唖然とするセイバーをじっと見据える綾香、もとい愛歌。
すべての造形が黄金比で形どられた完璧な容姿は、在りし日の姿のままの人間味の薄い精巧さ、だが時折瞬かれる瞳が確かに血の通った生体であることを白状していた。
「愛歌……なのか?」
そう。
目の前の女には、透き通るような白磁の肌にしかし、血の通ったような赤味が確かに存在していたのだ。
セイバーからすればたまったものではない。8年前に背後から刺した女が舞い戻ってきたのだ。
綾香の身体を塗りつぶし上書きする形で顕現しているのか。もしくは、もともと愛歌だったものが綾香に擬態していたのか。
いまだ召喚されて間もないセイバーには判別のつけようがない。
仮に前者だとするならば、なんらかの魔術的なバックアップが綾香の身体の中に仕込まれていたのだろうか?
黒魔術の一部の降霊には、対象の体に宿らせる形で悪魔を召喚するものがある。対象は宿りし悪魔の外見を引き継ぐ形で異形と化すケースは多く報告されている。
(確かに愛歌はこの手で……)
聖剣で
最期のときまで主人は、己が
セイバーが全貌を知ったころには、主人は
だから、聖剣が無邪気な少女の命を奪った。契約ごと否定するように、彼女の
それは戦争に挑むにあたった懸けた願い、故国の救済。つまりはセイバー自身を殺したことと同義であったけれど、内心では
それも今は霧散した。
(前回の聖杯戦争の終結時には件の魔術が綾香に仕込まれていたということだろうか?……綾香自身が愛歌を降霊させていた可能性もある)
ーーどちらにせよ、確かなことは。
(綾香を完全に救い切ることができなかったのか)
そう思えば愕然としてしまう。
セイバーの心も知らず、じいっと愛歌はセイバーを眺め続けていた。鑑定士が美術品の瑕疵を隈なくチェックしているような面持ちだった。
問い正さねばならぬ。口をきゅっと引き締める。綾香は一体どうなっているのか。無事なのか。
その疑問を塗り替えるように、脳の甘く蕩けさせるような声が
「そういうあなたは。……私の、運命の人?」
無邪気な少女のように問い返す。
その一言で、あぁこれは確かに愛歌なのだという
セイバーの内心、穏やかではない。このセリフがいったいどういう意図を以て発せられたものなのかを図りきれていない。
愛歌のすらりと細長い腕がセイバーに向かってするすると伸ばされていく。ぞわりと背筋を這うものを感じる。
怖気というほどではないが、8年ほど前に、既に彼女がサーヴァントさえも踏み倒し駒として、かの戦争をチェスの盤面のような冷酷無比の手腕をまざまざと見せつけられたのだ。警戒しても無理はない。
運命の人。その言葉に滲む万感の想い。歓喜とも悲哀とも、情欲とも取れる複雑な感情の息吹。
この思慕に応えられるほどの余裕がセイバーにあったか。
ーー今は綾香のことだった。
あの場所で犬に囲まれて危機に瀕していた少女が、別の存在のテクスチャーへと無理やり書き換えられたような、
「……。愛歌。綾香は、どうなっているんだ」
セイバーの無視とも取れる
「あぁ。いけないわセイバー。まずは目の前の問題に対処しなきゃ。ね?」
セイバーに向けて伸ばされたと思しきその五指は、やがて人差し指を残して徐々に丸められて、
「ばんっ♡」
あまりにも咄嗟のことで、歴戦の・救国の王さえ反応できないままに、魔力の奔流が放たれる。年頃の少女らしい愛らしい挙動に反して、禍々しい黒閃が、セイバーの耳のすぐそばを通り過ぎていく。
ランサーが隙をついて、一騎狩れるかと様子を伺い、まさに突撃せしめんと左足を地面にめり込ませた刹那のことだった。
黒閃は瞬く間にターゲットへと殺到し、しかし仮初の槍によって危うくも薙ぎ逸らされた。
(威力としては大したものじゃない。しかし、ありゃあなんだ?さっきまでの嬢ちゃんの戦い方とはまるで違う。まあ容姿も変わっちまってんだから今更何がきても不思議じゃねえ。不思議じゃねえが。アレは、何なんだ……?)
ランサーは目を白黒させていた。次元が違うぞ、と。
ケルトの、勇者たちがひしめき合い鎬を削ったあの時代でさえも、目の前の女は誰をも寄せ付けないまま淡々と毒を垂れ流すだろうという確信があった。
(ある程度マスターの底を確かめつつ、サーヴァントのクラス、戦法を測れというのが主人からの命だった。しかし、あの女の戦力を測りきれていない。底が見えないというよりは底がそもそも存在していないような。……深追いは危険。一次撤退か?)
あくまで敵情視察。勝機のある場合でなければ、とどめを急ぐことはしなくともよい。帰ってくることが現段階では最優先。
というマスターの意向に沿うのならば、この判断がベスト。
撤退のフェーズさえももはや危険な状況だが、さて。
天井を突き破って逃げるか、窓や壁から抜け出るかを、余裕綽々の表情を演じながら目まぐるしい思考によって考える。
「見たいもんは見れた!そこの嬢ちゃん。それに、セイバー!!」
上だ。
くるくると真紅の槍を回転させ、撤退を決めつつも、相手には攻撃に転ずるとも疑念を抱かせる素振りを振る舞う。
足を踏ん張らせる。
回転はやがて収束を始め、前へ向いた瞬間に不可避の刺突を展開させるのか、攪乱動作からの意識外からの一突きか、撤退か。
顔面には好戦的な笑みを貼り付けた。にいっと口元から鋭い犬歯を覗いた。次の瞬間、槍が真上を向くとともに跳躍。槍だけではなくその身体自身を真上へと投擲させた。
「じゃあなっ!!!」
つもりだった。
「ふふ。なかなかの演技派ね。観客としてはいい見世物だったし、今日は見逃してあげるわ。……あっ、そうそう。美沙夜ちゃんによろしくね?」
「っ……はっ?!」
視界が一瞬にして切り替わる。
「ここは、どこだ?」
いや、わかっている。
我らが玲瓏館の陣営の本拠地。玲瓏館邸の玄関口。
なぜ自分の主人が玲瓏館美沙夜であることを看破してみせたのか。
いや、それはいい。今はそんなことはどうでもいい。
それよりも我が身がすでに幻覚の中か、瞬間移動なのかが判断できなかった。ひとまずは、自分の魔術回路の中に異物の混入がないのかを探知して、幻覚ではないことを確信する、
「となると、今のは瞬間移動、か」
どのような魔術師にも、例え神代に名を轟かせた者でさえも、魔術の起こりというものは察知できた。
今のクーフーリンというランサークラスの英霊が、まさにランサーというクラスの型に嵌められることで、生前よりもキャスターとしての性能が弱体化した姿として顕現していることを加味した上でも、やはり少しも察知できないのは異常だ。
今我が身に行使された、瞬間的に移動をする魔術。
神代より存在しているものだ。クーフーリンもまた生前、彼の術を使う魔術師たちと相対したことはあった。しかし、詠唱さえない動作で、先ほどまで戦いの中心地であった場所から移動を余儀なくされてしまっている。
こんなことは経験にない。
ランサーは目を閉じた。
「しっかし、あれほどの魔術を行使できるやつが、攻撃するでもなくただ移動させるだけっていうのは、なぁ……」
相手にされてないとでも、いうのだろうか?
「ちっ。あぁ、嫌だねぇ」
そうだ。これが戦争だ。槍を持つ右手が強張っている。
「英霊なんていう大層なもんにあてがわれちまってはいるが、そうさ、所詮俺はケダモノさ」
召喚されたとき、中々仕えがいのあるおもしろいマスターにであえたと思った。
そしてこの夜。あの嬢ちゃんたちと、あの蒼銀の騎士と。
食い殺すべき獲物を見定めた。
「へへ、昂ってきたぜ」
戦士という在り方に殉じることこそが我が身の恃みであることは言うまでもない。そして、格上相手。
セタンタと呼ばれた頃があった。格上を運か実力か、紙一重で制した積み重ねの上にクーフーリンは立っている。
自分が劣っているとはまったく思わないが。
そんな興奮状態さることながら、やはり対策を立てないと無駄死にするだけだという直感があった。
加えて、この身はサーヴァント。仕えるものとして最大限をマスターに尽くすと決めている。
あの魔術師とサーヴァントに立ち向かうには、こちらもマスターたる魔術師とサーヴァントとしての備えが必要だろう。
ランサーは玲瓏館の戸を叩く。静まり返った空間を、
「やれやれ、まだぞろマスターからどやされるぞ……」
頬を掻きながら、自分の認めた主人の待つ部屋の扉を開け放った。
「戦闘狂ではあるけれど、サーヴァントとしての立場を忘れない。血の沸きやすいタイプではあるけれど、常に冷静。プライドが傷つけられたらなりふり構わず戻ってくるタイプなら早々に摘み取ってあげようと思ったのだけれど。ふふふ。あぁ、残念」
くすくす。鈴の音を鳴らすような笑い声に、在りし日の光景が蘇るセイバー。見定める視線の照準を愛歌に合わせるも、愛歌はどこかを観測しているような様子だった。
(今なら再びトドメをさすことができる?だが、あれは綾香の……。いや、そもそも)
隙だらけの背中をセイバーに対して向け続ける愛歌に対し、自慢の聖剣を握る拳を緊張させながら、セイバーは懊悩していた。
「セイバー?女の子のことをそんなに不躾に見てはいけないのよ?そんなにじいっと見つめられてしまうと胸が苦しくなって。……あぁ。8年前にあなたからもらったプレゼントがきゅーっと締め付けられるみたいに痛くなっちゃう」
観測を終え身体をセイバーに
まだ幼さの残る身体つきにも関わらず、身を捩らせるその仕草には扇状的なニュアンスを抱かせるには十分だった。
無論、今だって愛歌をいかに穏便に退場させられるかを勘案するセイバーには関係のないことだが。
「騙し討ちをしたことは、その、申し訳ない。恨まれたところで、言い逃れの余地もないだろう。しかし、決定的に誤って後戻りが根本的に不可能なまでに達したものに対して取れた手段はアレしかなかった」
弁解とも懺悔とも過去に定めた
「愛歌。綾香はどうなっているんだ?」
そこで愛歌は、はあ。ため息を一つ。
「綾香、綾香、綾香。久しぶりの逢瀬だというのに、そんなに私に意地悪して楽しい?……でもいいわ。あなたに後ろから貫かれたときにね、思ったの。わたしはあなたの
くるくる。くるくると、愛歌はその場でターンをする。ターンをするたびに、髪色が暗い色になっていき、背丈も少しばかり大きくなっていく。
戦いの最中に投げ出されたメガネはいつの間にやらその手の中に収められ、メガネの鼻のパッドがすらりとキレイな曲線をした鼻にかけられた。
「どう、セイバー?あなたの好みの容姿になれたかしら?」
頬を染めながら上目遣いで見上げてくるのは、沙条綾香の容姿をしたナニカだった。
セイバーにとっては、まじまじと綾香のことを見つめたのは8年前、あどけなさの残った幼いころの姿であった。8年が経過して、そうか、メガネをかけたんだなとセイバーは思った。
けれど、そうじゃない。
「揶揄わないでくれ。キミは綾香ではないだろう、愛歌。綾香はどうしたのか聞いているんだ」
「……」
一転。スイッチが切り替わるような一瞬の出来事。
その刹那に、恋する乙女の表情は漂白されて、能面のような無機質な表情へと塗りつぶされていた。
「8年前。あなたに背中から刺されたとき。とっても痛くて、血がいっぱい胸から噴き出して。ねえセイバー?その血ってどこにかかったと思う?」
「血がどこに……?」
記憶を辿る。
そう、あのとき愛歌の目の前にいたのは生贄として焚べられようとしていた
「綾香……!」
「ピンポーン!さすがはセイバーね!方法や理論、構成はどうだってよかったの。ただ私の体内に行き交う血が、私の血縁である沙条綾香にかかるというそれだけで簡単にこんな魔術を行使することができるの」
芝居掛かったように両手を広げ、我が身はここに在りと主張していた。
「ふふふ、血を分けた妹なのだから繋がりが最初から存在していたの。もちろん条件はそれだけじゃないけど」
(なんということだ)
セイバーは戦慄する。
あの日大切なことを教えくれたちいさな少女。あどけなく、不安に瞳を揺らしていた少女。
あの夜、この
少女は実の姉によって手にかけられようとしていた。セイバーは、得た答えを胸に、姉を刺し少女を救った。
ーーそう信じていた。
「……と、しょうがないわね。時間切れ」
「時間切れ、だって?」
「ええ。時間切れ。もう綾香が起きちゃうみたい。いつもは寝坊助さんなのに、こういうときに限って起きるのが早いんだから、もう」
「問題なく綾香に戻るんだな?綾香に身体を返すことはできるんだな?」
「……愛歌。君の目的はいったい何なんだ?」
人差し指を口元に。そして首を傾げる。
うーんと数秒考えて、にこっと笑った。
「セイバーの願い。故国の救済のため」
セイバーは顔を引き攣らせた。セイバーにとって大切なことを気づかせてくれた綾香だからこそ、綾香の顔立ちでそのようなことを言われてしまうと眩暈がしてくる。
「それじゃあ綾香に身体を返すわ。今度は今日のような月明かりの映えるきれいなロケーションでエスコートをお願いするわね?」
どこか超越した雰囲気を湛えた青い瞳が、少しずつ焦点が外れて虚ろになっていく。綾香の身体からはふっと力が抜けて倒れ込む。
セイバーはやや警戒から反応が遅れたが、それでも危なげなく腕を回して支えた。
「ほんと、どうなってるんだか」
腕の中の目を瞑ったままに綾香の顔をまじまじと見つめた。その寝顔は8年前、セイバーに決意を抱かせたあの少女の姿と頭の中でぴったりと重なった。
「愛歌はもう間も無く綾香が起きるというようなことを言っていたけれど」
あれほどの遣り取りを終えた後とは思えないほど、身体から力を抜いて気持ちよさそうに眠っている。
「起きそうにないな」
その様子に安堵を覚えた。
セイバーは綾香のあの頃からは随分と大きくなった身体を両腕に抱えると、寝室まで移動しようとして、はたと地面に倒れ伏した一羽の鳩に気づいた。
一つの役目をすでに終えたように事切れていた|一羽≪いのち≫。
そのタイミングにセイバーが居合わせたわけではないけれど、セイバーは優しい手つきで使い魔を手のひらに抱え、丁重に扱った。
眠りこける少女と、蒼銀の騎士、鳩と犬の亡骸。荒れ果てて見る影もないガーデン。
それだけが残されていた。
これが第2次聖杯戦争、セイバー陣営の初夜のお話。
かくして、座より顕現せ七騎の英霊とそのマスターたちによる数日間に渡る、8年前から続く因縁の物語は収斂を開始する。
蒼銀の騎士王・アーサーペンドラゴン
原初の覇王・ギルガメッシュ
ケルトの大英雄・クーフーリン
裏切りの魔女・メディア
災厄を退けし約束の騎手・ペルセウス
究極の一刀・佐々木小次郎
殺戮の狂戦士・ヘラクレス
様々な神話の体系の中で紡がれし物語の主人公たちによる、欲望を蓄えた黄金の杯の争奪戦が、極東の中心・東京にて開かれようとしていた。
深夜の沙条邸をセイバーは一人歩いていた。
人1人では到底管理・整備しきれない大きさの家に、誰からの力を借りるわけでもなく、この場所で泥むように過ごしていたのだろうか。
半壊した壁と割れた窓から青白い月の光が冷たい風に囁いて、しんと静まり返った夜の匂いが流れ込んでくる。
遠い草木には明け方には人知れず霜が降り、木々は寂しく幹をむき出し佇むばかり。
満月。
この月が新月となって消え去るまでにはこの戦争を終わらせよう。蒼銀の騎士は、腰に携えた黄金のつるぎを決意とともに撫でた。
聖杯戦争は始まったばかりである。