隅まで外部との連絡を遮断するようにしてうねるツタを張り巡らせた。

 

(すごい……。実際に結界が発動してるところ、初めて見た)

 

 想像以上の規模の魔術で、こんなレベルの結界魔術がこの家全体にかかっていただなんて。今の自分にだってとても作用させることなんてできっこない。

 小学生の頃、大きく見えたお父さんの背中は、高校生のわたしにもまだ大きく感じられた。

 

(でも。これでどれくらい、時間が稼げるの……?)

 

 小康状態が、結界が張っている現状だとしていつまで続くかわからない。動かなければ待っているのはのがれられない死。

 目の奥が熱く涙が出て、今だって視界が歪んで見えてしまっている。いつ何かのきっかけに恐慌に陥って破滅するとも限らない精神状況だった。

 

 猛犬たちはおそらくあのサーヴァントを従えたマスターによって飼い慣らされているだろうに、その生来の獰猛さを隠そうとさえせず、窓ガラスを、その頭蓋をもって突き破ろうと興奮している。

 甲高い獣の叫び声が、普段は静けさに支配されているこの地を満たしていた。

 ひと吠えごとにびくりと体が縮みこみそうになって、焦燥感が背筋を汗となって伝っている。

 獣たちの興奮のるつぼの中にも、時折、悲鳴が混じっていた。発動した結界により鋭い針に覆われたツタが、窓ガラスに到達しようという刹那に犬をなぎ払い、絡め取り、絞殺していた。

 

 生まれたときから住んでいた、1人残されて寂しさに包まれながらも、穏やかな時間が流れていた家のこれまでに見たこともない姿。その秘密のベールの剥がされた表情に震え上がった。

 

「惨い……」

 

 嘔吐しそうになる。そんな余裕のないことはわかりきっていた。

 次の瞬間にも自らの形がああなっているともしれない。

 

 窓ガラスの割れる音。

 

「⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎」

 

 遂に結界の隙をついて突き破ったことに歓喜するような犬の狂乱(なきごえ)

 

 突然弾かれたように足に載せられた重しから解放され、恐怖に追いつかれないよう、わたしは走り出した。と、同時だった。

 

「おらぁっ!!」

 

 降ってきたのは気迫の一声。

 

「きゃっ!!」

 

 上から朱色の切っ先を、あまりの速さに、脳は処理しきれないまま視界だけが捉えていた。

 強かに打ち付けた背中。肺から押し出されるように空気が漏れ出す。

 煙があたりを充満した。

 

(逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。逃げなきゃ)

 

 煙が少しずつ引いて、振り返るとさっきまで立ち尽くしていたあの場所にぽっかりと穴が空いていた。

 

(殺される……!)

 

 這々の体で、部屋を出る。

 耳の奥からガンガンと鳴るような動悸に襲われ、動転して聴覚信号がまるで認識できない。それでも音を立てないよう精一杯腕の力だけを使って、幸いにも開け放たれたままだった廊下へ繋がる扉から部屋を抜け出した。

 

「⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎」

 

 右に顔を向けると、廊下を、前足と後ろ足に蓄えられたその膂力を、目の前に現れた獲物に追い付き、のしかかるという目的のためだけに発揮させた黒犬の、目をぎらつかせ、よだれを垂らし、牙を隠そうともしない顔が視界いっぱいに大きく広がっていた。

 衝撃が身体を包み込んだ。右肩に食いつかれ、抵抗することもできないまま呆気なくマウンティングされていた。

 

「はっはぁつ。はっはっ……」

 

 心臓の鼓動が体中に響いていた。それ以上の速さで呼吸が繰り返し行われていた。目の前の犬の呼吸と一緒くたになって、もはやどちらのものともしれなかった。

 

「しっしっ。死ん、死んだ……」

 

 瞳孔が開いて、目を瞑りたいのに、身体の制御が聞かない。犬は大きくかぶりを振って、濡れた牙を振り下ろす。

 

「あ、あ、ああ。あっ。や、やぁ……。やめ」

 

 声にならない声が漏れ出る。

 

 そのとき。

 

 白いモノが通り過ぎた。

 

「えっ?」

 

 犬は目の前のわたしよりもよっぽどその白いナニカを気にしているようで、押さえつけられる力は弱まり、腕から抜け出すことに成功した。

 

 鳩だった。鳩は天井近くまで飛び上がりながら、犬をいなし続けていた。難なく避け続けているといった余裕さえ垣間見えた。

 

「くるっくー」

 

(ここは任せて……ってこと?)

 

 血に染まった肩を押さえる。今もまだじわじわと血が出ている様子だった。アドレナリンのせいだろうか。痛みは感じなかった。

 

「ほんとに、ごめん!後でまた会おう!」

 

 鳩はさっきよりも強く翼をはためかせた。

 

 犬からは背を向けて、再び走り出した。

 一瞬一山(ひとやま)越えたような気がして安心しかけた刹那に槍先を向けながら天井から降ってきた闖入者の存在を思い出す。

 

(違う。これで終わりなわけがなかった。サーヴァントが待ってる)

 

 犬一頭から逃げ出すことに成功したからなんだというのか。犬は何頭も待機しているだろうし、最大の関門のサーヴァントは襲いかかってきたばかり。

 どうやったら、この危機的状況を抜け出すことができるのか。まるでわからない。

 

『いいか、綾香。危ないことがあったら、ガーデンまで逃げるんだ。きっと守ってくれる』

 

 遠い誰かの声がよぎる。

 

(ガーデン。そうだ、ガーデンに行けば……!)

 

 背後ではまだ威嚇する犬の鳴き声と鳩の鳴き声とが響いていて小競り合いの続いていることを教えてくれていた。

 

「ガーデンに行ってるから!」

 

 飛び上がり応戦中の鳩に向けた言葉が、ちゃんと伝わっているのかはもはや心配しなかった。

 

 

 天井からの一撃を避けてから、秒針がようやく1周したところだった。あまりにも長すぎる1分から生還を果たした。

 

 そして次の1分がスタートする。

 

 走り出したわたしは、まずは廊下の突き当たりまで走った後に、階下に魔力の気配がないことを確認しながら階段を2段飛ばして駆け下りる。これまでの人生で何度となく上り下りしたこの階段は、今みたいな非常事態でも、危なげなく降りることができた。

 階段の折り返しの踊り場で立ち止まり、1階の気配をもう一度探る。魔術的な痕跡ではなく、音や視覚、振動から階下の違和感を見つけ出す。なんらかの礼装によっては魔術的な気配を隠蔽することもできる。最終確認を終えてから、わたしは1階に降り立った。

 

 廊下の、中庭に面している窓が無惨に割れている。

 

(犬たちは中庭に行ったのかな?)

 

 耳を澄ませてみれば、中庭の奥からさっき組み敷かれた犬に似た鳴き声が反響している。

 だが潜んでいる犬もいるかも知れない。

 ゆっくり歩く。

 なるべく窓際を歩いているのは、壁を突き破ってくる恐れのある槍兵を気にしてのことだった。

 

(そういえば、さっきサーヴァントが落ちてきた部屋の真下の部屋ってここの扉の先だったよな……)

 

 家に備わっている礼装には、魔術的な気配を隠すことができるマントがあった。

 気配を隠蔽する礼装だけではなく、攻撃用の指輪だってあった。今その指輪があれば、犬にだって少しは抵抗できたはずだった。

 

(バカだ。ほんと、バカ)

 

 わたしは戦争から目を背けたいばかりに手元に置いておかなかった。結果的に一歩進むにもこうして神経を使う羽目になっていた。

 けれど自嘲に頭を割いていられる余裕はない。

 

 気配を感じて、ばっと横を見る。

 いつの間にか、犬をどうやり過ごしたのか、鳩が顔の真横あたりを併走していた。

 

 「びっくりしたぁ……!」と声に出そうになったのをなんとか鎮め込ませることができたのは、自分で自分を褒めてやりたい。

 

(よかった……。大丈夫って信じてはいたけど、こうして目の前に来てくれて)

 

 少し立ち止まって、鳩に怪我がないかも確認してみる。

 

(うん。怪我もなさそう)

 

 もしあのとき鳩が戻ってきてくれていなかったら、わたし絶対に死んでた。

 

(疑ったりしてごめんね。今の危ない状況にだって助けに来てくれたっていうのに)

 

 怪我の確認の終了間際に、鳩のくちばしに光るものを見つける。

 それは見覚えのあるあるもので……。

 

「それって、もしかして!」

 

 手を伸ばす。鳩から光るものを受け取って手のひらの中に包み込む。

 同時に背後が騒がしくなってきた。

 

「……追いついてきたのね」

 

 おそらくは先ほど組み付かれた犬。

 白鳩も臨戦態勢に入るように、守るように、わたしの目の前を陣取った。

 目を見開く。

 ぎゅっと歯を噛み締めた。

 

 

(平凡な日々なんて、最初っから、なかったのかな)

 

 聖杯戦争なんて、参加する気さらさらなかった。

 時折夢に出るセピア色のちぐはぐな聖杯戦争のときと思しき朧げな記憶の中では、血が噴き出し、儀式のためにいともたやすく命が消費されていった。

 夢から醒めたとき、恐怖のほかにあったのは怒りだった。何に端を発する怒りなのか、前回の聖杯戦争の記憶のほとんどが揮発してしまってわからなかったけれど。

 

(あんなものの同類になるもんか……!)

 

 命なんて大願のためならば簡単に切り捨てられてしまう精神性。参加することで、そんなヤツらの同類になってしまうことがとにかく許せなかった。

 

『逃げ場はありませんよ』

 

 どうやったら巻き込まれないで済むのか見当もつかない。というか既に巻き込まれてる。結局神父の言う通りだった。どこにも逃げ場なんてなかったのかもしれない。

 

(もう諦めちゃいたい……。この命を手放して楽になっちゃいたい……)

 

 後ろ向きな感情。今の偽りならざる心情。

 

(でも、今じゃない。わたしを守ろうとしてくれている目の前の小さな命に、責任がある。この夜だけは責務を果たすんだっ!)

 

 背後からの黒犬の猛追。

 前足と後足が交互に力強く跳ねている。わたしを守るように羽を広げる白鳩に対して一撃喰らわせ、その後ろに控えるわたしをも手負わせようという意思が、床を震わせるかのごとく夜の闇の中で躍動している。

 

 わたしは手を伸ばして、掻くようにして鳩をわたしと黒犬を結ぶ一直線から除ける。

 魔力を充填する。指を中心にぐるぐると周回するように、黒い羽が舞い上がった。それらはやがて中心に収束し始めて、

 

ーー覚悟を決めろ。

「行け!」

 

 腕を振りかざすと同時に、羽は吸い込まれるように犬の胴に深く突き刺さる。

 それでも犬の猛攻は止まらなかった。血走った瞳が迫り来る。

 

(あぁ、ダメだった)

 

 あとはあの牙がわたしの身体を蹂躙するのみ。恐怖と諦めとが身体を蝕んでいく。

 

ーー責任。

(まだだ。まだ、わたしは……!)

 

 指輪の再装填は間に合わない。ならば右手を振り上げて、わたしは……。

 

 しかし、牙が噛み切るまであと数歩のところで犬は突然力尽きて倒れ伏した。恨めしそうにこちらを睨みながら、少しずつ顔から生気が失われた。唾を呑み込んだ。

 

「生き残った……」

 

 膝をつき、呆然と呟いた。

 わたしが生き残った代わりに、命の灯火が目の前で消えていく。犬の顎に触れた。一回だけゆっくりと撫でた。

 

「くるっくー」

 

 横を滑空する鳩が普段と比べて穏やかなトーンの鳴き声を発した。

 

「大丈夫だよ。うん。ほんとに大丈夫だからね」

 

 犬に触れた手を眺める。その手をぎゅっと噛み締めるように握れば、さっきまでと違う感触が手のひらを熱くした。

 立ち止まっているわけにはいかなかった。

 

 

 

  廊下がこれほどまでに長いものだと思ったことは無かった。不気味なほどに静謐に満たされている襲撃中の我が家。

 この静謐の森の中にわたし自身、息を潜めることができているのか心配になる。

 

「⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎」

 

 唸り声が聞こえた。今ちょうど通り過ぎた部屋の奥からだった。

 

(中庭の奥に1頭。あの部屋に1頭。あと何頭いるの?)

 

 さらに少しずつ歩みを進めると、窓ガラスの突き破られたような箇所があった。気づかず、ガラス片をジャリジャリと踏みつけてしまった。

 

(大した音じゃないとは思うんだけど、自分だけ目立ってる気がしちゃう……)

 

 仕方がなく窓際から壁際に寄ることにした。

 

(ここにも窓ガラスの割れ跡があるってことは、中庭に向かった犬はさっきのを含めて2頭ってこと?)

 

 あとはこの直線の廊下突き当たりを右に曲がって、まっすぐ進めば間も無くガーデン。気を引き締めて、もう一歩右足を前へ移動させて接地させたとき。

 

 ジャリッ。また割れたガラスであろうものを踏み締めた音が聞こえた。真下を見る。それから少し足を上げてみる。ガラス片は床に見当たらなかった。

 ジャリッ。違う。わたしの足元からの音じゃない。もっと後ろからの音だ。

 

 振り向いた。さっき階段を降りてすぐの近くの割れた窓ガラスの横。

 散乱したガラス片の真上に立ち、頭を掻きながら大きくあくびをする緊張感の欠けた雰囲気。あくびで開けられた大口が萎んでいって、それと同時に眠た気ば目がゆっくりと開かれる。

 

(あの目だ……)

 

 赤い瞳だった。その赤い瞳がわたしを捉える。恐怖が再びわたしの心を蝕み始めた。ぞくりとして、背筋が震えた。

 

(ちょっと助かるかもだなんて、少しでも思ったのが間違いだった……)

 

「よう嬢ちゃん、あんたが沙条サンで合ってるかい?」

 

 そんなわたしをよそに侵入者は呑気なものだった。はいともいいえとも答えることができず、わたしはただただ後退りをしていた。

 侵入者は背中に装備していた赤い槍を右手で掴んだかと思うと

 

「まぁ、合ってようが合ってまいが関係ねえ。ここで会った以上は殺すんだが」

 

 空気が塗り潰される。静謐な空間に、濃密な死の気配が満ちていた。

 

 

▲▽▲▽▲▽

 

 

 ランサーの沙条邸への襲撃。それが聖杯戦争全体の初戦だった。

 片や歴戦の勇者。片やサーヴァントも召喚していない見習い魔術師。実力の差は歴然としている。

 肉体から魔術まであらゆるものを戦闘に特化させた神代の英雄に対して、現在綾香の手持ちは白鳩から受け取った羽指輪のみ。

 

(この羽だけでどれだけ時間を持たせられるの?)

 

 これ一つで舞台に引き揚げられてしまった。対抗できるだなんて思い上がっちゃいない。時間をやり過ごすことさえままならないかもしれない。

 冷や汗が止まらない。瞳孔が散大する。

 

ーー目前に迫るのは絶対的なる死。

 

(どんな方法を選んでも辿り着く結果が一緒なら、いっそ発狂したまま胸を貫かれた方が苦痛も少なくて済むかも……)

 

 綾香の考えは決して間違っていない。

 けれど、隣で羽をはためかせる音がしている。

 

(わたしが死んだ後に何も残らないなら、いい。わたしだけが死ぬのなら、それでいい。ーーけど、そうじゃない。だったら、わたしは……!)

 

 指に嵌められたこの指輪が生命線。羽の残数はいかほどか。これで乗り切るしかないのは必定。

 決意を胸に、魔力をこの指輪に向けて集中させる。

 

 

 

 ランサーから見ても対抗のための手段は見たところ豊富に持ち合わせているわけではないように見えた。

 あの指輪に注意を払っていれば、特に苦労することなく一仕事終えられるだろう。猟犬との一戦を見届けて、この通路で相対する瞬間まではそう考えていた。

 

(マスターからは魔術の素養などほとんどない、楽な相手だって聞いてたが……)

 

 戦士ではない少女にしてはなかなか気迫がある。もちろん神代にさえ名を轟かせたランサーにとってみれば、特別優れているわけではないことは確かだが。

 

(体を張って、マスターとして囮になってる可能性も、アサシンクラスによる気配遮断が、オレの探知を上回っている可能性もある。が……)

 

 

 

 

 おそらくランサーによる此度の襲撃は、目の前の女にとってはハプニングだった。

 天井から狙い澄ました一撃についても、運良くかわすことができたのだろうが、もし事前の準備というものがあれば、ああも慌てふためきながら襲撃を受けた部屋から逃げ出していくことはなかっただろう。

 

(ただでさえゲイボルグを取り上げられて、それに加えて戦いに向かない・準備もできてねえような嬢ちゃんを相手取れと言われて、やる気なんか出るわけもねえ)

 

 這々の体で逃げていく綾香の様子を捉えたときに、戦士でもない相手に本気を出すなぞ可哀想だと。

 ランサーは遊んでいた。使い魔の犬だけでも楽に仕留められるだろうとたかを括っていたのだ。

 

(気の毒だがこれが戦争。巻き込まれかねないことがわかっていたのに準備が足りねえってことで死ぬんなら、お前さんの責任だろ?)

 

 そう様子を窺っていたが、一頭とはいえ犬を相手取りやり過ごすどころか、息の根を止めて見せ、とうとうこれだけの時間を生き延びて見せた。

 

(覚悟の決まってねえ嬢ちゃんにしてはなかなかやるじゃねえか。しっかし、もうそろそろうちのマスターも遅いって急かしてきてる。精々痛みの感じる時間の少ないくらいで楽にしてやるかね)

 

 

 

 

 そうやってランサーがこの舞台に上がって、目の前に現れたのは特別気迫のこもったというわけではなかったけてど、女傑としての萌芽を垣間見えさせる目だった。

 まだ、玲瓏館美沙夜(ランサーのマスター)には及ぶべくもない。迷いが残っていた。しかし何か一つ余分が削ぎ落とされれば、きっと。

 

ーーだからこそ、惜しいねえ。

「殺す」

 

(さぁ、沙条サンとやら)

 

 槍を中段に構えた。

 

(この絶体絶命において、何を見せてくれるんだ?(からをやぶってみせろ)

 

 

 

 槍の(きっさき)が綾香に向けて狙い澄まされる。常在戦場の構えとはこのようなものなのかと、怖気付きそうにもなる。

 自らの死期はもはや覆りようのないことを悟った。

 

(でも今やれることは一つしかない……!)

 

 手を振り翳して、さっき猟犬との交戦の際に使ったよりも多量の魔力を指輪に込めると、視界を覆うほどの羽根がランサーに向けて飛び出した。

 ランサーも特に慌てることなく、槍をくるくると高速で回転させる。曲芸のようではあるが、確実に撃ち落としていく。

 

(なかなかの威力だ。だが、まあ。逃げるための時間稼ぎってところか)

 

 ランサーが視界が晴れるまで羽根を捌き切った後、目の前には既に綾香はいないと予想をつけた。しかし予想は外れた。

 撃ち落とし切って効力を失い、ゆらゆらと宙を舞い落ちる無数の黒い羽根のその奥に、先ほどと変わらぬ構えのままで綾香は立っていた。

 

(どういうつもりかは分からねえが、これで……どうだっ!)

 

 槍を投擲する。目にも止まらぬスピードで綾香に迫り、貫通し、壁に突き刺さった。

 綾香は、ボロボロと崩れ落ちることなく、心臓のあたりに穴が穿たれたままで静止していた。

 

「なるほど。嬢ちゃんを模したダミーか」

 

 槍に刻まれた回帰のルーンによって、ランサーの手元に槍は再び収まった。

 

 よく見ればさして精巧とは言えないダミーだった。にも関わらず、ランサーが騙されて槍まで投擲したというのは、圧倒的格下との遣り取りであるが故にランサーが意図的につくりだした油断。なにより、舞い落ちる羽根がカムフラージュになって視界を遮ったためだった。

 

(なかなか(さか)しいな。しっかしあのデコイ。魔力が込められている)

 

 十中八九、仕掛けを施されている。

 マスターの方針のせいで退屈を極めていたランサーは、戦いの素人がどの程度驚かせてくれるのかという一点で綾香に対して期待をかけていた。

 バカ正直に仕掛けに向かっていく必要などないのだが、ランサーは敢えてダミーに近づいていく。進んで地雷を踏みに行くことができるのは、地雷を受けてなおものともしない人外のみと決まっている。

 

 警戒していないかのような軽快な足取りでダミーの像に近づいていく。

 

ーー否。

 常在戦場、百戦錬磨のランサーにとって、警戒など無意識に刻まれている。現在のような意図した油断の中にあって遅れをとることがあろうと、致命的な負傷を負うことはないだろう。

 

 そうして近づいて、目の前まで来てみても何かが起きる気配はなかった。

 

(ダミーをつくるためだけに魔力を含めただけか、こりゃあ?)

 

 当てが外れたかと、槍を薙いでダミーを壊した。ダミーの上半身が崩れ落ちた。崩れ落ちた瞬間に、上半身はバラバラと(ほど)け始めて、複数枚もの黒い羽根へと変貌を遂げていた。

 

「うおっ」

 

 黒い羽根は至近距離からランサーを包み込むように襲いかかる。

 コンマ1秒の後、別たれた下半身部分も同様に黒い羽根へと分解された。上半身からの黒羽根がランサーの視界を覆う役割であったとするならば、下半身部分からの黒羽根は、殺傷能力を企図したものであった。

 黒の奔流は鋭く差し込むようにランサーへと襲いかかった。

 

 ランサーは後方へ飛ぶ。槍を何度も何度も振り下ろしてその風圧によって黒い羽根を落としていく。

 

「ちっ。こいつぁなかなか性格の悪い仕掛けだ」

 

 条件はデコイに近づくことと、ダミーを崩壊させることだろうか?

 性格の悪い仕掛けではあるが、それはランサーがわざわざ近づいて壊すという複数の条件を満たさなければ発動さえしないということ。

 大した礼装を持っていない。だからこそ確実性の低いギャンブルに敢えて賭けてみようという考えは悪いことではない。

 悪くはないが、

 

(戦い慣れはしてねえな、やっぱり。戦いの玄人ならこうするだろうって背伸びした素人のやりそうな戦術だ。時間稼ぎは出来たのかもしれねえが、嬢ちゃんにこれ以上の隠し玉(・・・)でもない限りは無駄の一手極まりねぇ)

 

 多少驚きはしたものの、軽々と全ての羽根を撃ち落とし切ったランサー。風圧ですべて処理したと思ったが、何枚かの羽根が槍に突き刺さって、その威力を殺しきれずに震えていた。

 ランサーに矢避けの加護がなければ、もしかすると一撃二撃程度はもらっていたかもしれない。

 

(ま、退屈凌ぎにはちょうどいいか)

 

 アトラクションを楽しむようにケラケラと笑う。

 戦場というよりは遊園地にいるといった様子のランサー。

 もちろんその様子を遠隔で、音だけ共有している彼のマスターにとっては、飼い犬が命令を完遂しようとするでもなくほっつき歩いているようにしか見えないわけで

 

『ランサー?……遊んでるみたいね。まだ仕留め切れてないだなんて。時間をかけすぎなんじゃないかしら?』

「遊んでなんかいねえよ。相手方の手札をすべて見て帰ってこいってのがマスターの方針だったじゃねえか?それに則って全部引き出して、それから殺せるかどうか考えてるだけだ」

『……。サーヴァントの手札をなるべく引き出してからトドメをさすか決めろって言ったの。サーヴァントを召喚してもないマスターにそうしろだなんて言ってないのよ?帰ってきたら折檻ね。……あなたが遊んでいたにしても存外時間がかかったわね。沙条の娘……。評価を上方修正しなきゃいけないかしら』

「当初の想定が低すぎたんだろうよ」

「ふん。まぁ、いいわ。……いつまでも遊んでないでトドメは確実に刺してから帰ってきなさいよ。サーヴァント召喚してなさそうなんでしょう?」

「へいへい」

 

 通信が切れた。

 戦場における情趣を解さないマスターだと首を振りながら、

 

(さて、嬢ちゃんは……と。)

 

 赤い目が廊下の先を見定める。

 

 

 

 

 先ほどの仕掛けが発動したのを確認するや、綾香は潜んでいた部屋から廊下へ飛び出して一目散に出口へと走り出した。あの扉を越えて、外に出て、さらに突き進んだ先にガーデンはある。

 もはや位置を悟られないように警戒して歩くかどうかなど言ってられる状況にはない。辿り着くことが先決。

 

(あともうちょっと……!)

 

 既に指輪の効力はない。あのダミーで使い切ってしまった。とにかく速く走らなければならない。扉のドアノブに手を掛ける。

 

「やっとガーデンだ……!」

 

 ドアを開けた途端その隙間から溢れ出す黒。猛犬たちの乱舞だった。

 待ち切れないといわんばかりに雪崩れ込んでくる。扉を押し返そうとするものの多勢に無勢。

 

「結界は……どうしたって、言うの!!」

 

 かつて綾香に父はこう言っていた。『この扉を通ってからガーデンまでの間がもっとも強い加護がかけられている』のだと。

 攻め来る犬に対して、襲撃の冒頭においては犬を絞め殺すなど効力を発揮していた沙条邸に掛けられた結界が今は発動せずに犬の侵入を易々と許してしまっている。

 結界がいったいどうして発動しなかったのか。

 

 ランサーである。

 天井から綾香を狙い澄ました一突き。それから綾香と相見(あいまみ)えるまでの空白の時間に何をやっていたか。ランサー当人からすれば遊んでいたということになるが実情は異なる。

 

 屋敷に掛けられた結界を発動させるための5つ起点のうちの主要な働きをする3つを潰して回っていた。

 一つは綾香を真上から襲撃したときの真下。隠されていた小さな地下室の床に刻まれていた。

 ランサー(クー・フーリン)にキャスター適性があることは言わずもがな。ランサーで召喚されている現在でも、魔術師としての(ちから)は万全ではないもものの知識は神代のそれに相応しいものを持っている。

 

「サーヴァントからは一旦逃げられたと思ったのに、まだ足りない……っていうの?」

 

 逃げようにも、後ろからは間もなくランサーが追いついて来る。眼前の状況は言わずもがな。

 指輪の残弾はゼロ。

 白鳩が臨戦態勢をとるのを横目に、これ以上この鳩に危険をなすりつけるような真似だけはしたくはなかった。

 

(考えろ。何か突破口がある……)

 

 飛びかかってくる犬の牙を、肩を掠め肉の抉れる既所(すんでのところ)でよろめきつつ躱す。黒い制服は引き裂かれて、血液が飛び散った。

 

 はっと気づきを得たようぬ目を見開く。

 

(これしかない、けど。どうやって時間を稼げばいい?)

 

 びゅうっと、鳩が先頭の巨犬の額へと空を滑り厳しく突いた。勢いのまま天井近くまで飛び上がり、突如として光が降り注いだ。

 綾香側に立っていれば大した威力ではないものの、犬たちにとっては目を一定時間眩まされるには十分すぎる光量で、これ幸にとうめき狂う犬たちの間を縫って、鳩とともに扉を抜けた。

 

 普段は触媒の泥状の溶液を散布してから結界を発動するのだが、溶液の入ったケースは手元になかった。血液がその代わり。

 血の湧き出す肩を扉になすりつけ、血液を触媒とする。

 

 ガーデンに辿り着くという目的だけを考えれば十分だ。

 この付近一帯の短時間程度しか効力が保たないという限定的なものではあるが、一度は消えてしまった蔓の結界を再び呼び戻し、犬をこの場所に縛りつける。

 

「⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎」

 

 犬たちの悔しむ唸りが扉一枚を隔て反響していた。獣たちの饗宴のつまみにならずに済んだことに安堵しつつ、先を見据えた。

 

(あの槍使い(サーヴァント)が追いついて来れば、犬たちを引き連れてガーデンにやってくるかもしれない。けど、ガーデンなら……!)

 

 綾香の傷は深くはないものの血はとめどなく流れていた。痛みはまだ感じていない。

 最後の数メートルを走り抜ける。

 走って走って走って。

 辿り着いたのは綾香の父が昔、ここに来ればもう安全だといった教えてくれたガーデン。

 

 入ってすぐに先ほどと同様の処置を施して血の結界を作動させた。錠前代わりに蔓がメキメキと生えて、扉自体を頑丈に埋め尽くした。

 

「ガーデンまで着いた。だからもう。これで大丈夫なんだよね?」

 

 ふらふらと泳ぐように毎朝の日課に挑む作業台まで酔歩する。辿り着いた先に鎮座する木椅子に手を付いて、地べたにお尻をつけた。綾香のことを心配そうに鳩が見上げていた。

 

 綾香も荒くなった息を整えようと、肩をゆっくりと呼吸に同期させるように上下させていたけれど、

 

(この不安はなに?お父さんの言いつけ通りにガーデンまで来たのに、わたしどうして緊張しっぱなしなの?)

 

 ガーデンに辿り着きさえすれば、犬たちが襲いかかってきた0時ちょうどのときのように、踊り狂うような蔓の結界以上の何かが張り巡らされ、夜明けまでの長い時間をあの恐ろしいサーヴァントたちから守り抜いてくれるというのか?

 

「ここから先、何をすればいいの?……全くわからない」

 

 見下ろすと、鳩と視線が交錯する。

 意図も容易くガーデンにサーヴァントが侵入してきた場合、もう綾香の手元には羽指輪だってない。礼装なんて何もない。

 逃げ仰るべき場所だったのは本当にこの場所(ガーデン)でよかったのだろうか?

 先ほどまで綾香の心を覆っていた火が徐々に萎んでいく。比例するように、肩の痛みはジンジンと脳にまで響くような心地がしてくる。

 

ーー悪い予感は的中する。

結界で封じたはずの扉がが吹っ飛んで、向かいの壁にぶつかる。

 

(う、そでしょ)

 

 立ち上がった煙が晴れるに従って、扉から入ってきた者の姿が月の光の下で明らかになっていく。

 疑う余地もなく、槍使いのサーヴァントが飄々と立っていた。

 

「さっきのデコイ戦術。なかなかシロートにしてはよかったぜ。及第点だ。あの犬たちからもよく逃げたよ。アンタ礼装使い切ってて多分一つもなかっただろ?」

 

 その姿に傷の一つも見られなかった。

 それに結界が発動する様子もなかった。

 

(ガーデンまで来れば大丈夫だなんて。アレってなんだったの?嘘だったのかな。掛けられたのがむかし過ぎて効果がなくなっちゃったのかな?)

 

 綾香の中でぷつんと何かが切れるには十分だった。

 

「デコイ戦法。通用するなんて思ってもなかったけど、傷一つさえつけられないなんてね」

「オレに矢避けの加護がなけりゃ結構いい線いってたかもな。他のサーヴァントがアレに引っ掛かってたら傷の一つや二つくらいは喰らわせられてたんじゃねえか?ま、何にせよアンタの思い切りの良さ含めておもしろかったぜ」

 

 このような死地に似つかわしくない、人好きのする笑顔だった。

 

「く、そ」

「ま、せっかくだ。予想外におもしろいもん見せてくれたし、死に方くらいは選ばせてやるぜ」

 

 死の因果が目の前の男によって確定された。軽い口調とともに放たれた言葉なのに、(ああ、わたし死んじゃうんだ……)と、心臓を鷲掴みにされる程の衝撃を含んだ言葉だった。

 けれど目の前のサーヴァント。真名はわからないが、武勲を立て世界中に名を馳せた英霊に『おもしろいもんを見せてくれた』と言われたという事実が、劣等感まみれで生き残ってきた綾香にとってじわじわと熱くなるものがあった。

 

「できれば、死にたくないなぁ。なんて……」

 

 少しだけ戯けてみせると、ランサーは面白い冗談でも聞いたかのように大笑いをする。

 言葉に反して、死を受け入れようという心の動きまで出てきていた。諦める口実が生まれたとも言い換えられる。

 

 均整のとれた筋肉を持った偉丈夫が、ゆっくりと綾香との距離を詰めてくる。

 

(あれがわたしの死か。思ったよりも人間らしくて良かったな……)

 

 死にたくないって思っている、はずなのに槍を受け入れていた。

 心臓目がけて振り下ろされる槍。

 走馬灯とはこういうものなのか。ゆっくりと胸に槍が迫ってくるものとして目には捉えられた。

 

(ああ、これで終わりか……。お母さんもいない。お父さんも、お姉ちゃんもいない。1人きりで8年間。よく頑張ったよね?)

 

 痛くないといいな、なんて考えながら目を瞑った。

 1秒2秒3秒。

 

(あれ?)

 

 胸を突き刺すはずの衝撃は一向に来なかった。こんなにも死は一瞬のことだったのだろうか?おかしい。

 綾香は目を細く開けて、少しずつ見開いていった。

 

 白い、鳩だった。

 鳩は槍に横から体当たりをすることで綾香を守っていた。

 

「どうして?」

 

 戦場のど真ん中。こんなところに出てこなければ、ただの儀式用に飼われていた鳩だろうと見逃してもらえたかもしれないのに、なぜ。

 綾香の疑問・不安に反して、鳩は槍を器用に避けつつ隙あらばランサーにそのくちばしで果敢に狙おうと試みる。

 

(なんだこの鳩。嬢ちゃんの使い魔なんだろうが、ただの鳩のくせにオレの槍を受け止めやがる。これが嬢ちゃんの隠し玉だったってことか?いまだにこの庭の中にターゲットがいるってことがわからないで外を彷徨き回ってる(アイツら)に比べると利口な使い魔だ)

 

 槍を振り回す。いったいどこからその強度が生まれているのか。槍をクチバシで受け止める。

 槍を薙ぐ。急カーブをして避ける。

 

(思ったよりも面倒だ。手元の槍がゲイ・ボルグだったら簡単だったんだろうが。しかしなんだこの鳩は。丈夫すぎる。が、もうそろそろこっちにもうるさいマスターがいるんでね。決めさせてもらうぜ)

 

 ランサーは先ほどまでの歴戦の勇士然とした堂々たる立ち振る舞いを()いて、獣のような俊敏な直角移動を見せた。

 

(狙いは鳩じゃねえ。嬢ちゃんだ)

 

 放たれた槍は、鳩の現在地から離れた綾香に向けて風を唸らせながら加速していく。

 

「えっ」

 

 立ち竦む綾香。

 準備もできないまま、眼前まで迫る槍。

 

 

 

ーー果たして、槍の切っ先によって鳩は貫かれた。

 

 飛ぶ鮮血は綾香の頬を濡らした。綾香に覆い被さるようにその小さい命は事切れていた。

 体重はいかほどであっただろうか。今は綾香の手元に乗った死体はあまりにも軽く、1分に満たない時間とはいえサーヴァント渡り合ったという事実が信じられない。

 

「あ、あああ、ああああああああああああ」

 

 聖杯戦争。死の重み。

ーーまた、これなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 混迷の極地の心境の中で、無差別な怒りが綾香を満たし始めていた。

 

 綾香が向け先の定まらない怒りを持て余している最中。ランサーは着々と2撃目の準備を始めている。

 もう切り札であっただろう鳩はいない。作業台の上に乗っかっている鳥籠の中にも数羽鳩が仕舞い込まれているが、仕留めたあの鳩から感じたような魔力をアレらからは感じ取れない。

 

「さて、今度は外さねえぞ」

 

 射貫く視線。その視線を晒されながら、綾香の中で8年前の光景が浮かぶ。

 

 綾香を庇うように(・・・・・)して、光る剣に身体を貫かれる姉の姿。普段はぼんやりとしたイメージのフラッシュバックであるのに、今回だけはいやに鮮明だった。

 体中に姉の血を浴びた。そんな総毛立つ状況が、今の鳩に守られた状況と重なった。

 

「だめ。そんなの絶対ダメ……!」

 

 守られてばかりでいいのか。所詮ここで死ぬ命だろうが。使い尽くした身体の中のさらに奥底に眠るナニカを引っ張り出せ!!

 眼鏡は血塗れで、

「邪魔」

 だったから、行方も見ずに放り投げた。これはただの報復だ。鳩の死への復讐だ。

 

「こんのおおおおおお!!」

 

 諦め掛けていた心に火を灯せ。その怒りが、奪う者たちへ届かなかったとしても、牙を向けない理由にはならないのだから。

 綾香が死力を振り絞って、血を流す右腕をランサーに向けて振りかぶろうとするのと、ランサーが槍を繰り出すのは同時だった。

 

 なるほど確かに綾香の抱く想いは尊く、高潔な精神がが伴っているであろう。

 しかし、崇高な思いがどれほそ籠っていようとも関係はない。

 相手は英霊。ケルトの大英雄だ。

 気概空しく綾香の心臓は槍によって一突き。容易に貫かれた。

 

ーーかに思われた。

 

 再び奇跡は起こった。綾香を起点として部屋中に広がる召喚陣。

 

ーー英雄の登場は得てして遅いというが、これでは遅すぎるだろう。

 

 綾香の身体に埋め込まれた聖遺物によって召喚されしはサーヴァント階位第1位の美丈夫。

 ここに契約はなった。

 

 貫かんとしていた槍はその黄金の剣で綾香の命を奪わんとするのを止められていた。契約の口上も無いままに、そのままセイバーとランサーのせめぎ合いが始まる。

 予想外の状況に置かれてもなお、ランサーに戸惑いはなかった。

 

(このまま嬢ちゃんを仕留められれば早かったんだろうが、七騎揃わなけりゃどうせ戦争は始まらねえんだ。だったら召喚の現場に立ち合わせて、敵さんのマスターとサーヴァントの意思疎通のなってないこの状況こそがベスト)

 

 どこを捜し歩いていたのやら、犬たちもようやくこの部屋(ガーデン)を見つけ出して、ランサーが飛び込んできた扉から続々と姿を現していた。

 

 そうして何頭もの獣たちが綾香を囲んだ。

 

「まずい、綾香!!」

「おっとセイバー。あんたの相手はオレだぜ!!」

「くそっ!!」

 

 英雄同士の対決が始まったその裏で、綾香はやはり窮地に立たされていた。

 綾香がこの二転三転する状況下に置かれて気づいていないがセイバー現界の余波(アヴァロンの効果)で多少の身体の回復はなっていた。依然として肩からの出血は続いているが。

 だが、綾香が召喚したサーヴァントは襲いかかってきた槍使いへの対応を強いられており、何の礼装も持たない綾香はやはり猟犬の相手をしなければいけない。

 事態は何一つとして好転していないようにさえ思える。だとしても

 

(一矢報いてやりたいんだ!)

 

 この局面を乗り越えて絶対に償わせてみせる。足元には作業台から転がり落ちてきた鉈。犬が飛びかかってくるのに備えるようにして右膝を地面すれすれにまで落とし込み、右手で鉈を掴んだ。

 犬は様子をうかがうように、綾香の周りをぐるぐると群れを成して回っている。

 

『鳩一羽くらいでしょ。死んだのは。別に報いようだなんてムキにならなくったっていいじゃない?』

「わたしに寄り添ってくれた。わたしを助けてくれた子なの!」

『セイバーとランサーの決着が着くまで待てばいいんじゃないのかしら?その鉈をぶんぶん振り回してれば時間稼ぎくらいはできると思うのだけど』

「それじゃ、あっという間にやられちゃうじゃない。わたし一人でこの局面を乗り切るためには、鳩がしてくれたことに報いるくらいの対価を払わないと生き延びられない!』

「聞き分けのない子ね、綾香ったら。その鉈、自分の腕を切って触媒にするために使おうとしてるでしょう?はぁ。今を乗り切ることができればそれでいいだなんておバカの考えることよ?」

『うるさい!! って、え??』

 

(わたしは今誰と話していた?最初は自分の心の声だと思っていたけど、違う)

 

 綾香が自身の変化に戸惑っている間に、襲撃準備を済ませていた犬たちが四方八方から飛びかかってきていた。

 

(え、ちょ、まずい……!準備ができてない)

 

 今度こそ死んだ。奇跡なんて2度も3度も起きてたまるか。鉈を自分の腕に落とすのか、犬に向けて振り回すのかで一瞬迷って、その迷いが綾香にとって命取りだった。

 

「まずい、綾香!」

「余所見してるんじゃねえぞ、聖剣使い!」

 

 今日何度目かの走馬灯。スローモーションの世界の中で、鈴の音のような声が綾香の頭の中に鳴り響いた。

 

「2度あることは3度あるって聞いたことないかしら。綾香、身体をもらうわよ?」

『は?』

 

 自分の身体のはずなのに、自分が外にはじき出されるような感覚がした。まるでテレビを見てるみたい。そこは水の中で歩くみたいに不自由だった。

 変化は内面にとどまらなかった。

 

 傷は止まり。髪の色が金に染まり。視界が低くなっていく。

 身体の何もかもが書き換わっていく。

 最後には、存在さえも塗り替えられる。

 

 変化の後、先ほどまで綾香の立っていたところにいたのは、セイバーが8年前に自らの剣によって殺したはずの少女だった。

 

「あぁ、懐かしいわ。生身の感覚ってこんな感じだったわね」

 

 聞き覚えのある声。パズルのピースは揃っていく。そのパズルのピースの完成図を想像して、聖剣使いのサーヴァントは恐怖を感じた。

 

「犬は……ふふ。こんな感じかしら?」

 

 指揮棒を振るかのように身体の前で手を使って円を描くと、その足下には一瞬にして犬であったものたちが倒れていた。

 セイバーもランサーも何合とも続いた剣戟をとめて驚愕の表情で綾香だったもの(・・・・・・・)を見つめていた。セイバーは主に毒婦の復活の恐怖を、ランサーは綾香の存在の変貌に対する戸惑いを携えて。

 

 長い静寂の後、きょとんとした表情で2騎のサーヴァントを風景のごとく眺めた綾香(・・)は、忘れた台詞を突如思い出したといった様子でこう言った。

 

「あなたがわたしの、サーヴァント?」

 

 細められた(まなこ)には長い睫毛がかかって、奥に潜む青い宝石(ひとみ)に載せられた想いを覆い隠して、読み取ることを許さない。

 

 月が嗤う。少女が嗤う。

 

 8年ぶりに封を解かれた金糸の艶やかな髪を持つ精巧な人形が、死骸の横たわる陰惨な舞台上で、舞い戻ってきた歓喜を身体いっぱいで伝えるように狂狂(くるくる)狂狂(くるくる)と手をいっぱいに広げて舞い踊った。

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